百名城19 「川越城」
幕閣重鎮が城主となった江戸背後の拠点城郭
『枢要の地を占めた城の本丸御殿玄関と広間が現存する』
川越城は扇谷上杉持朝の家臣太田道真・道灌父子が1457年に築城したことに始まっています。
1537年小田原城を本拠とする後北条氏は川越城を攻め落とし、1546年の川越夜戦によって北武蔵野へ
の支配を磐石なものにしています。
しかし、1590年の豊臣秀吉の関東攻略に際して前田利家に攻められ落城しています。
江戸の「大手」は小田原城、「搦手」は川越城といわれるほど江戸にとっては重要な城で、江戸時代
には徳川家の譜代大名が代々城主でした。
知恵伊豆と呼ばれた松平信綱が藩主になると、何年も渡って城を拡張するとともに城下町も整備して
います。
これにより近代城郭としての川越城の縄張りが完成します。
小江戸とも呼ばれた川越は城下町の面影を今でも色濃く残し、観光のスポットとして人気が高いです。
川越城は2年前に登城していますが、当時は御殿解体改修工事中でしたので御殿は見学することができ
ませんでした。2年余りの工事が3月に終わりましたので、再登城しました。
本丸御殿
本丸御殿の玄関は規模が大きく、屋根は銅板葺の大破風となっています。

本丸御殿は日本でも数少ない現存する御殿の遺構として貴重です。御殿内部は広間など6部屋が残って
います。

家老詰所
元々は上福岡市の個人宅でしたが、現在は本丸御殿に移転復元されています。

富士見櫓台跡
富士見櫓は川越城の櫓の中では最大のもので、三重3階もしくは二重2階であったと推定されています。

中之門堀
松平信綱が藩主となり、城を大改修し近世城郭としての体裁を整えた際に、中之門堀は造られたと
考えられます。

広重と北斎の東海道五十三次と浮世絵名品展
川越城向かいの川越美術館で、4月23日から6月12日まで開催されていましたので、立寄ってきました。
お城廻りの次は、「東海道53次を歩くのか!!」という気持ちになりました。

「nosiさん」の写真
リンクしている「スローな落書き」のnosiさんの写真ブログです。
素朴な写真が好きで、遊びに行っています。
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いつも応援ありがとうございます。
『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 長尾景虎
甲斐国の戦国大名である武田信玄と越後国の戦国大名である長尾景虎(上杉謙信)との間で、
北信濃の支配権を巡って数次戦っています。
最大の激戦となった第4次の戦いが千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地である川中島を
中心に行われたことから、川中島の戦いと呼ばれています。
≪本日の問題≫
<参考文献:現地案内板>
『枢要の地を占めた城の本丸御殿玄関と広間が現存する』
川越城は扇谷上杉持朝の家臣太田道真・道灌父子が1457年に築城したことに始まっています。
1537年小田原城を本拠とする後北条氏は川越城を攻め落とし、1546年の川越夜戦によって北武蔵野へ
の支配を磐石なものにしています。
しかし、1590年の豊臣秀吉の関東攻略に際して前田利家に攻められ落城しています。
江戸の「大手」は小田原城、「搦手」は川越城といわれるほど江戸にとっては重要な城で、江戸時代
には徳川家の譜代大名が代々城主でした。
知恵伊豆と呼ばれた松平信綱が藩主になると、何年も渡って城を拡張するとともに城下町も整備して
います。
これにより近代城郭としての川越城の縄張りが完成します。
小江戸とも呼ばれた川越は城下町の面影を今でも色濃く残し、観光のスポットとして人気が高いです。
川越城は2年前に登城していますが、当時は御殿解体改修工事中でしたので御殿は見学することができ
ませんでした。2年余りの工事が3月に終わりましたので、再登城しました。
本丸御殿
本丸御殿の玄関は規模が大きく、屋根は銅板葺の大破風となっています。

本丸御殿は日本でも数少ない現存する御殿の遺構として貴重です。御殿内部は広間など6部屋が残って
います。


家老詰所
元々は上福岡市の個人宅でしたが、現在は本丸御殿に移転復元されています。


富士見櫓台跡
富士見櫓は川越城の櫓の中では最大のもので、三重3階もしくは二重2階であったと推定されています。


中之門堀
松平信綱が藩主となり、城を大改修し近世城郭としての体裁を整えた際に、中之門堀は造られたと
考えられます。


広重と北斎の東海道五十三次と浮世絵名品展
川越城向かいの川越美術館で、4月23日から6月12日まで開催されていましたので、立寄ってきました。
お城廻りの次は、「東海道53次を歩くのか!!」という気持ちになりました。

「nosiさん」の写真
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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 長尾景虎
甲斐国の戦国大名である武田信玄と越後国の戦国大名である長尾景虎(上杉謙信)との間で、
北信濃の支配権を巡って数次戦っています。
最大の激戦となった第4次の戦いが千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地である川中島を
中心に行われたことから、川中島の戦いと呼ばれています。
≪本日の問題≫
<参考文献:現地案内板>
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百名城18 鉢形城
秀吉軍とわたり合った 北武蔵の堅城
『荒川の河岸段丘に 虎口や土塁が復元される』
城跡は曲輪 空堀 馬出などが復元され 公園として整備されておりました
歴史館は今日は無料でしたので チョット得した気分になれました
内容は一見の価値ありです


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登城日:平成21年6月28日


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『荒川の河岸段丘に 虎口や土塁が復元される』
城跡は曲輪 空堀 馬出などが復元され 公園として整備されておりました
歴史館は今日は無料でしたので チョット得した気分になれました
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登城日:平成21年6月28日


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百名城19 川越城
幕閣重鎮が城主となった 江戸背後の拠点城郭
『枢要の地を占めた 城の本丸御殿玄関と広間が現存する』
川越城は扇谷上杉持朝の家臣太田道真・道灌父子が1457年に築城したことが始まりです。
江戸の「大手」は小田原城、「搦手」は川越城といわれるほど江戸にとっては重要な城で、江戸時代
には徳川家の譜代大名が代々城主になっています。
知恵伊豆と呼ばれた松平信綱が藩主になると、何年にも渡って城を拡大改修するとともに城下町の整
備しています。
これより、近世城郭としての川越城の縄張りが完成し、小江戸とも呼ばれた川越は城下町の面影を色
濃く残っています。
【主な遺構と見どころ】
◇ 本丸御殿、家老詰所、富士見櫓台跡、堀、土塁
◇ 本丸御殿は日本でも数少ない現存する御殿の遺構として貴重です。
本丸御殿の玄関は銅板葺の大唐破風屋根を備え、御殿内部には広間など6部屋が残ります。
また、本丸跡には家老詰所も移築復元しています。
23年3頃まで、保存修理中で何も見学できませんでした。
お急ぎでない方は、改修後の登城が良いかと思います。
スタンプは道路向かいの博物館で押印できます。
本丸御殿の玄関は規模が大きく、屋根は銅板葺の大唐破風屋根になっています。
画像は、工事中の覆い壁面の画像です。


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登城日:平成21年6月14日


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『枢要の地を占めた 城の本丸御殿玄関と広間が現存する』
川越城は扇谷上杉持朝の家臣太田道真・道灌父子が1457年に築城したことが始まりです。
江戸の「大手」は小田原城、「搦手」は川越城といわれるほど江戸にとっては重要な城で、江戸時代
には徳川家の譜代大名が代々城主になっています。
知恵伊豆と呼ばれた松平信綱が藩主になると、何年にも渡って城を拡大改修するとともに城下町の整
備しています。
これより、近世城郭としての川越城の縄張りが完成し、小江戸とも呼ばれた川越は城下町の面影を色
濃く残っています。
【主な遺構と見どころ】
◇ 本丸御殿、家老詰所、富士見櫓台跡、堀、土塁
◇ 本丸御殿は日本でも数少ない現存する御殿の遺構として貴重です。
本丸御殿の玄関は銅板葺の大唐破風屋根を備え、御殿内部には広間など6部屋が残ります。
また、本丸跡には家老詰所も移築復元しています。
23年3頃まで、保存修理中で何も見学できませんでした。
お急ぎでない方は、改修後の登城が良いかと思います。
スタンプは道路向かいの博物館で押印できます。
本丸御殿の玄関は規模が大きく、屋根は銅板葺の大唐破風屋根になっています。
画像は、工事中の覆い壁面の画像です。


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登城日:平成21年6月14日


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