我に七難八苦を与えたまえ「山中鹿介」 その47

『鹿介は武士として無双』

鹿介は武士としては、その見事な心術といい、動きといい、無双といってよいのでしょうが、武将としては乏

しかったと思われます。

ya.山中鹿介 001

ただその精神の強靭さは、感嘆すべきものがあり、日本歴史上においても類が少ないのかも知れません。

こうした極端なねばり強さは、人生においてもしばしば不運の基になることが少なくないと思います。

尼子家の再興ということが、それほど意義のあるものであったのか、今に生きる人には疑問に思われ一種

の偏執狂的なところがあると感じます。

将器には乏しいといっても、それは一流の名将らと比較してのことであり、秀吉配下の諸将の大部分と比べ

れば、決して劣ってはいなく、彼がもし志を転じて、自分自身の運命を開くために働いたら、50万や60万石

の大名となることは易々たるものだったのかも知れません。

山陰地方で主家復興のため働いた鹿介、最後は主家の復興ではなく敵の将を倒すことになってしまいます

が、無念さが伝わってくる結末でした。


大きな勘違いをしていました。

月山富田城の山中御殿跡は、山中鹿介の御殿跡かと以前は思っていたのですが、彼は富田城に入城する

ことなく、その支城でバタバタしていただけでした。 (山中御殿:さんちゅうごてんで、ああ勘違いでした)



長い間、「我に七難八苦を与えたまえ」の山中幸盛(鹿介)にお付き合い戴き、ありがとうございました。

次の戦国武将は、「美濃のマムシ 斎藤道三」にスポットを当ててみたいと思います。


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pig 20150210


『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:山陰の麒麟児
「願わくは、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話などから国民教育の題材として戦前の教科書に採用され、山陰の麒麟児という異名を山中鹿介幸盛はとっていました。



                                      <参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
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我に七難八苦を与えたまえ「山中鹿介」 その46

『無念な鹿介』

鹿介が命をおしんだのは、吉川元春か、小早川隆景か、いずれかを斬って、尼子家のうらみを報いるため

であったが、その隙がなかった。

「周防にて5千石の知行をあてがう」

と言い渡され、西に送られることになった。

山中鹿介の墓(岡山県高梁市落合町) 
ya.山中鹿介の墓

彼は首にかけて秘蔵する「大海」の茶入りを袋に入れてかけ、荒見国行の刀を差し、最初に信長にお目見え

した時に貰った四十里鹿毛の駿馬にまたがって上月を出発して、備中甲部川(高梁川)の阿井の渡しまで来

た。

護送の者どもは、先ず鹿介の郎党2人を舟で渡した。

鹿介は河原の石に腰かけて、その舟が帰って来るのを待っていた。

すると、後ろから斬りつけられた。河原新左衛門という者であった。

「これは!」

と言いながら、鹿介は川へ飛んだ。すると福間彦左衛門という者が飛び込んで、鹿介の頭を押さえてつけた。

同時に河原も飛び込んで足を押え、福間が首を上げた。

鹿介享年34歳であった。

立原源太兵衛は助命され、毛利家は彼を石見に連れて行き家臣にしようとしたが、彼は風雨の日に脱出し

て京に上がり、蜂須賀家に身を寄せて、阿波で1613年に没しています。


阿井の渡し *備中松山城のすぐ近くです。




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pig 20150209


『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:三木城
上月城が落ちたとき、羽柴秀吉は別所長治の三木城を攻城しており2年に及ぶ兵糧攻めの末に三木城を落としています。(三木の干殺し)



                                       <参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>

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我に七難八苦を与えたまえ「山中鹿介」 その45

『百事みな蹉跌』

上月城から織田家の援軍は引き上げて行く。心細さは限りがない。

そのうち糧食も尽きてきた。もういたし方ない。

鹿介は降伏を申し送った。

毛利方では

「尼子勝久が切腹するならば、士卒は助命いたそう」

という。

尼子勝久(1553-1578年)
am.尼子勝久 01

鹿介は勝久の助命を幾度も乞うたが、毛利方は許さない。

決心した鹿介は勝久の前に出て言った。

「武運つたなく、かかる仕儀となりましたこと、誠に残念でございます。おそれ多いけれど、御自害あって

士卒の命にかわっていただきとうござる。拙者もお供すべきでござるが、思うところがござれば、暫く命を

おん貸しくだされとうござる。」

勝久はうなずき

「われらこと、世捨人として朽ち果つべき身であったに、尼子家の当主となり、一時なりとも出雲の主とし

て数万の士卒を率いて戦うことができたのは、みなそなたのお蔭じゃ。百事みな蹉跌、かようなことにな

り果てたのは、決してそなたの智謀のつたないためではない。ひとえに家運の尽き果てた故である。わし

に義理立てなどいらぬこと、そなたは命を全うし、尼子家の再興につとめてくれること、なによりの忠節で

あるぞ」

と言って、切腹して果てた。

籠城して70余日の7月3日であった。

勝久は京の東福寺でお坊さんになっているところを担ぎ出されたのでしたね。

担ぎ出された1568年から、上月城落城までの1578年の10年間は充実した時間だったのでしょう。

勝久この時、26歳。



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pig 20150208




『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:赤松政範
上月城主・赤松政範の妻は、黒田官兵衛の妻・光(てる)の姉であり、官兵衛と城主は義兄弟でした。合戦では、先陣として落城させた官兵衛の苦悩はたいへんだったでしょう。



                                     <参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>

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我に七難八苦を与えたまえ「山中鹿介」 その44

『毛利軍の上月城包囲』

尼子家再興の2度目の失敗の翌年1577年、羽柴秀吉は信長によって中国方面軍司令官を命ぜられて、

西に向かい10月23日に姫路に入り、11月27日に播磨・備前・美作3国の境目にある上月城を陥れ、

上月城には尼子勝久・鹿介・立原源太兵衛らの尼子党を入れてこれを守備させた。

秀吉は一旦、安土に凱旋したが、その不在中に播磨の形勢が一変した。

上月城 (佐用町HPよりお借りしています)
ko.上月城

上月城には、吉川元春と小早川隆景が宇喜多直家を伴い合わせて3万の兵を率いて奪還するため押し

寄せ、三木城の別所長治が敵対し始めたのです。

秀吉のもとには三木城の報が先ず入ったので、これの征伐に向っていると、上月城に毛利の大軍がつめ

かけたとの報が入ったのです。

秀吉は信長に援兵の派遣を求めておいて、荒木村重とともに1万の兵を率いて上月に向かい、4月30日

上月城の東方高倉山に陣した。

兵数が倍以上も違うため手を出すことができない。

信長は京都で詳しい報告を聞くと、上月城の放棄を命じた。

鹿介らの尼子家再興軍は、信長の中国侵攻の捨て駒になったのです。

秀吉はこれを悔しがり

「鹿介らを捨て殺しになされては、おん名のけがれであります」

と三木城攻めに来ている信長の長男・信忠に訴えたという。(豊鑑)

信長の命令は絶対命令です。

命ぜられた以上は従わばならないが、秀吉はどうにかして鹿介を助けたいと思って、やはり尼子の旧臣で

鹿介の養子である亀井新十郎を城中に侵入させて

「会図をいたすより、それに応じて突出して来られよ。われら待ち受けて収容するであろう」

と言わせた。

「われら一人ならば切り抜ける自信はござるが、士卒はそうはまいらぬ。おのれ一人助かって士卒を死なせ

ることは、拙者には出来申さぬ」

と答えた。

新十郎も仕方なく、涙をふるって別れたという。



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pig 20150206


『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:鳥取城
1580年、羽柴秀吉の鳥取城侵攻で、城主・山名豊国は鳥取城に籠城するも、重臣らが徹底抗戦を主張するなか、単身で秀吉の陣中に赴き降伏しています。



                                        <参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>

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我に七難八苦を与えたまえ「山中鹿介」 その43

『尼子家再興2度目の失敗』

信長に初めて会った翌年の1573年12月、鹿介・立原源太兵衛らは信長の後援により、尼子勝久を奉じて、

丹波路から因幡に入った。

山名豊国(1548-1626年)
ya.山名豊国

因幡の国主・山名豊国は、すでに吉川元春に人質を差し出して帰服を誓っていたが、鹿介らに対しては昨年

の恩義があるので、早速に使いを立てて

「拙者はしかじかの次第で、お味方する訳にはまいらんが、反抗の意志はござらぬ。また兵糧などは、お望み

にまかせて用立てします」

と申し送った。

尼子方は大喜びで、因幡に入国して10日経たない間に城を陥れること13城、旧恩によって馳せ参じる者が

後をたたず3千人集まった。

この勢いの良さに、山名豊国は尼子方の全面的な味方となった。

しかし、1575年の中秋に吉川元春と小早川隆景が大軍を率いてくると、また心をひるがえして毛利方となっ

た。後年、山名豊国はこうした反覆の人物であったので、家来たちに国を追い出されています。

名だたる名将の吉川元春と小早川隆景が揃って来られてはどうにもなりません。

山陰人特有の粘りをもって尼子方は反抗したが、しだいに圧迫され1576年の晩秋、ついに京都に逃れ去る

より他はなかった。

尼子家再興2度目の失敗です。

このとき鹿介32歳。



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pig 20150205


『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:珠
1578年、明智光秀の3女・珠は15歳のとき、織田信長のすすめによって細川忠興に嫁いでいます。
珠はキリスト教に入信し、ガラシャという洗礼名を受けますが、バテレン追放令が発布されていたこともあり、彼女は夫・忠興にも改宗したことを告げなかったそうです。



                                          <参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>

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平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

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*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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