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謀反の総選挙結果

『光秀 謀反の総選挙結果は』

やはり光秀さんはいい人だったのでしょう。

いや、大河ドラマの影響もあるのでしょうか。

5月17日の記事で案内した、光秀謀反の原因説総選挙結果は、

『暴君討伐説(信長非道説)』が、2位に多きく水をあけて第1位でした。

ak.明智光秀 総選挙


投票結果は、福知山光秀ミュージアムのホームページ(「こちら」です。)で発表されており

ますので、参照されてください。

みなさんは、どの説に投票されたのでしょうか。



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robin 20200603
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『本能寺の変 原因説50 総選挙』

大河ドラマ「麒麟がくる」も6月7日(日)<第21回>放送をもって、一時休止となります

が、福知山光秀ミュージアムでは、次のような『本能寺の変原因説50 総選挙』をおこなっ

ています。

明智光秀(1528-1582年)
ak.明智光秀

(参加者が本能寺の変の原因といわれる全50説の中から“推し説”を投票し、6月2日の早朝

【本能寺の変の日時】に総選挙の結果が発表されます。)

ぜひ、参加してみませんか。


第一陣 「本能寺の変 展示」 (ホームページで見ることができます)

第二陣 「本能寺の変 原因50説 総選挙」

     *5月1日~5月24日(日)まで(ネット投票)

第三陣 「本能寺の変 お知らせハガキ」抽選で自宅に届く!

     *本能寺の変お知らせハガキ」が6月1日【本能寺の変出陣日】までに実際に自宅に

      届く


福知山光秀ミュージアムのホームページは「こちら」です。

謀反50説の解説がありますので、「麒麟がくる」楽しく見るためにも、謀反原因説を考えて

みませんか。



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robin 20200517-1

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明智光秀 season2 その13

『信長軍、八上城を急襲』

光秀が西丹波の平定を信長に報告して間もなく、この地に一揆が蜂起した。

光秀は信長の甥・織田信澄、滝川一益、丹波長秀、細川藤孝父子とともに、これを鎮め突如と

して八上城に向かった。

八上城があった高城山
ya.八上城

波多野氏は既に信長に帰順し、安堵状を貰っていたのです。それを奇襲するというのはひどい

話ですが、これは信長の命令だったのでしょう。

信長には信義がなく、一揆の蜂起は波多野の煽動によるものと考えたのでしょう。

八上城は篠山の東方6kmにあり険峻な山岳地帯を背後に背負い、丹波一の堅城であったとい

う。

波多野秀治は思いもかけず織田勢が押し寄せて来たのに驚き、また憤った。

すばやく戦備を整え、弟の秀尚と秀香に2千の兵を授けて、防戦させたが織田軍はこれを撃退

して進み城を囲んだ。

攻囲は30日余りに渡ったが、なにせ堅城です。急に落ちそうにもない。

織田軍は城の周囲を柵で囲い、光秀の部将・明智光忠らを残して引き上げた。

これ以後、1579年の5月まで約1年2ヶ月の間、八上城は厳重な明智軍の包囲にあった。

こんなにも城が落ちなかったのは、城が堅固で波多野勢が強い上に、長い間の領主で領民との

結びつきが固かったからだと思われます。



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明智光秀 season2 その12

『亀山城を落とす』

光秀の丹波経営においては、波多野氏をどうするかが、最も大きな課題であった。

当時の波多野氏の当主は秀治で、八上城にいた。

亀山城天守台(亀山城登城記は「こちら」です。)
ka.亀山城 002

秀治には2人の弟がいて、次男・秀尚は亀山城に3男・秀香は二階堂氏を名乗っていた。

光秀の丹波経営は、初めのうちははかどっていない。

丹波に入ったといっても、近江の坂本を根拠地として、そこから時々兵を出して攻略にかかった

のであり、また専念してかかることもできなかった。

当時、信長は安土城を営んでいたが、その安土城の縄張りを担当したのが光秀だったという説も

あり、また、本願寺攻めが始まっているが信長公記によるとそれにも参加しているし、松永久秀

が謀反しているが、その征伐にも参加しているのです。

しかし、1582年の10月に細川藤孝とともに亀山城を落とし、波多野秀尚を追い落としてか

らは、2、3ヵ月の間に東丹波を平定して、信長に報告している。

波多野秀治も帰順し、信長から本領の安堵を受けている。

これらの光秀の働きに始終力を合わせたのは、細川藤孝とその子・忠興であった。

この頃の藤孝は光秀の与力大名といった格でもあったと思われます。



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明智光秀 season2 その11

『丹波・丹後の経略』

1574年には、信長にとって東方が安全になってきた。

信長が最も恐れていた武田信玄が、この前年の4月に没したのです。信玄の死は秘せられていた

が、数ヶ月後には確報として信長の元に届いたのです。

引き続いて、朝倉・浅井家も滅ぼしてしまった。

亀山城
ka.亀山城 明治5年

当然、信長の手は西方に伸びます。これまでにも、信長は毛利家の軍勢と戦ってはいるが、それ

は毛利家が本願寺の援助をするからやむなく戦ったので、積極的に踏み出して戦うことはなかっ

た。

志はあっても、できなかったのです。

東方が安全になったので、踏み出す時がきたのです。

その第一手が山陰道の丹波・丹後の経略であった。それを命ぜられたのが、光秀と細川藤孝であ

った。

信長は1574年の正月にこのことを命じていますが、この年には長篠合戦や越前・加賀の一向

一揆が勃発しており、光秀が丹波に入ったのは翌年の冬でした。

丹波の国は丹後と同じく、元来は足利氏の一族である一色氏の領国であったが、戦国の世になる

と一色氏は衰えて、丹後の一部分だけを領有し、丹波は一色氏の守護代であった内藤氏に奪われ

、内藤氏はまた国人・波多野氏に勢力を奪われ、わずかに亀山城を保っているという有様であっ

た。



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平成26年6月30日に100城を制覇しました!

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*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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