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加藤清正 Ⅱ その155

『勝家は北陸にいた』

山崎合戦から2週間ほど経った6月27日、柴田勝家は信長の遺臣の主だった連中を、尾張の清州

城に招集して、あと始末と今後のことを相談した。

柴田勝家(1522-1583年)
sh.柴田勝家 03

本能寺の変があったとき、柴田勝家は越中にいて、佐々成政、前田利家、佐久間盛政らの寄騎大名

らと、越後に攻め入る機会をうかがっていた。

急報に接して、弔合戦のために引き上げようとしたが、それまでの上杉勢との合戦に、ずいぶん不

信義のことをしているので、秀吉が毛利氏と和議したように、器用に和議が結べない。

そこで、佐々成政を越中に、前田利家を能登に、佐久間盛政を加賀にとどめて留守させ、ひとり居

城の北ノ庄に引き上げ、兵を整えて、6月16日、越前と江州の境である柳ヶ瀬まで出て来た時、

秀吉の使者にあった。

使者は山崎合戦の次第を報告する書面を携えていた。



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robin 20230528




<参考文献:海音寺潮五郎「加藤清正」>
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加藤清正 Ⅱ その154

『おれが殿様が弔合戦をなさった』

光秀の首を土民らが探し出して、秀吉方に届け出た。

秀吉は、翌々日、三井寺近くでこの話を聞き、取り寄せた。

大阪城二ノ丸の秀吉
to.豊臣秀吉 002

秀吉は百姓らに大枚の金子を与えて立ち去らせた後、首実検をしたが、しばらく凝視した後、ついて

いた細い杖をふりあげ

「日向よ、あろうことか、逆心を起こして、まさしき主君を討ち葬った天罰ぞ!今こそ思い知れい!」

と、ののしりながら、杖で打ち叩いた。

これは弔合戦の際の儀式であり、しなければならないことになっていたのです。

清正は側にいて、ずっと凝視していた。

善悪の応報の迅速さを最も痛切に感じていたのです。

秀吉が主君・信長の弔合戦をおこし、見事に成し遂げたことは、秀吉の喜びはいうまでもないが、家

臣らにとっても、また非常な喜びであった。

清正や福島市松(正則)のような、子飼いで、しかも血がつながっている者にとっては、言いようも

ないほどの嬉しさであった。

「右大臣様のご家来衆数あるなかで、おれが殿様が弔合戦をなさった。誰でもない、おれが殿さまだ」

と、肩を張りたい思いであり

「だから、きっとおれが殿様が右大臣様の後をついで、天下人になりなさるであろう」

とも思い、さらに

「そうなれば、おれも励みさえすれば、大名になれるぞ」

と、目もくらむような気持になった。

清正にも、市松にも、よろこびに緊張した日が続いた。



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robin 20230527




<参考文献:海音寺潮五郎「加藤清正」>

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加藤清正 Ⅱ その153

『光秀の最後』

長い戦乱時代が続く間に、一般百姓まで殺伐な気性になっていたのです。

百姓らは戦争が行われると、必ず錆槍や、錆刀や、竹槍をかつぎ出して、落武者狩りをしたのです。

明智光秀(1528-1582年)
ak.明智光秀

身分のよい武士を生け捕りにしたり、首を取ったりすれば、褒美が貰える。

そのほか具足をはぎ取ったり、刀や槍を奪ったり、金銀をさらったり、いろいろと徳がある訳だ。

光秀の脇腹を突いたのも、こうした百姓のひとりであった。

光秀は重傷ながらも、声を立てたりすれば、かえって敵に勢いをつけることになるので、咄嗟には

「ウッ」と言ったものの、あとは声をのんでこらえた。

「いかがなされました」

と、従騎がたずねると

「いや、なんでもないぞ」

と、痛みをこらえて、わざと平静な声で言って、そのまま馬を進めた。

2、3町、そのまま進んだが、出血は止まらず、痛みは強く、ついに光秀は気を失って馬上から転落

した。

従者らは驚いて、馬を飛び降り、真っ暗な中で抱き起し、介抱した。

はじめて主人が重傷を負っているのを知って、皆びっくりした。

光秀は気を取り直し

「しょせん、存命はおぼつかなく存ずる。わが首を討ってくれい」

と、言って首を打たせた。

家来らは、その首を薮かげの溝の中に隠して、それぞれ落ち失せた。



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robin 20230526




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加藤清正 Ⅱ その152

『明智軍の敗走』

この山崎の戦いは、なかなかの激戦であった。

秀吉方の中川瀬兵衛隊と高山右近隊が、ややもすれば明智勢に押しまくられそうになったので、秀吉

は堀久太郎隊を投じて補強し、自らは織田信孝隊と丹羽長秀隊と一緒に進んだ。

明智光秀の最後
ak.明智光秀 02

この時、高山隊によって山崎の関所が閉ざされていたため、仕方なく淀川べりに布陣していた池田信

輝隊が、明智隊を横撃した。

力を出し尽くしていた明智隊は、乱れだし、敗走が始まった。

秀吉の運の良さであった。

山崎合戦に敗れた明智光秀はどうなったのか、皆さん良く知るところです。

彼はひとまず、戦場近くの勝竜寺城に入ったが、夜がふけるにつれて、心細くなった兵らが逃走が相

次いだ。

「これでは、ここでははかばかしい戦をすることは出来ぬ。一応江州までひらこう」

と、ほんの数騎を従えて、城を脱出し、桂川を渡り、伏見の北から大亀谷を通り、山科野に出ようと

して、その出口である小栗栖村を通った時、道に沿っている竹藪の中から、声もなく突き出された錆

槍が、脇腹を貫いた。



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robin 20230525




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加藤清正 Ⅱ その151

『清正の突入』

近藤は身長6尺余、仁王像のような敵が、寸伸びの豪刀を八双に構えて走り寄って来るのを見て、

ハッとした。

槍を構えようとしたが、その時にはもう清正はつい間近かにせまっていた。

清正くまモン
ka.加藤清正くまモン

「おのれ、何者?」

「羽柴が家来、加藤虎之介!」

と叫んで、刀を振り下ろしざまに、渾身の力をこめて、突き出すのが速かったか。

清正の豪刀は、近藤の馬の鞍の前輪をぐんと貫き、近藤の下腹部を背中まで突き通した。

たまるものはなかった。

しばらくの間、半助は馬上に縫い留められていたが、清正が刀を引き抜くと、まっさかさまに転落

した。

近藤の脇をつとめていた家来らは、咄嗟のことで、驚きあわてて、パッと散った。

清正は近藤におどりかかり、首をかき切り、腰につけた首袋に入れた。

その間に、近藤の家来どもは気を取り直して、駆け寄りざまに、清正を斬ろうとしたが、これは清

正が連れて来た徒の者どもが駆けつけて斬り倒した。

清正はなお戦の様子をよく見てから、走り帰った。

「明智勢なかなかよく戦いまして、味方苦戦でございます。しかしながら、つづく勢のない明智勢

でありますれば、夕立時の溝川と同じで、間もなく崩れ立つことと存じます」

と、報告した後、近藤の首を出して実検にそなえた。

秀吉は上機嫌となり、即座に自ら筆をとって

『武勇を心掛くる者、手柄者とは汝たるべし。いよいよ武功をつくすべし』

と感状をしたためて渡し、なお当座の褒美として差していた脇差をくれた。



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robin 20230524




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加藤清正 Ⅱ その150

『先鋒高山右近の戦い』

高山右近はキリシタン大名として、後世では有名な人ですが、当時は武勇の人としても高名であった。

清正が行ってみると、敵の先鋒隊と烈しくもみ合って、なかなか見事な戦いぶりをしていた。

そのうち、清正は明智方の部隊の中に、一騎目立ってさわやかな働きをしている者が目についた。

熊本・本妙寺 清正公(本妙寺参拝は「こちら」です。)
ka.加藤清正本妙寺像

その男は

「明智日向の先手伊勢与三郎が家来、近藤半助」

と名のっている。

部下の者どもに脇をつめさせ、鉄砲を連発させては、高山勢の中に突入して来て、目ぼしい敵を討取

っていた。

この時代の戦闘は一騎打ちといっても、身分ある戦士は単騎で戦闘したのではなかった。

自分の左右に家来どもを並べ、これに鉄砲や弓を持たせて戦ったのです。

これを当時のことばで、脇をつめるといった。

清正は暫く、その近藤半助と名乗る敵の勇士を眺めていたが、やがて連れて来た徒の者どもをふり

返り

「あの男、なかなかのやつじゃ。おれが討ち取ってくれよう、見ていよ」

と言うと、腰にした2尺9寸の豪刀を抜き、八双にかまえて、タタッ、タタッ、タタッと飛跳ねるよ

うな足どりで走り寄って行った。



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robin 20230523







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加藤清正 Ⅱ その149

『右近の挙動』

高山右近が関所の門を閉じ、味方の兵が通行できないようにしたので、後から来た池田信輝は

「さては、高山は明智方となったか、この節のこと、いたし方ない」

といって、右方の淀川べりに布陣した。

宇土城の高山右近像(宇土城登城記は「こちら」です。)
ta.高山右近 高山城像

信長が殺され、明智が将軍宣下を受け、天下いずれに帰すべきか、武将らの心が動揺し切っていると

きで、池田がこう考えたのも無理はなかったのでしょう。

13日の午後になって、戦がはじまると、秀吉もまた高山のことが不安になった。

秀吉は最も大胆で最も聡明で、赤心を人の腹中において、疑わぬ低の人ではあったが、用心はしなけ

ればならない。

「虎之介、虎之介」

と、呼んだ。

清正は走って行って、秀吉の前にひざまずいた。

「ご用は」

「やあ、虎之介、われは徒(かち)の者を2、3人連れて、高山右近が戦ぶりを見てまいれ」

「かしこまりました」

言われた通り、徒衆を3人連れて前線に走り出した。

秀吉の本陣はずっと後方にあったのです。



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robin 20230522




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Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

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*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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