美濃のマムシ 「斎藤道三」 その33
『知恵の鏡が曇った道三』
すべての人は道三にとっては、利用されるべき物でしかなかったのです。
道三は人を徹底的に利用したばかりか、一旦利用価値が失せると殺してしまい、追い払ってしまった。
恩義の観念や仁愛の観念は、彼には皆無で、彼の施政ぶりは最も残酷なものであったのです。
「小罪の者でも、道三は牛裂きの酷刑に処したり、最も酷いのは釜ゆでの刑を行うにあたって、その罪人の
女房や親兄弟に火を焚かせたことです。まったくすさまじい成敗であった」
と、信長公記で記しています。
どう考えても信仰のある人とは思えないのです。
道三、信長ゆかりの岐阜城

その彼が、念持仏を肌身離さず携えていたばかりか、幼い愛児に一族の冥福のために出家せよと言ったり、
自分の成仏のことを言ったりしている。
まったく平仄(ひょうそく)の合わない感じなのです。
考えるに、この父性愛や信仰心は、彼が老年になってから出て来たのでしょう。
それはまた、彼の衰えを示すものであったのでしょう。
信長公記に道三が義龍の本心の賢さを見抜けず、次男、3男を愛し始めたのを
「年老いて知恵の鏡も曇ったのであろうか」
と書いてあるのは、鋭い批評です。
道徳も信ぜず、愛情も信ぜず、自分の力のみを信じて世に立っている人間に力の衰えがくれば、もう立ってい
ることは出来ない。
道三はそういう人であり、その滅亡は自然なものであったと思われます。
長い間、美濃のマムシ「斎藤道三」にお付き合い戴き、ありがとうございました。
記事を書いていて少し疲れてしまいましたので、次にとり上げる戦国武将は疲れない人にしたいと思います。
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いつもありがとうございます。

『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:無能としてきた評価を改めた
道三は義龍を「無能」と評してきたが、長良川の戦いにおける義龍の采配を見て、その評価を改め、後悔したという。
≪今日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
すべての人は道三にとっては、利用されるべき物でしかなかったのです。
道三は人を徹底的に利用したばかりか、一旦利用価値が失せると殺してしまい、追い払ってしまった。
恩義の観念や仁愛の観念は、彼には皆無で、彼の施政ぶりは最も残酷なものであったのです。
「小罪の者でも、道三は牛裂きの酷刑に処したり、最も酷いのは釜ゆでの刑を行うにあたって、その罪人の
女房や親兄弟に火を焚かせたことです。まったくすさまじい成敗であった」
と、信長公記で記しています。
どう考えても信仰のある人とは思えないのです。
道三、信長ゆかりの岐阜城

その彼が、念持仏を肌身離さず携えていたばかりか、幼い愛児に一族の冥福のために出家せよと言ったり、
自分の成仏のことを言ったりしている。
まったく平仄(ひょうそく)の合わない感じなのです。
考えるに、この父性愛や信仰心は、彼が老年になってから出て来たのでしょう。
それはまた、彼の衰えを示すものであったのでしょう。
信長公記に道三が義龍の本心の賢さを見抜けず、次男、3男を愛し始めたのを
「年老いて知恵の鏡も曇ったのであろうか」
と書いてあるのは、鋭い批評です。
道徳も信ぜず、愛情も信ぜず、自分の力のみを信じて世に立っている人間に力の衰えがくれば、もう立ってい
ることは出来ない。
道三はそういう人であり、その滅亡は自然なものであったと思われます。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:無能としてきた評価を改めた
道三は義龍を「無能」と評してきたが、長良川の戦いにおける義龍の采配を見て、その評価を改め、後悔したという。
≪今日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
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美濃のマムシ 「斎藤道三」 その32
『道三の父性愛』
道三は最後の戦いの前々日、4月18日すなわち鶴山に陣取った日の夜に、日ごろ念持仏として護袋に入
れて肌身離さず携えていた仏像を、まだ幼い末子へ手紙をそえて送っています。
斎藤道三公墳

改めて申しおくる。
わしの領土である美濃の処置は、すべて織田上総介(信長)に任せて、譲り状を信長に送った。そなたは
かねての約束どおり、京に上って妙覚寺へ行って出家することを忘れないように、一人出家すれば九族天
に生ずと言われるくらい、出家は功徳のあるものだ。わしは明日いさぎよく一戦をとげて討死にするが、法
華の妙諦(みょうたい)を持しているわしは、たとえ敵刃によって五体ばらばらにされようとも、成仏すること
疑いなきものである。必ずとも案ずるな。
4月19日
児(ちご)まいる。 道三入道
この子は信長に養われて、後に斎藤新五郎という武士になったといいますが、当時10歳前後であったの
でしょう。
深芳野の子供でしょうか。
この手紙見て感じることは、道三の哀々たる父性愛です。
悪党と呼ばれ、姦雄(かんゆう)と言われてきた道三だけに、「おや!」と思えるくらい父性愛を感じるもの
です。
その信仰心もめずらしく、若い時に寺に入って名僧と呼ばれたほどに仏学を修めた彼であるが、その還俗
後の行為は、とうてい信仰のある人の振る舞いではありません。
悪魔の振る舞いといっても過言ではなかったのです。
長い間、美濃のマムシさんにお付き合い戴きましたが、次回が最終回になります。
あまりにも「義」のない戦国武将ですから、疲れてしまいました ͒˃⌂˂
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:油売り
斎藤道三は、僧侶から油商人を経てついに戦国大名にまで成り上がった人物だとされます。
≪今日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
道三は最後の戦いの前々日、4月18日すなわち鶴山に陣取った日の夜に、日ごろ念持仏として護袋に入
れて肌身離さず携えていた仏像を、まだ幼い末子へ手紙をそえて送っています。
斎藤道三公墳

改めて申しおくる。
わしの領土である美濃の処置は、すべて織田上総介(信長)に任せて、譲り状を信長に送った。そなたは
かねての約束どおり、京に上って妙覚寺へ行って出家することを忘れないように、一人出家すれば九族天
に生ずと言われるくらい、出家は功徳のあるものだ。わしは明日いさぎよく一戦をとげて討死にするが、法
華の妙諦(みょうたい)を持しているわしは、たとえ敵刃によって五体ばらばらにされようとも、成仏すること
疑いなきものである。必ずとも案ずるな。
4月19日
児(ちご)まいる。 道三入道
この子は信長に養われて、後に斎藤新五郎という武士になったといいますが、当時10歳前後であったの
でしょう。
深芳野の子供でしょうか。
この手紙見て感じることは、道三の哀々たる父性愛です。
悪党と呼ばれ、姦雄(かんゆう)と言われてきた道三だけに、「おや!」と思えるくらい父性愛を感じるもの
です。
その信仰心もめずらしく、若い時に寺に入って名僧と呼ばれたほどに仏学を修めた彼であるが、その還俗
後の行為は、とうてい信仰のある人の振る舞いではありません。
悪魔の振る舞いといっても過言ではなかったのです。
長い間、美濃のマムシさんにお付き合い戴きましたが、次回が最終回になります。
あまりにも「義」のない戦国武将ですから、疲れてしまいました ͒˃⌂˂
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:油売り
斎藤道三は、僧侶から油商人を経てついに戦国大名にまで成り上がった人物だとされます。
≪今日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
美濃のマムシ 「斎藤道三」 その31
『道三の終焉』
道三方が竹腰を討取ったので、竹腰の隊は敗退した。
「幸先がよいぞ」
道三は黒皮おどしの鎧に黒母衣をかけて、腰かけていたが母衣をゆすって笑った。
斎藤道三(1495-1556年)

味方の先鋒の敗北に歯噛みして憤った義龍は、多数の兵を引きつれ川を渡り突進していた。
両軍互いに死力を尽くして戦ったが、多勢に無勢です。
道三方が討ち負けた。
道三は戦場から一里半くらい離れた小野に退き、しばらく息を休めた後、また長良川の線に出て戦ったが、
また討ち負け、兵の大部分を失った。
日が暮れかかって来たのに乗じて、道三は城田寺村の方に落ちて行くと、気づいた義龍勢が追いかけて
来た。
その中に長井道勝という勇士がいた。この男には杉先というあだ名がついていて、戦さの時、敵陣が間近
になると、果敢な者は恐れず突進し、怯者は足がのろくなるので、隊形は常に杉なりになるのであるが、
この男はいつも杉なりの先端にいたので、このあだ名がついていた。
長井はまっしぐらに道三に追いつき、槍をふるってひと薙ぎにたたき伏せ、おどりかかった。
組み伏せて首を掻こうとしてふと見ると、日ごろ主君と仰ぎ仕えた道三だ。
刀を立てられない。
そこで起こして逃がそうとすると、小牧道家という者が駆け付けてきた。
「敵を組み伏せながら逃がすということがあるものか!」
とののしりながら、薙刀をふるって道三の足を薙いだ。
道三は両膝を斬り落とされ、ドーッと倒れる。
小牧は踊りかかって首をとった。
そうなると長井もおしくなる。首を争い鼻をそぎおとした。
道三の首が義龍のところへ持って来られると、義龍は首に向かって言ったという。
「身から出た錆でござる。拙者をお恨みあるな」
道三、享年63歳であった。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫ (4月4日の問題)
正解:船
直江兼続は上杉景勝の命により、直江景綱の娘で信綱の妻であった船の婿養子(船にとっては再婚)となり、跡取りのない直江家を継いで越後与板城主となっています。
≪今日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
道三方が竹腰を討取ったので、竹腰の隊は敗退した。
「幸先がよいぞ」
道三は黒皮おどしの鎧に黒母衣をかけて、腰かけていたが母衣をゆすって笑った。
斎藤道三(1495-1556年)

味方の先鋒の敗北に歯噛みして憤った義龍は、多数の兵を引きつれ川を渡り突進していた。
両軍互いに死力を尽くして戦ったが、多勢に無勢です。
道三方が討ち負けた。
道三は戦場から一里半くらい離れた小野に退き、しばらく息を休めた後、また長良川の線に出て戦ったが、
また討ち負け、兵の大部分を失った。
日が暮れかかって来たのに乗じて、道三は城田寺村の方に落ちて行くと、気づいた義龍勢が追いかけて
来た。
その中に長井道勝という勇士がいた。この男には杉先というあだ名がついていて、戦さの時、敵陣が間近
になると、果敢な者は恐れず突進し、怯者は足がのろくなるので、隊形は常に杉なりになるのであるが、
この男はいつも杉なりの先端にいたので、このあだ名がついていた。
長井はまっしぐらに道三に追いつき、槍をふるってひと薙ぎにたたき伏せ、おどりかかった。
組み伏せて首を掻こうとしてふと見ると、日ごろ主君と仰ぎ仕えた道三だ。
刀を立てられない。
そこで起こして逃がそうとすると、小牧道家という者が駆け付けてきた。
「敵を組み伏せながら逃がすということがあるものか!」
とののしりながら、薙刀をふるって道三の足を薙いだ。
道三は両膝を斬り落とされ、ドーッと倒れる。
小牧は踊りかかって首をとった。
そうなると長井もおしくなる。首を争い鼻をそぎおとした。
道三の首が義龍のところへ持って来られると、義龍は首に向かって言ったという。
「身から出た錆でござる。拙者をお恨みあるな」
道三、享年63歳であった。
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≪前回の解答≫ (4月4日の問題)
正解:船
直江兼続は上杉景勝の命により、直江景綱の娘で信綱の妻であった船の婿養子(船にとっては再婚)となり、跡取りのない直江家を継いで越後与板城主となっています。
≪今日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
美濃のマムシ 「斎藤道三」 その30
『信長へ援軍依頼』
幾度の戦いがあったが、戦うごとに道三の兵は人数が少なくなっていく。
これはその筈です。同等の損害を受けても、軍勢が少ない道三方の痛みが大きいのです。
年が明けて1556年4月18日、道三は山県を出て、鶴山に登って陣を布いた。
稲葉山城の北西方向の長良川

江濃記によると、稲葉山から3里ほどの距離にある高山だといいますが、地図では確認できません。
道三は有無の一戦を決心していたので、ここに出るにあたって、織田信長へ使いを出し
「お味方たまわらば、美濃国を譲り申すであろう」
と言いおくった。
欲に引かれた訳ではないのでしょうが、舅の一大事です。信長は兵を率いて「大良」というところまで来た。
(これも何処だかわかりません。)
信長公記に
「木曽川、飛騨川の舟渡しの大河を打越え、大良の戸島蔵坊構に至って御布陣」
と、あります。
稲葉山からそんなに遠く場所だと思われます。
4月20日朝8時頃、義龍の軍勢は稲葉山城を出て、長良川の河原を北西に向かって進軍して来た。
これを見ていた道三も鶴山を下り、長良川の河原の川端まで進軍した。
すると義龍方の竹腰道珍は兵6百程を密集させて川を渡り、道三の本陣めがけて突進してきた。
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piglet、また、ラビランをやるんだって!

『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:鼻
義龍軍の長井道勝が道三を生け捕りにして義龍の前へ引き据えようと突進して道三に組み付き、もみ合っていたところを小牧源太が道三の首を切り落とした。
これに忠左衛門は激怒したが、後の証拠として道三の鼻を削ぎ落としている。
≪今日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
幾度の戦いがあったが、戦うごとに道三の兵は人数が少なくなっていく。
これはその筈です。同等の損害を受けても、軍勢が少ない道三方の痛みが大きいのです。
年が明けて1556年4月18日、道三は山県を出て、鶴山に登って陣を布いた。
稲葉山城の北西方向の長良川

江濃記によると、稲葉山から3里ほどの距離にある高山だといいますが、地図では確認できません。
道三は有無の一戦を決心していたので、ここに出るにあたって、織田信長へ使いを出し
「お味方たまわらば、美濃国を譲り申すであろう」
と言いおくった。
欲に引かれた訳ではないのでしょうが、舅の一大事です。信長は兵を率いて「大良」というところまで来た。
(これも何処だかわかりません。)
信長公記に
「木曽川、飛騨川の舟渡しの大河を打越え、大良の戸島蔵坊構に至って御布陣」
と、あります。
稲葉山からそんなに遠く場所だと思われます。
4月20日朝8時頃、義龍の軍勢は稲葉山城を出て、長良川の河原を北西に向かって進軍して来た。
これを見ていた道三も鶴山を下り、長良川の河原の川端まで進軍した。
すると義龍方の竹腰道珍は兵6百程を密集させて川を渡り、道三の本陣めがけて突進してきた。
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piglet、また、ラビランをやるんだって!

『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:鼻
義龍軍の長井道勝が道三を生け捕りにして義龍の前へ引き据えようと突進して道三に組み付き、もみ合っていたところを小牧源太が道三の首を切り落とした。
これに忠左衛門は激怒したが、後の証拠として道三の鼻を削ぎ落としている。
≪今日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
美濃のマムシ 「斎藤道三」 その29
『長良川の戦い始まる』
義龍が弟たちを殺した報を受け
「しゃッ!阿呆めが、大それたことを!」
稲葉山城(岐阜城)

道三は仰天して、直ちに帰り貝を吹き立てて人数を集め、四方の町はずれから火をかけて焼きはらい、稲
葉山城を裸城にした上に、長良川を渡って山県の山中に退いた。
以前、土岐頼芸の居城であった大桑城に入ったのでしょう。
こうして山県の山中と稲葉山とで睨みあいつつ、ともに兵を領内に徴したが、義龍の方は以前から手配して
いる上に、武士らの人質はすべて稲葉山城内にいる。
義龍の方には多数の兵が集まったが、道三の方には参加する兵は少なかった。
諸日記では、義龍の兵は1万75百余人、道三の兵は27百余人であったとしている。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:1300年
斎藤父子が戦った長良川の鵜飼の歴史は1300年もあるそうです。
織田信長は「鵜匠」という地位を与え鵜飼を保護し、徳川家康はたびたび岐阜を訪れ鵜飼を見物、保護し、岐阜でつくらせた鮎鮨を江戸まで運ばせたそうです。
≪今日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
義龍が弟たちを殺した報を受け
「しゃッ!阿呆めが、大それたことを!」
稲葉山城(岐阜城)

道三は仰天して、直ちに帰り貝を吹き立てて人数を集め、四方の町はずれから火をかけて焼きはらい、稲
葉山城を裸城にした上に、長良川を渡って山県の山中に退いた。
以前、土岐頼芸の居城であった大桑城に入ったのでしょう。
こうして山県の山中と稲葉山とで睨みあいつつ、ともに兵を領内に徴したが、義龍の方は以前から手配して
いる上に、武士らの人質はすべて稲葉山城内にいる。
義龍の方には多数の兵が集まったが、道三の方には参加する兵は少なかった。
諸日記では、義龍の兵は1万75百余人、道三の兵は27百余人であったとしている。
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≪前回の解答≫
正解:1300年
斎藤父子が戦った長良川の鵜飼の歴史は1300年もあるそうです。
織田信長は「鵜匠」という地位を与え鵜飼を保護し、徳川家康はたびたび岐阜を訪れ鵜飼を見物、保護し、岐阜でつくらせた鮎鮨を江戸まで運ばせたそうです。
≪今日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>