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賤ヶ岳の戦い その27

『百姓の元締めはお寺?』

柴田勝家は、兵を収めて柳ケ瀬に陣し、備えを堅くして羽柴方の攻撃を待った。

この間、羽柴方はさまざまの工作を行っている。

石田三成
is.石田三成 002

例えば、2月15日付けで近江の称名寺に書を与え、

「北国勢が、まもなく敗北するだろうから、その時は、余呉・丹生、そのほか所々に隠れている

百姓以下が飛び出して、敵兵を追いかけ、忠勤をはげめ。敵の首を取った者には、知行か、また

は当座の褒美をあたえる。望みによっては、諸役を免除してやってもいい。このことを心得、所

々の百姓どもに申し触れよ」

と記している。

称名寺は、これ以前にも秀吉の依頼を受けて、柳ケ瀬に斥候を出し、北国勢の様子をさぐり、そ

れを報告してきたので、秀吉の側近にいた石田三成が、3月13日(天正11年)付けの書状で、

これに応えている。



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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
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賤ヶ岳の戦い その26

『秀吉軍』

柴田勝家が江北に出兵したという報告に接すると、北伊勢にあった秀吉は、北畠信雄・蒲生氏

郷などに命じて、滝川一益にあたらせ、兵をかえして、3月21日(天正11年)、堀秀政の

居城である近江の佐和山に入り、江北出陣のために諸将の部署を定めた。

北ノ庄城の柴田勝家(北ノ庄城訪問記は「こちら」です。)
sh.柴田勝家像

先鋒の一番隊は堀秀政(佐和山城)、二番隊は柴田勝豊(長浜城主)、三番隊は秀吉麾下の木

村隼人佑・木下昌利・堀尾吉晴、四番隊は同じく前野永泰・加藤光泰・浅野長吉(長政)・一

柳直末、五番隊は生駒政勝・小寺孝高・明石則実・木下利匡・大塩金右衛門・山内一豊、六番

隊は三好秀次・中村一氏、七番隊は羽柴秀長(播磨姫路城主)、八番隊は筒井順慶(大和郡山

城主)・伊藤掃部助、九番隊は蜂須賀家政・赤松則継、十一番隊は細川忠興(丹後宮津城主)・

高山重友(摂津高槻城主)、十二番隊は羽柴秀勝(丹波亀山城主)・仙石秀久(淡路洲本城主

とし、その次が、総大将・羽柴秀吉と馬廻り衆、左手は小生衆とし、全軍は堂々として江北に

進み、3月17日、木ノ本に到着した。



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賤ヶ岳の戦い その25

『高野山も柴田方で動く』

柴田勝家は、紀州高野山の僧徒にも働きかけ、秀吉の後方かく乱を策している。

長宗我部元親
ch.長曾我部元親

3月31日付けで、高野山の僧・勢雄が土佐の香宗我部親泰に送った書信があり、それによると、

「勝家から依頼があったので、高野山は柴田方に味方することになり、伊賀の国衆とも相談して

いるが、それについて勝家は、貴国(土佐)と当山(高野山)とが親密の間柄と聞いていたから、

よろしく頼むといってきた。すでに勝家が江北に出陣し、勝利を得たことも、追い追いと通知し

てきている。だから、貴国(土佐)においても、この際、存分に働いて欲しい」

と述べている。

この頃、岐阜の織田信孝も長宗我部元親に書を与え、勝家の江北出陣を報じ、20日以内に信孝

も出馬することを告げ、元親の呼応を求めている。



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木更津アウトレットにディズニーが出店したので、robinの帽子とハーネスをゲットしてきました。

チョット早いクリスマスプレゼントです(^^♪

robin 20181211



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賤ヶ岳の戦い その24

『強い者には逆らわないのが賢明』

柴田勝家は、3月3日(天正11年)付けで、近江甲賀の山中橘内(長俊)に書を与え、伊賀

衆の出動を求め、働き次第で、信楽(近江古賀郡)・田上(近江栗太郎)・和束(山城相楽郡)

・田原(近江栗太郎)などのうちで、望みの知行を与えようといっている。

安国寺恵瓊(1539-1600年)
an.安国寺恵瓊

また、3月4日付けで、備後の鞆の浦に亡命中の足利将軍・義昭の近臣・牧木島昭光に書を送

り、秀吉の北伊勢出兵と滝川一益の防戦の状況を報告し、また、勝家が急速に江北に出陣

せざるを得なくなった事情を告げ、「毛利と謀って義昭が上洛するように」と、その出馬を促

している。

「北国は雪が消え雨となっても大河が氾濫し、4、5月までは人馬の通行も困難であるから今

度、無理をして出兵した」

と書いている。

そこで、足利義昭は、その後、卯月6日付けで、毛利方に御内書をくだし、

「秀吉と勝家が対陣するというこの好機に逸せず、兵を上方にのぼらせ、足利将軍家の再興に

尽力せらせよ」

といって、毛利の出兵を促したし、勝家もまた、卯月6日付けで毛利輝元に書を送り、急速の

出馬を要請したが、毛利方では容易に動こうとしなかった。

羽柴と柴田と、いずれが強いか、弱いか、判明しなかったからだといいますが、毛利の私僧と

して有名な安国寺恵瓊などは、秀吉の実力を認め、これを刺激するのを避ける方策をとったの

でしょう。

この考え方は、徳川家康のそれとも同様だったと言えます。

強い者には逆らわないのが賢明ということです。



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robin 20181209



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賤ヶ岳の戦い その23

『勝家の出陣』

越前の北ノ庄にあった柴田勝家は、北伊勢の状況をみて、2月28日、出兵を開始した。

はじめ、3月17日に出兵の予定であったが、急に予定を変更したのは、北伊勢の敗報にいた

たまれなくなったからでしょう。

北ノ庄城(模型)
ki.北ノ庄城 01

勝家は、先ず越中の佐々成政に依頼して、越後の上杉景勝にあたらせ、後顧の憂いをなくし、

それから先鋒として、前田利家など越前衆を山中方向に進ませた。

3月3日には、佐久間盛政などの加賀衆が、これについで越前の北ノ庄を出発し、前田利家以

下の能登・越中衆が出陣した。

大将の勝家は、3月9日、北ノ庄の居城を発し、12日に江北に入り、柳ヶ瀬の北方の内中尾

山に陣取った。

この勝家の江北出陣については、もちろん岐阜の織田信孝とも連絡したらしく、この頃、信孝

が土佐の長宗我部元親におくって、その呼応を求めた書状にも、3月5日に勝家が江北に出馬

したことを報告しています。



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robin 20181208



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賤ヶ岳の戦い その22

『伊勢亀山城開城』

秀吉は、まもなく桑名を引き上げたが、2月16日に再び大兵を率いて伊勢亀山城に殺到し、強

引に山下の郭を破ったが、城将の佐治新介が少人数をもってよく防戦し、容易に落城しそうもな

い。

伊勢亀山城
ka.亀山城(伊勢)002

そこで、返り柵を結び、竹束をかさね、材木でこれを囲い、敵の来襲に備えると同時に、その通

路を遮断し、城を孤立化させた。

それから連日連夜、銃弾と石灰矢を放ち、松明を投げて建物を焼き落したり、ゲンノウやツルハ

シで石垣や築地を突き崩したりし、また金堀人夫100人を使って、坑道を掘って前進し櫓を掘

り崩すなどし、死傷者を多数出しながらも強引に力攻めして、一歩一歩と本城に肉迫した。

このありさまを知った滝川一益は、城将・佐治新介に亀山の開城を勧告し、新介もこれに従い、

3月3日ついに城を秀吉方に引渡し長島に帰った。

国府城も、これより先、2月20日に開城していた。

秀吉は、亀山城に織田信雄を入れ、この城を元のように関万鉄に与え、蒲生氏郷の配下とした。

それから引き続き、信雄や氏郷に命じて、峯・関地蔵の諸城を攻めさせて、秀吉自身は柴田勝

家出兵の急報を聞き、江北に軍をかえした。

峯城は、なお容易に落ちなかったが、4月17日になって、ついに力尽き、城主・滝川儀太夫

は城を織田信雄に渡し、長島に退去した。



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robin 20181206



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賤ヶ岳の戦い その21

『秀吉、北伊勢攻略』

秀吉は、万全の備えを整えると同時に、北伊勢に向かって三方から兵を進めた。

左縦隊は、土岐多良越えで、弟の羽柴秀長を大将とし、大和の筒井順慶・伊藤掃部助、美濃の

稲葉一鉄・氏家直道がこれに従った。

滝川一益(1525-1586年)
ta.滝川一益

中央縦隊は、大君畑越でl甥の三好秀次を大将とし、和泉の岸和田の中村一及び近江衆が、こ

れに従った。

右縦隊は、安楽越で秀吉みずから7ヵ国の軍勢を率い、北伊勢から侵入した。

これに対して、滝川一益も所属の城々に兵を分かち、防備を厳重に待ち構えたが、なにぶんに

も兵が不足した。

秀吉は、2月12日(天正11年)、一部の兵をもって滝川儀太夫が籠る峯城を初め、亀山・

国府・関地蔵な城々を包囲し、秀吉自身は一益が籠る桑名城に向かい、付近の村落を焼き払い、

その外構えに迫った。

一益は城を出て力戦し、秀吉が退いて矢田山に陣したので、これを夜襲しようとしたが、果た

せなかったという。



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robin 20181205



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Author:piglet01
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平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

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*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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20140816 郡上おどり 002-1
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