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明智光秀 season2 その20

『武士の忠義』

光秀の反逆に対して一言の諫言もせず、祝儀まで述べ同意した重臣らのことを、後世の儒者らは

痛撃していますが、武士の忠義は特別なもので、儒教的倫理で割り切るわけにはいかなかったの

だという。

明智光秀(1528(諸説あり)ー1582年)
ak.明智光秀

「坂東武士は主あるを知って、主に主あるをしらず」

という言葉がありますが、これが武士の忠義であったのだという。

武士の忠義は直属の主人に対するものだけのもので、主人の主人に対して忠義はないのが建前で

あったのです。

武士が主人の主人に対する忠義を心がけるのでは、封建制度は崩れてしまう。

明治維新の前夜にあっては、武士が大名や将軍を飛び越えて、皇室への忠義を考えるようになっ

た時、封建制度は崩壊したのです。

重臣5人は、光秀の計画を知ったが、他の者はまるで知らない。

信長公に武者ぶりをお目にかけるのだとばかり思い込んで行進を続ける。



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robin 20201122




<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎)>
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明智光秀 season2 その19

『光秀、謀叛をあかす』

光秀は城を出て暫くすると、明智左馬助光春を呼んだ。

左馬助は重臣でもあれば婿でもあるのです。荒木村重の敵子・新五郎の妻であった光秀の娘が、そ

の後、左馬助に再縁したのだという。

明智光秀(1528?ー1582年)
ak.明智光秀

左馬助はすぐ来た。

「重臣らに折入って話したいことがある。呼び集めてくれまいか」

「かしこまりました」

左馬助は馬を走らせて、明智次郎左衛門、藤田伝五、斎藤内蔵助、溝尾庄兵衛の4人を呼び集めて

来た。

光秀は重臣らを座らせて、初めて心を打ち明けた。

思いがけない光秀のことばに、一同は驚いたことでしょう。意気詰まるような沈黙であったでしょ

う。

左馬助が進み出て

「ただ一人胸中に思っていることでも、天知る、地知る、人知る、われ知ると申す。ましてや殿は

既にわれら5人に語り申された。今はもう踏み切りなさるよりほかにはござらむ」

すると、他の者どもも

「めでたき思(おぼ)し立たれました。明日より殿を上様と仰ぎ申すべきことは案のうちでござる。

もはや御相談にもおよばぬこと。京都までの5里の道を行く間にはほのぼのと夜明けとなるでござ

ろう。しののめの空の下にひたひたと本能寺を取巻きましょうなら、五ツ(8時)前にはらちがあ

き申そう。それより妙覚寺へ押し寄せ、城介(信長の嫡子・信忠)様を討果し申しましょうぞ。急

ぎ候え」



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robin 20201108



<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎)>

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明智光秀 season2 その18

『光秀の亀山出陣』

秀光は29日に愛宕から亀山に帰ったが、心中の計画はまだ誰にも語らない。

それどころか、家来どもに指図して、武器・弾薬類を100荷ばかり荷造りして、中国の方へ送

り出させた。

明治5年の亀山城(丹波亀山城登城記は「こちら」です。)
ka.亀山城 明治5年

その翌々日の6月1日の午後4時頃、光成は急に家中に触れをだした。

「京の森お蘭(蘭丸のこと)殿から、中国出陣の用意が出来たならば、軍容を見たいと上様が仰

せられている由、申して来た故、今日只今より出発する。さよう心得るよう」

中国出陣のことは前からわかっていたものの、足元から鳥が飛び立つようなこの命令には皆あわ

てたことでしょう。

日没頃にはすっかり陣そろえができて、出発した。

光秀は自分で馬を乗り回して隊を三段に分けた。

この時、光秀が重臣・斎藤内蔵助に

「この人数はどれくらいであろうか」

と聞いたところ、内蔵助は

「1万3千はござろう」

といったという。



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明智光秀 season2 その18

『愛宕山の連歌会』

一旦坂本城に戻った光秀は、5月26日に坂本を出て、丹波の居城亀山に帰ったが、翌早起きると

すぐ、

「心願のことあって、愛宕権現に参篭にまいる」

と言って、身支度して城を出た。

明智光秀(1528?-1582年)
ak.明智光秀

神様にも流行すたりがあって、天神様の信仰が流行った時代があり、八幡様の信仰が流行った時代

がありという調子で、足利中期頃から織豊時代までは、この愛宕信仰が大流行していたのだという。

愛宕権現は、京都西北方、亀岡側からすれば東北方にそびえる愛宕山に鎮座している。

光秀はここで連歌会をやっている。

まず、光秀が発句する。

「ときは今あめが下しる五月かな」

おりしも梅雨期のこと、雨が降っていたから、それを取り込んでの句であろうが、裏にはもっと深

い意味があるのだという。

光秀は美濃の土岐の一族です。

「とき」は「土岐」にかけ、「あめが下しる」は「天下を知ろしめす」にかけてあるのだといいま

す。

土岐の一族である自分が天下を取る時が来たという意味を含めていたのでしょう。



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『robinクンのテーブルマナー』

「よし!」の合図とともに、大好物の焼き肉を食べています。

robin 20201025



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明智光秀 season2 その17

『信長の備中出陣』

信長は意気大いに上がった。

「毛利と決戦が出来る形となったことは、天の与えるところじゃ。早速に行こう。中国路の大名ど

も残らず討ち平らげ、一気に九州まで平らげようぞ」

と言って、堀久太郎を上使として

織田信長(1534ー1582年)
od.織田信長公

「委細承知した。不日(すぐ)に出馬するぞ」

との返事を持たせて備中に向けて出発させ、明智光秀、細川忠興、池田信輝、塩川吉太夫、高山右

近、中川瀬兵衛らに

「その方ども先陣として早速に出発いたせ」

と命じた。

光秀はその日のうちに安土から坂本に帰り、出陣の用意にとりかかった。

安土においては、信長みずから家康の接待にあたって連日歓待して、20日の饗応には家康はもちろ

ん、梅雪・家康の老臣たちの食膳に至るまで、自ら据えて勧めたほど丁重な待遇したという。

21日には家康一行は安土を去って上方見物に上る。

信長はこれを見送って

「京・大坂・奈良・堺、いずれも心のどやかに見物あれ」

と言い、案内役に近臣の長谷川秀一をつけ、四国征伐に向かうべき織田信澄と丹羽長秀には、その方

らは大坂で徳川殿を饗応せよと命じたので、2人は大坂に向かった。



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robin 20201018-1






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平成26年6月30日に100城を制覇しました!

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