中国の覇者「毛利元就」 その13
『元就は篤実人だった』
元就は篤実人として、当時名高い人であった。
それは尼子氏に属している頃は、尼子氏に対して実に篤実であり、大内氏に属している頃は大内氏に対して
篤実であったからですが、家臣や近辺の小豪族に対しても、誠に細やかな心づかいをしたという。
酒と餅を用意しておいて、その連中が来ると、その好むところに応じてもてなしたと言うのです。
元就公の墓 (吉田郡山城登城記は「こちら」です。)

また、家来が旬の花や自家製の野菜、魚や鳥などを土産に元就の所へ訪れるとすぐに対面して餅か酒のどち
らかを上機嫌で振舞った。
家来が持ってきた土産はすぐに料理をさせ、酒が飲めるかそれとも飲めないかと尋ね、もし酒が欲しいですと
答えたら「寒い中で川を渡るような行軍の時の酒の効能は言うべきでもないが、普段から酒ほど気晴らしにな
ることはない」とまずは一杯と酒を差し出し、もし下戸だと答えれば「私も下戸だ。酒を飲むと皆気が短くなり、
あることないこと言ってよくない。酒ほど悪いものはない。餅を食べてくれ」と下々に至るまで皆に同じようにあ
げていたという。
1560年代の前半より元就は度々体調を崩していたが、将軍・足利義輝は名医・曲直瀬道三を派遣して元就
の治療に当たらせている。
その効果もあったのか、元就の体調は一時持ち直したようで、1567年には最後の息子である才菊丸が誕生
している。
1571年6月14日、田郡山城において死去。死因は老衰とも食道癌とも言われる。享年75歳
毛利元就にお付き合い頂きありがとうございました。
次の戦国武将は戦国時代の三英傑のひとり、徳川家康を記事にしてみたいと思います。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:竹中半兵衛
官兵衛が村重方に寝返ったと見なした信長は、松寿丸を殺す命令を下します。
ところが父の親友で、同じく秀吉の軍師・竹中半兵衛が密かに竹中氏の居城・岩手山城にてこれをかくまい、信長に処刑したと虚偽の報告をするという機転で一命を助けられています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
元就は篤実人として、当時名高い人であった。
それは尼子氏に属している頃は、尼子氏に対して実に篤実であり、大内氏に属している頃は大内氏に対して
篤実であったからですが、家臣や近辺の小豪族に対しても、誠に細やかな心づかいをしたという。
酒と餅を用意しておいて、その連中が来ると、その好むところに応じてもてなしたと言うのです。
元就公の墓 (吉田郡山城登城記は「こちら」です。)

また、家来が旬の花や自家製の野菜、魚や鳥などを土産に元就の所へ訪れるとすぐに対面して餅か酒のどち
らかを上機嫌で振舞った。
家来が持ってきた土産はすぐに料理をさせ、酒が飲めるかそれとも飲めないかと尋ね、もし酒が欲しいですと
答えたら「寒い中で川を渡るような行軍の時の酒の効能は言うべきでもないが、普段から酒ほど気晴らしにな
ることはない」とまずは一杯と酒を差し出し、もし下戸だと答えれば「私も下戸だ。酒を飲むと皆気が短くなり、
あることないこと言ってよくない。酒ほど悪いものはない。餅を食べてくれ」と下々に至るまで皆に同じようにあ
げていたという。
1560年代の前半より元就は度々体調を崩していたが、将軍・足利義輝は名医・曲直瀬道三を派遣して元就
の治療に当たらせている。
その効果もあったのか、元就の体調は一時持ち直したようで、1567年には最後の息子である才菊丸が誕生
している。
1571年6月14日、田郡山城において死去。死因は老衰とも食道癌とも言われる。享年75歳
毛利元就にお付き合い頂きありがとうございました。
次の戦国武将は戦国時代の三英傑のひとり、徳川家康を記事にしてみたいと思います。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:竹中半兵衛
官兵衛が村重方に寝返ったと見なした信長は、松寿丸を殺す命令を下します。
ところが父の親友で、同じく秀吉の軍師・竹中半兵衛が密かに竹中氏の居城・岩手山城にてこれをかくまい、信長に処刑したと虚偽の報告をするという機転で一命を助けられています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
スポンサーサイト
中国の覇者「毛利元就」 その12
『第二次月山富田城の戦い』
1556年以降、尼子氏当主・尼子晴久によって山吹城を攻略され石見銀山の支配権を失っていたが、1560
年にその尼子晴久が死去する。
晴久急死による動揺もあり、晴久の嫡男・尼子義久は足利義輝に和睦を願うも、この和睦を元就は一方的に
破棄し、1562年より出雲侵攻を開始。(第二次月山富田城の戦い)
月山富田城 (月山富田城登場記は「こちら」です。)

これに対して晴久の跡を継いだ尼子義久は、難攻不落の名城・月山富田城に籠城し尼子十旗と呼ばれる防
衛網で毛利軍を迎え撃った。
1563年、元就は尼子氏の支城である白鹿城を攻略。ついに月山富田城を包囲して兵糧攻めに持ち込む事
に成功する。
しかし、9月1日に嫡男・隆元は尼子攻めに参加する途上、毛利氏傘下の国人である備後の和智誠春からの
饗応の直後、安芸の佐々部で急死した。
元就は大内氏に従って敗北を喫した第一次月山富田城攻めの戦訓を活かし、無理な攻城はせず、策略を張
り巡らした。
当初は兵士の降伏を許さず、投降した兵を皆殺しにして見せしめとした。
これは城内の食料を早々に消耗させようという計略であった。それと平行して尼子軍の内部崩壊を誘うべく離
間策を巡らせた。
これにより疑心暗鬼となった義久は、重臣である宇山久兼を自らの手で殺害。
義久は信望を損ない、尼子軍の崩壊は加速してしまう。
この段階に至って元就は、逆に粥を炊き出して城内の兵士の降伏を誘ったところ、投降者が続出した。
1566年11月、尼子軍は籠城を継続できなくなり、義久は降伏を余儀なくされた。
こうして元就は一代にして、中国地方8ヵ国を支配する大大名にのし上がったのです。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:大寧寺の変
大寧寺の変は1551年8月に起こった政変で、周防山口の戦国大名・大内義隆が家臣の陶隆房(のちの晴賢)の謀反により、自害させられた政変です。
この事件は、後年の本能寺の変と並ぶ下克上の事例ともいわれます。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
1556年以降、尼子氏当主・尼子晴久によって山吹城を攻略され石見銀山の支配権を失っていたが、1560
年にその尼子晴久が死去する。
晴久急死による動揺もあり、晴久の嫡男・尼子義久は足利義輝に和睦を願うも、この和睦を元就は一方的に
破棄し、1562年より出雲侵攻を開始。(第二次月山富田城の戦い)
月山富田城 (月山富田城登場記は「こちら」です。)

これに対して晴久の跡を継いだ尼子義久は、難攻不落の名城・月山富田城に籠城し尼子十旗と呼ばれる防
衛網で毛利軍を迎え撃った。
1563年、元就は尼子氏の支城である白鹿城を攻略。ついに月山富田城を包囲して兵糧攻めに持ち込む事
に成功する。
しかし、9月1日に嫡男・隆元は尼子攻めに参加する途上、毛利氏傘下の国人である備後の和智誠春からの
饗応の直後、安芸の佐々部で急死した。
元就は大内氏に従って敗北を喫した第一次月山富田城攻めの戦訓を活かし、無理な攻城はせず、策略を張
り巡らした。
当初は兵士の降伏を許さず、投降した兵を皆殺しにして見せしめとした。
これは城内の食料を早々に消耗させようという計略であった。それと平行して尼子軍の内部崩壊を誘うべく離
間策を巡らせた。
これにより疑心暗鬼となった義久は、重臣である宇山久兼を自らの手で殺害。
義久は信望を損ない、尼子軍の崩壊は加速してしまう。
この段階に至って元就は、逆に粥を炊き出して城内の兵士の降伏を誘ったところ、投降者が続出した。
1566年11月、尼子軍は籠城を継続できなくなり、義久は降伏を余儀なくされた。
こうして元就は一代にして、中国地方8ヵ国を支配する大大名にのし上がったのです。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:大寧寺の変
大寧寺の変は1551年8月に起こった政変で、周防山口の戦国大名・大内義隆が家臣の陶隆房(のちの晴賢)の謀反により、自害させられた政変です。
この事件は、後年の本能寺の変と並ぶ下克上の事例ともいわれます。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
中国の覇者「毛利元就」 その11
『厳島合戦』
江良は元就が恐ろしき敵であることを知っているので、その頃しきりに陶に、元就と争うべきでない。籠絡して
味方になるべきだと説いていたので、慶安の報告を聞いた陶隆房はすっかり江良の裏切説を信じて、討手を
遣わして江良父子を殺した。
厳島神社 (厳島参拝記は「こちら」です。)

陶が動員できる大内軍3万以上に対して、当時の毛利軍の最大動員兵力は4~5千であった。
正面から戦えば、毛利氏に勝算はない。
元就は、敵は大軍、味方は貧勢であるので、陶軍を狭い厳島に誘い出すことを考え、厳島に城を築き、わざと
「厳島に城を築いたのは、わが生涯の過ちであった。もし敵がこの島を占領すれば、海上輸送の途を絶ち切ら
れる。しまった、しまった」
と流言を流す。
これに引っかかった陶は、自身が大軍を率いて交通と経済の要衝である厳島に築かれた毛利氏の宮尾城を
攻略すべく、厳島に上陸した。
しかし、厳島周辺の制海権を持つ村上水軍が毛利方についたこともあり、陶晴賢は自刃。
毛利軍は厳島から引き上げて対岸の桜尾城に凱旋し、ここで晴賢の首実検も行ない、元就は主君を討った
逆臣であるとして晴賢の首を鞭で3度叩いたという。
この戦いでの陶軍の死者は4,700人にのぼったともいわれる壮絶なもので、戦後、元就は血で汚れた厳島
神社の社殿を洗い流して清めさせ、島内の血が染み込んだ部分の土を削り取らせたという。
この後、大内氏はその勢力を大きく弱め、衰退の一途を辿っていくことになる
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

『戦国クイズ』
≪前回の解答≫ (7月6日の問題)
正解:秀吉が破却した
秀吉は、関白職を養子の秀次に譲り聚楽第は秀次の邸宅となっていましたが、秀次は秀吉に謀反の疑いをかけられ、1595年7月に高野山に追放され切腹しています。
秀次の居城であった聚楽第も翌8月以降、徹底的に破却しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
江良は元就が恐ろしき敵であることを知っているので、その頃しきりに陶に、元就と争うべきでない。籠絡して
味方になるべきだと説いていたので、慶安の報告を聞いた陶隆房はすっかり江良の裏切説を信じて、討手を
遣わして江良父子を殺した。
厳島神社 (厳島参拝記は「こちら」です。)

陶が動員できる大内軍3万以上に対して、当時の毛利軍の最大動員兵力は4~5千であった。
正面から戦えば、毛利氏に勝算はない。
元就は、敵は大軍、味方は貧勢であるので、陶軍を狭い厳島に誘い出すことを考え、厳島に城を築き、わざと
「厳島に城を築いたのは、わが生涯の過ちであった。もし敵がこの島を占領すれば、海上輸送の途を絶ち切ら
れる。しまった、しまった」
と流言を流す。
これに引っかかった陶は、自身が大軍を率いて交通と経済の要衝である厳島に築かれた毛利氏の宮尾城を
攻略すべく、厳島に上陸した。
しかし、厳島周辺の制海権を持つ村上水軍が毛利方についたこともあり、陶晴賢は自刃。
毛利軍は厳島から引き上げて対岸の桜尾城に凱旋し、ここで晴賢の首実検も行ない、元就は主君を討った
逆臣であるとして晴賢の首を鞭で3度叩いたという。
この戦いでの陶軍の死者は4,700人にのぼったともいわれる壮絶なもので、戦後、元就は血で汚れた厳島
神社の社殿を洗い流して清めさせ、島内の血が染み込んだ部分の土を削り取らせたという。
この後、大内氏はその勢力を大きく弱め、衰退の一途を辿っていくことになる
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

『戦国クイズ』
≪前回の解答≫ (7月6日の問題)
正解:秀吉が破却した
秀吉は、関白職を養子の秀次に譲り聚楽第は秀次の邸宅となっていましたが、秀次は秀吉に謀反の疑いをかけられ、1595年7月に高野山に追放され切腹しています。
秀次の居城であった聚楽第も翌8月以降、徹底的に破却しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
中国の覇者「毛利元就」 その10
『ばかし合い』
陶の驚きは言うまでもなく、周防、芸州の国境方面を堅く固めておいて、天野入道慶安という者をスパイとし
て元就のもとに送っている。
慶安は従者も連れないみすぼらしい姿で、元就のもとに来て涙ながらに言った。
「拙者は以前から、あなた様と懇意を願っていましたので、このほど讒言(ざんげん)を申す者があり、無実の
罪をこうむって追放されて、行きどころなきままにこうして参りました」
毛利元就(1497-1571年)

元就はスパイ戦術の名手です。
ははぁ~、と直ぐにわかったが
「年頃のよしみを忘れんで来てくれたのはうれしいぞ。引き受けた。やがて知行も遣わそう」
と、留めおき、時々召し出しては打ち解けて語り。そのうち、陶方の様子など聞くと、慶安は
「殿様はこの頃のお戦さぶりに、陶はすっかり気落ちし、味方も少なくなりつつあります。弱みを見せじと近々
に岩国に出て、横山に陣取ることにしていますが、これは見せかけのだけのことで、内心は弱り切っている
のですから、出たと聞かれたなら、早速ご出馬あるがようございます。ご退治はお手間に入りますまい。拙者
もご威光を持って恨みを散ずることが出来て、ありがたいところです」
元就はうなずいて
「いかにも、そちの申す通りだが、少々都合がある。その方は別心なき者ゆえ、教えてとらすが、実は琥珀院
城(岩国)の江良興房が内通を申し送っている。わしは江良の知らせ次第に出馬をするつもりでいるのだが、
その江良の便りがこの頃とんとない。ひょっとして密約が露見したのではないかと心配している。見るがよい。
それが江良の起請文じゃ」
と、かねて用意しておいた偽筆の江良の起請文を見せ、一体、江良はなかなかの智勇の士なので、これを片
付けたいと、かねてから元就は思っていたのです。巧妙な偽筆ですから、見事に慶安はこれに引っかかった。
「事なったら、恩賞は望みに任せるぞ」
元就は添書を書き与えた。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:村上水軍
陶晴賢が厳島から脱出するのを阻止するため、伊予の村上武吉・村上通康ら村上水軍に援軍め、約300艘が毛利軍に加わっています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
陶の驚きは言うまでもなく、周防、芸州の国境方面を堅く固めておいて、天野入道慶安という者をスパイとし
て元就のもとに送っている。
慶安は従者も連れないみすぼらしい姿で、元就のもとに来て涙ながらに言った。
「拙者は以前から、あなた様と懇意を願っていましたので、このほど讒言(ざんげん)を申す者があり、無実の
罪をこうむって追放されて、行きどころなきままにこうして参りました」
毛利元就(1497-1571年)

元就はスパイ戦術の名手です。
ははぁ~、と直ぐにわかったが
「年頃のよしみを忘れんで来てくれたのはうれしいぞ。引き受けた。やがて知行も遣わそう」
と、留めおき、時々召し出しては打ち解けて語り。そのうち、陶方の様子など聞くと、慶安は
「殿様はこの頃のお戦さぶりに、陶はすっかり気落ちし、味方も少なくなりつつあります。弱みを見せじと近々
に岩国に出て、横山に陣取ることにしていますが、これは見せかけのだけのことで、内心は弱り切っている
のですから、出たと聞かれたなら、早速ご出馬あるがようございます。ご退治はお手間に入りますまい。拙者
もご威光を持って恨みを散ずることが出来て、ありがたいところです」
元就はうなずいて
「いかにも、そちの申す通りだが、少々都合がある。その方は別心なき者ゆえ、教えてとらすが、実は琥珀院
城(岩国)の江良興房が内通を申し送っている。わしは江良の知らせ次第に出馬をするつもりでいるのだが、
その江良の便りがこの頃とんとない。ひょっとして密約が露見したのではないかと心配している。見るがよい。
それが江良の起請文じゃ」
と、かねて用意しておいた偽筆の江良の起請文を見せ、一体、江良はなかなかの智勇の士なので、これを片
付けたいと、かねてから元就は思っていたのです。巧妙な偽筆ですから、見事に慶安はこれに引っかかった。
「事なったら、恩賞は望みに任せるぞ」
元就は添書を書き与えた。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:村上水軍
陶晴賢が厳島から脱出するのを阻止するため、伊予の村上武吉・村上通康ら村上水軍に援軍め、約300艘が毛利軍に加わっています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
中国の覇者「毛利元就」 その9
『主家殺しの陶晴賢』
元就は大内氏に属して、その存在を大きくしていったのですが、陶晴賢の逆心によって大内義隆が殺された
のは1543年9月1日、元就55歳の時であった。
三本松城(津和野城の旧名)*津和野城は6月30日に登城しましたが、まだ記事にできていません。

陶は、義隆の姉が豊後の大友家に嫁した生んだ義長(大友宗麟の弟)を迎えて、大内家の当主として立てて
いたが、一切の権力が陶にあったことはいうまでもありません。
元就はこの事変に際して、非常に陶の不忠を怒った。ということになっていますが、形に表れるところでは、万
事、陶の指示を仰いで、各地の戦に出て、おおいに功績を立てています。
3年ほどが経ち、アンチ陶派である石州津和野の三本松城主・吉見正頼と密使を交換して、反陶の兵を挙げ
ることになった。
「吉見が石見方面に事を起こせば、必ず陶は石見に出兵するであろうから、元就は芸州方面で挙兵し、陶を
して進退を迷わせるという策」
この策に従って、元就は長子・隆元、次男・元春、3男・隆景を率いて、厳島の神領である草津、五日市、二十
日市のあたりに兵を出して、陶方が驚いて繰り出した兵を一戦に撃破し、付近の城々を占拠しています。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。
十姉妹の「まろ」は、餌箱で休むようになりました。

『戦国クイズ』
≪前回の解答≫ (6月29日の問題)
正解:民間企業
中津城は奥平家子孫が所有されていましたが、維持が困難であるとの理由で2007年に売却され、現在は福祉事業を営む民間企業が所有しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
元就は大内氏に属して、その存在を大きくしていったのですが、陶晴賢の逆心によって大内義隆が殺された
のは1543年9月1日、元就55歳の時であった。
三本松城(津和野城の旧名)*津和野城は6月30日に登城しましたが、まだ記事にできていません。

陶は、義隆の姉が豊後の大友家に嫁した生んだ義長(大友宗麟の弟)を迎えて、大内家の当主として立てて
いたが、一切の権力が陶にあったことはいうまでもありません。
元就はこの事変に際して、非常に陶の不忠を怒った。ということになっていますが、形に表れるところでは、万
事、陶の指示を仰いで、各地の戦に出て、おおいに功績を立てています。
3年ほどが経ち、アンチ陶派である石州津和野の三本松城主・吉見正頼と密使を交換して、反陶の兵を挙げ
ることになった。
「吉見が石見方面に事を起こせば、必ず陶は石見に出兵するであろうから、元就は芸州方面で挙兵し、陶を
して進退を迷わせるという策」
この策に従って、元就は長子・隆元、次男・元春、3男・隆景を率いて、厳島の神領である草津、五日市、二十
日市のあたりに兵を出して、陶方が驚いて繰り出した兵を一戦に撃破し、付近の城々を占拠しています。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。
十姉妹の「まろ」は、餌箱で休むようになりました。

『戦国クイズ』
≪前回の解答≫ (6月29日の問題)
正解:民間企業
中津城は奥平家子孫が所有されていましたが、維持が困難であるとの理由で2007年に売却され、現在は福祉事業を営む民間企業が所有しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>