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四国平定 その26

『元親の計略』

植田城は

『南は深山、大手口は深き谷也。後巻等の為、山続き手寄せ能き所也』(元親記)といわれる

要害堅固な城地であった。

黒田官兵衛
ku.黒田官兵衛

また、本営の白地とも連絡上欠くことのできないところにあったので、長宗我部元親は力を尽

くしてこの城を築き、さらに敵をおびきよせるため、池田・由良山にも砦を築いてオトリの役

目をさせ、敵を植田の山間部に引き入れておき、元親の軍は阿波・讃岐の国境を越えて、植田

の西南の神内方面から城内の兵と呼応して敵の前後を襲い、夜襲をかけて植田の隘路に追い込

んでせん滅しようと考えていた。

そのため植田城には元親の精鋭100人と、主なる侍300人を詰めさせ、総勢25百人をも

って守らせていた。

黒田官兵衛は智将といわれるだけあって、元親のこの作戦を察知し、植田の地形を見分けした

だけで、早々に引き揚げにかかった。

植田城中では敵の退却をみて、細川源左衛門・前田平右衛門の指揮下に、鉄砲隊2百が追撃し

たが、黒田の軍は勝負せずに退却するばかりで、途中、所々に放火しながら高松の本営に帰っ

てしまった。

元親の計略は失敗に終わったのです。



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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
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四国平定 その26

『高松城陥落』

讃岐に向かい高松・牟礼付近を制圧した宇喜多・黒田らの諸軍は、高松頼邑の喜岡城(高松城

)を陥れようとした。

高松城(高松城登城記は「こちら」です。)
ta.高松城 003

ここは香西氏の麾下に属する高松氏代々の居城であり、当時、200人が守っていたというが、

黒田官兵衛(孝高)は高松山の木を切って空堀をうずめ、これを足掛かりとして攻撃する計画

を立てた。

仙石秀久も昨年攻略することができなかった城であるからといって、まっさきに攻撃をはじめ、

2万の攻撃軍がこれに押し寄せたという。

大軍の攻勢にひとたまりもなく城兵は全滅した。

香西城からも落城の火焔が見えたので、香西伊賀守も降参の覚悟を固め、まもなく降伏した。

ついで、黒田官兵衛は山田郡の里人をまねいて事情を聞いたのち、植田城を攻略するため宇喜

多軍の5千を率いて出発した。

官兵衛は途中、由良山城・池田城の守兵が相次いで逃げるのを追って植田郷に入った。



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robin 20190418-1




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四国平定 その25

『東伊予平定』

7月15日の金子落城、17日の高尾落城をもって東伊予の戦いは殆ど終わった。

総指揮官・小早川隆景は首実検を終えて、死骸を野々市原に埋めた後、墓標を建てて『討つも討

たれるも皆夢也。早くも覚めたり汝等夢』

と唱えられたと伝わる。

小早川隆景
ko.小早川隆景

その後、中川氏の霊山城、岡部氏の重茂城、竜岡氏の竜岡城など、越智郡の諸城もまたたく間に

攻撃され、7月20日頃までに、伊予北部の瀬戸内海側はおおむね毛利方の軍門に降った。

7月21日付けで、秀吉から安国寺恵瓊に与えた書状には

「最前手筈の如く新井・宇麻郡(新居浜・宇摩郡)に至り、両川(小早川・吉川)相移られ、美

濃守(羽柴長秀)相談有るべき旨尤(もっとも)に候」

と書かれてあり、小早川隆景への書状には

「仏殿表に就いて御陣営予(あらかじめ)め示し候。仰せの如く程近く罷成(まかりな)り候の

条、切々申し談じ満足せしむべく候」

と書いてあって、毛利の諸軍は新居浜・宇摩郡を席巻して、白地に近い仏殿(川之江)より長宗

我部元親の本営を攻撃しようとしていたのです。



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はじめてロビンに会ったときの写真です(生後3ヵ月)

robin 20190418



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四国平定 その24

『敗者の生還』

そこから、また道を分けて逃走を始めたが、しばらく行くと背後に人の足音がする。

振り返って見ると敵兵のようで、2人を追ってくる。

急いで山を駆け下りたが、中途に大木があったから、その根元に身を隠した。

敵はあちこちを探し、だんだん2人の方に近寄ってくる。2人はたまりかねて大木の根元から飛

び出して、また山を下りだした。

すると行き止まりの谷にぶつかってしまった。

もはやこれまでと反撃に転じ、追手をさんざんに突き倒した。

休む暇もなく、再び山登りを始めたたが、猿ヶ滝山の西の尾根を伝い登るときワラジが破れ切れ

てしまったので、以後は裸足で峰や谷を駆けまわったという。

夜中に伊予・土佐の国境に達し、桑瀬には夜明けに辿りついた。

高尾城落城以来、ここまで逃げ延びて来る間、山賊強盗に出会うこと数知れず、助かったものだ。

19日は今までの疲れを癒すのと強盗の目をかすめるため、日中を山の笹原で過ごし、夜になっ

て桑瀬村に着き、すぐに高野へ進み供の者を呼び寄せ、20日に高野へ帰陣した。

これが、「和田氏先祖由緒書」に記述の要約ですが、言語に絶する苦労がわかります。


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robin 20190416



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四国平定 その23

『敗戦の落ち延び』

高野義光は郎党一人とともに逃げたが、加茂川の中州で敵兵3人の追撃を受けた。

主従は力をあわせて敵を倒し、舟形というところに落ち延びた。

愛媛加茂川
ka.加茂川(愛媛)

同夜、千町荒川という所在を立ち退き、大保木の内東川の近くの極楽寺へ行った。

寺の中で休もうと忍び入ったが、寺内には死人が充満し、堂内には山賊が20人ばかりとぐろを

まいている。やがて2人の足音を聞きつけて、数人が表へ出てきて、その辺を探し回った。見つ

かっては大変と、近くの死人の下へもぐりこんだ。

息を潜めて隠れていると山賊どもは

「さっきの足音は、おおかみか犬か狸だろう」

とつぶやきながら、堂内に入っていった。

それを見定めて、そっと抜け出した。

まもなく夜も明けだしたので、人目の少ない山道を抜けていくと、70過ぎと思われる老婆に出

会った。

老婆は細い燗鍋と湯筒を提げていた。

どうしてこんな所にいるのかと尋ねると、

「私には十志という倅がいますが、先ごろ高尾城に籠城しておりました。高尾城が落ちたという

噂を聞きましたので、切り抜けて帰ってこることもあろうかと、迎えに出たのです」

という。

義光は

「その人なら親しくしていましたが、無事に脱出した筈です。おっつけ帰ってくることでしょう。

・・・ところで、われわれは腹がペコペコです。あなたのお持ちの品を少し分けてくれませんか」

と頼むと、老婆はこころよく食物を与えてくれた。

手にとってみると栗飯で、からからになった喉にはとても通らない。とばきとともにやっとの思い

で呑み込んだ。



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robin 20190415



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四国平定 その22

『敗戦のみじめさ』

敗戦のみじめさと苦しみは今も昔も変わりないでしょう。

高野義光が土佐へ逃げ帰る道中の苦難にみちた逃避行の有様が、「和田氏先祖由緒書」の中に次

のように書き残されているという。

長宗我部元親(1539-1599年)
ty.長宗我部元親 002

長宗我部元親公に加勢のため伊予の国高尾城に籠城。上方からは吉川・小早川を大将とする軍勢

数万騎が押し寄せた。高尾城はもとより小城、敵兵は二重、三重に取り囲んだので、城から打っ

て出るわけにもいかず、合戦のないまま数日が過ぎた。敵は遠攻めの計略らしが、城中の人数は

7百を出ない。時あたかも天正13年(1585)旧暦6月から7月の酷暑の最中であるが、敵

に水の手を切られ、7日7晩のどを潤すこともできなかった。そのうち、数次にわたる敵の来襲

で城のあちこちは崩れ、敵に討たれるのも相次いだ。残るも2百騎ばかりとなったところで、兵

糧も尽きてしまった。

「これではとても城を守り抜くことはできない。思い思いに脱出しよう」

と決し、7月17日、月の出を待って城壁を越えた。

これを敵が発見するところとなり、追い詰められて討たれたものも多かったという。



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四国平定 その21

『高峠城も落城』

高尾城についで石川虎千代の高峠城も、城兵が翌18日に火を放った。

城兵たちは野々市原近辺で野戦を展開したが、殆ど全滅した。

諸城砦に籠っていた軍兵らもあるいは戦死し、あるいは城を捨てて四散した。

虎千代丸も当時8歳であったが、家臣に守られて城をあとにし、山間の険路を通って土佐に逃

れた。

毛利輝元
mo.毛利輝元 001

毛利輝元は、7月20日付けで部将の内藤元康に

「就中(なかんづく)、予州表の儀、去る17日金子城高尾之儀切り崩され敵千余打捕の由、

其の響を以て石川城共十ヶ所余、落居候由(中略)本望此事候。弥(いよいよ)吉事承り申入

るべく候」

と、申し送り、金子・高尾・高峠などの諸城の攻略を喜ぶとともに、その労をねぎらっている。

落城した高尾城にも金子城と同様に土佐から援軍が来ていたのです。次の文書はその一例です。

今度は高尾に到り籠城千万心元無く候処、つつがなく取退かるるの由尤(もっと)も肝要に候。

先は音信の為め申入候。  謹言

7月二八日            長宗我部

高尾殿

高尾殿とはあるのは、元親の命により加番として派遣されていた、高野義光のことです。



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piglet01

Author:piglet01
Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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20140816 郡上おどり 002-1
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