『黒田官兵衛』 その50

『黒田官兵衛まとめ』 その2

一田舎大名の家老から身を起こし、ついには嫡子・長政にいたっては筑前50余万石の地位を得たという結果

から見れば、まさに国盗りゲームの勝利者ですが、彼には下剋上はなかったのです。そればかりか、臣である

自分を裏切った主人(小寺政職)の助命運動さえしています。

黒田官兵衛(1546-1604年)
ku.黒田官兵衛 002

官兵衛の生涯において最も不可解な部分は関ヶ原合戦の時、他に先んじて九州北部を制圧したことであり、

あわよくば石田三成に代って家康と一戦、という気配を見せたことです。

あるいは、自分がその気になれば天下だって取れるのだぞ、というところを見せたかったのかも知れません。

もし、そうだとしたら、それはそれで官兵衛の持っていた稚気のようものでしょうか。

それまで寡欲であった官兵衛が、とたんに城取りゲームを開始したのです。

とはいってもその合戦は、城は取っても血を流さないという方法で、城方も

・官兵衛に攻められたら敗ける

・官兵衛に敗けても辱ではない

・官兵衛に開城すれば全城兵の命は保証される

と信じていて、短時間で九州制圧になったのでしょう。

官兵衛は戦国時代を勝ち抜きながら、ヒューマンな人間対応の寛容さは稀有というほかはなく、官兵衛を単に

「軍師」のみで評価することは足りないということでしょう。

死に及んで長政に与えた遺訓などは時代を超えて、上に立つ者の心がけを明示していて、心にくいほどです。


官兵衛さんに一度お会いして、一献交わしてみたい気がします。

一年に渡り、黒田官兵衛にお付き合い戴きありがとうございました。



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pig 20141129


『戦国クイズ』

≪前回の解答≫ (11月23日の問題)
正解:荒木村重
官兵衛は、荒木村重を翻意させるために、有岡城に乗り込んだが土牢に幽閉されています。

≪本日の問題≫


                                     <参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
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『黒田官兵衛』 その49

『黒田官兵衛のまとめ』 その1

黒田官兵衛は「軍師」として有名ですが、軍師のイメージは策謀がつきまとってしまうものです。

この策謀家は、どちらかといえば日本人の好みに合わないのでしょうか、大河ドラマはかなり家庭的な場面を

多く取り入れていたような気がします。

日本人の多くは、成否を問わず節義に殉じた、山中鹿助のような武士に強い共感をもつ人が多いのではない

でしょうか。

黒田官兵衛(1546-1604年)
ku.黒田官兵衛

しかし、あらためて官兵衛の生涯を見ていくと、その人物の奥の深さに感動を覚えたりもします。

官兵衛の生涯を通覧して感じるのは、志の高さでしょう。

播州の田舎大名の一家老から天下の情勢を省察して、近隣がどちらかといえば毛利家に傾いていた時、信長

の天下流布に賭けたことは、信長の志の高さに共感したからであると同時に、官兵衛の歴史を洞察する先見

性にあったのでしょう。

しかも、官兵衛の先見性は、信長になかったヒューマニズムが含まれます。

官兵衛はまぎれもないキリシタン大名でしたが、黒田家がそのうち鎖国時代に入るにおよんで官兵衛のその部

分の証拠を隠滅してしまったらしく、官兵衛の遺言により、かなりの金額が博多の協会に寄付されていますが、

その協会跡も確認ができないのです。

「まぎれもなくキリシタン大名」というのは、大友宗麟ら九州の大名がそうであったような功利性によるものでは

なく、その具体的生活面、たとえば生涯一婦を守ったことや、その領民の撫育に如実に表れています。

戦争においてはプロ中のプロでありながら、血を見ることが嫌いで、敵に対してはこれほど寛大な武将はいな

かったのでしょう。



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昨日は紅葉狩りに行ってきました。次回、記事にしたいと思います。
he.平林寺 20141122 000


『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:長生きを祝う
千秋万歳(せんずまんざい)は、長生きを祝う言葉としても使われ、浅草の浅草寺で節分会では、「鬼は外、福は内」ではなく「千秋万歳、福は内」という掛け声を用いているそうです。

≪本日の問題≫


                                    <参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>

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『黒田官兵衛』 その48

『陸賈に勝るとも劣らない如水』

如水は不運な人です。

一流中の一流の人物であり、稀世の大才を抱き運と力量さえあれば、立身出世が思うままであったはずの

戦国のさなかに生まれながら、12万2千石の小大名で終わらなければならなかったのです。

その天才ゆえに秀吉の在世中には秀吉に忌まれ、家康の時代となってからも家康に忌まれた。

秀吉や家康と時代を同じくし、やや遅れて出発したことが彼の不運であったのです。

黒田如水(1546-1604年)
ku.黒田官兵衛 002

山名禅高に対して、彼が畳を打って大言した時の胸裏の憤慨悲壮はいかばかりのものであったのでしょう。

しかし、彼が一旦俗世に望みを絶って、以降の悠々たる生活を見ると、秀吉よりも家康よりも数倍も勝った人

物であったと思わせるものがあります。

家臣の幼児らに取り囲まれて無心に遊ぶ老雄の姿を想うと、無限の味わい深い人間を感じます。

中津城 (中津川城登城記は「こちら」です。)
na.中津城 001

漢の高祖・劉邦に仕えた「陸賈(りくか)」という人物がいますが、三寸の舌先をふるって天下を周旋し、ついに

天下を統一させた攻臣の一人です。

呂太后の専権時代が始まると、さっと隠居し5人の子供に財産全部を与え、子供らに向ってこう約束したという。

「わしがそなたらの家に行ったら、そなたらはわしと従者や馬に酒食を出せい。わしは10日程で立ち去るであろ

う。もしわしが死んだら、宝剣、美人など一切はその時わしが止宿していた家のものになるということにしておこ

う。わしも度々は行かんよ。よその家のお客さんになることもあるからな。まあ、1年のうちに、一軒あたり2、3

度のものじゃろう。あまり度々会っては、お互いに新鮮感がなくなるからの」

こうして悠々自適している間に、呂氏一族の専横に対する人々の不平が高まったと見るや、陳平と仲が良くな

かった周勃を引き合わせ、クーデターを起こさせ呂氏を討って、劉氏の天下を回復しています。

この時代の中国では、非常に偉い人物はみな厄難に陥って非命しているが、陸賈は寿命をもって終わってい

ます。

福岡城天守台 (福岡城登城記は「こちら」です。)
fu.福岡城天守台

如水の偉さは、陸賈に勝るとも劣らないところだったでしょう。

「今の世にいて古人のふるまいをなすとは、そなたのことじゃな」

と、家康が嘆いたのも、この意味だったのでしょう。

1604年3月20日、伏見の藩邸で没している。享年59歳


官兵衛さんと、お別れでしたので長文になりました。 最後まで読んで戴きありがとうございます。



黒田官兵衛に1年お付き合い戴きありがとうございました。

長期に渡る記事でしたので総集編として、後2回にまとめてみたいと思います。

お付き合い頂ければ幸いです。


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pigletはクリスマスの準備に入ってます。
pig 20141115


『戦国クイズ』

≪アンケートの結果≫
1. 織田信長 0
2. 豊臣秀吉 1
3. 徳川家康 7

≪本日の問題≫


                                      <参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>

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『黒田官兵衛』その47

『己の知恵を誇示する癖』

如水の草履取の竜若という者は剛力で、下郎ながら戦場でも働きのあった者だけに、気が荒く、度々乱暴

を働いたので、ある時、如水は折檻のため縛らせて大黒柱に繋がせた。

黒田官兵衛(1546-1604年)
ku.黒田官兵衛

その翌朝、如水の侍臣等が

「いいかげん懲りたろう。詫びを言うてやろうじゃないか」

と相談している時、如水は侍臣を呼んで、切り紙を渡して言った。

「これを藍原村に持ち行き、代官に渡し、瓜を持って参るよう。竜若をつかわせよ」

やがて竜若が瓜を持って帰って来ると、如水は竜若を呼び出し、瓜を2つくれて言う。

「食え」

竜若も侍臣等も、はやご機嫌が直ったかと思っていると、竜若が食べてしまったところで、またもとのように

縛らせた。

暫くすると、縄をといて家中へ使いに出し、帰って来ると縛らせ、2、3時間経つと庭の掃除などを、また、さ

せて、また縛る。縄を解いては用事をさせ、用事させては縛りして、3日位してやっと許した。

如水の気に入りのお伽坊主が

「めずらしいお折檻、世にも希なる囚人(めしゅうど)でございましたな」

と笑いながら言うと、如水も笑っていった。

「いたずら者であるが故、凝らしめのために縛ったが、使わねば損が行く故、使った。もっとも内心は憎く思

っていぬ。縛りづめにしていては縄の跡が傷になる故、時々ゆるめるため用をさせた。ああしてゆるゆると

折檻すれば、懲りようも、ひとしお強かろうわい」


この類の如水の逸話は実に多いのですが、如水という人をよくあらわしている点で、この話は優れています。

「使わねば損が行く」

というのは、如水的表現ですが、内心はそうでないのです。

彼には己の知恵を誇示する性癖があって、ついこんな言い方をしてしまうのです。

この点が、人が彼を誤解してしまうところです。

人は彼の哀心の愛情と誠実さに気付かないで、単なる恐るべき策士、警戒すべき野心家とばかり思ってしま

うところです。

彼が秀吉に警戒されたのも、このためでしょう。



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pig 20141108のコピー



『戦国クイズ』


≪前回の解答≫ (11月4日の問題)
正解:家康が人質時代に同行した
徳川家康が今川義元への人質として駿府に赴く際に、家臣の中では最高齢者として同行しています。
1560年5月の桶狭間の戦いの後、家康に重んじられ、1563年の三河一向一揆では、酒井忠尚を始め酒井氏の多くが一向一揆に与したのに対し、忠次は家康にあくまでも従っています。

≪本日の問題≫


                                    <参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>

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『黒田官兵衛』 その46

『町の人気者』

如水の晩年は、風格があり素晴らしいものがあります。

彼は福岡城内の三の丸の小高い丘の上に、自ら望んでごく質素な館を長政に建ててもらって、召し使う者も

軽格の者4、5人と小者7人、夫人の侍女も5、6人という極めて質素な生活をしたという。

福岡城二の丸北隅櫓 (福岡城登城記は「こちら」です。)
fu.福岡城南二の丸北隅櫓 002

城下に出る時には、若党に刀を持たせ、草履取り一人召し連れているだけであった。

子供が好きであったので、時々人に小鳥や菓子を持たせて連れ、道で会う子供らに与えたので、如水の外

出姿を見ると、家中の侍どもの5~10歳くらいまでの子供らがあちこちから集まって来て、如水を取り巻いて

ぞろぞろとついて来たという。

また、子供らは館に来て

「大殿様、今日もどこぞへお出かけなされよ。お供します」

と、催促し、如水が外出しない時には、庭をほりくり返して遊んだり、座敷に上がり込んで鬼ごっこしたり、時

には障子を破ったり、ふすまに傷をつけることもあったが、如水はいつも上機嫌であったという。

外出して疲れると、貴賤を問わず道筋の家臣等の家に立ち寄り、まっすぐに奥座敷に行って

「茶を馳走せい」

といって茶を飲んで休憩した。

いつもこうであったので、そのうちに妻子なども馴れて、少しも恐れはばからず、冗談などもいうようになり、

如水が門前を通っていると聞くと、下女を出して

「お立ち寄りなされませ。ちょうどよいかげんにお湯が沸いています。お茶進ぜましょう」

と、誘うようになったという。



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『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:野面積み
浜松城は野面積みで有名です。
野面積みは自然石をそのまま積み上げる方法ですから、石の形に統一性がなく、石同士がかみ合っていません。そのため隙間や出っ張りができ、敵に登られやすいという欠点があったが排水性に優れており頑丈なのだそうです。

≪本日の問題≫


                                <参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>

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平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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