日本百名城17 石造りの山城・金山城
「幾多の戦乱を切り抜けた巨大山城・金山城」
足利学校を見た後、2度目の登城になりますが、関東では数少ない石垣の城「新田金山城」に登城しました。
金山城は、群馬県太田市のほぼ中央にそびえる金山(標高235.8m)のほぼ全体が金山城あり、現在は、
本丸跡とされている地点に新田神社があります。
西方は一段低くなっており「日ノ池」「月ノ池」がある。西南には二の丸跡、三の丸跡と呼ばれる曲輪が残り、
これら曲輪につながる尾根群には堀切が設けられています。
金山城は1469年に、新田一族であった岩松家純によって築城され、以降、1528年に由良成繁・国繁親子、
1584年には北条氏と主は変わったが、その間、10数回もの攻撃を受けましたが、金山城は一度も城の中枢
部に攻め込まれず、その守りの堅さを誇り、関東七名城の一つとされます。
しかし、1590年豊臣秀吉の小田原征伐の際攻撃を受けて落城、廃城となっています。
【金山城碑】
駐車場のある西城から一旦下ると、金山城の碑があります。
ここから復元された金山城散策が始まります。

【物見台下虎口】
ここから石垣の始まりです。

【物見台下岩盤堀切】
物見台の下の堀切は、まさに「岩盤堀切」です。深さ5m、幅4m程あります。
この山は全山ほとんど岩でできているので、こうして山上を掘っていけばいくらでも石材は供給できたのでしょう。

【月ノ池】
馬場下曲輪から実城地区に向かって進むと、直径4m程の月ノ池がある。
こんな岩山の中に湧水地点があるということそのものが不思議です。

【大手虎口】
石垣が完全復元されて、ここが中世城郭であることを考えると、この石垣はホント?という感じですが、これは発掘調査結果に基づいて再現されたものですから、近世よりも以前から、このような石垣が実際にあったということは間違いないのでしょう。
城塁も、水路も、石段も石垣でしっかりと固めています。
右は城内から見下ろした写真。

【井戸】
城内には大きな2つの池があるのに、さらに井戸が2ヶ所もある。
しかも、この井戸は地表4~5mで、現在も生きています。この山の山頂近くに湧水点が豊富にあるのでしょう。

【建物】
井戸の脇には、礎石に基づいて復元された建物があります。

【日ノ池】
実城の脇にある直径6m程の日の池。
公園化整備で新たに造られた池と思える池ですが、あくまでもこれは復元の池です。
ここにも井戸があります。

金山城は「山城」という種類の城です。急峻な斜面や岩盤を巧みに利用し、柵を巡らせたり、土を掘って
土塁を築いたり、岩盤を削って堀を掘ったり、石を積んで石垣を造るなどしています。
つまり、金山全体の自然地形を利用しながら「巨大な要塞」を作り上げ、外敵の侵攻を防いだのです。
【金山城模型】

【日本百名城の碑】

平成7年から、金山城の復元整備が行われています。
復元された姿を見ると、この城がどうして長い間、敵の攻撃を防ぐことができたのか、そのな堅固さを
体感することができます。

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いつも応援ありがとうございます。
『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:栃木県
足利学校は、下野国足利庄(現・栃木県足利市)にありました。
≪本日の問題≫
<参考文献:太田市HP、現地案内板>
足利学校を見た後、2度目の登城になりますが、関東では数少ない石垣の城「新田金山城」に登城しました。
金山城は、群馬県太田市のほぼ中央にそびえる金山(標高235.8m)のほぼ全体が金山城あり、現在は、
本丸跡とされている地点に新田神社があります。
西方は一段低くなっており「日ノ池」「月ノ池」がある。西南には二の丸跡、三の丸跡と呼ばれる曲輪が残り、
これら曲輪につながる尾根群には堀切が設けられています。
金山城は1469年に、新田一族であった岩松家純によって築城され、以降、1528年に由良成繁・国繁親子、
1584年には北条氏と主は変わったが、その間、10数回もの攻撃を受けましたが、金山城は一度も城の中枢
部に攻め込まれず、その守りの堅さを誇り、関東七名城の一つとされます。
しかし、1590年豊臣秀吉の小田原征伐の際攻撃を受けて落城、廃城となっています。
【金山城碑】
駐車場のある西城から一旦下ると、金山城の碑があります。
ここから復元された金山城散策が始まります。

【物見台下虎口】
ここから石垣の始まりです。

【物見台下岩盤堀切】
物見台の下の堀切は、まさに「岩盤堀切」です。深さ5m、幅4m程あります。
この山は全山ほとんど岩でできているので、こうして山上を掘っていけばいくらでも石材は供給できたのでしょう。

【月ノ池】
馬場下曲輪から実城地区に向かって進むと、直径4m程の月ノ池がある。
こんな岩山の中に湧水地点があるということそのものが不思議です。

【大手虎口】
石垣が完全復元されて、ここが中世城郭であることを考えると、この石垣はホント?という感じですが、これは発掘調査結果に基づいて再現されたものですから、近世よりも以前から、このような石垣が実際にあったということは間違いないのでしょう。
城塁も、水路も、石段も石垣でしっかりと固めています。
右は城内から見下ろした写真。


【井戸】
城内には大きな2つの池があるのに、さらに井戸が2ヶ所もある。
しかも、この井戸は地表4~5mで、現在も生きています。この山の山頂近くに湧水点が豊富にあるのでしょう。

【建物】
井戸の脇には、礎石に基づいて復元された建物があります。

【日ノ池】
実城の脇にある直径6m程の日の池。
公園化整備で新たに造られた池と思える池ですが、あくまでもこれは復元の池です。
ここにも井戸があります。

金山城は「山城」という種類の城です。急峻な斜面や岩盤を巧みに利用し、柵を巡らせたり、土を掘って
土塁を築いたり、岩盤を削って堀を掘ったり、石を積んで石垣を造るなどしています。
つまり、金山全体の自然地形を利用しながら「巨大な要塞」を作り上げ、外敵の侵攻を防いだのです。
【金山城模型】

【日本百名城の碑】

平成7年から、金山城の復元整備が行われています。
復元された姿を見ると、この城がどうして長い間、敵の攻撃を防ぐことができたのか、そのな堅固さを
体感することができます。

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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:栃木県
足利学校は、下野国足利庄(現・栃木県足利市)にありました。
≪本日の問題≫
<参考文献:太田市HP、現地案内板>
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百名城17 金山城
幾多の戦乱を切り抜けた 巨大山城
『石垣や大手虎口などが復元整備され 石造の山城がよみがえる』
武田氏 上杉氏 後北条氏を撃退し 堅城を証明
駐車場まで車で行くと 10分程度で登城できます
石垣や大手虎口などが復元整備され 石造りの山城が蘇っています
武田氏や上杉氏を撃退した 堅城は見所が満載です
スタンプは 城内の休憩所に 放置状態で設置されています
復元整備された 大手虎口

馬場下通路

<クリックで拡大します>
大手虎口南大手曲輪の井戸

<クリックで拡大します>
百名城の碑

<クリックで拡大します>
眺望も良いです♪(大田市街)

<クリックで拡大します>
登城日:平成21年10月11日


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石垣や大手虎口などが復元整備され 石造りの山城が蘇っています
武田氏や上杉氏を撃退した 堅城は見所が満載です
スタンプは 城内の休憩所に 放置状態で設置されています
復元整備された 大手虎口

馬場下通路

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大手虎口南大手曲輪の井戸

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百名城の碑

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眺望も良いです♪(大田市街)

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登城日:平成21年10月11日


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