『逆臣の武将・明智光秀』 その41

明智光秀はなぜ謀反したのか。

その真相は闇の中で怨恨説、久しい計画説、危惧説など多くの説があります。この闇の中を一緒に覗いて

みませんか。


『良心の呵責』

歴史上の人物に対する倫理価値の判断は曖昧を極めたものであり、感情的であることを常としています。

光秀に対する評価が、日本人が朱子学流の倫理観から解放された明治以後、論ずる人によって色々と違う

のもこのためです。

明智光秀(1528-1582年)
ak.明智光秀

ご存知のとおり、光秀は山崎の合戦に敗れ、その夜、近江に逃れる途中、宇治の小栗栖の片藪陰を通る時、

藪中から突き出された土民の槍で脇腹を刺されて死んだという。

享年55歳 1582年6月13日の深夜であった。

逆順ノ門ナク

大道心源ニ徹ス

五十五年ノ夢

覚メ来ツテ一元ニ帰ス

というのが、鎧の引合せにあった世辞であると、明智軍紀で伝えています。

もし、これが真に光秀の作であるならば、彼は最後まで反逆に対しての良心の呵責を感じていたのです。

光秀は禅語を借りて弁解せずにいられなかったのです。

小心で真面目な性格であったのでしょう。

みなさんは、どう思われますか。



明智光秀に長い間お付き合い頂きまして、ありがとうございました。

次の武将は、「せいしょこさん」(加藤清正)を取り上げてみたいと思います。

行幸橋の清正公 (平成25年7月5日撮影)
ka.加藤清正像 001


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『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:割腹自殺
丹羽長秀は胃癌のために死去していますが、死因には異説もあり、一説では織田氏をないがしろにする秀吉の振舞いを見て、信長の恩義に応えることができなかったことを悔いて割腹自殺したという説もあり、その際に自ら取り出した内臓、それも病巣の部分を秀吉に送りつけたとも言われています。

≪本日の問題≫


                                   <参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
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『逆臣の武将・明智光秀』 その40

明智光秀はなぜ謀反したのか。

その真相は闇の中で怨恨説、久しい計画説、危惧説など多くの説があります。この闇の中を一緒に覗いて

みませんか。


『秀吉も反逆者』

光秀は後世に逆臣の代表者として評判が悪いですが、こういう倫理価値の判断は、実際には曖昧を極めて

います。

豊臣秀吉(1537-1598年)
to.豊臣秀吉

厳密に論ずるならば、秀吉だって織田氏の天下を奪い取っているのです。

これも反逆者なのでしょう。

小牧の戦いの時、徳川方の榊原康政が、この意味で秀吉を反逆者と罵った立札を両軍が対峙する中ほどに

立てたところ、秀吉は激怒して重賞をかけて康政治の首を求めているのです。

秀吉を簒奪者(さんだつしゃ)であると見るのは、秀吉と敵対関係に徳川家の者だけでなく、記録は秀吉が

織田家の将校であった頃に、最も秀吉に好意を抱き秀吉に味方し、色々な場面で彼の危機を救ったくれた

丹羽長秀や堀秀政が、晩年、秀吉に心平らでなかったと伝えたという。

つまり、一般的にもそうした考えを抱いていた人が多かったのです。

しかし、後世になると、徳川家の御用学者以外には、秀吉を簒奪者と見る者は殆どいないのです。

そのやり方が巧妙自然であったこと、その性格が豪放闊達であったこと、その功績が未曾有の壮大さを持っ

ていたことなどに目をくらまされて倫理を忘れているのです。


長くお付き合い頂いた、明智光秀は次回で終わりの予定です。



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sakura 20131212 001


『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:剃髪した
細川藤孝(幽斎)は光秀の上役であり、親戚でもあり、なによりも親友だったが再三の要請を断り、剃髪して幽斎玄旨と号して田辺城に隠居し、忠興に家督を譲っています。

≪本日の問題≫


                                   <参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>

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『逆臣の武将・明智光秀』 その39

明智光秀はなぜ謀反したのか。

その真相は闇の中で怨恨説、久しい計画説、危惧説など多くの説があります。この闇の中を一緒に覗いて

みませんか。


『見通しの甘さ』

光秀の見切りは、人間のなし得る計算としては限界だったのです。

秀吉がわずかに13日の後に駆け付けて決戦をいどみかけられたのは、秀吉の働き以外に天運が働いてい

るのです。

本能寺の変報が秀吉の元に届く数日前から、毛利家の方から秀吉に和議を申しかけていたのです。だから

迅速に和議を結んで駆け付けることができたのです。


秀吉が毛利氏と対峙していた備中高松城 (備中高松城登城記は「こちら」です。)
bi.備中高松城 20120210 001


毛利側からの和議の申し出がなかったら、秀吉がいかに知恵者であり機敏であっても、あの迅速な機動が

できるものではありません。

だから、この点では秀吉が天下とりしめ、英雄といわれるまでにしたのは秀吉の運のよさであり、光秀を13

日天下の逆臣で終わらせたのは、光秀の運の悪さであるといえるのでしょう。

光秀の策の拙劣さの指摘がさらにあります。

彼は細川幽斎・忠興父子が、古くからの親友であり、忠興にいたっては彼の娘婿でもあるので、必ず味方

してくれると思っていたでしょう。

ところが、細川父子にそれを拒絶されている。また、筒井順慶は、以前、彼の与力大名であり、また親しい

仲であったので、これも味方してくれるに違いないと思っていたでしょうが、これにも背かれています。

これらは光秀の見通しの甘さであり、その甘さはその反逆が周到な観察と緻密な計画を欠いた爆発的なも

のであったからでしょう。

彼は朝廷や社寺に献金したり、京都の町の地子銀を免除したりして人心を引こうとしているが、そんなこと

より戦備に努力を集中すべきであったろうと思われます。

完全に順序が違っていたのです。



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sakura 20131211 001


『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:魚津城
柴田勝家は、1582年、上杉氏方の魚津城を攻囲中に本能寺の変があって織田信長が横死した報を受け、6月3日に魚津城は陥落したが(魚津城の戦い)、勝家は上杉景勝の反撃に遭って、京都に向かうことができなかった。

≪本日の問題≫


                                  <参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>

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『逆臣の武将・明智光秀』 その38

明智光秀はなぜ謀反したのか。

その真相は闇の中で怨恨説、久しい計画説、危惧説など多くの説があります。この闇の中を一緒に覗いて

みませんか。


『光秀は誠実型』

謀反を企てる人間の性質に2通りがあるそうです。

深刻冷酷型と誠実型との2つです。

斎藤道三や松永秀久らは深刻冷酷型です。この型は計算を立てて、長い年月をかけて行うから、成功もする。

平将門や西郷隆盛などは誠実型です。抑えにおさえて我慢しているので、その反逆は爆発的なのです。まる

で計算が立っていないので失敗する。

明智光秀(1528-1582年)
ak.明智光秀

光秀もは誠実型だったのです。

その反逆にはぜんぜん計画が立っていなかったので、本能寺の信長を倒すまでの手際は見事であったが、

それ以後のことは、彼ほどの戦術家にあるまじき稚劣さです。

光秀が大事に踏み切ったのは、当時、信長配下の有力な武将らが、みな京都から遠い土地にいて、急いで駆

け付けることはできないと見たからでしょう。

最も有力な徳川家康は国を離れて堺見物に行っており、柴田勝家は越前で上杉氏と対峙しており、滝川一益

は関東探題として上州にいて、丹羽長秀は四国征伐のため6月に渡海すべく大坂に下っており、秀吉は備中

で毛利氏の大軍と対陣中だったのです。

いずれも急場に間に合うものではなく、彼らが動きがとれるようになるまでには、どう短くても1ヵ月や2ヵ

月はある。

その間に畿内を固めてしまえると、思ったのでしょう。


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pig 20131210 001


『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:氏綱
早雲の後を継いだ氏綱は北条氏(後北条氏)を称して武蔵国へ領国を拡大。
以後、氏康、氏政、氏直と勢力を伸ばし、5代に渡って関東に覇を唱えています。

≪本日の問題≫


                                  <参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>

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『逆臣の武将・明智光秀』 その37

明智光秀はなぜ謀反したのか。

その真相は闇の中で怨恨説、久しい計画説、危惧説など多くの説があります。この闇の中を一緒に覗いて

みませんか。


『光秀の性格を重視した場合の考察』

光秀が知識人で、古い文化を身につけた人物であったことから、行儀が正しく、態度に重々しいところがあ

り、性格もまじめで誠実であったでしょう。

これに比べ、信長は天性の野人で、いたずら好きで、わがまま者です。

彼は誰に対してもいたずらをし、無礼を働いた。

清洲城の織田信長(1534-1582年)
od.織田信長清洲城像 001

甲州征伐から凱旋する時、信長は東海道を取って富士山を見たいと思った。

前関白で、この時期に太政大臣であった近衛前久は信長に同行して甲州に来ていたが、同行したいと望ん

だら、信長は馬上

「近衛、わごれ(和御料)などは木曽路をのぼりませ」

と言い捨てて通り過ぎたという。

天皇に次ぐ尊重な身分にある前関白、現太政大臣殿下に対してもこうだったのです。

信長は誰に対しても無礼であり、いたずらもしたのです。

その信長の目から見るとき、光秀のように生真面目で礼儀正しく、態度の重々しい人間は、もったいぶって

いるように思われ、いたずら心がムズムズとそそられ、からかってみたくなり、苛めてみたくなりもしたので

しょう。

この意味では、秀吉もまた信長のいたずらのいい対象であったに違いないのでしょう。

チビで、サル眼で、色黒の醜悪な顔をして、こまめに走りまわっている秀吉が、いたずらの対象にならない

筈がなかったと思います。

秀吉は、天性横着者で、ものにこだわらない性質なので、さらさらと受け流して、これを腹に残さなかった

が、光秀はそうはいかなかった。

真面目な性質だけに、真正面から受取り、人一倍に苦悩したことでしょう。そのため深い怨恨となって胸中

に積み重ねられ、ついに無防備な姿でいる信長を見たことによって爆発したとみてもいいのではないでしょ

うか。



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静岡県の城廻りをしてきました。別途、記事にしたいと思います。
fu.富士山


『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:毛利元就
小早川隆景は毛利元就の3男で、兄弟に同母兄の毛利隆元・吉川元春などがいます。
元春と共に毛利氏の発展に尽くし、毛利水軍の指揮官としても活躍している。
豊臣政権下では豊臣秀吉の信任を受け、実子がいなかった隆景は、秀吉の養子だった羽柴秀俊(小早川秀秋)を養子として迎え家督を譲っています。

≪本日の問題≫


                                    <参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>

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平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

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*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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20140816 郡上おどり 002-1
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