FC2ブログ

中国の覇者「毛利元就」 その3

『元就は尼子氏に属する』

一方の尼子氏は近江の佐々木氏の一族で、出雲守護代として出雲に来ていた家です。

一度、家が滅んで出雲から姿を消していましたが、経久の代にどこからか帰って来て、遺臣らを集めて家を

回復しています。

尼子経久(1458-1541年)
am.尼子経久01

この人はなかなかの豪傑で、僅かの間に非常な勢いとなり、山陰諸国はもとより山陽の諸国にかけて、その

傘下に収める大勢力となっています。

このように大勢力が対立している場合、その間に存在する群小豪族はあわれです。

どちらかに所属しなければ存立を保つことは出来ないのですが、どちらを選択するか、随分難しかったので

す。

芸州、石州、備後等の豪族らはそれぞれに利害をはかり比べて所属を決めたが、概ね石州と備後の連中は

尼子の旗風になびき、芸州は北部と東部とは尼子、西南部は大内に属しています。

吉田は中部にありますから、両勢力の境目です。

元就は尼子に所属しています。

多分、“大内氏は古い家柄だけに諸事大様であるが、尼子氏は新興の家だけに諸事辛辣猛烈である。尼子

に属しなければ、危険が目前である”

と、思案したのでしょう。



ランキングに参加しています
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

いつもありがとうございます。


sakura 20140618


『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:謀神
毛利元就は、小規模な国人領主から中国地方のほぼ全域を支配下に置くまでに勢力を拡大、中国地方の覇者となり「謀神」などと後世評されています。
彼は用意周到かつ合理的な策略及び危険を顧みない駆け引きで自軍を勝利へ導く稀代の策略家として名高いようです。

≪本日の問題≫


                                      <参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>

テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

中国の覇者「毛利元就」 その2

『元就、本家の主となる』

元就の本家は、芸州高田郡吉田庄の領主でした。

彼は次男で、吉田から少し離れた多治比に75貫の領地を分与されて猿懸城に住んでいた。

75貫で城主などというのがおかしいほどです。ごくごくの小身な田舎侍ですね。

毛利家の家紋
mo.毛利家家紋

元就が24歳の時、本家の当主・興本が死んでいます。

後には幸松丸という6歳の子供がいるだけです。

戦国の世に、当主がこういう幼弱では困るので、本家の家臣や一族内にも色々意見があったのでしょうが、

それから3年後に幸松丸が病死し、元就が本家を相続しています。

この以前に、元就は幸松丸の母の実家・高橋氏を、毛利家横領の野心があるという名目で滅ぼしています。

また幸松丸の死にも、疑えば疑えるようなところもあるという。

ともかく、元就27歳の時、毛利の本家の主となり、3千貫の所領を持つ身になったのです。

この当時、中国地方で最も強大だったのは、周防の大内氏と出雲の尼子氏でした。

大内氏は足利幕府の重臣として日・明貿易の総元締めとして勘合符を出す権利を持っていたので、富強天下

一、その城下・山口はひとり京都以西といわず、日本一の大都会でした。

応仁の乱以後、京都が荒廃したので、公家さんたちが大勢大内氏を頼って来たが、大内氏は全部これを受入

れて厚遇し、みやこを山口に遷す計画を立て、市街の整備を行ったり、住民のことばを京都風にするために、

言語教育まで行ったといいます。


ランキングに参加しています
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

いつもありがとうございます。


sa-ko 20140617


『戦国クイズ』

≪前回の解答≫(6月15日の問題)
正解:安国寺恵瓊
備中高松城主・宗治は主家である毛利家と城内の兵の命が助かるなら自分の首はいとも安いと、籠城者の命を助けるようにという嘆願書を書き、安国寺恵瓊に託したため、毛利方は軍僧の安国寺恵瓊と黒田官兵衛が和睦交渉を行っています。

≪本日の問題≫


                                       <参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>

テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

中国の覇者「毛利元就」 その1

『律儀で篤実』

孫子の「謀攻編」に「敵を知り己を知れば、百戦あやうからず」とあります。

これはスパイ活用の重要さを言ったものです。

敵を知るためにスパイが必要であることはいうまでもありませんが、己を知るためにも必要です。

強弱は相対的なものであるから、単なる反省だけでは真に自己を知るには不十分なのです。

敵をよく知り、これと己れとをじっくり比較することが必要だからです。

毛利元就(1497-1571年)
mo.毛利元就 001

戦国時代の武将で、名将といわれるほどの人は皆スパイ使用にたけていますが、最も目立つのが毛利元就

です。

元就は腹黒い人であったという。

極小身の豪族から、最後には山陰・山陽から北九州にかけて10余カ国の大領主に成り上がったのですから、

ある程度の力がつくまでは彼の行為は、ずいぶん陰険で決してお手本になるようではなかった。

そのくせ、世間の人にはいかにも篤実な印象を与えていた。

実際には律儀篤実なところがあったのかも知れません。見せかけだけで、長く人を欺くことはできませんから、

ともあれ「律儀な大将」というのが、当時の彼の評判だったのです。

陰険とか律儀とか反対概念であることは説明する必要もありませんが、古来、大事業を成し遂げた英雄豪傑

のおおかたは、左右の方向に走りたがるこの両馬を巧みに操った人なのです。

ようするに、陰険なくらい権謀的でなければならない世知がない世の中では勝負に勝てず、律儀で世の信頼

を得なければ勝利を確保することができないのです。

北条早雲もそんな人でしたが、元就もまたそうだったのです。

元就の成功は、前述の巧妙のスパイ使用と、この両頭の馬の巧みな駆法とにあったのです。


ランキングに参加しています
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

いつもありがとうございます。


sakura 20140613


『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:慶長遣欧使節
仙台藩主伊達政宗は、フランシスコ会宣教師ルイス・ソテロを正使、支倉常長を副使として、スペイン国王フェリペ3世、およびローマ教皇パウルス5世のもとに慶長遣欧使節を派遣しています。

≪本日の問題≫


                                    <参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>

テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

中国を掌中に収めた謀略家 「毛利元就」 その7

『権謀術数の生涯』

織田信長がやっと岐阜に進出した年、元就は既に中国地方10ヵ国を制覇していた。

それは戦うこと226回、「謀りごと多きは勝ち、少なき負る」と信じ、謀略、心理作戦を駆使して敵を倒す

ことで勝ち得たものであった。

戦国の群雄の中でも傑物といわれた元就。

彼は1572年、武田信玄に先立つこと1年前、郡山城で75年の生涯を閉じる。

ひたすら毛利家の行く末を案じた元就であった。

吉田郡山城
ko.吉田郡山城 001

「3人の間、露塵ほどもあしざまになりゆき候はば、はやはや滅亡とおぼしめさるべく候。」

戦国の世を生き抜くに、権謀術数を持ってした元就は、それだけに家臣さえ信じられなくなっていたらしい。


「当家をよかれと存じ候ふ者は、他国のことは申すじに能(あた)はず、当国にも一人もあるまじく候。」

謀略でのし上がった英雄は、やはり身辺に対して不信感がつきまとう訳で“「毛利家をよかれ」と思う者

は、自分も国内にも一人としていない”と告白せざるをえなかった。


英雄につきまとう孤独感が、晩年になるにほど強く身に染み出てきたのでしょう。それだけに悲壮とも言

える戦国の世の姿が躍如しています。


pigletとさくらは仲がいいです。^^ まさか、Love・loveなのでは!
pig 20111102 001

ランキングに参加しています
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村

いつも応援ありがとうございます。

『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
昨日の正解: 毛利氏と尼子氏
        一次では大内氏と毛利氏の連合軍と尼子氏の戦いとなり、大内氏が滅亡した後の第二次
        では毛利元就がこの戦いを開始し、尼子氏を滅亡させています。

≪本日の問題≫


                                    <参考文献:日本史探訪9(角川書店編)>

テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

中国を掌中に収めた謀略家 「毛利元就」 その6

『3子への戒め』

元就は、1557年11月に3人の子供たちに教訓書を書き送っています。


いくど申し候ても、毛利と申す名字の儀、末代までもすたり候はぬやうに、御心がけ肝心までにて候。

元春・隆景のこと、他名の家を続けるる事に候。しかりと雖(いえど)も、是は誠の当座の物にてこそ候。

3人の半(なか)、少しも欠け隔ても候はば、ただただ3人御滅亡と思召(おぼしめ)さるべく候。

毛利元就(1497-1571年)
mo.毛利元就 002

14ヵ条に及ぶ戒め、3人の息子たちはこれに対し、訓戒を守るとの誓書を出しています。

この手紙こそ、後の「三矢の訓」の基になっています。

元就にとって、今までは攻めであった。攻めで攻略ばかりやっていたけど、これからは今までに獲得した

身上を失わないように、守りを固めなければならない。

頼りない長男、それに引き替え有能な次男、3男たち。

この息子たちを見るとき、元就は死後に、もしも彼と同じタイプの敵が現れたなら、毛利家はひとたまりも

なく消えてしまうであろうと考えたのでしょう。

元来、元就とは、彼一流の謀略で敵の内部を分裂させ、勢力の弱まったところで撃ち滅ぼし、いささかも

情に流されない武将であったいいます。

元就は努力の人であり、世の中の動きを相対的に見た上で判断し、段階的に一歩一歩進んでいく人で

あった。

したがって、天才的に独走する性格ではなく、相対的に見るタイプなだけに、早くからその目を京都の方

に向けて天下を狙うものではなかったようです。

しかし、この協力体制の家訓が、毛利家を安泰にささえていったわけで、幕末の長州征伐の危機を切り

抜けたのも、ひとつにはその体制のお陰であったのでしょう。


さくらは耳を立てながら、ハロウィンの後片付けの手伝いです。
sakura 20111101 001

sakura 20111101 002

sakura 20111101 003

ランキングに参加しています
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村

いつも応援ありがとうございます。

『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
昨日の正解: 毛利氏と尼子氏
        第一次では大内氏と毛利氏の連合軍と尼子氏の戦いとなり、大内氏が滅亡した後の第二次
        では毛利元就がこの戦いを開始し、尼子氏を滅亡させています。

≪本日の問題≫


                                    <参考文献:日本史探訪9(角川書店編)>

テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

piglet01

Author:piglet01
Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



ランキングに参加しています

人気ブログランキングへ







20140816 郡上おどり 002-1
I LOVE 郡上おどり













最新記事
カテゴリ
FC2カウンター
リンク
月別アーカイブ
検索フォーム