「近江国へ」 その3

『プチ贅沢な大津の夜』

長かった一日が終わり、やっと大津にたどり着きました。

こよいの宿はここ。

高所は苦手ですけど、勇気をもっての宿泊です。

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やって来たのは、創業明治30年、近江牛の老舗「かね吉」さん

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なんと、お茶も出ないで待っているだけです。 もちろんビールも・・・。

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しかし、これを見たら思わずニコリとするしかありません。

すでに仲居さんが鍋に入れてくれていますので、形が崩れています。

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びわ湖噴水の時間は、食事中だったので見ることはできませんでした。

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朝はこんな感じで、正面が比叡山のようです。

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さあ2日目は、びわ湖西岸を走って長浜まで北上します。

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100万回

『みなさまに感謝です!』

ブログを始めたのが2009年5月6日ですから8年足らずで、アクセスカウンターが100万回

を突破しようとしています。

ka.カウンター


こんな拙いブログにお付き合い戴けることに、『感謝』するばかりです。

たぶん、1,000,000回の数字が出るのは、今週の日曜になると思いますが、100万回目に

訪問頂いた方には記念品でも出さないといけないですね。

カウンターは右下に設置してありますので、チョット確認して戴けると嬉しいです。


100万回を区切りに、数年前は「休止かな?」とか思っていましたが、現在は皆さまのブログ

を楽しく拝見させて頂いておりますので、もう少し続ける予定です。

お付き合い戴ければ嬉しいです。

100万回の声掛けをお待ちしております。

よろしくお願いいたします。



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pig 20170225

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『女城主・井伊直虎』 その3

『かろうじて直虎の存在が』

寛政年間(1789~1801年)に江戸幕府が編纂した「寛政重修諸家譜」というものがあり

ます。

直虎 002

これは大名や旗本などの系譜の書です。

井伊家の項には

「備中大夫共保遠見国引佐郡井伊谷に住せしより、井伊をもって家号とす」

との前書きにはじまる系譜が載っているという。

直虎が生きた時代とその前後の当主は「直平―直宗―直盛―直親―直正―直孝」と続いています

が、直虎の名前はないのです。

だからといって完全に無視はされていません。

なぜなら直盛のところに、その嫡子を直親(養子)とし、その妹として「女子」と記され、そこ

に「直親に婚を約すといへども、直満(直親の実父)害せられ直親信濃国にはしり、数年にして

かへらざりしかば、尼となり、次郎法師と号す」

との記述があるからです。

この女子がどうやら直虎らしいことがわかります。

なぜなら直盛の娘なっていて、「直親に婚を約す」と書かれ、何となくあやふやな表現ながら、

「尼となり、次郎法師と号する」

と記されているからです。




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pig 20170127




<参考文献:女城主・井伊直虎(楠戸義昭著)>

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東海道五十三次は、なぜ53なの

『東海道五十三次は家康さんが決めた?』

江戸と京都を結ぶメインルートは、126里余の東海道でした。

東海道の大半の宿駅は、江戸幕府の開設当初からあったが、寛永年間(1624~43年)に53

の宿駅が整います。

「東海道五十三次」の「次」は、「人馬を継ぐ」を意味し「次ぐ」です。

東海道五十三次 日本橋
ni.日本橋

江戸時代、公的な荷物は宿場ごとに止められ、中身を改められたうえで先の宿場まで継いでいく決

まりになっており、そこからきた言葉なのです。

江戸幕府は大坂冬・夏の陣で豊臣家を滅ぼしたあと、「天下の台所」として発展する大坂に城代

を置くとともに、東海道の大津宿から分岐して伏見・淀・枚方・守口の4宿を経て、大坂にいたる

13里の街道を整えています。

これを、伏見から京へ向かう街道を「京街道」と呼んでいました。

各街道の再整備は、そもそも大名の参勤交代のために行われたが、大名たちは政治的配慮から

京都へは立ち寄らず、大津~大坂のルートをとっていた。

東海道といえば江戸・京都間の「53次」を示しますが、江戸時代には、江戸~京都のルートに

大津~大坂のルートを加えて「五十七次」ともいっていたそうです。

東海道が基本的に「53次」だったことについては、味わい深い由来が語られています。

華厳経における「入法界品」の善財童子が、文殊菩薩の命により、53人の師を経て普賢菩薩の

ところで悟りを開いた。

その一説にちなんで、徳川家康が江戸(穢土)から京(普賢菩薩の住まう所)への53に定めた

というのです。

この由来は、後世につくられたこじつけと思われますが、昔の人の信心深さを考えれば、十分あ

りえる話かも知れません。



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          <参考文献:いまさら聞けない長年の大疑問(歴史の謎を探る会)>

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みちのくの都

『奥州藤原氏は、なぜ平泉を拠点にしたのか』

中尊寺のある平泉は、東北最大の名所のひとつです。

この「みちのくの都」は、奥州藤原氏の初代・清衡によって築かれています

藤原秀郷の子孫とされる蝦夷の豪族・清衡は、源氏を巻き込んで拡大した「後三年の役」に勝って

奥羽の支配者となっています。

清衡が建立した金色堂
ko.金色堂

そして7年後の1094年(嘉保元年)に、居館を江刺郡豊田館から磐井郡平泉に遷しますが、そ

のとき清衡に平泉を選ばせたものは何だったのでしょう。

第一に平泉に拠点を移すことは、「衣川を越えて奥六郡の南へ進む」

という政治的な意味があったのです。

清衡以前に奥州を支配していた蝦夷の豪族・安倍氏は、朝廷の許しを得て奥六郡を自治領としてい

たが、納税拒否の問題をきっかけとして朝廷に反旗をひるがえし、衣川を越えて南進してきます。

その結果、安倍氏は朝廷から放たれた源頼義・義家に討伐された。(前9年の役)

このことによって、衣川は内国とみちのくを区切る境界線としての意味を強めていた。

つまり、この衣川は越えて平泉に南進することは、藤原清衡にとって京都の朝廷に対して奥州藤原

政権の樹立を宣言することにほかならなかったのです。

第二に、当時の平泉は、北の衣川、東の最上川、南の盤井川に挟まれた要害の地であり、みちのく

を貫流する北上川によって、南北の交易をたやすくする水上交通の要所でもあったのです。

第三の理由は、奥州の中央に位置する平泉が、奥州の南境にあたる白河関まで約10日、北境の外

浜(陸奥湾岸)までも約10日間という地理的条件を備えていたことです。

つまり白河関以南にも脅威を与えるためにも、白河関を越えて攻められたときに地の利を得た北方

に退くためにも、平泉は絶好の場所であったのです。



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金沢なう

金沢城




                  <参考文献:戦国武将おもしろ辞典(奈良本辰也)>

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Author:piglet01
Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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20140816 郡上おどり 002-1
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