「三方ヶ原の戦い」 その16

『本多忠勝』

家康を逃げさせたとき、本多忠勝は25歳。

本多忠勝()
ho.本多忠勝 005

黒糸縅(おどし)の鎧に、鹿の角を打ちつけた兜を頂き、人呼んで蜻蛉切という鎗をひっさげ、

敢然と敵陣近くまで突っ込み、これに従う御家人らに下知して、見附の宿に火を放たせ、敵が押

し寄せてくると、味方の兵を退かせ、忠勝一騎が踏み止まり、7度、8度、火花を散らして戦い、

味方の軍勢が無事に天竜川を渡ったのを見とどけると、川向からうつ味方の援護射撃の中を

悠々と岸を渡って家康に追いついた。

この忠勝の見事な退きぶりには、敵も感服したとみえ、翌朝、坂の上に来てみると、墨痕も新し



「家康に、過ぎたるものが、ふたつあり、唐の頭に、本多平八」

という落首を書いた木札が立てられてあったという。

唐の頭というのは、カラウシの尾毛を兜の飾りにつけたもの。

カラウシはビルマの北部やチベットに棲んでいる動物であって、その尾毛は高価な舶来品として、

当時、大変珍しがれていた。

家康の家来には、本多忠勝のほか、内藤信成など7人ほどが、唐の頭をかぶっていたが、甲州兵

たちは

「小身者のくせに、大そう立派なものを着けているわい」

と、本多忠勝のことを、皮肉っていたのです。



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robin 20180423



                 <参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
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「三方ヶ原の戦い」 その15

『家康の出馬』

一時、犬居にくつろいだ信玄は、ここで兵力を二分し、12日に一部に磐田郡只来を占領させ、

そこから二俣に向かわせた。

信玄自身は、主力を率いて周智郡の天方、一宮、飯田の諸城を攻め落とし、さらに南進して向

笠、各輪も落とし、久能城を攻めようとしたが、城主・久能宗能がよく守って、容易に落ちそ

うにもないと見て、そのまま引き揚げ、木原、西島、袋井などに分宿して、次の攻撃に備えた。

浜松城の徳川家康
to.徳川家康(浜松城)

一方、武田軍の侵入の報を耳にした徳川家康は、みずから3千の兵を率いて、この目で武田軍

の戦闘ぶりを確かめようと考え、浜松城を出馬し、10月13日、大久保忠世・本多忠勝・内

藤信成らを偵察隊として、東海道の見附に派遣した。

ところが、思いのほか武田軍の行動がすばやく、徳川勢はたちまち発見された。

逃げようとすると、武田軍は先回りして、近道を抜け、見附の西側の一言坂で、家康の本隊と

ぶつかり背面に廻って、退路を遮断しようとした。

『譜牒余禄』によると、これを見た家康は、取り巻く武田軍に対して反撃しようとして勇み立

ったが、本多忠勝、内藤信成らが、それを制止し

「ここで戦っては、お味方に死者を出すだけ、まあ、ここは、ひとまず退却なされて、織田殿

の援軍を待って、一挙に甲州勢を斬り立てるのが、上策と存じます」

と意見したので、家康も、しぶしぶこれに従ったという。

このとき殿軍を承り、攻め寄る武田軍を食い止め、無事に家康を逃げさせたのが、徳川にこの

人ありとうたわれた、本多忠勝であった。


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「三方ヶ原の戦い」 その14

『信玄の出馬』

しかし、信玄の出発は10月3日に延ばされた。

やはり信玄が越中の一向一揆の首領勝興寺に与えた書状の中で

「出陣の途中で病気にかかったが、今は全快したので、謙信の攻囲する富山城の後詰もきょう

から、加賀の一揆と力を合わせ、越中を静謐にするように、尽力されたい」

といっているところを見ると、信玄は、この頃、病気にかかっていたのでしょう。

武田信玄
ta.武田信玄(甲府駅前)

しかし、浅井や朝倉らには、このことを、おくびにも出さずにいたらしい。

信玄の病気は労咳(肺病)だったと、いわれています。

信玄は10月朔日の出発を延期し、10月3日に交付を出馬することになったが、この日、改

めて浅井久政・長政父子に

「ただいま出陣した。八幡大菩薩・富士浅間大菩薩・氏神新羅大明神も照覧あれ、神かけて偽

りではない。だから、朝倉義景と相談して、運を開くように、事にあたれ」

と、覇気満々たるところを見せている。

日の丸に武田菱紋をうった兜をいただき、軍配を手にした信玄は、まず山県昌景が率いる5千

の先発隊に、信州の伊那口から三河に侵入させた。

山県隊は豊川上流の三輪川に沿ってくだり、敵の有力部隊をこの方にひきつけてかく乱し、遠

江に出て、ここで浜松へ総攻撃をかけるために、本体と合流するように指令されていた。

信玄は、北条氏政からの援兵をも加えて2万7千の大軍を率い、遠江犬居の城主・天野景貫を

道案内にし、10日に遠江に侵入した。



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「三方ヶ原の戦い」 その13

『風林火山』

山梨県塩山市郊外の雲峰寺という古刹に、武田の軍紀と伝えられる旗がある。

fu.風林火山

群青の絹布に金泥で、

疾(はや)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如し

侵掠(おかす)こと火の如く、動かざること山の如し

と、2行書いてある。

世に「風林火山」の旗と呼んでいるものです。

これは、有名な『孫子』の兵法の一句を写したものですが、その筆者は武田氏滅亡のとき、恵林

寺山門の桜山で、

「心頭を滅却すれば、火もまた涼し」

と、猛火の中に泰然として死んでいった快川紹喜だといわれている。

この「風林火山」の軍旗をひるがえし、武田信玄が大軍を率いて甲府を出発したのは、元亀3年

(1572年)10月3日のことだった。

信玄は、その前々日の10月朔日に、近江小谷城の浅井長政と越前一乗ヶ谷の朝倉義景に書状

を送り

「上杉謙信に備えるために、出陣がおくれたが、一昨日の9月29日には、すでに三河に先発隊

をつかわした。信玄は今日出陣する。そちらの方も、ぬかりなく備えるよう」

と、あくまでも慎重に、この信長包囲作戦の失敗なきように、つとめている。



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「三方ヶ原の戦い」 その11

『ルイス・フロイスの報告』

信長の大包囲網計画が完了した信玄は、次に大々的な上洛の宣伝を始めた。

武田信玄の居城「躑躅ヶ崎館」
ta.20100406 武田氏館 001

それが、どんな方法であったかは明らかでないが、ルイス・フロイスという宣教師が、この頃、

京都から故国のポルトガルに送った報告のなかで

「甲斐の武田信玄が、6万の大兵をもって、遠江・三河に侵入し、わずか数日で占領し、いま、

美濃・尾張に入り、信長と戦わんとしている。そして、彼らは信長に焼き払われた比叡山の大学

や、坂本の山王を再建することを、上洛の目的、または口実にしている」

と記しているのを見ると、信玄は

「伝統や神仏をないがしろにし、比叡山の霊場をも焼き払った赤鬼を退治する」

といって、信長の非をそしり、信玄上洛の正当性を主張していたらしい。

謀略とか、政略とかいう点で、武田信玄は当代きっての手練れ者だった。

それで、9月末ごろになると、近江近辺にも信玄西上のうわさが流れ、

「本当に信玄が、こちらにやって来たら、信長も気の毒なことになるだろう」

などと、町辻では、そんな話で持ち切りだったらしい。



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「三方ヶ原の戦い」 その10

『信長大包囲計画完了』

甲斐の安全を図った信玄は、越前の朝倉義景・近江の浅井長政とも結んだ。

彼らは姉川合戦のこともあり、当時、信長の正面の敵であったから、喜んでこの信長大包囲作戦

に参加したのです。

また、このほかに信玄は、前進地域にいる土豪にも働きかけるなど、十分の外交工作をおこなっ

ている。

松永久秀(1508-1577年)
ma.松永久秀03

まず、伊勢の国司・北畠具教とか、その旧臣も反信長派であったから、これらに使者を送り、伊

勢地方と連絡するため、北畠の旧臣・坂内氏を甲府に招いたりしている。

また、大和信貴山城の松永久秀は、信長に服従してはいたが、ひそかに反逆を企てていることを

知ると、信玄は、元亀3年5月17日付けで、久秀の老臣・岡周防守にあてて、密書を送り

「公方様が、遺恨のあまり、信長追討の企てをされたと聞くが、この際、久秀も無二の忠功を励

まれることが肝要である。そして信玄上洛の上は、特別に懇意に致そう」

と述べている。

そしてさらに、かつて元亀2年9月、信長が比叡山を焼き討ちしたとき、甲斐に避難を求めてきた

延暦寺の僧侶を利用して、衆徒の蜂起を促し、園城寺の神人とも深く結託した。

このほか、本願寺光佐自身にも出馬を要求し、信長の背面に食いつかせようともしている。

こうした、信玄の信長大包囲計画が完了したのは、元亀3年8月頃のことと思われます。



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生後5ヵ月、甘噛みが酷く困っています

robin 20180418




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「三方ヶ原の戦い」 その9

『上杉謙信対策』

信玄の西上の大志は、心中に覚悟として定められ、信長を大包囲する計画を推し進めた。

それは、どんな計画であったのか。

上杉謙信()
ue.上杉謙信 春日山神社

信玄が西上の途につくにあたって、一番心配なのは、やはりなんといっても、越後の上杉謙信

であった。

そこで信玄は、本願寺光佐(顕如上人)が、かれの妻の妹婿にあたる関係を利用して、これと

結び、越前・加賀・越中の一向宗徒に命じて、謙信の行動を牽制させ、また関東方面を前に同

盟を結んだ北条氏政に依頼して、固めさせることにした。

しかし、相模の北条氏政だけでは不安に感じたのか、さらに安房の里見義堯・常陸の佐竹義重

など、北条氏の背後にいる大名とも結んで、氏政が同盟に背を向けないように牽制して、甲斐

の安全を図ったのです。

それから、越前の朝倉義景・近江の浅井長政とも結んだのです。

彼らは、姉川合戦のこともあり、当時、信長の正面の敵であったから喜んで、この信長大包囲

に参画したのです。



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robin 20180417



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piglet01

Author:piglet01
Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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