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明智光秀 seasonⅡ その9

『比叡の法灯絶える』

信長は危機を脱して、岐阜に戻った。

すぐ年が明けて1570年となった。

光秀はこの年、近江滋賀郡10万石を与えられ坂本に城を築いている。

織田家に仕えてから4年目、この時、光秀は44歳であった。

坂本城碑
sa.坂本城址

つまり光秀は伯楽を得なかったため、40年間を平人で送っていたが、信長という伯楽を得てか

らわずか4年にして10万石一城の主となることができたのです。

無量の感慨があり、その感慨のなかには信長に対する感謝があったのでしょう。

この年の8月に信長は江州に兵を出して浅井氏と戦い、9月には比叡焼討ちを決行して、3千の

塔堂伽藍を煙とし、山中の老若男女(女人禁制ですが女もいたのです)ひとり残らず斬った。

「悪僧の儀は是非に及ばされども、是なる者は御扶(たす)けなされ候へと声々に申上げ候へど

も、御容赦なく、一々に頭を打落され、目もあてられぬ有様なり」(信長公記)

以後10数年、秀吉が再興するまで、比叡800年の法灯は絶えたのです。



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robin 20200329


<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎)>
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明智光秀 seasonⅡ その9

『織田信長の危機』

浅井長政は

「あれほど念をおしていたのは、かかることがあってはならぬと思うたればこそのことじゃに、

信長め、煮え湯を飲ましおったか!言おうようなき表裏ものめ!もう縁者とはいわさないぞ!」

と起ち上がって、朝倉家と謀を通じ、信長軍の背後から襲いかかる気勢を見せた。

浅井長政(1545-1573年)
as.浅井長政 001

信長は進退両難に陥り、木下藤吉郎(後の秀吉)を殿(しんがり)として残しおき、朽木越えの

間道をとって命からがらに京都に逃げ帰った。

この後、阿波の三好党が本願寺を通じて、浅井・朝倉と通謀して、淀川の下流に城を築き付近の

豪族らを誘い込んで勢いをふるい始める。

比叡山の浅井・朝倉への援助、北伊勢の長島一揆と大厄難となってきますが、朝廷による両軍に

和平の仲裁があり、信長は厄難を乗り切っている。

この和平工作に光秀が動いたとも思われます。

光秀のこの間の働きと功績がどの書にも伝わらないのは、事柄の性質上きびしい秘密のうちに運

ばれ、また後年に光秀が反逆の臣になったので、ことを知る者も事跡を伝えなかったのではない

かと思います。



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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>

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明智光秀 seasonⅡ その8

『一流の教養人』

信長に仕えた以降の光秀は、攻城野戦の功も勿論あったが、その他に信長の命を受けて信長と

足利義昭、公家衆との交渉にあったという。

明智光秀(1528?-1582年)
ak.明智光秀

信長は適材を適所に用いる天才です。

こうした文史的、あるいは外交官的な任務を光秀に負わせたのは、光秀がそれに応える資質が

あったからなのでしょう。

光秀は当時の武士として第一流の教養人で、学問もあれば、儀礼にも慣れており、弁舌もまた

さわやかであったのでしょう。

元亀元年4月、信長は不意に兵を率いて京都を出発し、越前に向かい朝倉方の3城を落としい

れ、今にも朝倉家の本城一乗谷へ入らんばかりに攻めつけた。

この知らせを聞いて、驚き、また激怒したのは近江小谷の城主・浅井長政であった。


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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>

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明智光秀 seasonⅡ その7

『恰好な買い物』

足利義昭に随従して朝倉家を頼って来た細川幽斎と知り合いになった光秀が、朝倉家頼るに足

らず、織田家をお頼みになさるが良いと勧めたことに細川家記には、こう書いています。

細川幽斎(1534-1610年)
ho.細川幽斎 002

幽斎から光秀の意見を聞いた義昭は、光秀を呼び出して

「しかじかの由、幽斎から聞いたが、その方、世のために織田家へ連絡を取ってくれぬか」

と頼んだ。

光秀はこれを引き受けたたが、どんな方法でそれを達成するか工夫がつかないでいると、丁度

その頃、朝倉家の家中で光秀のことを義景に讒言(ざんげん)した者があり、光秀は追放とな

った。

光秀は、これ幸いと越前を立ち退いて岐阜に行った。

以前から来さえすれば召抱えようと言っていた信長です。喜んで召抱えて朝倉家で貰っていた

知行と等額を与えた。

間もなく、光秀は義昭の意思を信長に伝え、義昭の入京に尽力することが信長の大をなす所以

(ゆえん)であることを説いた。

すでに美濃を制して本城を岐阜に移し、近江を隔てて京の空を望んで、ここに押し上って天下

の権を握ろうとの野心にはちきれそうになっている信長にとって、これほど便利な道具はない。

「うむ、うむ」

と聞いておいて、重臣の柴田勝家と丹波長秀の意見を聞くと、両人とも

「恰好な買い物でござる」

「さっそくお手配しかるべし」

という。

信長は光秀を呼び出して、承諾の旨を応える。

「ありがたき仕合せ」

光秀から藤孝に連絡すると、義昭は喜んで幽斎を正藤孝式の使者として岐阜に遣わしという。

以上は、細川家記が伝えるところです。



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明智光秀 seasonⅡ その6

『諸国流浪の成果』

こんな話が伝わります。

ある時、朝倉義景が光秀に

「昔は山を要害として山に城を築いたものであるが、この頃では鉄砲が出来た故、かえって安心

が出来ぬよう思う。もし居城を築くのであれば、どんなところがよかろうか」

と尋ねると、

「御意の通りでございます。山上の城でも、近くに高い山があれば、そこから大鉄砲で撃ちおろ

します故、かえって悪うございます。しかしながら20町(約2180m)以上も高みから離れ

ていれば構わぬでございましょう」

朝倉義景(1533-1573年)
as.朝倉義景

「山に築いても構わんというのだな」

「はい。しかしながら、あながち山に寄らねばならぬこともござすまい。軍書にも要害よりは人

心の和が大事であると申しています故、平城でも築きようではなかなか立派なものになります。」

「ほう。平城でもよい城ができるというか」

「はい」

「その方がこれまで見た城でよいと思う城はどこだ」

「当国では北ノ庄がようございます。山城の国では、これは山城でございますが、長泉寺がよい

と見ました」

「加賀では」

「小松寺城がよい城であります」

「ふむ、では上方では」

「御縁者にあたらせる大坂の本願寺は天下無双の城でございます」

すると、義景は笑い出し、

「そちは寺ばかり目をつけるのじゃな」

とからかったという。

これは、明智軍記にある話で、光秀の兵法修業をたたえると同時に、義景が庸暗(ようあん)な

人物であったことを同時に示すために作為されたものだと思われます。

ともかく光秀は朝倉家で力量にふさわしい待遇を得られず、やがて立ち去って織田家に行くこと

となります。



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平成26年6月30日に100城を制覇しました!

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*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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20140816 郡上おどり 002-1
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