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将軍が亡くなったら、大奥の側室は?

『将軍が亡くなったら、大奥の側室たちはどうなった?』

徳川将軍が逝去すると、将軍を生前お相手した側室たちは、髪を下ろして棺に毛髪を供えたという。

その後、彼女たちは、それぞれ将軍の位牌を貰って「桜田御用屋敷」に入り、そこで余生を過ごした。

江戸城天守台から見る大奥跡
ed.江戸城 20110306 022

「桜田御用屋敷」は「比丘尼(びくに)屋敷」と呼ばれ、そこでの生活は厳格を極めたという。

衣食住に不自由はなかったものの、朝は将軍の位牌に向って経を唱え、その後は就寝まで古参の尼の監視

下で禁足の一日を過ごした。

外出が公認されるのは正月10日の年賀の登城、御台所のご機嫌伺い、将軍の命日の参拝のみで、物見遊

山は許されなかった。

それ以外には、古参の尼から手渡される「御門切手」がなければ外出はできず、しかも切手は2枚だったの

で、順番を待って交代で外出しなければならなかった。

彼女らがこのような軟禁生活を強いられたには、それなりの理由があったのです。

これはいつなんどき「天一坊事件」のような御落胤事件が起こらないとも限らなかったからです。

この事件は、1728年品川の常楽院に寄宿していた天一坊なる者が、8代将軍吉宗の御落胤と詐称し、時の

町奉行・大岡越前忠相に見破られて、処刑されたという事件です。

つまり落胤を詐称する事件は現実に起こっていたのです。

大奥跡から江戸城天守台を見るpiglet
ed.江戸城 20110306 019

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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
正解:前田慶次道中日記
家康への謝罪の上洛から帰路、1601年10月15日に京都を発ってから11月19日に米沢へ着くまでを記した道中日記は、「前田慶次道中日記」(市立米沢図書館蔵)として文中には本人が詠んだ俳句・和歌なども挿入しつつ、道中の風俗を詳しく書き残しています。

≪本日の問題≫


                             <参考文献:戦国武将への大質問(歴史の謎研究会編)>
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テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

武士のマイホームはうさぎ小屋?

『武士のマイホームはうさぎ小屋のように小さかった?』

戦国時代の家の建て方は、なによりも万事実用的でした。

上級武士の従者であれば、その武士の門の脇が長屋になっていて、そこに住んだ。

城に勤める場合は、城の近くに棟割長屋があって、そこに住んでいた。この住宅は板の間と土間がある程

度で、こんなところに徒歩侍は暮らしていたのです。

馬に乗る下級武士の場合、まず馬小屋が必要になります。武士にとってなによりも大切な馬は、まさに家

族同様、同じ家の中でともに暮らしていた。

武家屋敷
bu.武家屋敷

気になる敷地面積は、上級武士で1000坪以上、中級武士で300~500坪、下級武士でさえ150坪程度。

これは、ゆったりとした広さで、現代に生きる私たちは羨ましい限りですね。

武士の家を訪ねると、まず門が出迎える。立派なものでは長屋門、やや簡素になって四足門、腕木門が出

迎える。

この門に続くのが板塀であったり、生垣であった。生垣にも万事物資不足した戦国の世には、実のなる木を

植えることが多かったという。

屋根の方は、藁葺き、茅葺き、板葺きであり、農家と変わらない簡素なものであった。この時代、陶土を形づ

くり、大量の薪を使って焼いてつくる瓦葺は、大変贅沢品だったのです。

このような建物でも玄関や客間は、なによりもきちんとすることが求められ、客人には礼を尽くしてもてなす

のが武士であった。

そして武士として不意打ちされても大丈夫なように、玄関や縁側の幅を広く取ったりするなど、実戦的な家

の造りにすることも忘れなかった。

畳も贅沢品でのため、客間か主人の寝室くらいにしかない。床は板敷きが普通。

暖房は居間に切った囲炉裏くらいであった。

主人の居間も、書斎、寝室、仏間などが兼用。

とにかく贅沢はできなかったのです。

台所や風呂場は剥き出しの土間、井戸は土間の近くに掘ってあると便利であった。

便所はその反対側の家の隅に設けられていた。

広い庭も実用一点張りで、ここにも実のなる木を植えたり、家庭菜園を作ったりである。

そして肥料は自給自足で調達した肥溜めから、適宜菜園に施していたのです。

夜の照明は、ロウソクなど贅沢品に手が出る筈もなく、山吹の芯などを灯心にして受け皿で燃やし、それで

明かりを取っていた。

高級な油を使えるのは上級武士の家だけで、一般の中級武士、下級武士は樹脂を多く含んだ松を燃やして

明かりとしていた。

これも事欠くことが普通であるから、結局早寝早起き、貧乏武士の家では知らぬうちに子沢山ということに

なったのです。

現代の少子化対策に、夜間は停電というのはどうなのでしょうか。

sa-ko 20121102

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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
正解:宮坂考古館
米沢市の宮坂考古館に、慶次郎所用と伝わる「紫糸威朱漆塗五枚胴具足」が展示されています。
慶次郎を訪ねての旅(10月5日)で宮坂考古館に行きましたが、残念ながら補修中でレプリカが展示されていました。

≪本日の問題≫


                             <参考文献:戦国武将への大質問(歴史の謎研究会編)>

その昔、女性の名前はどうやって付けられた?

『その昔、女性の名前はどうやって付けられた?』

最近では「子」が付く名前の女性は減っていますが、昭和年代には多かったのです。

もっと昔の女性にも「子」が付く名前の人が多かったかというと、そうではありません。

古代の高貴な女性には、「子」が付けられることはなく、古代の女性の美弥はヒメ(姫・媛・日女・毘売)が

多かったのです。

北条政子(1157-1225年)
ho.北条政子

女性の名前に「子」を付けることが多くなったのは、平安時代以降です。

例えば、摂関時代の覇王・菅原道真が2世代4人の天皇に嫁がせた娘の名は、彰子・妍子・威子・嬉子

でした。

これらの「子」は、女叙位の時に付けられたもので、それ以前に女性が「○○子」の名で呼ばれることはな

かったようです。

源頼朝の妻にして北条氏最大の女傑であった北条政子の「政子」も、三位に叙せられた時に付けられた

名です。

父・時政の「政」に「子」をつけて政子と呼ばれたわけです。

しかし、彼女は幕政を取り仕切って“尼将軍”の異名をとったように、政子を名乗ったとき既に出家してい

たので、政子と呼ばれることは殆どなかったと思われます。

また、文書に署名する場合は、氏名に「女(むすめ)」をつけて藤原氏女、立花氏女などと書き、さらに何

番目かを示すために大子・中子・三子と記しています。

この場合、長女が大子、次女が中子、三女は三子です。当時は藤原氏女大子と署名すれば、それだけ

で何者か分かったわけです。

一方、平安時代の女性には実名を公表するのを避ける風習もあったので、その風習に従う女性は、高

位の女官の場合、父や夫の官職をとった候名を名乗っていたという。

例えば、平安中期の歌人・和泉式部は、式部の丞・大江雅致の娘にして和泉守・橘道貞の妻ということ

になり、女官の経験のない女性が実名を避ける場合には、藤原道綱の母・菅原孝標の女などと呼ばれた。

現代で言えば、幼稚園に通う子供のいる母親が、お互いに「○○ちゃんのママ」と呼び合っているのと良く

似ていますね。

pig 20120914

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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
昨日の正解:長谷堂城の戦い
直江兼続は長谷堂城近くの菅沢山に陣を取り、長谷堂城を包囲した。
長谷堂城は山形城からは南西約8キロのあたりに位置し、山形城防衛において最も重要な支城であった。つまり、長谷堂城が落ちれば、山形城は裸同然となるので激しい戦闘が繰り返されています。

≪本日の問題≫


                       <参考文献:いまさら聞けない長年の大疑問(歴史の謎を探る会編)>

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武者としての心得とは?

『武者としての心得とはいったいどんなもの?』

武者としての心得、つまり合戦に当たって槍一筋を携え馬にも乗らず、従者も連れず、体ひとつで突撃に

あたって功名を競う武者たちの心得こそ、戦国時代を生きた無数の男達の姿を彷彿させるものでしょう。

彼ら下級の武者は、端武者、葉武者、羽武者とも呼ばれ、雑兵ではあるが先手の足軽衆よりは格上とさ

れた者でした。

彼らは、まず何よりも身命を軽んじることを第一とし、次に命令を破ってはならない、と説かれている。

これは、いまだ戦機が熟さぬのに血気にはやって、自分の功名を求めて勝手に暴走することを戒めたも

のです。こういう抜け駆けは、しばしば全軍を危険に陥れたり、合戦の駆け引きを狂わせてしまう。

しかし、ひとたび突撃の下知がくだれば、真っ先駆けて一番槍、一番首、陣取り組み打ち分捕りに獅子

奮迅の働きをなし、命を惜しまず戦い続けるのが、端武者の本分とされた。

もうひとつは、一軍の将、あるいは武将、大名としての心得です。

こいった心得は、武将の父から子へ家長から一族、家臣へ残された数多くの教訓状、家訓、遺訓となって

残されています。

徳川家康(1543-1616年)
to.徳川家康

戦いを起すのはよくよくのことであり、自分自身や自らの一族、多くの家臣や家臣の一族、領国の民百姓、

さらに敵国の中まで責任を負うのだから、そうみだりに兵は動かせない筈です。それを忘れ、版図拡大に

熱中し、かえって自分の身や国を滅ぼした例は数かぎりない。

こういう将たる人物の器を備えていたのは、長い日本の歴史でもそんなに多くはない。主だったところでは、

源頼朝、足利尊氏、武田信玄、徳川家康などでしょう。

こういった将器を持った武将の下では、たとえ逆賊の汚名を着ても部下は生死を共にし、身代わりとなって

討ち死にするものです。

まず、武将たる者の心得として、第一に挙げられるものは、それぞれの人物を見る目を養い、家柄ではな

く、本人の実力や器量、得手不得手によって、適材を適所に配置すること。そして賞罰を正確、公正にし、

ときとしては慈悲をかけることも必要です。

また領民の暮らしや国内の状態にも絶えず配慮し、有能正直な家臣に領国内を巡視させ、人々の不満や

訴えを聞く。

また、武将が自ら身をやつして直接領国内を歩き回り、役人の不正があれば正しく刑罰に処すなど、下意

上達を心がける。

また合戦に当たっては、敵の強さや弱点、敵の行動パターン、峠や大きな河といった地理上の特徴、経済

の様子など、さまざまな情報を味方に徹底させておく。

こうしておけば、往々にして不足の事態が起きる実際の作戦にあたっても、個々の軍勢が状況に応じて柔

軟に対応することができます。

勝敗では六分か七分の勝で十分とし、八分の勝ちは危うく九分、十分の大勝利は、かえって味方が大敗を

喫する下地である。という。

このように勝ち過ぎないように心がけるのは、将来良い結果を招かないことを、器の大きい武将は体験から

知っていたのです。


長野・龍岡城に行ってきました。別途、記事にしたいと思います。
ta.龍岡城 wiki


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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
昨日の正解:本多忠刻
千姫は、1616年、桑名藩主・本多忠政の嫡男・本多忠刻と結婚しています。
翌年には、本多家が播磨姫路に移封になり、姫路城に移って播磨姫君と呼ばれるようになっています。
1618年には長女・勝姫、1619年には長男・幸千代が生まれています。

≪本日の問題≫


                              <参考文献:戦国武将への大質問 歴史の謎研究会編>

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『戦国時代の忍者』

『戦国時代の忍者』

忍者の役割は敵の情報を入手したり、あるいはかく乱を行うことであり、そのためには窃盗や殺人など非合法

活動も必要であったという。

江戸時代に纏められた忍者の心得書には、

・諸芸に通じていること

・遊芸を備えていること

・反忍を禁じていること

やはりスパイならではの必要条件が書かれています。

さらに、武器を使った戦いのほか、走行能力、跳躍力、戦闘能力なども常人を超えたレベルのものを要求され

たのは当然だったのでしょう。

忍者ハットリくん
ha.ハットリくん

この忍者は、江戸時代にはすっかり定着した忍びの者ですが、戦国時代の頃は臨時雇いのような身分であっ

たため裏切りなどもあり、利用する側で十分な注意が必要であったという。

ところで、よく映画などで忍者が水面を歩たり、城壁を吸い付くように登っていく場面をみますが、忍者は本当

にそのようなことができたのでしょうか。

まず、忍者は“ぞうり”か“わらじ”を履き、大きく同じ歩調で一直線をすべるように歩くことを求められた。

歩幅が一定なのは距離の測定に必要なためで、また、その早足は驚異的なものであったそうです。

塀や壁を登る際には、“はしご”が使われています。

はしごと言っても縄と竹で作られた持ち運びができるものです。

堀などを渡る際には、竹や“むしろ”などで作った浮き船と呼ばれるものを代表に、水に浮くものであればなん

でも利用していた。いずれにしても、水上の往復が終わったら沈めるか流すかして侵入の痕跡を残さないこと

が肝心だったのです。


ニンジャといったら、こちらに行ってしまうのは、私だけでしょうか。
ka.カワサキニンジャ 02


武器としてポピュラーなのは手裏剣でしょうが、刃先にトリカブトの抽出液や破傷風菌の入った土などを塗って

いたそうですから恐ろしい武器です。

これらの武器を使いこなすには高度な技術が必要ですが、忍者は必ずしも高く評価されていなく、任務の違法

性の高さから兵法とは全く違うものだと認識され、卑怯な術と思われていたのです。

しかし、戦国期の武将は忍者を利用して情報収集を行っています。なかでも甲斐の武田家は、相見(諜報)、

見方(謀略)、目付(自軍に対する監察)という3つの職分をまとめた「三ツ者」と称する忍者の一団を常に抱

え、活用していたという。

その結果、武田信玄は「足長坊主」といわれるほど、諸国の情報に通じることができ、さらに武功を残したそう

です。

sakura 20120818 001

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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
昨日の正解:上杉景勝
慶次郎は上杉景勝が、越後から会津120万石に移封された1598年から、関ヶ原の戦いが起こった1600年までの間に上杉家に仕官し、新規召し抱え浪人の集団である組外衆筆頭として千石を受けています。

≪本日の問題≫


                             <参考文献:戦国武将への大質問(歴史の謎研究会編)>

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piglet01

Author:piglet01
Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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20140816 郡上おどり 002-1
I LOVE 郡上おどり













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