奥羽の群雄割拠 その85
『最上義光の武略 その5』
最上氏の勢力が新庄・真室方面まで伸びていったので、これに最も脅威を感じたのは庄内の武藤氏
であった。
武藤義氏供養塔

武藤(大宝寺)義氏は伊達氏と通じて最上氏に備え、織田氏と交わりを結んで上杉氏に対抗したが、
天正10年(1582年)3月、義氏は最上方の最上郡清水城主・清水義氏を攻撃、9月、最上義
光は飽海郡の砂越氏らを誘い、11月、秋田愛季とも連絡し、武藤氏攻滅の計略をすすめた。
義氏は世に悪屋形といわれ、領主権確立のため近隣の豪族を圧迫し、ついに田川・飽海・平賀の庄
内3郡を領有した大名であったが、その強圧的な政策は家臣の反感を招き、天正11年(1583
年)3月6日、家臣の前森蔵人らが、最上義光と内通して、義氏の居城・大山を攻撃し、義氏は自
殺した。
国人たちは義氏の弟・丸岡義興を推して、武藤氏の当主とした。
義興は上杉景勝に書を送り、友好関係を結んだ。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
最上氏の勢力が新庄・真室方面まで伸びていったので、これに最も脅威を感じたのは庄内の武藤氏
であった。
武藤義氏供養塔

武藤(大宝寺)義氏は伊達氏と通じて最上氏に備え、織田氏と交わりを結んで上杉氏に対抗したが、
天正10年(1582年)3月、義氏は最上方の最上郡清水城主・清水義氏を攻撃、9月、最上義
光は飽海郡の砂越氏らを誘い、11月、秋田愛季とも連絡し、武藤氏攻滅の計略をすすめた。
義氏は世に悪屋形といわれ、領主権確立のため近隣の豪族を圧迫し、ついに田川・飽海・平賀の庄
内3郡を領有した大名であったが、その強圧的な政策は家臣の反感を招き、天正11年(1583
年)3月6日、家臣の前森蔵人らが、最上義光と内通して、義氏の居城・大山を攻撃し、義氏は自
殺した。
国人たちは義氏の弟・丸岡義興を推して、武藤氏の当主とした。
義興は上杉景勝に書を送り、友好関係を結んだ。
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奥羽の群雄割拠 その84
『最上義光の武略 その4』
天正6年(1578年)、最上義光は上山城主・上山満兼を、その将・里見越後を誘って暗殺させ
た。
上山城(上山城登城記は「こちら」です。)

上山氏は最上の支族であったが、天正17年(1589年)上山義房が義光の父・義守に反し、天
童・高楡の諸族と呼応して内乱を起こした。
満光は義光の伯母婿であったが、両者の間柄は不和で、満兼は伊達氏の援助を受け、義光と柏木山
で戦ったりした。
このように始終、義光に反抗したので、義光は上山の君臣を離間して、これを亡ぼした。
満兼が暗殺されると、伊達輝宗は小梁川盛宗を遣わして上山城を占領した。
里見越後が同城を奪い取ったのは天正8年(1580年)9月である。
この年、義光は天童頼澄の舅・細川三河守の最上郡小国城を攻略し、ついで最上郡真室の城主・鮭
延愛綱を討ち、降伏させた。
愛綱は横手の小野寺義道に従っていたが、義道に背いて独立したので、義光がこれを招き、応じな
いので氏家守棟に攻撃させた。
このころ小野寺氏の勢力は、南下して最上郡に深く進出していたが、真室が最上氏の領有となると、
小野寺氏の勢力は後退した。
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天正6年(1578年)、最上義光は上山城主・上山満兼を、その将・里見越後を誘って暗殺させ
た。
上山城(上山城登城記は「こちら」です。)

上山氏は最上の支族であったが、天正17年(1589年)上山義房が義光の父・義守に反し、天
童・高楡の諸族と呼応して内乱を起こした。
満光は義光の伯母婿であったが、両者の間柄は不和で、満兼は伊達氏の援助を受け、義光と柏木山
で戦ったりした。
このように始終、義光に反抗したので、義光は上山の君臣を離間して、これを亡ぼした。
満兼が暗殺されると、伊達輝宗は小梁川盛宗を遣わして上山城を占領した。
里見越後が同城を奪い取ったのは天正8年(1580年)9月である。
この年、義光は天童頼澄の舅・細川三河守の最上郡小国城を攻略し、ついで最上郡真室の城主・鮭
延愛綱を討ち、降伏させた。
愛綱は横手の小野寺義道に従っていたが、義道に背いて独立したので、義光がこれを招き、応じな
いので氏家守棟に攻撃させた。
このころ小野寺氏の勢力は、南下して最上郡に深く進出していたが、真室が最上氏の領有となると、
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奥羽の群雄割拠 その83
『最上義光の武略 その3』
最上義光としては、この天正2年の危機が、外圧というより、むしろ領国体制の未熟性が原因してい
ることを悟らなければならなかった。
最上義光(1546-1614年)

従って、和睦後の伊達輝宗が鉾を相馬氏に転ずることにより、領内とその周辺の対抗勢力の一掃に努
力を傾けることとなった。
その第一段が天童氏の討伐である。
天童氏は山形の北、天童の城主で、大納言兼家の子孫とも斯波直家の末裔とも称しています。
義光と争った頼澄は、
「我は是れ古より代々下筋八館の旗頭なり、今更、義光に順ふべきいわれなし」
と豪語しているから、最上氏にとっては外様的存在であったのでしょう。
天正5年(1572年)に入り、義光は天童攻略の計画を立て、一度は押し寄せて撃退されたが、
天童家中の勇士・延沢信景を味方に引き入れ、5月に天童および東根の両城を一気に攻略した。
頼澄は関山峠を越えて、母の実家である宮城郡の国分盛氏のもとに逃れ、八幡村に一族・家臣とと
もに移住した。
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最上義光としては、この天正2年の危機が、外圧というより、むしろ領国体制の未熟性が原因してい
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最上義光(1546-1614年)

従って、和睦後の伊達輝宗が鉾を相馬氏に転ずることにより、領内とその周辺の対抗勢力の一掃に努
力を傾けることとなった。
その第一段が天童氏の討伐である。
天童氏は山形の北、天童の城主で、大納言兼家の子孫とも斯波直家の末裔とも称しています。
義光と争った頼澄は、
「我は是れ古より代々下筋八館の旗頭なり、今更、義光に順ふべきいわれなし」
と豪語しているから、最上氏にとっては外様的存在であったのでしょう。
天正5年(1572年)に入り、義光は天童攻略の計画を立て、一度は押し寄せて撃退されたが、
天童家中の勇士・延沢信景を味方に引き入れ、5月に天童および東根の両城を一気に攻略した。
頼澄は関山峠を越えて、母の実家である宮城郡の国分盛氏のもとに逃れ、八幡村に一族・家臣とと
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奥羽の群雄割拠 その82
『最上義光の武略 その2』
義光が相続した当時の最上氏は、村山・最上両郡に勢力を伸ばしてはいたが、分封の支族や領主的
な家臣が宗家と威を競い、領国体制はまだ完成していなかった。
最上氏の居城・山形城

一方、隣国には、南に米沢の伊達輝宗、北に武藤義氏、雄勝の小野寺義道があり、いずれも山形方
面に進出の機会を伺っていた。
特に伊達輝宗は、彼の姉婿であったが、武藤氏と結んで最上氏を挟み撃ちする態勢をとった。
義光が弟の中野義時と不和になった時、輝宗は義時を支援し、天正2年(1574年)5月、村山
に侵入して義光と合戦した。
天童・高楡・寒河江・左沢・白岩など、山形周辺の豪族も輝宗に呼応したから、最上氏としては内
部崩壊の危機に直面した。
8月になると武藤義氏も新庄城主・日野左京亮に書を送り、北方から最上氏を討つことを計画した
が、9月10日、輝宗が義光と和睦した。
義光と輝宗が対抗的な立場にあったことは明らかです。
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義光が相続した当時の最上氏は、村山・最上両郡に勢力を伸ばしてはいたが、分封の支族や領主的
な家臣が宗家と威を競い、領国体制はまだ完成していなかった。
最上氏の居城・山形城

一方、隣国には、南に米沢の伊達輝宗、北に武藤義氏、雄勝の小野寺義道があり、いずれも山形方
面に進出の機会を伺っていた。
特に伊達輝宗は、彼の姉婿であったが、武藤氏と結んで最上氏を挟み撃ちする態勢をとった。
義光が弟の中野義時と不和になった時、輝宗は義時を支援し、天正2年(1574年)5月、村山
に侵入して義光と合戦した。
天童・高楡・寒河江・左沢・白岩など、山形周辺の豪族も輝宗に呼応したから、最上氏としては内
部崩壊の危機に直面した。
8月になると武藤義氏も新庄城主・日野左京亮に書を送り、北方から最上氏を討つことを計画した
が、9月10日、輝宗が義光と和睦した。
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奥羽の群雄割拠 その81
『最上義光の武略 その1』
出羽国山形の城主・最上義光は、出羽按察使として威勢のあった斯波兼頼の11代の末裔で、天正
の初め父・義守のあとをついで最上氏の当主となり、慶長19年(1614年)69歳で没した戦
国武将でした。
山形城の最上義光公

義光は寛大にして勇気に富んだ人物であったといいます。
16歳のとき、父と湯治に行き温泉に宿泊したが、山賊70人余人が夜討をしかけてきた。
そのとき義光は賊将を真向う2つ割に斬っておとし、賊を撃退したという。
その勇気と武力は人々を驚かしたという。
しかし彼は同時にまた策略にも長じ、国内においては土民を撫育した良君であったが、ひとたび外
征に転ずれば、冷静にして策謀に富んだ姦雄でもあった。
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出羽国山形の城主・最上義光は、出羽按察使として威勢のあった斯波兼頼の11代の末裔で、天正
の初め父・義守のあとをついで最上氏の当主となり、慶長19年(1614年)69歳で没した戦
国武将でした。
山形城の最上義光公

義光は寛大にして勇気に富んだ人物であったといいます。
16歳のとき、父と湯治に行き温泉に宿泊したが、山賊70人余人が夜討をしかけてきた。
そのとき義光は賊将を真向う2つ割に斬っておとし、賊を撃退したという。
その勇気と武力は人々を驚かしたという。
しかし彼は同時にまた策略にも長じ、国内においては土民を撫育した良君であったが、ひとたび外
征に転ずれば、冷静にして策謀に富んだ姦雄でもあった。
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奥羽の群雄割拠 その80
『大浦為信の出現 その7』
一方、南部信直は前田利家を通じて秀吉に使者を送り、地位の保証を得ていたが、天正18年(15
90年)4月上旬、小田原参陣のため士卒1千人を率いて、出羽仙北を通って小田原に向った。
小田原征伐

信直としては大浦為信の反逆を訴え、秀吉の裁断によって津軽の旧領を回復しようと考えた。
ところが仙北において、為信の母が、儀仗に杏葉の紋をつけて帰国するのに出会った。
杏葉は近衛家の紋です。
これを見て信直は、津軽氏が早くから、秀吉と親しい近衛家にも手を廻していたことを知った。
4月24日、武蔵八王子で前田利家に面会、ついで秀吉に謁し、浅野長政によって為信の謀反を陳情
したが、すでに為信には朱印状も与えてあるので、秀吉がとりあげることにはならなかった。
為信が南部氏の家臣であったことは間違いないが、津軽はもともと安東氏の所領で南部氏の本領では
なく、かつ戦国末になると南部氏の内紛により統治が徹底しなくなったのであるから、民心を把握し
た為信が自立を計ったのは、謀反とか反逆とか称すべきことではなかった。
しかし、南部氏は為信の行為を憤慨し、仇敵視して、維新の時まで両藩士民に往来を絶っていたとい
います。
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一方、南部信直は前田利家を通じて秀吉に使者を送り、地位の保証を得ていたが、天正18年(15
90年)4月上旬、小田原参陣のため士卒1千人を率いて、出羽仙北を通って小田原に向った。
小田原征伐

信直としては大浦為信の反逆を訴え、秀吉の裁断によって津軽の旧領を回復しようと考えた。
ところが仙北において、為信の母が、儀仗に杏葉の紋をつけて帰国するのに出会った。
杏葉は近衛家の紋です。
これを見て信直は、津軽氏が早くから、秀吉と親しい近衛家にも手を廻していたことを知った。
4月24日、武蔵八王子で前田利家に面会、ついで秀吉に謁し、浅野長政によって為信の謀反を陳情
したが、すでに為信には朱印状も与えてあるので、秀吉がとりあげることにはならなかった。
為信が南部氏の家臣であったことは間違いないが、津軽はもともと安東氏の所領で南部氏の本領では
なく、かつ戦国末になると南部氏の内紛により統治が徹底しなくなったのであるから、民心を把握し
た為信が自立を計ったのは、謀反とか反逆とか称すべきことではなかった。
しかし、南部氏は為信の行為を憤慨し、仇敵視して、維新の時まで両藩士民に往来を絶っていたとい
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奥羽の群雄割拠 その79
『大浦為信の出現 その6』
大浦為信の戦いぶりは策略をもって急襲し、あるいは野武士・郷民・あぶれ者を活用するなど、戦
術的にも巧妙であったが、地方人の信望を得ていたことも、成功の大きな原因であったという。
豊臣秀吉(1537-1598年)

また外交的には最上義明と密約して情報を交換、上方の情報にも強い関心を持ち、天正13年には
海路上洛して豊臣秀吉に謁しようとしたが、暴風にあって船が松前沖まで流され、目的を達しなか
った。
また14年には比内を経て最上領を通り上洛しようとし、15年には南部領の通路を、16年には
秋田領の通過を計ったが、これを阻止された。
ようやく独立した彼が、独立の公認を得るため、いかに苦心したか伺えます。
天正17年(1589年)に至り、家臣・八木橋鼻中を代わりに上洛させ、鷹や馬を秀吉に献上し
て遅参の詫びを言上、はじめて秀吉から津軽3郡合浦一円の安堵状が与えられた。
大浦を津軽に改姓したのは、この時でした。
翌18年2月、為信は最上氏の強い勧めにより、家臣わずか18人を伴っただけで急いで国を出発、
小田原征伐の途上にあった秀吉に、3月27日、沼津において面謁、正式に従臣して所領の安堵を
受けた。
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術的にも巧妙であったが、地方人の信望を得ていたことも、成功の大きな原因であったという。
豊臣秀吉(1537-1598年)

また外交的には最上義明と密約して情報を交換、上方の情報にも強い関心を持ち、天正13年には
海路上洛して豊臣秀吉に謁しようとしたが、暴風にあって船が松前沖まで流され、目的を達しなか
った。
また14年には比内を経て最上領を通り上洛しようとし、15年には南部領の通路を、16年には
秋田領の通過を計ったが、これを阻止された。
ようやく独立した彼が、独立の公認を得るため、いかに苦心したか伺えます。
天正17年(1589年)に至り、家臣・八木橋鼻中を代わりに上洛させ、鷹や馬を秀吉に献上し
て遅参の詫びを言上、はじめて秀吉から津軽3郡合浦一円の安堵状が与えられた。
大浦を津軽に改姓したのは、この時でした。
翌18年2月、為信は最上氏の強い勧めにより、家臣わずか18人を伴っただけで急いで国を出発、
小田原征伐の途上にあった秀吉に、3月27日、沼津において面謁、正式に従臣して所領の安堵を
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