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今年のハロウィン

『ひと足はやく』

今年は自宅でのハロウィンは何も準備していないので、盛り上がっている場所でひと足先に

楽しんできました。

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ランドかシーか迷いましたが、ランドが久しぶりでしたので、混雑を覚悟で行ってきました。

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カメラを向けるのは、カボチャばかりです。

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屋根のカボチャが撮りやすくていいですね。

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最近のハロウィンは参加型で仮装が多いですが、その多くはシンデレラの仮装が殆どでした。

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平日でしたけど、この混雑でした。

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山崎の戦い その11

『和議結ばれる』

光秀から小早川への密書を読んで、信長の横死を知った秀吉は仰天したが、真相を味方の将士

にも隠し、直ちに毛利に対して和議を申し入れた。

「高松城主・清水宗治に腹を切らせれば、高松の囲みを解き、城兵の命を助ける」

という条件です。

清水宗治
si.清水宗治 002

信長が死んだことを知らない毛利輝元は、不覚にもこの条件を認めた。

信長が率いる大軍が備中に殺到するのを警戒し、ひとまず安芸の吉田に撤退することに、軍議

が一決したからであった。

和議は6月4日に結ばれた。

清水宗治は、小舟の上で見事に切腹してみせた。

秀吉は、翌5日まで高松に在陣し、毛利方の動静を監視していたが、6日の夕刻、急に高松を

出発し、夜に入って備前の沼に着き、7日は暴風の中、姫路に引き揚げた。

この工程は20数里もあったため、部下の将兵は、まだ帰着しなかった者が多かったという。

ほどなく信長の死を知った毛利方では

「さては欺かれたか」

と、地だんだを踏んで悔しがったが、あとの祭りであった。

部将・吉川元春は、ただちに秀吉を追撃しようと主張したが、軍議が一決せず、中止になったと

いう。



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robin 20181015




                      <参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>

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山崎の戦い その10

『光秀の密書』

明智秀満から小早川義景に送った密書の文面によると、光秀は近年になって、主君・信長に恨

みを抱き、そのいきどおりを晴らすために、反逆を企てたことがわかります。

と同時に、光秀は本能寺の変より、10年前に将軍・義昭を京都から追放した信長と、それか

ら、その後、義昭を後援し続けてきた毛利に挑戦している羽柴秀吉のことを「乱妨」と非難し、

信長や秀吉に対抗する毛利の行動を「忠烈」と称賛しているのです。

足利義昭
as.足利義昭 001

つまり光秀は、足利将軍の伝統的権威を高く評価し、その立場で信長や秀吉、また毛利の行為

を批評しているのです。

要するに、毛利は忠臣、信長と秀吉は逆臣ということになり、その忠臣である毛利に味方し、

逆臣である信長を本能寺で打倒した明智光秀は、当然、忠臣だということになるのです。

これは、主君・信長を殺害したことによって、逆臣の汚名を蒙ることを嫌った光秀が、かれ自

身の反逆的な行動を正当化するための詭弁に過ぎないと思われます。

しかし、光秀の反逆行為、すなわち本能寺の変が、備後の鞆の浦にいた足利義昭の戦略のひと

つであったと仮定すれば、光秀の行動も当然、正当化されるのでしょう。

ことに光秀は、かつて義昭に仕えたこともあるからです。

この光秀の密書が、毛利の手に渡らなかったのは、秀吉の幸運であった。

もし、渡ったならば、信長の死を知った毛利は俄然、攻勢に転ずるに違いない。

そうすれば、光秀の思惑どおり、備中高松にいた秀吉は窮地に陥ることは必然であったのでし

ょう。



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robin 20181014





                             <参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>

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山崎の戦い その9

『光秀の毛利家への密書』

本能寺の変で、信長父子を討ち取った明智光秀は、その日のうちに毛利家中に飛脚をつかわし、

本能寺の顛末を注進した。

その飛脚は、翌6月3日に備中の高松に着いたが、闇夜のせいか誤って、羽柴方の陣屋をうろ

ついていた。

それを、夜廻りの者が怪しみ、拷問したところ懐中に文筒を隠していた。

羽柴秀吉(1537-1598年)
to.豊臣秀吉 001

秀吉は、文筒の中の光秀の密書を見て驚き、直ちに使者の首を刎ね、信長の死を秘し、毛利と

の和議を進めた。

その時の光秀の密書は『別本川角太閤記』によれば、次の文面であったらしい。

急度、飛檄をもって、言上せしめ候。こんど羽柴筑前守秀吉こと、備中国において乱妨をくわ

だつる条、将軍御旗を出され、三家御対陣のよし、誠に御忠烈の至り、ながく末世に伝ふべく

候。然らば、光秀こと、近年、信長にたいし、いきどおりを抱き、遺恨もだしがたく候。今月

2日、本能寺において、信長父子を誅し、素懐を達し候。かつは、将軍御本意を遂げらるるの

条、生前の大慶、これを過ぐべからず候。このむね、よろしくご披露にあずかるべきのなり。 

6月2日   惟任日向守

小早川左衛門佐殿


これは、光秀が毛利輝元の叔父・小早川左衛門佐隆景に送ったもので、文中に「将軍」とある

のは、当時、毛利氏を頼って備後国の鞆の浦に亡命していた足利15代将軍・義昭のことで、

「三家」とは、毛利・吉川・小早川の三家を指しています。



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robin 20181013



                     <参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>

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山崎の戦い その8

『織田家の重鎮・柴田勝家は』

毛利秀頼も甲州討伐の後、信長から伊那郡を与えられ、飯田を居城としていたが、滝川一益や

森長可と同じく、その新領土を支えることができずに、美濃の本領に帰った。

柴田勝家(1522-1583年)
sh.柴田勝家 03

織田家の重鎮・柴田勝家は、北陸方面の大将として、越前北ノ庄を居城とし、佐々木成政・前

田利家らを従えて越中に入り、上杉景勝の所領越後に迫り、景勝の属城の越中東部の魚津を攻

め、本能寺の変のあった翌日、6月3日には魚津城を陥れた。

本能寺の変があったことが、越後一帯に知れ渡ったのは6月7日頃で、同時に上杉方が攻勢に

出たため、越中の土豪は織田方を離反し、柴田勝家も敗れて越前に撤退した。

勝家は、佐々成政を越中の富山に帰城させ、城を固守して越中の押さえとし、佐久間盛政を加

賀の尾山(金沢)に、前田利家を能登の七尾に、それぞれ帰城させ、その領内を警備させる一

方、勝家自身は、柴田勝豊・柴田勝政・佐久間安次を先鋒として上洛しようとした。

ところが、その途中で光秀滅亡の知らせを受け中止しています。



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robin 20181012



                    <参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>

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山崎の戦い その7

『海津城(松代城)の森長可は』

つぎに森長可も、武田勝頼討滅の手柄によって、信長から武田の旧領のうち、信濃の高井・

水内・更科・埴科の4郡を与えられて、川中島の海津城にいたが、越後の関山まで出て、はる

かに北陸の柴田勝家と連絡し、越後の上杉景勝を圧迫していた。

森長可(1558-1584年)
mo.森長可

本能寺の変が、関山の長可のもとに届いたのは、6月6日の午後であった。

長可初めて、弟・森蘭丸らの戦死を知って悲嘆したが、ただちに海津に戻り、主君・信長の弔い

合戦をする覚悟を決め、18日に35百の軍勢を率いて上洛しようとした。

ところが、信濃の土豪が一揆を起こして長可の後を迫ってきたため、猿ケ馬場の戦いとなり、長

可はこれを追い払ったが、明智光秀の敗亡を知り、木曽を経て、美濃の金山の本領に帰った。

このため、信濃北部の長可の所領は、殆どが上杉氏の領土に帰したのです。



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robin 20181011




                      <参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>

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山崎の戦い その6

『上野国の滝川一益は』

織田家の部将・滝川一益は、どうしていたか。

滝川一益(1525-1586年)
ta.滝川一益

一益は、武田勝頼討滅の先陣をつとめた功績を賞され、信長から関東地方の経略を命ぜられ、上

野国の厩橋(前橋)にいたので、本能寺の変の変報を受けたのは、6月9日の夜であった。

ところが11日になって、小田原城主・北条氏政が一益に書状を送り、本能寺の変のことが、遠

江から本日到来したことを告げて、その真偽を問いただし、一益に対して、新領土の維持に努力

すべきことを忠告してきた。

新領土の上野国を持ち応えることは、一益にとって確かに大切なことであり、同時になかなか

困難なことでもあった。

そういう状況で、一益が積極的に兵を率いて光秀討伐のために上洛するというようなことは、と

うてい不可能な状態にあったのです。


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robin 20181010



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piglet01

Author:piglet01
Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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20140816 郡上おどり 002-1
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