家康の過酷な命を受けた千世姫 その2

『家康のゆさぶり』

翌、慶長3年(1598年)8月18日、秀吉は一粒種の秀頼がまだ幼かったため、五大老五奉

行に、秀頼を守り立ててくれるようにと身もだえるように懇願して他界した。

五大老は、家康、利家、宇喜多秀家、上杉景勝、毛利輝元で、とうに天下取りを視野に入れてい

た家康は、秀吉が死ぬ四大老五奉行を相手に揺さぶりをかけはじめた。

徳川家康(1543-1616年)
to.徳川家康

秀吉は諸大名に勝手に縁組をしてはならぬと達していた。

家康は無視して、3つの縁談をとりまとめた。

四大老五奉行はこの揺さぶりに、家康の狙いどおり反発した。

あるまじきこととして、五奉行のひとり石田三成が起草した問責書に、三成はむろんのこと、四

大老四奉行が連署して、伏見にいる家康に送り届けた。

家康は問責書を持参した使者にとぼけてこういった。

「縁組は取り持ち人が届けて、聞き届けてもらったものとものとばかり思っていた」

だけでなく、こう逆さねじりを食らわせた。

「問責書には、それがしの返答次第で、それがしを十人衆(五大老五奉行)から除くとある。こ

のような条は、かえって故太閤殿下の御遺命に背くものではござらぬか」

取り持ち人は茶の宗匠・今井宗薫で、宗薫にただすと、こう突き放す。

「武家の法度など、われら存じよらぬこと」

家康や宗薫の回答は問責書に対する回答になっていない。

四大老五奉行ならびに諸将は激高したが、中老・堀尾吉晴が奔走して、和睦して誓紙を取り交わ

そうということになり、家康もとりあえず縁組については白紙に戻した。



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家康の過酷な命を受けた千世姫 その1

『千世姫の縁談』

加賀百万石前田家の祖、利家には娘が10人いた。

そのなかには、秀吉の侍妾となった娘(三女)もいたが、七女に千世という娘がいて、結婚適齢

期を迎えていた。

加賀百万石・金沢城
金沢城

慶長2年(1597年)1月、秀吉は利家を呼んで言った。

「千世によき婿をつかわそう」

「ありがたき仕合せに存じます」

といって利家は聞いた。

「して、婿殿はどなたにござりましょう」

「越中殿の嫡男・与一郎だ。そこもとも承知のとおり、当代の出来物である」

利家は権大納言。

豊臣の世のこの時代では、徳川家康が内府(内大臣)に次ぐ高位の地位にある。

だから婿殿もそれなりの家の者であってもらわなければならない。

越中というのは丹後一国、14万1千4百石を領する細川越中守忠興で、与一郎忠隆はその

嫡男。

国持大名の跡取り息子だから相手に不足はない。

利家はいった。

「お心遣い、かたじけのうございます」

秀吉の勧めで、千世は細川与一郎忠隆に嫁いだ。

千世は絶世とまではいかなくとも、それなりのたおやかな美女で、忠隆も男ぶりのいい若武者。

ともに相手に不足はなく、幸せな新婚生活が始まったが、そのいくてには思いもよらぬ暗雲が

立ち込めていた。



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『女城主・井伊直虎』 その40

『井伊谷城が戻る』

直虎は曲がりなりにも井伊谷の居館にいたが、井伊谷三人衆に管理され、わが領地でありなが

ら、領地とはいえなかった。

井伊谷城址
直虎 021

万千代の初陣での戦功により、3千石に加増され宙ぶらりんの状況から、ここに確実に立ち直り、

井伊谷城は完全に戻ってきた。

万千代はその井伊谷3千石を直虎に預けた。

直虎は依然、井伊家の総領だったからです。

また、虎松から万千代と名は変わっても、直虎は実質上の母であることに変わりはなかった。

万千代が18歳になった天正6年(1578年)3月7日、家康のお声がかりで甲冑着初め式が

行われた。

家康は具足親(具足を着させる役)に姉川の戦いなどの合戦ごとに武勇を立ててきた菅沼藤

蔵(土岐定政)を指名した。

万千代が武勇に秀でた武人になるよう願う家康の気持ちが込められた甲冑着初めだった。



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「小田原後家(督姫)の割り込み先」 その10

『大名家の存続』

戦国の世に死に物狂いの陣取り合戦をやった諸大名の終局の目的は、子孫に美田を残すことに

あったのでしょう。

それぞれが一定の領土を確保して、子から孫へとゆずり続けようとした。

現存、岡山城月見櫓(2代藩主・池田忠雄が建築)
ok.岡山城 20150419 004

しかし、時間の流れは恐ろく、徳川260年の間に、血が絶えてしまうということが続出してい

ます。

大名は法人のようになり、家臣は法人を存続させるために、誰でもいい、適当な養子を探して

きて後釜にすえたのです。

ですから、なんであの大名家に、あんなゆかりもないところから養子がきて跡を継いでいるのだ

というおかしな相談が続出した。

第5子の五郎麿で、備前岡山池田家には薩摩の血が入ったり、おなじく水戸の血が入ったりとか

なりいい加減になり、最後の殿様・章政は肥後人吉・吉相良から入っているのです。

火花を散らした先妻・糸子や富子(督姫)にとっては思いがけない結果となっています。

ちなみに糸子の実家、豊後岡・中川家の12代の殿様・久昭も伊勢津・藤堂家から入っているの

です。



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「小田原後家(督姫)の割り込み先」 その9

『円満に収まった池田家』

富子の側の忠継の後を継いだのは、淡路に6万余石を与えられた忠雄で、忠継の遺領38万石

のうち、播州分の10万石を弟の輝澄、正綱、輝興に分与し、みずからは備前28万石と良正院

(富子)の化粧料(特別手当)であった備中領分の3万5千石を合わせて、31万5千石を領し

た。

池田家が領した備前岡山(岡山城登城記は「こちら」です。)
ok.岡山城 20120210 006

この池田忠雄もまた寛永9年(1632年)4月に死去する。

嗣子・光仲はわずか3歳。

そこで、光政が因幡・伯耆へ国替えとなったとおなじ、幼年だからという理由で、禄高がほぼ同

じだったところから、光政と入れ替わる。

糸子の係累の光政が備前岡山31万5千石を領することになる。

以後、池田家は幕末まで続く。

その後は、複雑ないきさつがあったので、両家の間に悶着があっても不思議ではないのでしょう

が、特にそういうこともなく、嫁のやりとりもしています。


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「小田原後家(督姫)の割り込み先」 その8

『池田家ではなく督姫系譜』

その後の先妻・糸子の池田利隆家と富子(督姫)の池田忠継家がどうなったのか触れてみたいと

思います。

まず、池田利隆家では、利隆もまた義母や実母の後を追うように元和2年に没しています。

後を継いだのは有名な新太郎光政。

池田家の姫路城
hi.姫路城 20150421 004

光政の父・利隆は武蔵守を名乗っていた。光政も武蔵守を名乗ろうとしたが、武蔵は将軍家のお

膝元。武蔵守を名乗るのは遠慮するようにと達しがあり、だったらと光政は〇〇守と名乗るのを止

め、隠居するまで幼少年が名乗る新太郎のままで通した。

新太郎光政は学問好きで、過激な陽明学を信奉しており、そのことが公儀の耳に入って大老・酒井

忠勝から

「大勢あつまり候所、もよう悪くし候間、門しめ有るべく候」、修学はひかえめにするよう警告さ

れた。

そのころ、たまたま浪人・別記庄左衛門一党の陰謀が露顕し、詮議したところ、謀反を考えている

大名の一人として光政の名が挙げられ、一味のひとりが「おもてむきは儒者、内々はむほん心も

候」

といったので、その疑いをかけられたことを咎められ、光政の子(綱政)らがかかわって幕府から

厳重な訓戒を受けるというようなこともあった。

そんな光政が利隆の跡を継ぐようになったが、幕府は富子の子ではないことから光政には冷淡で、

光政は8歳と幼少でもあったこととて、「播州は中国の要地である。領主が幼少では不都合である」

との理由で、遺領を継いだ翌元和3年、播州42万石を取り上げられ、かわりに因幡・伯耆で32

万石と鳥取に城を与えられた。

ちなみに鳥取に6万石を与えられていた輝政の弟・長吉の子・長幸は備中松山に移されたあと、2

代で絶えています。



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「小田原後家(督姫)の割り込み先」 その7

pigletとお別れしていましたので、督姫の記事がお休みになっていました。通常ブログに戻り

たいと思いますので、よろしくお願いします。



『富子の計略』

糸子も池田輝政に遅れること2年、元和元年(1615年)12月に死去した。

糸子の子・利隆はせめて分骨して貰って供養しようと、中川家に懇願する。

中川久盛はその懇願もすけなく断った。

督姫(1562-1515年)
to.督姫

富子(督姫)も糸子より10ヵ月ばかり早く、その年の2月に死去している。

おなじ年、備前28万石と播州の10万石、合計38万石を領していた富子の子・忠継も死去す

る。

そんなことから後年、こんな逸話が語られるようになったという。

輝政の播州42万石を利隆でなく、自分が腹を痛めた5人の子に分割して譲り渡したいと富子は

考えて一計を案じる。

富子は忠継の岡山城にいて、姫路から利隆を招いて饗応した。

その時、利隆の膳に載せる饅頭に毒をしのばせた。

忠継の女中が、毒をしのばせてありますと、そっと利隆に知らせる。

利隆は危うく難を逃れたのだが、忠継が母・富子の謀計を知って、日ごろ兄を尊敬していたこと

もあり、利隆の膳から饅頭を奪いとって口にし、悶え苦しみながら死んだ。

それを見て、富子はびっくり仰天。

恥じてみずからも毒入り饅頭を食べて死んだ。

出来の悪い筋書きで、こんな筋書きでは狂言にもかけられないのでしょうが、後に、昔、そんな

ことがあったとまことしやかに語り伝えられるほど、輝政・糸子夫婦への富子の割り込みは、理

不尽なものと、とくに利隆系の人たちには記憶されたのでしょう。



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平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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