【加藤清正】 その38
『清正、没する』
秀頼が上洛してから3ヵ月目の6月24日、清正は熊本で没した。
秀頼が二条城で家康に謁見した翌々月の下旬に熊本に下ったが、途中、船上で病気になり熊本に帰り着いて
2、3日もすると舌も不自由になり、次第に重くなって死んだという。
本妙寺清正公像

当代記(1622~1642年に成立した記録資料:信憑性は不確な部分が多いという)では清正の死は、ひとえ
に好色の故、虚(きょ)の病だと記している。
虚の病とは腎虚のことです。
しかし、清正の死因については、唐瘡(梅毒)説や家康またはその一派による毒殺説などもあります。
清正の死から2年後の1613年、豊臣氏恩顧の最有力大名であった浅野幸長も同じく花柳病で死去している。
清正・幸長の両名は豊臣氏恩顧の有力大名として家康から警戒されていたのは事実であり、その両名が同じ
病気でしかも急死したため、家康による毒殺ではないかとの憶測もあり、池波正太郎氏の「火の国の城」では、
根強い毒殺説を題材とした小説になっています。
また死因は瘡(癩病、ハンセン病)であったとする説もあり、罹患者の多かった時代には清正を祀る加藤神社
に平癒を願う参詣者が多かったという。
清正公の遺骸は甲冑の武装のまま石棺に朱詰めにされ、熊本城の西北にある本妙寺にある清正公像の真下
に埋葬されているそうです。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:家康が京に滞在する時の宿所
現在の二条城は、徳川家康が京に滞在中の宿所として造った城で、1603年に完成しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
秀頼が上洛してから3ヵ月目の6月24日、清正は熊本で没した。
秀頼が二条城で家康に謁見した翌々月の下旬に熊本に下ったが、途中、船上で病気になり熊本に帰り着いて
2、3日もすると舌も不自由になり、次第に重くなって死んだという。
本妙寺清正公像

当代記(1622~1642年に成立した記録資料:信憑性は不確な部分が多いという)では清正の死は、ひとえ
に好色の故、虚(きょ)の病だと記している。
虚の病とは腎虚のことです。
しかし、清正の死因については、唐瘡(梅毒)説や家康またはその一派による毒殺説などもあります。
清正の死から2年後の1613年、豊臣氏恩顧の最有力大名であった浅野幸長も同じく花柳病で死去している。
清正・幸長の両名は豊臣氏恩顧の有力大名として家康から警戒されていたのは事実であり、その両名が同じ
病気でしかも急死したため、家康による毒殺ではないかとの憶測もあり、池波正太郎氏の「火の国の城」では、
根強い毒殺説を題材とした小説になっています。
また死因は瘡(癩病、ハンセン病)であったとする説もあり、罹患者の多かった時代には清正を祀る加藤神社
に平癒を願う参詣者が多かったという。
清正公の遺骸は甲冑の武装のまま石棺に朱詰めにされ、熊本城の西北にある本妙寺にある清正公像の真下
に埋葬されているそうです。
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≪前回の解答≫
正解:家康が京に滞在する時の宿所
現在の二条城は、徳川家康が京に滞在中の宿所として造った城で、1603年に完成しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
【加藤清正】 その37
『秀頼の上洛』
1611年3月、家康は上洛して二条城に入り、織田有楽斎を通じて秀頼の上洛を促した。
秀頼はこの年に19歳になっています。
家康としてはこれによって成人した秀頼の徳川に対する気持ちを打診する気持ちがあったでしょうし、もし応じ
なければ、これを口実にして武力に訴える気持ちであったのでしょう。
二条城 (二条城登城記は「こちら」です。)

大坂の陣のわずか3年前のことです。
老さき短い家康としては、目の玉の黒いうちに豊臣家を何とかしておきたい気持ちがあったと考えたほうが自
然です。
もちろん豊臣家としては、かつては江戸の爺(じい)と言っていた家康に呼びつけられて上洛することは、格式
を落とすようでしたくない。
秀頼もそうであったでしょうが、淀殿は、なおそうであったのでしょう。
当時の後家さん(未亡人)は頑固なもので、現実の情勢がどんなに変化しようと、法律的に認められている権
利は少しも失いまいとし、おやじの生きていたこの頃の格式は一分も落とすまいとするのが常であったという。
豊臣家の悲惨な最期は、淀殿という後家さんが家の主宰者であったところに最も大きな原因があるともいいま
すが、どうなのでしょう。
秀頼だけであったなら、天下は実力のある者の天下であるべきで、天下取りの息子だというだけの理由で、実
力のない自分ごときはダメだということを理解し、早々と大坂城を明け渡し、どこかに5、60万石の領地を貰っ
て引き移ることも考えただろうし、そうすれば、あの悲惨な最期はなかった筈です。
豊臣家では上洛することを不見識として、なかなか煮え切らなかったが、これを危険とみて清正は福島正則や
浅野幸長と説得して、ついに上洛させる運びにした。
この時、3人は相談して、福島は万一の時の用心に病気と称して大坂に留守居し、清正と浅野が秀頼の乗物
の両側に徒歩で従った。
清正は土分の者5百人を小者のいでたちをさせ京都と伏見の町に潜伏させ、自らは二条城では丸腰にならな
ければならないので、懐に短刀を秘めていたという。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:三河一向一揆
本田正信は、1563年、三河一向一揆が起こると、一揆方の武将として家康に敵対し、一揆衆が家康によって鎮圧されると、徳川氏を出奔して大和の松永久秀に仕えています。
久秀には重用されたようですが、やがて久秀のもとを去って諸国を流浪しています。
流浪の間、正信がどこで何をしていたのかは定かではありませんが、旧知の大久保忠世を通じて家康への帰参を嘆願し、忠世のとりなしによっ再び徳川氏に帰参しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
1611年3月、家康は上洛して二条城に入り、織田有楽斎を通じて秀頼の上洛を促した。
秀頼はこの年に19歳になっています。
家康としてはこれによって成人した秀頼の徳川に対する気持ちを打診する気持ちがあったでしょうし、もし応じ
なければ、これを口実にして武力に訴える気持ちであったのでしょう。
二条城 (二条城登城記は「こちら」です。)

大坂の陣のわずか3年前のことです。
老さき短い家康としては、目の玉の黒いうちに豊臣家を何とかしておきたい気持ちがあったと考えたほうが自
然です。
もちろん豊臣家としては、かつては江戸の爺(じい)と言っていた家康に呼びつけられて上洛することは、格式
を落とすようでしたくない。
秀頼もそうであったでしょうが、淀殿は、なおそうであったのでしょう。
当時の後家さん(未亡人)は頑固なもので、現実の情勢がどんなに変化しようと、法律的に認められている権
利は少しも失いまいとし、おやじの生きていたこの頃の格式は一分も落とすまいとするのが常であったという。
豊臣家の悲惨な最期は、淀殿という後家さんが家の主宰者であったところに最も大きな原因があるともいいま
すが、どうなのでしょう。
秀頼だけであったなら、天下は実力のある者の天下であるべきで、天下取りの息子だというだけの理由で、実
力のない自分ごときはダメだということを理解し、早々と大坂城を明け渡し、どこかに5、60万石の領地を貰っ
て引き移ることも考えただろうし、そうすれば、あの悲惨な最期はなかった筈です。
豊臣家では上洛することを不見識として、なかなか煮え切らなかったが、これを危険とみて清正は福島正則や
浅野幸長と説得して、ついに上洛させる運びにした。
この時、3人は相談して、福島は万一の時の用心に病気と称して大坂に留守居し、清正と浅野が秀頼の乗物
の両側に徒歩で従った。
清正は土分の者5百人を小者のいでたちをさせ京都と伏見の町に潜伏させ、自らは二条城では丸腰にならな
ければならないので、懐に短刀を秘めていたという。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:三河一向一揆
本田正信は、1563年、三河一向一揆が起こると、一揆方の武将として家康に敵対し、一揆衆が家康によって鎮圧されると、徳川氏を出奔して大和の松永久秀に仕えています。
久秀には重用されたようですが、やがて久秀のもとを去って諸国を流浪しています。
流浪の間、正信がどこで何をしていたのかは定かではありませんが、旧知の大久保忠世を通じて家康への帰参を嘆願し、忠世のとりなしによっ再び徳川氏に帰参しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
【加藤清正】 その36
『豊臣家への忠義』
清正は関ヶ原の戦いで、東軍に味方したとはいえ、豊臣家に対する忠誠心を失っていた訳ではなかった。
戦い後、天下は徳川家に帰し、清正もまた江戸に参観するようになり、江戸に邸も営んでいますが、その往来
には必ず数百人の家臣を従え、大坂を通過する度に秀頼の元へご機嫌を伺った。
それを気にした家康は謀臣の本多正信が清正と入魂(じっこん)の仲であるのを利用して
「肥後守だがな、あれにその方の考えから出たことにして、かくかくしかじかと意見してみよ」
と命じた。
本田正信(1538-1616年)

正信は清正の邸に行き、雑談のついでのようにして言った。
「拙者は貴殿にいつか折を見て申したいことがあるのですがな」
「ほう、何でござろう。うけ賜わりましょう」
「3ヵ条ござる。その1つは、唯今では中国・四国の大名衆は船で大坂に着かれると、そのまま駿府なり江戸へ
なり参られるのが普通でござるが、貴殿は以前と変わらず、先ず秀頼公のご機嫌を伺い、しかる後にこちらに
おい出ござる。大坂の方を重しとしていられるかに見え申す。おためによろしくないことではござるまいか。
その2つは、天下太平の今日では、諸大名衆いずれも参観の節には家来の数を減らしていなさるのでござる
が、貴殿には昔と変わりなく多数をお従えでござる。ことのほか外に目に立ち、何とやら殺伐に見え申す。
3つは、昨今は大名衆の顔にひげ立てられたくはなく、皆々きれいに剃り落していなさるが、貴殿は口ひげ、
顎ひげともにお立ててござる。殿中総出仕の折など、これまた異風殺伐に見え申す。いずれも世間なみでな
いこと。世間なみにいたされてはいかが」
清正は答えた。
「拙者はご承知のとおり、故太閤の一方ならぬ温情によって成人いたした者でござる。御当家の世となって肥
後一国の領主という大身になりましたことなれば、御当家の厚恩は忘れはいたさぬが、さればといって昔の恩
を忘れるような軽薄は武士として嫌でござる。次に参観の従者のことでござるが、なるほど供の人数が少なけ
れば費用もかからず、そういたしたくはござれども、拙者本国は遠くござる。万一にも急御用など差し起こりま
した節、時を移さず御用を務めるためには、常に多数召し連れている必要がござる。次に、第三のヒゲのこと。
拙者も剃り落したならば、さぞさっぱりと気味よいことであろうとは存ずるが、若き頃より合戦に臨んで、この
ヒゲ面に頬当てをいたし、冑の緒をしめる時の心持よきこと、今に忘れられなく、これまたお言葉に従い難う
ござる。折角のご忠告を一つも用い申さぬこと、心苦しくはござるが、以上の次第なれば、お許し下されとう
ござる」
さすがの正信もあきれて、2の句が告げず帰って家康に復命すると、家康があきれて
「清正どのが」
と笑ったという話が、駿河土産という書物に出ているそうです。
愚直な清正の誠実さと、古武士ぶりと、豊臣家に対する忠誠心とがよく表されていると思います。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:別所長治
三木合戦は、1578年5月から1580年2月にかけて、織田信長と別所長治との合戦です。
織田家の武将・羽柴秀吉が行った播州征伐のうちの1つで、別所氏は播磨三木城に篭城したため、この合戦で秀吉が行った兵糧攻めは、三木の干殺しと呼ばれます。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
清正は関ヶ原の戦いで、東軍に味方したとはいえ、豊臣家に対する忠誠心を失っていた訳ではなかった。
戦い後、天下は徳川家に帰し、清正もまた江戸に参観するようになり、江戸に邸も営んでいますが、その往来
には必ず数百人の家臣を従え、大坂を通過する度に秀頼の元へご機嫌を伺った。
それを気にした家康は謀臣の本多正信が清正と入魂(じっこん)の仲であるのを利用して
「肥後守だがな、あれにその方の考えから出たことにして、かくかくしかじかと意見してみよ」
と命じた。
本田正信(1538-1616年)

正信は清正の邸に行き、雑談のついでのようにして言った。
「拙者は貴殿にいつか折を見て申したいことがあるのですがな」
「ほう、何でござろう。うけ賜わりましょう」
「3ヵ条ござる。その1つは、唯今では中国・四国の大名衆は船で大坂に着かれると、そのまま駿府なり江戸へ
なり参られるのが普通でござるが、貴殿は以前と変わらず、先ず秀頼公のご機嫌を伺い、しかる後にこちらに
おい出ござる。大坂の方を重しとしていられるかに見え申す。おためによろしくないことではござるまいか。
その2つは、天下太平の今日では、諸大名衆いずれも参観の節には家来の数を減らしていなさるのでござる
が、貴殿には昔と変わりなく多数をお従えでござる。ことのほか外に目に立ち、何とやら殺伐に見え申す。
3つは、昨今は大名衆の顔にひげ立てられたくはなく、皆々きれいに剃り落していなさるが、貴殿は口ひげ、
顎ひげともにお立ててござる。殿中総出仕の折など、これまた異風殺伐に見え申す。いずれも世間なみでな
いこと。世間なみにいたされてはいかが」
清正は答えた。
「拙者はご承知のとおり、故太閤の一方ならぬ温情によって成人いたした者でござる。御当家の世となって肥
後一国の領主という大身になりましたことなれば、御当家の厚恩は忘れはいたさぬが、さればといって昔の恩
を忘れるような軽薄は武士として嫌でござる。次に参観の従者のことでござるが、なるほど供の人数が少なけ
れば費用もかからず、そういたしたくはござれども、拙者本国は遠くござる。万一にも急御用など差し起こりま
した節、時を移さず御用を務めるためには、常に多数召し連れている必要がござる。次に、第三のヒゲのこと。
拙者も剃り落したならば、さぞさっぱりと気味よいことであろうとは存ずるが、若き頃より合戦に臨んで、この
ヒゲ面に頬当てをいたし、冑の緒をしめる時の心持よきこと、今に忘れられなく、これまたお言葉に従い難う
ござる。折角のご忠告を一つも用い申さぬこと、心苦しくはござるが、以上の次第なれば、お許し下されとう
ござる」
さすがの正信もあきれて、2の句が告げず帰って家康に復命すると、家康があきれて
「清正どのが」
と笑ったという話が、駿河土産という書物に出ているそうです。
愚直な清正の誠実さと、古武士ぶりと、豊臣家に対する忠誠心とがよく表されていると思います。
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≪前回の解答≫
正解:別所長治
三木合戦は、1578年5月から1580年2月にかけて、織田信長と別所長治との合戦です。
織田家の武将・羽柴秀吉が行った播州征伐のうちの1つで、別所氏は播磨三木城に篭城したため、この合戦で秀吉が行った兵糧攻めは、三木の干殺しと呼ばれます。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
【加藤清正】 その35
『熊本城の石垣』
関ヶ原の戦いの時、清正は九州にいて、黒田官兵衛とともに東軍のために戦い、小西行長の居城・宇土城と
属城・八代城を陥れ、戦後、肥後一国の54万石の領主となった。
熊本城の築城は、この後のことでした。
それまでもここに城はあったが、清正はこれを大きく拡大し築きなおしたのです。1600年頃に天守が完成し、
1606年には城の完成祝いを行い、地名も隈本から熊本に改めています。
熊本城の石垣 (熊本城登城記はたくさんありますが、石垣は「こちら」です。)

<クリックで拡大>
熊本城はその石垣の築き方に独特のものがあり、日本の諸城郭中、最も異色があると言われます。
石垣の傾斜工法には、下け縄(垂直)・たるみ(暖勾配)・はねだしの3種類があるが、熊本城は「はねだし」で、
裾がゆるやかで外に出て、その上に半弧形に積み上げる様式です。この積み上げは角錐形の石の狭い小口
を壁面に出し、広い小口を奥に入れないとできない。
普通の石垣と比べると随分多量に石材がいるわけですが、そのかわり堅固であり、よじ登ることもできず、城
壁としては最も理想的な石垣だという。
西南戦争の時、西郷軍の兵らが
「なんじゃこげん石垣、よじ登るに何の手間いるもんか!」
と走り上がろうとしたが、途中まで登ると、石垣の上の方が頭上に迫ってきて空も見えないので、しずしずと降
りたという。
この様式の石垣は朝鮮の城壁に多いことから、清正は朝鮮在陣7年の間に学んできたのでしょう。
清正のことを、当時の書物に「石垣接ぎの名人である」と書いているそうです。
名古屋城の天守閣は清正が一手に引き受けた(名古屋市史)といいますが、その石垣を築く時、彼は幕を張っ
て見えないようにしたそうです。当時としては、こういう技術は一種の軍事機密なのですから、当然のことであっ
たのでしょう。
熊本の各河川の堤防には、清正が築いたものが残っていて、これまでに決して崩れたことがないので。肥後の
人々は
「清正公様(せいこしょ)の堤防は何百年たっても崩れはせんが、この頃出来たものは科学的じゃのなんじゃの
と言うても、すぐ崩れてしまいおるばい。何が科学じゃ」
と言って、清正公様をたたえていますが、の堤防も朝鮮式石垣築造法によるものでしょう。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:徳川家康
三成と対立関係にあった武断派の加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、池田輝政、加藤嘉明の7将が、三成の大坂屋敷を襲撃する事件が起きたが、三成は事前に佐竹義宣の助力を得て大坂から脱出し、伏見城内に逃れていた。
この後7将と三成は伏見で睨みあう状況となり、仲裁に乗り出した家康により和談が成立し、三成は五奉行からの退隠を承諾しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
関ヶ原の戦いの時、清正は九州にいて、黒田官兵衛とともに東軍のために戦い、小西行長の居城・宇土城と
属城・八代城を陥れ、戦後、肥後一国の54万石の領主となった。
熊本城の築城は、この後のことでした。
それまでもここに城はあったが、清正はこれを大きく拡大し築きなおしたのです。1600年頃に天守が完成し、
1606年には城の完成祝いを行い、地名も隈本から熊本に改めています。
熊本城の石垣 (熊本城登城記はたくさんありますが、石垣は「こちら」です。)

<クリックで拡大>
熊本城はその石垣の築き方に独特のものがあり、日本の諸城郭中、最も異色があると言われます。
石垣の傾斜工法には、下け縄(垂直)・たるみ(暖勾配)・はねだしの3種類があるが、熊本城は「はねだし」で、
裾がゆるやかで外に出て、その上に半弧形に積み上げる様式です。この積み上げは角錐形の石の狭い小口
を壁面に出し、広い小口を奥に入れないとできない。
普通の石垣と比べると随分多量に石材がいるわけですが、そのかわり堅固であり、よじ登ることもできず、城
壁としては最も理想的な石垣だという。
西南戦争の時、西郷軍の兵らが
「なんじゃこげん石垣、よじ登るに何の手間いるもんか!」
と走り上がろうとしたが、途中まで登ると、石垣の上の方が頭上に迫ってきて空も見えないので、しずしずと降
りたという。
この様式の石垣は朝鮮の城壁に多いことから、清正は朝鮮在陣7年の間に学んできたのでしょう。
清正のことを、当時の書物に「石垣接ぎの名人である」と書いているそうです。
名古屋城の天守閣は清正が一手に引き受けた(名古屋市史)といいますが、その石垣を築く時、彼は幕を張っ
て見えないようにしたそうです。当時としては、こういう技術は一種の軍事機密なのですから、当然のことであっ
たのでしょう。
熊本の各河川の堤防には、清正が築いたものが残っていて、これまでに決して崩れたことがないので。肥後の
人々は
「清正公様(せいこしょ)の堤防は何百年たっても崩れはせんが、この頃出来たものは科学的じゃのなんじゃの
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三成と対立関係にあった武断派の加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、池田輝政、加藤嘉明の7将が、三成の大坂屋敷を襲撃する事件が起きたが、三成は事前に佐竹義宣の助力を得て大坂から脱出し、伏見城内に逃れていた。
この後7将と三成は伏見で睨みあう状況となり、仲裁に乗り出した家康により和談が成立し、三成は五奉行からの退隠を承諾しています。
≪本日の問題≫
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【加藤清正】 その34
『清正の三成嫌い』
秀吉がこの年の8月に没し外征は中止となり、在韓の諸軍は概ねその年の末までに帰国しています。
その時のこととして、清正記にこんな話が出ています。
石田三成(1560-1600年)

石田三成は5奉行の一人として引き上げて来る諸将を迎えために博多まで出ていたが、諸将に
「貴殿方、伏見に上がって秀頼様にお目通りされた上で、それぞれお国元にお帰りありたい。そして来年の
秋にまたお上がりあれ、その時は茶の湯などをいたして、お互い楽しもうではござらぬか」
と言ったところ、清正は大きな声で
「われらは治部少輔(三成)からお茶をいただこうが、こちらは7年の間、異国にあって苦しみ、兵糧一粒も
なく。酒も茶もござらんによって、治部少輔にはひえ粥でも煮てもてなし申そうぞ」
と、愛想もなく言ったので、三成は心に含んだという。清正の三成嫌いは深刻を極めていたのです。
こういうことですから、関ヶ原合戦で清正が家康に味方したのは、もっとも必然のことであったわけです。
たとえ三成の拳が真に秀頼のために家康を除くことにあったとしても、清正はそれを信じなかったのでしょう。
いや、信じることが出来なかったと見る方が適当なのでしょう。
三成は佞姦陰険(:従順なようであるが悪意を隠している)な素質があったという人もいます。
通説に従って英雄の資質があり、また豊臣家に対して忠誠心のあった人であるとしても、清正に対しては彼
の態度は常に腹黒かったのかも知れません。
清正が三成を信じることが出来なかったのは、無理なかったとも思えます。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:宇土櫓
熊本城の五階櫓の中でも「三の天守」とも呼ばれる宇土櫓は現存櫓で、3重5階地下1階で、高さ約19mあり、近世以前に建造された天守や櫓との比較では姫路城、松本城、松江城に次いで4番目の高さです。
この宇土櫓は最上階に外廻縁を持ち、清正の創建した初代天守ではないかという見方もあります。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
秀吉がこの年の8月に没し外征は中止となり、在韓の諸軍は概ねその年の末までに帰国しています。
その時のこととして、清正記にこんな話が出ています。
石田三成(1560-1600年)

石田三成は5奉行の一人として引き上げて来る諸将を迎えために博多まで出ていたが、諸将に
「貴殿方、伏見に上がって秀頼様にお目通りされた上で、それぞれお国元にお帰りありたい。そして来年の
秋にまたお上がりあれ、その時は茶の湯などをいたして、お互い楽しもうではござらぬか」
と言ったところ、清正は大きな声で
「われらは治部少輔(三成)からお茶をいただこうが、こちらは7年の間、異国にあって苦しみ、兵糧一粒も
なく。酒も茶もござらんによって、治部少輔にはひえ粥でも煮てもてなし申そうぞ」
と、愛想もなく言ったので、三成は心に含んだという。清正の三成嫌いは深刻を極めていたのです。
こういうことですから、関ヶ原合戦で清正が家康に味方したのは、もっとも必然のことであったわけです。
たとえ三成の拳が真に秀頼のために家康を除くことにあったとしても、清正はそれを信じなかったのでしょう。
いや、信じることが出来なかったと見る方が適当なのでしょう。
三成は佞姦陰険(:従順なようであるが悪意を隠している)な素質があったという人もいます。
通説に従って英雄の資質があり、また豊臣家に対して忠誠心のあった人であるとしても、清正に対しては彼
の態度は常に腹黒かったのかも知れません。
清正が三成を信じることが出来なかったのは、無理なかったとも思えます。
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正解:宇土櫓
熊本城の五階櫓の中でも「三の天守」とも呼ばれる宇土櫓は現存櫓で、3重5階地下1階で、高さ約19mあり、近世以前に建造された天守や櫓との比較では姫路城、松本城、松江城に次いで4番目の高さです。
この宇土櫓は最上階に外廻縁を持ち、清正の創建した初代天守ではないかという見方もあります。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>