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備中高松城水攻め その13

『城と運命を共に』

備中高松城は風前の灯である。

両川(小早川・吉川)は宇喜多小四郎という者を使者として、清水宗治のもとに送った。

備中高松城水攻め
bi.備中高松城 001

小四郎は夜中に泳いで城中に入り、宗治あての書状を差し出した。

書状には

「今においては、誠に残念ながら、加勢することができない。いったん信長に降伏して、時節を

待たれたい」

という意味のことが書いてあったという。

宗治は

「一死、城と運命を共にしよう」

と、答えたので、小四郎はその決意を両川に復命した。

両川は窮状の打開を企てたが、何とも方法がなかったのです。

いよいよ、安国寺恵瓊の登場です。

恵瓊は安芸の安国寺の僧で、天正元年、毛利輝元の命を受けて上洛し、将軍・足利義昭と信長

との調停をしようとした際、談判の相手が秀吉であったため、両者は親しく語り合ったことがあり、

旧知の間柄であった。



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robin 20180820




                       <参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
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備中高松城水攻め その12

『信長へ援軍依頼』

水攻めのための長堤が完成する少し前、秀吉は安土の信長に援軍の派遣を願った。

信長は明智光秀らに先鋒を命じ、それぞれ根拠に帰らせ出陣の準備を急がせた。

ところで、秀吉はなぜ信長に援軍を求めたのでしょうか。

備中高松城(備中高松城登城記は「こちら」です。)
bi.備中高松城 20120210 001

『常山紀談』に、「高松の城はたやすく攻め落とすべきに、水攻めにして日を経たるは、信長

常に大功の速になるを忌みねたむの心あるを察しての故なりといへり」と書いてある。

この考えを基に、秀吉は備中高松城の膳立てがととのったので、信長に箸をとってもうらため

に、援軍を依頼した。

この説をとる歴史者が多いようです。

しかし、事実はそうなのでしょうか。

秀吉は、毛利・両川のことを耳にしたが、どのくらいの兵力でやってくるのかわからなかった

で、不安でたまらなかった。

それは、毛利・両川軍が近づいてきた時、羽柴陣営は

「殊の外さわぎ」、吉川軍が岩崎山に着陣した際には、「西国ことごとく催し、毛利一類、

後巻にまかり出、5万許(ばか)りにて、筑前(秀吉)2、3万にて取巻き候処へ、5、6町

にまかりなり、相陣をかまへ」

と言っていることからも察することができます。

しかし、毛利の後詰は実際には1万余に過ぎなかった。

上月城の戦いに、3万余の大軍を結集した毛利であったが、今度は九州の大友・伯耆の南条

に対抗するため、全兵力を集めることができなかったのです。

織田の遠交近攻の戦略が成功したといえるし、後に毛利が講和を決意する至った背景だった

のでしょう。



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robin 20180819



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備中高松城水攻め その11

『落城は目の前』

5月21日、両川(小早川・吉川)は備中高松城外に進出する。

元春は城の南西4kmの岩崎山を本陣とし、隆景は城の南8kmの日差山に本陣を定め、総帥

・輝元は城から24km余りの猿掛山に本拠を構えて、備中高松城の救援にのり出した。

備中高松城水攻め
bi.備中高松城 001

ところが、秀吉の布陣は水も漏らさぬ堅陣であった。

せっかく助けに来たものの、兵を動かすと隙間ができるから、そこを襲われる心配があって、

どうにもならない。

1万余りの両川軍と2、3万の羽柴軍は、むなしく対峙したまま、まったく動かなかった。

そのうち雨がひどくなり、25、6日頃には、民家が浮き沈みするありさまで、備中高松城も

石垣を没し、水浸しになった。

それに兵糧も乏しくなり、落城は目の前に迫ってきた。



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robin 20180817




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備中高松城水攻め その10

『毛利一族の結束』

備中高松城の水攻めの前、天正10年のはじめ、吉川元春は山陰の攻略に主力を注いでいた。

ところが、山陽の動きが急変したため、出雲・伯耆の兵を率いて、備中に南下する時に、部将

の中には、小早川隆景が上月城の戦いに元春の助けを得たのに、馬の山対陣に加勢しなかった

ことを不満に思う者があった。

吉川元春(1530-1586年)
ki.吉川元春

彼らは隆景ひとりで秀吉に当たらせ、元春を主将に因幡へ入り、鳥取城の怨みを晴らそうと説

いた。

だが元春が

「みなの申されることは一理ある。しかし、一身の力ではとうてい完全な謀はできないであろ

う。もし諸氏が同心なくとも、宗家毛利のために拙者ただひとり備中にくだり、安危を隆景と

一路の中に試みる」

との決意を語ったので、部将らも備中へ赴いたという。



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robin 20180816



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備中高松城水攻め その9

『浮城』

秀吉は詳細に実地を調査し、季節を考え、奇想天外・前代未聞の戦術を案出した。

いうまでもなく水攻めです。

このための堤防工事は、本陣を蛙ヶ鼻に移した翌日の5月8日から始まった。

そして19日頃には完成した。

備中高松城
bi.備中高松城 002

延長約4km、高さ7m足らず、幅は下部21m余、上部10m余の堅固な長堤であった。

この長堤の中に足守川をせき止めて、その水を入れた。

この工事には多数の土民が使われ、土俵一表に銭100文、米一升を支払った。

これは当時の労賃としては、土民の一日以上の収入にあたる。

そして総工費は、銭63万5千40貫文、米63,500余石であったという。

また足守川をせき止めるため、およそ30隻の船に石を乗せ、これを沈め、2000人の士卒を

川の中にならべ、スクラムを組ませ、下流に土俵を積んだともいわれている。

この川をせき止める方法は、黒田官兵衛の家臣・吉田長利の意見に従ったという。

こうして、新たに築き出す堤の上に、数ヶ所の付城を造り、夜になると、堤の廻りにかがり火を

焚き、巡視を厳重にした。

時期は梅雨期、降りしきる雨に、数日の間に約200町歩の大湖水となり、備中高松城は完全に

浮城となった。

常人がとても考え及ばなかった水攻めにあって、さすがの清水宗治も驚いたでしょうが、少しも

たじろぐ色もなく、染物屋から染板数百枚を集め、小船を造って陣所間の連絡にあたり、同時に

出撃して戦った。


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robin 20180815



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2018 盆踊り

『都内某所の盆踊り』

おばあちゃんが住む都内某所の盆踊りに行ってきました。

土曜日15時くらいから滝のような雨、短時間の夕立でしたので、開始時間にはグランドの土煙

がたたないくらいの絶好のコンディションになっていました。

もちろんロビンは付いて来ています。

robin 20180812 002

折角、ゆかたを着て来たのに、マイカーを忘れてきたので、ロビンは会場には行かず留守番する

ことに決定です。

robin 20180812 003

6時に開始されたので、明るくて健康的な盆踊りです。

robin 20180812 004

踊りよりも、こちらがいいですね。

robin 20180812 006

今年は週末に仕事が多いため、今年最初の盆踊りです。

後、何回行けるのでしょうか。

郡上おどりも久しく行ってません。 今年は行ってみたいですが・・・。

robin 20180812 008



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備中高松城水攻め その8

『備中高松城は天然の要害』

勢いにのった秀吉勢は、進んで備中高松城の南方4kmの位置にある加茂城を包囲する。

この本丸は桂広繁、西ノ丸は上山元忠、東ノ丸は生石中務少輔が守っていた。

羽柴軍は生石中務の内応に呼応して、東ノ丸に兵を入城させたが猛反発をくって、奪還された。

この後、桂らは頑強に抵抗し、ついに加茂本丸は裸城のままで落城しなかった。

備中高松城
bi.備中高松城 20120210 001

秀吉の本隊は4月下旬、いったん備中高松城を攻めたが大敗したので、5月7日、本陣を竜王

山から備中高松城外の蛙ヶ鼻に移し、包囲の態勢を整えた。

これに対して、備中高松城将・清水宗治は、兄の月清入道、一族の中島元行・難波伝兵衛、

小早川隆景から増援された末近信賀らと合わせて4千5百、橋を落として決死の守備を固めた。

この他に付近の農民5百人も籠った。

宗治は農民の籠城を断ったが、彼らは多年の恩義に報いるため、喜んで入城した。

宗治の人物像が察することができます。

宗治は立て籠もる備中高松城は、今の岡山市の西方12km余り、吉備平野の一角の田んぼの

中にあった。

秀吉は

「当城の事、平城にて候を数年相こしらへ、其の上、三方深田にて、攻め口これなく」

天然の要害の地であったのです。



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robin 20180811



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Author:piglet01
Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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20140816 郡上おどり 002-1
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