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明智光秀 season2 その15

『武田家滅亡』

丹波の平定が終わった1579年の初秋から1582年の春にかけては、信長の事業が順風満帆の

勢いをもって進んだ時期です。

1579年10月には、1年の長きに渡って頑強に抵抗していた荒木村重の有岡城が落城した。

甲斐大和駅前の武田勝頼
ta.武田勝頼像(甲斐大和駅前)小

1580年の正月には、2年に渡って反抗し、さすがの秀吉をてこずらした別所長春の播州三木城

が陥り、3月には本願寺との講和が成立して、本願寺は石山城を明け渡した。

本願寺との抗争は前後実に11年に渡っていたのです。本願寺の大坂退去は、ふさがっていた中国

への進路が開けたという意味で大きかったのです。

1581年10月には、信長の中国方面派遣軍の司令官である秀吉が鳥取城を陥れた。鳥取城は山

陰道における毛利氏の前線拠点であったから、ここを失っては毛利氏としても後退を余儀なくされ

ている。

1582年の3月には甲州の武田氏が滅んだ。

この年の2月はじめ、信長は徳川家康とともに兵を向けたが、以前あれほど精強で、信長を恐れさ

せていた武田軍はまるで闘志を失っていた。

連合軍は無人の野を行くがごとく進撃して3月11日には主将・武田勝頼以下家族の逃げ篭ってい

る天目山を攻めつけ、これを自殺させた。

この甲州征伐には光秀も従軍しています。



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robin 20200920



<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎)>
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明智光秀 season2 その16

『光秀、丹波を平定』

八上城が落ちると、後は破竹の勢いで陥落させていったが、赤井直正だけが降伏しない。

しかし、直正が篭る黒井城に押し寄せて、意気少しも屈せず勇戦する直正を討ち取った。

丹波亀山城(明治5年)
ka.亀山城 明治5年

信長は丹波一円残らず平定したとの光秀の報告に接して

「長々丹波に在国候にて粉骨、度々の高名、名誉比類なし」

と感状をくれたという。

これで光秀は近江滋賀郡10万石にあわせて丹波を領し、丹波における居城は亀山と定めたが、

丹波全部を貰ったのか、一部を貰ったのかはっきりはしません。

江州の所領を合わせて25万石という説もあり、60万石という説もあります。

前説をとれば一部であろうし、後節をとれば全丹波を貰ったのでしょう。

この時、光秀は52歳であった。



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明智光秀 season2 その15

『光秀の老母は人質になっていなかった?』

一方、信長公記ではこう説きます。

八上城
ya.八上城 002

八上城に対しては、光秀が去年から取巻いて、三里四方に堀をめぐらせ、丈夫な塀柵を幾重もつけ

て攻めたので、城内の者たちは食料が尽きて飢え苦しみ、はじめは草木の葉をむしり食ったりして

いたが、後には牛馬を殺して食うに至った。

苦しまぎれに城を脱出する者が出てきたが、これらは寄せ手が全員斬ったので、城中の者は戦意が

つきた。

そこを見透かし、「波多野兄弟3人の者、調略を以って召捕まえる」とある。

信長公記には、光秀の老母のことなど出てこないのです。



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robin 20200830



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明智光秀 season2 その15

『光秀叛逆が怨恨説の大きな材料』

光秀は喜んで対談したが、一礼おわって祝儀の席上、かくしおいた壮士らを出して波多野兄弟を

捕らえにかかった。

兄弟は刀を抜き、力をつくして戦ったが多勢に無勢ついに捕らえられた。

光秀はこれを安土に送って、この次第を言上した。

八上城の老母
ak.明智光秀 母

信長は波多野兄弟を磔にかけて殺した。

八上の城兵らは、主人兄弟のこの悲惨な最期を聞くと、人質の老母をはりつけにかけて殺して鬱

憤を晴らした上で、攻囲軍と戦って死んだという。

以上が、総見記(織田軍記:1685年頃)の記述です。

これが光秀の後の叛逆の原因が信長に対する怨恨であったという説の最も大きなよりどころとな

る材料です。

しかし、この話をそのまま信じると、光秀は功をあせって最初から母を捨殺しにするつもりであ

ったということになります。

だまし討ちにして縛って安土に差し出す以上、信長がこれを誅殺することを予期していた筈であ

り、そうなれば人質たる老母が殺されるのが覚悟のうえであったと考えなければなりません。

あるいは、うまく老母を奪い返す予定であったかも知れませんが、それは冒険に過ぎると思われ

ます。



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明智光秀 season2 その15

『波多野兄弟との和談』

光秀は一策を案じて、西蔵院という山伏と大善院という僧とを仲人として、城中に和談を申し入れ

た。

波多野秀治(不詳-1579年)
ha.波多野秀治

「右大臣様が当国を征伐なさるのは、貴殿に対して遺恨がおわしてのことではござらぬ。ただ天下

統一の功を立て、万民のために太平を開かんというお考えからのことでござる。されば、貴殿が只

今からでも帰服なされるなら、右大臣様は丹波一国の安堵状をたまわって、末長く波多野家を立て

おき給うでござろう。これが右大臣様のお心であることは、われらよく存じている。よろしくお聞

きわけあって、城を出て帰服あれ、われら7枚の起請状をしたためてお渡しいたすでござろう」

という口上。

波多野秀治は疑惑して聞かない。

「そのような甘口に乗ろうか。織田殿の不信義はわれら骨髄に徹して承知しているわ」

使僧らが帰って来て、これを報告すると、光秀はさらに思案をめぐらし、再び使僧らを遣わして言

わせる。

「お疑い散じ給わぬ由、ごもっともでござる。しかしながら、われら老母を人質としてつかわしま

す故、なにとぞ疑いを散じて、城を出て安土にまいられ、右大臣様にお礼申して、お家を全うせら

れるがようござる」

これで和談が整って、光秀から城中に老母を送ると、秀治、秀尚、秀香の3人は城を出て、当時、

光秀がいた本目の城にやってきた。



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平成26年6月30日に100城を制覇しました!

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20140816 郡上おどり 002-1
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