清正公の愛馬 「帝釈栗毛」
『清正公(せいしょこさん)の愛馬』
加藤清正公の愛馬「帝釈栗毛」は、大陸から輸入したサラブレット種だったといわれ、六尺三寸(約1.9m)
もあり、荒々しい馬であったといいます。
この帝釈とは帝釈天のことで、梵天とともに仏法を守護する神を意味するそうです。
清正公を祀る肥後本妙寺の浄池廟に、この帝釈天栗毛を祀ったお堂があります。
(本妙寺の記事は「こちら」です。)

お堂の中には馬の木像があります。
「江戸のもがりに さわりはすとも よけて通しゃれ 帝釈栗毛」(ならず者に喧嘩を売っても、帝釈栗毛には喧
嘩を売るな)と謳われたそうです。

お堂は阿吽の狛さんが守ってくれています。

また、お堂の近くには、論語猿の像があります。
ある日「論語」という本を読んでいた清正公、用事があって部屋を出ると、飼っていた猿が御主人のまねをし
て、墨のついた筆を持ち「論語」の勉強中だったとか。

やがて、部屋にもどった清正公、猿を叱るどころか頭をなでて「お前は猿なのに、そんなに勉強がしたいのか」
と、猿をほめてやったそうです。
このお猿さんの頭を撫でてあげると、勉強が好きになるという言い伝えがありそうです。
よく判りませんでしたけど、「言わざる、見ざる、聞かざる」も鎮座しています。

どなたか、ご存知の方はいらっしゃいませんでしょうか。
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加藤清正公の愛馬「帝釈栗毛」は、大陸から輸入したサラブレット種だったといわれ、六尺三寸(約1.9m)
もあり、荒々しい馬であったといいます。
この帝釈とは帝釈天のことで、梵天とともに仏法を守護する神を意味するそうです。
清正公を祀る肥後本妙寺の浄池廟に、この帝釈天栗毛を祀ったお堂があります。
(本妙寺の記事は「こちら」です。)

お堂の中には馬の木像があります。
「江戸のもがりに さわりはすとも よけて通しゃれ 帝釈栗毛」(ならず者に喧嘩を売っても、帝釈栗毛には喧
嘩を売るな)と謳われたそうです。

お堂は阿吽の狛さんが守ってくれています。

また、お堂の近くには、論語猿の像があります。
ある日「論語」という本を読んでいた清正公、用事があって部屋を出ると、飼っていた猿が御主人のまねをし
て、墨のついた筆を持ち「論語」の勉強中だったとか。

やがて、部屋にもどった清正公、猿を叱るどころか頭をなでて「お前は猿なのに、そんなに勉強がしたいのか」
と、猿をほめてやったそうです。
このお猿さんの頭を撫でてあげると、勉強が好きになるという言い伝えがありそうです。
よく判りませんでしたけど、「言わざる、見ざる、聞かざる」も鎮座しています。

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カラスになった清正公
【加藤清正】 その41
『せいしょこさん』
一般庶民の間における清正の評判は、その生前において既にすさましかったという。
武張った空気の時代ですから、雄偉な風采や朝鮮役における武名によることも勿論ですが、ひとつには清正が
日蓮宗の熱心な信者であったからでもあるのでしょう。
加藤清正(1562-1611年)

清正の評判は江戸において特に高く、人々は
江戸のもがりに
さわりはすとも
よけて通しゃれ
帝釈栗毛
と、清正を讃歌したという。
関東は日蓮宗の盛んなところで、帝釈栗毛は彼の愛馬で、丈6尺3寸あったという。
当時の普通の馬は4尺が普通であり、6尺3寸という化け物みたいな大きな馬だったのです。
江戸人らは神人を仰ぐような気持ちで仰ぎ見たのでしょう。
清正は師団長格としての軍人でなら最も理想的な将軍で、民政家としてなら最も理想的な知事であったので
しょう。
熊本城 (熊本城登城記は「こちら」です。)

加藤家は2代で改易になっておりますが、肥後(熊本)では今でも「清正公(せいしょこ)さん」として、現在も
史跡や祭りなどで取りあげられています。
長い間、清正公にお付き合いして戴き、ありがとうございました。
次の戦国武将は『知将か表裏比興の者か真田昌幸』を取り上げてみたいと思います。
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いつもありがとうございます。
「雨にけむる東京タワー」
先週、御成門へ仕事で行きましたので、コンデジ撮りましたが、通り過ぎる人にガン見されました。

『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:3男・忠広
清正の後を継いだのは、3男の忠弘です。兄の虎熊、忠正(熊之助)が早世したため、清正の後を継いでいますが、11歳の若年であったため、重臣による合議制となり、藤堂高虎が後見人を務めたといわれています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
一般庶民の間における清正の評判は、その生前において既にすさましかったという。
武張った空気の時代ですから、雄偉な風采や朝鮮役における武名によることも勿論ですが、ひとつには清正が
日蓮宗の熱心な信者であったからでもあるのでしょう。
加藤清正(1562-1611年)

清正の評判は江戸において特に高く、人々は
江戸のもがりに
さわりはすとも
よけて通しゃれ
帝釈栗毛
と、清正を讃歌したという。
関東は日蓮宗の盛んなところで、帝釈栗毛は彼の愛馬で、丈6尺3寸あったという。
当時の普通の馬は4尺が普通であり、6尺3寸という化け物みたいな大きな馬だったのです。
江戸人らは神人を仰ぐような気持ちで仰ぎ見たのでしょう。
清正は師団長格としての軍人でなら最も理想的な将軍で、民政家としてなら最も理想的な知事であったので
しょう。
熊本城 (熊本城登城記は「こちら」です。)

加藤家は2代で改易になっておりますが、肥後(熊本)では今でも「清正公(せいしょこ)さん」として、現在も
史跡や祭りなどで取りあげられています。
長い間、清正公にお付き合いして戴き、ありがとうございました。
次の戦国武将は『知将か表裏比興の者か真田昌幸』を取り上げてみたいと思います。
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「雨にけむる東京タワー」
先週、御成門へ仕事で行きましたので、コンデジ撮りましたが、通り過ぎる人にガン見されました。

『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:3男・忠広
清正の後を継いだのは、3男の忠弘です。兄の虎熊、忠正(熊之助)が早世したため、清正の後を継いでいますが、11歳の若年であったため、重臣による合議制となり、藤堂高虎が後見人を務めたといわれています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
【加藤清正】 その40
『清正の幸福』
誠実な清正は、勢い日に衰えて行く豊臣家に対する憂慮と、自分の家の安泰を望む気持ちの間に、苦しみ悩む
ことが一方ではなかったのでしょう。
加藤清正(1562-1611年)

彼が江戸への往来の船中で論語を読みながら朱点を加えていることを、清正が可愛がって飼っていた猿が見て
いたが、彼が厠(かわや)に行った間に、主人の真似をして書上に縦横に朱の線を引いていたところに、清正が
帰って来てニコリと笑い
「おお、おお、そちも聖人の教えが知りたいのか」
と言って、頭を撫でたという話は有名ですが、論語を読む気を起こしたのは、悩みに対する解決を求めたため
なのでしょう。
儒教のことは良く判りませんが、激烈果断を儒教の教えは嫌うといい、二律背反的な条件があれば、そのいず
れにも偏しない中庸中正の道のあることを教えるのが儒教だそうです。
彼はそれを知って論語を愛読するようになったのだと思います。
しかしながら、大坂の役の時まで清正が生きていたらどうであったのでしょう。
清正が健在であれば、家康もあのような辛辣無残な言いがかりによって戦争を始めるようなことは先ずなかっ
たとも思われるし、事情が切迫する前に、何か適当な方法を豊臣家のために講じたであろうとも思われますが、
それでも家康が無理を押し切ったとすれば、清正の悩みは、もう論語ではどうにもならなかったのでしょう。
大坂の役に先立つこと3年にして死んだことは、清正の幸福であったことは間違いないことでしょう。
長い間、加藤清正にお付き合いを戴きましたが、次回が最終回になります。
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いつもありがとうございます。

『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:浅井氏
1573年、羽柴秀吉(豊臣秀吉)は浅井長政攻めの功で織田信長から浅井氏の旧領を拝領して長浜城を造営しています。
小谷城で使われていた資材や、竹生島に密かに隠されていた材木などを見つけ出し、それらを使用し築城したといわれます。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
誠実な清正は、勢い日に衰えて行く豊臣家に対する憂慮と、自分の家の安泰を望む気持ちの間に、苦しみ悩む
ことが一方ではなかったのでしょう。
加藤清正(1562-1611年)

彼が江戸への往来の船中で論語を読みながら朱点を加えていることを、清正が可愛がって飼っていた猿が見て
いたが、彼が厠(かわや)に行った間に、主人の真似をして書上に縦横に朱の線を引いていたところに、清正が
帰って来てニコリと笑い
「おお、おお、そちも聖人の教えが知りたいのか」
と言って、頭を撫でたという話は有名ですが、論語を読む気を起こしたのは、悩みに対する解決を求めたため
なのでしょう。
儒教のことは良く判りませんが、激烈果断を儒教の教えは嫌うといい、二律背反的な条件があれば、そのいず
れにも偏しない中庸中正の道のあることを教えるのが儒教だそうです。
彼はそれを知って論語を愛読するようになったのだと思います。
しかしながら、大坂の役の時まで清正が生きていたらどうであったのでしょう。
清正が健在であれば、家康もあのような辛辣無残な言いがかりによって戦争を始めるようなことは先ずなかっ
たとも思われるし、事情が切迫する前に、何か適当な方法を豊臣家のために講じたであろうとも思われますが、
それでも家康が無理を押し切ったとすれば、清正の悩みは、もう論語ではどうにもならなかったのでしょう。
大坂の役に先立つこと3年にして死んだことは、清正の幸福であったことは間違いないことでしょう。
長い間、加藤清正にお付き合いを戴きましたが、次回が最終回になります。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:浅井氏
1573年、羽柴秀吉(豊臣秀吉)は浅井長政攻めの功で織田信長から浅井氏の旧領を拝領して長浜城を造営しています。
小谷城で使われていた資材や、竹生島に密かに隠されていた材木などを見つけ出し、それらを使用し築城したといわれます。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
【加藤清正】 その39
『清正の忠義心』
清正は豊臣家に対する恩義はいささかも忘れはしないが、家の安泰ということにも神経質なまでに気を配って
いる。
江戸に広大な邸宅を営んだというのもそれです。
諸大名が江戸に広大豪華な邸宅を営むことは、徳川家に対していつまでも奉公しようとの心の表れと見て、徳
川家は喜んだので諸大名はみな邸宅経営を競ったが、清正の邸宅の見事さは当時の人々を驚かしたという。
彼の屋敷は三宅坂の現最高裁のところにあったが、玄関から表の間は全部金箔で、外周りの総長屋の軒周り
の丸瓦には金の桔梗の紋所が打ってあり、夜中でも光って見えたという。
清正の井戸(明治神宮)

また、その門は矢倉門で桁行10間余りあり、子馬ほど虎(サイとも)5匹の彫り物されて金が塗ってあったが、
それが朝日に輝いて品川沖に反射して、漁が恐れて近づかず漁師が困ったという。
名古屋城を家康が営んだ時、家康はこれを外様大名の手伝い普請にした。当時やたらに城の手伝い普請が
多かったので、直情径行の福島正則は、池田輝政が家康の娘婿であるので、不平を言った。
「こう毎年お手伝いを仰せつけられては、費用も労力も、かなわん。おとこは大御所の婿じゃ、ちと申し上げ欲
しいの」
清正はヒゲをかきなでながら、正則をたしなめた。
「これこれ、気をつけて口をきけい。そんなにお手伝いが嫌なら、国に帰って謀反の企てでもするがよいぞ」
正則はハッとして口をつぐんだという。
清正が特に申し出てこの城の天守閣を一手請負にしているのも、石引き上の巨石に自ら伊達な装束をし、片鎌
槍を杖づいて立ち、花のように着飾らした美少年を左右に数人並び立たせ、大音声に木やりを唄って引かせた
ので、人々が群集して市のように賑わったというのも、皆その狙いは一つ、徳川家の機嫌を取るためであった。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:豊臣秀頼を匿うため
熊本城本丸御殿の「昭君之間」は、豊臣家の有事に際し秀吉の子秀頼を密かに匿うために造られた部屋であるといわれ、表面上は天下人の徳川家康に恭順しながらも、秀吉への恩を忘れない清正の忠義を示しているのでしょう。
実際は藩主の居間に使われていたようです。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
清正は豊臣家に対する恩義はいささかも忘れはしないが、家の安泰ということにも神経質なまでに気を配って
いる。
江戸に広大な邸宅を営んだというのもそれです。
諸大名が江戸に広大豪華な邸宅を営むことは、徳川家に対していつまでも奉公しようとの心の表れと見て、徳
川家は喜んだので諸大名はみな邸宅経営を競ったが、清正の邸宅の見事さは当時の人々を驚かしたという。
彼の屋敷は三宅坂の現最高裁のところにあったが、玄関から表の間は全部金箔で、外周りの総長屋の軒周り
の丸瓦には金の桔梗の紋所が打ってあり、夜中でも光って見えたという。
清正の井戸(明治神宮)

また、その門は矢倉門で桁行10間余りあり、子馬ほど虎(サイとも)5匹の彫り物されて金が塗ってあったが、
それが朝日に輝いて品川沖に反射して、漁が恐れて近づかず漁師が困ったという。
名古屋城を家康が営んだ時、家康はこれを外様大名の手伝い普請にした。当時やたらに城の手伝い普請が
多かったので、直情径行の福島正則は、池田輝政が家康の娘婿であるので、不平を言った。
「こう毎年お手伝いを仰せつけられては、費用も労力も、かなわん。おとこは大御所の婿じゃ、ちと申し上げ欲
しいの」
清正はヒゲをかきなでながら、正則をたしなめた。
「これこれ、気をつけて口をきけい。そんなにお手伝いが嫌なら、国に帰って謀反の企てでもするがよいぞ」
正則はハッとして口をつぐんだという。
清正が特に申し出てこの城の天守閣を一手請負にしているのも、石引き上の巨石に自ら伊達な装束をし、片鎌
槍を杖づいて立ち、花のように着飾らした美少年を左右に数人並び立たせ、大音声に木やりを唄って引かせた
ので、人々が群集して市のように賑わったというのも、皆その狙いは一つ、徳川家の機嫌を取るためであった。
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≪前回の解答≫
正解:豊臣秀頼を匿うため
熊本城本丸御殿の「昭君之間」は、豊臣家の有事に際し秀吉の子秀頼を密かに匿うために造られた部屋であるといわれ、表面上は天下人の徳川家康に恭順しながらも、秀吉への恩を忘れない清正の忠義を示しているのでしょう。
実際は藩主の居間に使われていたようです。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>