政宗公が創建した 「大崎八幡宮」
『華麗なる安土桃山時代の御社殿』
平安時代、東夷征伐に出向いた坂上田村麻呂は、武運長久を祈念すべく武門の守護神である宇佐八幡宮
を現在の岩手県水沢市に勧請、鎮守府八幡宮を創祀。
その後、室町時代に奥州管領大崎氏はこれを自領内の現遠田郡田尻町に遷祀し守護神として篤く崇敬した
ため、世に大崎八幡宮と呼ばれました。
大崎神社
楽天イーグルスは、毎年、この神社に必勝祈願に来るそうですが、野村監督はブツブツ言いながら、この
階段を上っていたそうです。

大崎氏の滅亡後は伊達政宗公が仙台城の乾(北西)の方角にあたる現在の地に祀っています。
社殿の造営にあたっては、当時豊臣家に仕えていた当代随一の工匠が招聘され、その手に成った御社殿は
豪壮にして華麗なる桃山建築の特色が遺憾なく発揮されており、仙台62万石の総鎮守として伊達家の威風
と遷宮当時の絢爛たる息吹とを今に伝えています。

御社殿は安土桃山時代の我が国唯一の遺構として国宝建造物に指定されております。

参拝日:平成26年6月6日

楽天イーグルスの必勝祈願が奉納されています。

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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:三本の矢
元就は3人の息子(隆元・元春・隆景)を枕元に呼び寄せ、1本の矢を折るよう命じた。息子たちが難なくこれを折ると、次は3本の矢束を折るよう命じたが、息子たちは誰も折ることができなかった。
元就は1本では脆い矢も束になれば頑丈になるということを示し、3兄弟の結束を強く訴えかけた。この逸話は「三本の矢」として有名ですが、現在の通説では江戸時代の創作といわれます。
≪本日の問題≫
<参考文献:大崎神社HP>
平安時代、東夷征伐に出向いた坂上田村麻呂は、武運長久を祈念すべく武門の守護神である宇佐八幡宮
を現在の岩手県水沢市に勧請、鎮守府八幡宮を創祀。
その後、室町時代に奥州管領大崎氏はこれを自領内の現遠田郡田尻町に遷祀し守護神として篤く崇敬した
ため、世に大崎八幡宮と呼ばれました。
大崎神社
楽天イーグルスは、毎年、この神社に必勝祈願に来るそうですが、野村監督はブツブツ言いながら、この
階段を上っていたそうです。


大崎氏の滅亡後は伊達政宗公が仙台城の乾(北西)の方角にあたる現在の地に祀っています。
社殿の造営にあたっては、当時豊臣家に仕えていた当代随一の工匠が招聘され、その手に成った御社殿は
豪壮にして華麗なる桃山建築の特色が遺憾なく発揮されており、仙台62万石の総鎮守として伊達家の威風
と遷宮当時の絢爛たる息吹とを今に伝えています。

御社殿は安土桃山時代の我が国唯一の遺構として国宝建造物に指定されております。

参拝日:平成26年6月6日

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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:三本の矢
元就は3人の息子(隆元・元春・隆景)を枕元に呼び寄せ、1本の矢を折るよう命じた。息子たちが難なくこれを折ると、次は3本の矢束を折るよう命じたが、息子たちは誰も折ることができなかった。
元就は1本では脆い矢も束になれば頑丈になるということを示し、3兄弟の結束を強く訴えかけた。この逸話は「三本の矢」として有名ですが、現在の通説では江戸時代の創作といわれます。
≪本日の問題≫
<参考文献:大崎神社HP>
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政宗公の墓所 『瑞鳳殿』
『桃山文化の華麗な墓所』
仙台藩初代藩主・伊達政宗は生前に、自らの死後、遺骸を仙台城下町南西縁にある経ケ峯に葬ることを遺言
し、1636年没したという。
経ケ峯は仙台城本丸がある青葉山から見て東方向で、直線で約1kmの距離にあります。
瑞鳳殿まで、階段をひたすら上ります。 (訪問日:6月7日)

<画像はクリックで拡大します>
政宗の後を継いだ第2代藩主・伊達忠宗は政宗の遺言に従い、翌1637年10月、政宗の御霊屋を経ケ峯の
東の峰に、正面が仙台城本丸を向くよう西向きに建立し、「瑞鳳殿」と命名しています。
入門すると、すぐ政宗公のレリーフがあります。隻眼でない画像ですね。

瑞鳳殿は、本殿・拝殿・唐門・御供所・涅槃門からなり、桃山文化の華麗な建築により造営されています。

昭和6年に瑞鳳殿は国宝に指定されていますが、第二次世界大戦で消失。
昭和54年に瑞鳳殿の本殿・拝殿・涅槃門・御供所が再建されています。


桃山文化の豪壮・華麗な造営です。

墓所敷地は狭いため、かなりの口角でないと全景を撮るのは無理ですね。

二代藩主伊達忠宗公の「感仙殿」、三代藩主伊達綱宗公の「善応殿」もありますが、天気が悪かったので、
参拝を断念しました。

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≪前回の解答≫
正解:8人
真田昌幸は、武田信玄→勝頼→織田信長→北条氏直→徳川家康→上杉景勝→豊臣秀吉→秀頼と多くの主君を変遷しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
仙台藩初代藩主・伊達政宗は生前に、自らの死後、遺骸を仙台城下町南西縁にある経ケ峯に葬ることを遺言
し、1636年没したという。
経ケ峯は仙台城本丸がある青葉山から見て東方向で、直線で約1kmの距離にあります。
瑞鳳殿まで、階段をひたすら上ります。 (訪問日:6月7日)


<画像はクリックで拡大します>
政宗の後を継いだ第2代藩主・伊達忠宗は政宗の遺言に従い、翌1637年10月、政宗の御霊屋を経ケ峯の
東の峰に、正面が仙台城本丸を向くよう西向きに建立し、「瑞鳳殿」と命名しています。
入門すると、すぐ政宗公のレリーフがあります。隻眼でない画像ですね。

瑞鳳殿は、本殿・拝殿・唐門・御供所・涅槃門からなり、桃山文化の華麗な建築により造営されています。

昭和6年に瑞鳳殿は国宝に指定されていますが、第二次世界大戦で消失。
昭和54年に瑞鳳殿の本殿・拝殿・涅槃門・御供所が再建されています。


桃山文化の豪壮・華麗な造営です。

墓所敷地は狭いため、かなりの口角でないと全景を撮るのは無理ですね。

二代藩主伊達忠宗公の「感仙殿」、三代藩主伊達綱宗公の「善応殿」もありますが、天気が悪かったので、
参拝を断念しました。

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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:8人
真田昌幸は、武田信玄→勝頼→織田信長→北条氏直→徳川家康→上杉景勝→豊臣秀吉→秀頼と多くの主君を変遷しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
謙信公も眠る「上杉廟所」
『上杉廟所』
上杉廟所は、上杉景勝公が亡くなった1623年より上杉家の御廟所とされました。以後、歴代の藩主が埋葬
されています。
樹齢400年を越す老杉に囲まれ、厳粛な空気に満たされている御廟所は、大名の墓所の代表例として、昭
和59年に国の重要史跡に指定されています。

<画像はクリックで拡大します>
戦国武将の中でも聖将として名高い上杉謙信は、その死後も上杉家の精神的支えとして大切に祀られてい
ます。 遺骸は甲冑を身に纏った姿で甕に納められ、甕には漆を流し込んで固めてあるという。
上杉景勝が越後から会津に移動の際も春日山城不識庵より謙信の霊柩を運ばせたと伝えられる。さらに、
米沢入りを果たしてからは、米沢城の本丸の高台に御堂(霊廟)を建立して、中央に謙信霊柩その左右に
善光寺如来像と泥足毘沙門天像を共に安置していたという。
明治6年の米沢城解体に伴い、米沢城に安置されていた上杉謙信公の遺骸も、明治9年、御廟所へ移され
ています。
米沢城御堂跡

上杉廟所(正面が謙信公の廟屋)

謙信公の廟屋

御廟所に入って正面に上杉謙信の廟屋、向って左に上杉景勝の廟屋、向って右に景勝の息子・定勝の廟屋
といった形で、上杉藩12代藩主・上杉斉定までの廟屋が上杉謙信の廟屋を中心に左右交互に、内側から外
側に向うように建てられています。
景勝公の廟屋

鷹山公の廟屋

廟屋は、上杉景勝から8代藩主・上杉宗房までが入母屋造り、9代藩主・上杉重定(藩政を立て直した名君・
上杉鷹山の義父)から12代藩主・上杉斉定までが宝形造り、と時代により建て方に変化があります。
廟屋の配置

廟所全体


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≪昨日の解答≫
昨日の正解:菊姫
関ヶ原の戦い後、景勝が兼続と共に上洛、家康に謝罪した上で上杉氏の存続は正式に許された。しかし、1595年、景勝夫人・菊姫と兼続夫人・お船の方は証人として伏見邸に入っていたが、両夫人は引き続き徳川の証人として、伏見邸に留め置かれ菊姫は米沢城に入城することなく伏見で没しています。
≪本日の問題≫
上杉廟所は、上杉景勝公が亡くなった1623年より上杉家の御廟所とされました。以後、歴代の藩主が埋葬
されています。
樹齢400年を越す老杉に囲まれ、厳粛な空気に満たされている御廟所は、大名の墓所の代表例として、昭
和59年に国の重要史跡に指定されています。


<画像はクリックで拡大します>
戦国武将の中でも聖将として名高い上杉謙信は、その死後も上杉家の精神的支えとして大切に祀られてい
ます。 遺骸は甲冑を身に纏った姿で甕に納められ、甕には漆を流し込んで固めてあるという。
上杉景勝が越後から会津に移動の際も春日山城不識庵より謙信の霊柩を運ばせたと伝えられる。さらに、
米沢入りを果たしてからは、米沢城の本丸の高台に御堂(霊廟)を建立して、中央に謙信霊柩その左右に
善光寺如来像と泥足毘沙門天像を共に安置していたという。
明治6年の米沢城解体に伴い、米沢城に安置されていた上杉謙信公の遺骸も、明治9年、御廟所へ移され
ています。
米沢城御堂跡

上杉廟所(正面が謙信公の廟屋)

謙信公の廟屋


御廟所に入って正面に上杉謙信の廟屋、向って左に上杉景勝の廟屋、向って右に景勝の息子・定勝の廟屋
といった形で、上杉藩12代藩主・上杉斉定までの廟屋が上杉謙信の廟屋を中心に左右交互に、内側から外
側に向うように建てられています。
景勝公の廟屋

鷹山公の廟屋

廟屋は、上杉景勝から8代藩主・上杉宗房までが入母屋造り、9代藩主・上杉重定(藩政を立て直した名君・
上杉鷹山の義父)から12代藩主・上杉斉定までが宝形造り、と時代により建て方に変化があります。
廟屋の配置

廟所全体


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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解:菊姫
関ヶ原の戦い後、景勝が兼続と共に上洛、家康に謝罪した上で上杉氏の存続は正式に許された。しかし、1595年、景勝夫人・菊姫と兼続夫人・お船の方は証人として伏見邸に入っていたが、両夫人は引き続き徳川の証人として、伏見邸に留め置かれ菊姫は米沢城に入城することなく伏見で没しています。
≪本日の問題≫
上杉神社
『 “越後の龍”は会津を経て米沢へ 』
米沢城の本丸跡の中にある 上杉謙信を祀った神社
“越後の龍”とも呼ばれた謙信は 越後で埋葬 祀られていたが
その後 上杉家の移封に伴い 会津を経て米沢に改葬された
現在の本殿は米沢の大火後 大正12年に再建されたものです
東側には上杉鷹山や直江兼継などを祀った 松岬神社もあります
上杉家の遺品を中心に収蔵する 宝物館「稽照館」には 大河ドラマで一躍
有名になった直江兼継の「愛」の前立て兜も展示されています
境内には上杉鷹山公の銅像と有名な
「なせば成る 成さねばならぬ何事も 成さぬは人のなさぬなりけり」
の碑もあります
写真は 平成20年8月30日に米沢城に登城した時のものです






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米沢城の本丸跡の中にある 上杉謙信を祀った神社
“越後の龍”とも呼ばれた謙信は 越後で埋葬 祀られていたが
その後 上杉家の移封に伴い 会津を経て米沢に改葬された
現在の本殿は米沢の大火後 大正12年に再建されたものです
東側には上杉鷹山や直江兼継などを祀った 松岬神社もあります
上杉家の遺品を中心に収蔵する 宝物館「稽照館」には 大河ドラマで一躍
有名になった直江兼継の「愛」の前立て兜も展示されています
境内には上杉鷹山公の銅像と有名な
「なせば成る 成さねばならぬ何事も 成さぬは人のなさぬなりけり」
の碑もあります
写真は 平成20年8月30日に米沢城に登城した時のものです






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