「槍の又左」 の墓参り
『槍の又左(前田利家)の墓参り』
8月20日に金沢城のライトアップを撮りに行ったとき、日没まで時間があったので、「槍の又左」の墓参り
に行ってきました。
墓所は、金沢最大の野田山墓地にあります。
加賀藩主前田家墓所は、江戸時代に加賀・越中・能登三か国を領有した加賀藩主前田家の墓所で、藩祖
前田利家を頂点とした歴代藩主墓をとりまく正室・子女等の墓約80基があります。
<画像はクリックですべて拡大します>


利家公の墓所

形態は、土を盛り上げた土饅頭形式で、特に藩主墓は三段に盛り上げた方形墳の周りを方形の溝がめぐ
るという独特の形態を採り、大きさも利家墓で一辺約19m、他の藩主墓でも一辺約16mと、他藩では類を
見ない大規模な墓所です。

利家公の隣にある「まつ」の墓所

野田山墓地の前田家の墓地を見学するための駐車場は、大乗寺のほうから上がったところにあり手軽に行く
ことができます。

墓地は巨木が覆い茂っていますので、夏の時期は蚊対策が必要でした。
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8月20日に金沢城のライトアップを撮りに行ったとき、日没まで時間があったので、「槍の又左」の墓参り
に行ってきました。
墓所は、金沢最大の野田山墓地にあります。
加賀藩主前田家墓所は、江戸時代に加賀・越中・能登三か国を領有した加賀藩主前田家の墓所で、藩祖
前田利家を頂点とした歴代藩主墓をとりまく正室・子女等の墓約80基があります。
<画像はクリックですべて拡大します>


利家公の墓所

形態は、土を盛り上げた土饅頭形式で、特に藩主墓は三段に盛り上げた方形墳の周りを方形の溝がめぐ
るという独特の形態を採り、大きさも利家墓で一辺約19m、他の藩主墓でも一辺約16mと、他藩では類を
見ない大規模な墓所です。

利家公の隣にある「まつ」の墓所


野田山墓地の前田家の墓地を見学するための駐車場は、大乗寺のほうから上がったところにあり手軽に行く
ことができます。

墓地は巨木が覆い茂っていますので、夏の時期は蚊対策が必要でした。
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前田利家公と妻・まつを祀る 「尾山神社」
『 金沢百万石初代藩主・前田利家と“まつ”を祀る尾山神社 』
初代藩主の前田利家公と正室の“まつ”の2人を祀った神社です。
金沢城に隣接した所にある神社で、利家の愛用の鎧兜「鯰尾兜」の銅像や、刀、鎧が展示されています。
正面にある「神門」です。オランダ人技師ホルトマンの設計を担当した5色の鮮やかなギヤマン(カット
ガラス)が、何とも異国情緒ある珍しいモノで、最初に出迎えてくれます。
外見は和漢洋の3様式折衷と見えるも、初層の3連アーチの骨組は完全な木造の日本様式というから驚きで
す。

またその天辺には、日本で最初の避雷針を建立時に備えています。

1599年に加賀藩藩祖前田利家を祭り創建された卯辰八幡宮を、明治6年に卯辰山から現在地に移し、尾山
神社になっています。

青年時代は赤母衣衆として信長に従軍、槍の名手で「槍の又左」の異名をもっていた利家公。

境内には、利家公愛用の「烏帽子兜」像もあります。

利家公像の隣の愛妻“まつ”(芳春院)の石碑
“まつ”女性でありながら学問や武芸に通じた女性であったそうです。

この後、金沢の友人と食事に出かけ、帰りに夜食の「利家公弁当」をゲットし、駅前のホテルで食しました。

次回は、北陸の旅で最後に登城した「富山城」を記事にしたいと思います。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解:加藤清正
「武者返しの石垣」は、熊本城の特長ともいえる石垣です。
この石垣は、加藤清正が近江国から率いてきた「穴太衆」よって造られたとされ、下部はゆるやかな傾斜で、上部に向かうほど急な角度になる独特の造りになっています。
城に侵入しようとした敵の武者を返してしまうことから「武者返し」という異名をもつようになっています。

≪本日の問題≫
<参考文献:金沢市HP>
初代藩主の前田利家公と正室の“まつ”の2人を祀った神社です。
金沢城に隣接した所にある神社で、利家の愛用の鎧兜「鯰尾兜」の銅像や、刀、鎧が展示されています。
正面にある「神門」です。オランダ人技師ホルトマンの設計を担当した5色の鮮やかなギヤマン(カット
ガラス)が、何とも異国情緒ある珍しいモノで、最初に出迎えてくれます。
外見は和漢洋の3様式折衷と見えるも、初層の3連アーチの骨組は完全な木造の日本様式というから驚きで
す。


またその天辺には、日本で最初の避雷針を建立時に備えています。

1599年に加賀藩藩祖前田利家を祭り創建された卯辰八幡宮を、明治6年に卯辰山から現在地に移し、尾山
神社になっています。

青年時代は赤母衣衆として信長に従軍、槍の名手で「槍の又左」の異名をもっていた利家公。


境内には、利家公愛用の「烏帽子兜」像もあります。


利家公像の隣の愛妻“まつ”(芳春院)の石碑
“まつ”女性でありながら学問や武芸に通じた女性であったそうです。


この後、金沢の友人と食事に出かけ、帰りに夜食の「利家公弁当」をゲットし、駅前のホテルで食しました。


次回は、北陸の旅で最後に登城した「富山城」を記事にしたいと思います。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解:加藤清正
「武者返しの石垣」は、熊本城の特長ともいえる石垣です。
この石垣は、加藤清正が近江国から率いてきた「穴太衆」よって造られたとされ、下部はゆるやかな傾斜で、上部に向かうほど急な角度になる独特の造りになっています。
城に侵入しようとした敵の武者を返してしまうことから「武者返し」という異名をもつようになっています。

≪本日の問題≫
<参考文献:金沢市HP>
牛に引かれて「善光寺」参り
『 一生に一度は善光寺参り 』
長野市内は仕事で何度か訪れたことはありますが、善光寺に足を運んだことがなかったので、「一生に
一度は善光寺参り」ということで、信州・善光寺に7月24日に行ってきました。
善光寺は広大な敷地に大勧進や大本願と39の塔頭からなる大寺院で、日本最古といわれる仏像「一光
三尊阿弥陀如来」を本尊とし、約1400年前の飛鳥時代に創建されたと伝えられています。
善光寺は江戸時代中期を代表する仏教建築として国宝に指定され、全国からは宗派を問わず、多くの人
が観光で訪れ賑わっています。
【山門(三門)】(重要文化財)
1750年に建立された二層入母屋造りの門です。
屋根は大正年間の葺き替え時に檜皮葺きとなりましたが、平成14年から19年にかけて行われた平成
大修理において、建立当時と同じサワラの板を用いた栩葺き(とちぶき)に復原されています。
楼上には輪王寺宮筆の「善光寺」と書かれた額が掲げられています。
これは通称「鳩字の額」と呼ばれており、3文字の中に鳩が5羽隠されています。
更に「善」の一字が牛の顔に見えると言われ、「牛に引かれて善光寺参り」の信仰を如実に物語ってい
ます。

「鳩字の額」
「善」の文字が牛に見えますが、鳩は2羽しか分りません…。ご存知のかた教えてください!

「牛に引かれて善光寺お参り」したいところですが、牛は休憩して動いてくれません。

【本堂】(国宝)
本堂は創建以来十数回もの火災に遭いましたが、そのたびに善光寺を慕う全国の信徒によって復興
されてきました。
現在の本堂は1707年の再建で、江戸時代中期を代表する仏教建築として国宝に指定されています。
間口約24m、奥行き約54m、高さ約26mという国内有数の木造建築で、T字型の棟の形が鐘を叩く
撞木(しゅもく)に似ていることから「撞木造り」と呼ばれています。
屋根は総檜皮(ひわだ)葺きです。
最奥の瑠璃壇には、御本尊・一光三尊阿弥陀如来様をお祀りしているそうです。

狛犬さんが煙吐いています。 絵馬はかわいいクマさんです。

【経堂】(重要文化財)
1759年に建立された宝形造りのお堂です。
内部中央には八角の輪蔵があり、その中には仏教経典を網羅した『一切経』が収められ、輪蔵に付属して
いる腕木を押し回すことでこの『一切経』を全て読んだことと同じ功徳が得られるといわれています。
現在、経蔵は建物老朽化に伴う検査が行なわれているため、当面の間、内部参拝を停止になっています。

【歴代回向柱】
数え年で7年に一度開かれる御開帳のシンボルとして、前立御本尊と人々との架け橋となった回向柱は、
御開帳終了後には経蔵裏手へ移動され、人々の思いと共に長い年月を経て土に還っていくそうです。
現在は昭和30年から平成21年までの10本の回向柱があり、一番古い柱は30cm程になっています。
50年間座って見ていることはできませんから、信じる者は救われるって感じですかね。


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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 慶長遣欧使節
大坂の陣の直前、1613年に伊達政宗がヨーロッパに向け遣わせた使節は、当時の年号
(慶長18年)から「慶長遣欧使節」と呼ばれています。
家康が幕府を開き、天下人となった後のこの派遣は、密かに天下を狙っていた政宗の
野心の表れだという説もあります。
≪本日の問題≫
<参考文献:善光寺HPなど>
長野市内は仕事で何度か訪れたことはありますが、善光寺に足を運んだことがなかったので、「一生に
一度は善光寺参り」ということで、信州・善光寺に7月24日に行ってきました。
善光寺は広大な敷地に大勧進や大本願と39の塔頭からなる大寺院で、日本最古といわれる仏像「一光
三尊阿弥陀如来」を本尊とし、約1400年前の飛鳥時代に創建されたと伝えられています。
善光寺は江戸時代中期を代表する仏教建築として国宝に指定され、全国からは宗派を問わず、多くの人
が観光で訪れ賑わっています。
【山門(三門)】(重要文化財)
1750年に建立された二層入母屋造りの門です。
屋根は大正年間の葺き替え時に檜皮葺きとなりましたが、平成14年から19年にかけて行われた平成
大修理において、建立当時と同じサワラの板を用いた栩葺き(とちぶき)に復原されています。
楼上には輪王寺宮筆の「善光寺」と書かれた額が掲げられています。
これは通称「鳩字の額」と呼ばれており、3文字の中に鳩が5羽隠されています。
更に「善」の一字が牛の顔に見えると言われ、「牛に引かれて善光寺参り」の信仰を如実に物語ってい
ます。

「鳩字の額」
「善」の文字が牛に見えますが、鳩は2羽しか分りません…。ご存知のかた教えてください!

「牛に引かれて善光寺お参り」したいところですが、牛は休憩して動いてくれません。

【本堂】(国宝)
本堂は創建以来十数回もの火災に遭いましたが、そのたびに善光寺を慕う全国の信徒によって復興
されてきました。
現在の本堂は1707年の再建で、江戸時代中期を代表する仏教建築として国宝に指定されています。
間口約24m、奥行き約54m、高さ約26mという国内有数の木造建築で、T字型の棟の形が鐘を叩く
撞木(しゅもく)に似ていることから「撞木造り」と呼ばれています。
屋根は総檜皮(ひわだ)葺きです。
最奥の瑠璃壇には、御本尊・一光三尊阿弥陀如来様をお祀りしているそうです。

狛犬さんが煙吐いています。 絵馬はかわいいクマさんです。


【経堂】(重要文化財)
1759年に建立された宝形造りのお堂です。
内部中央には八角の輪蔵があり、その中には仏教経典を網羅した『一切経』が収められ、輪蔵に付属して
いる腕木を押し回すことでこの『一切経』を全て読んだことと同じ功徳が得られるといわれています。
現在、経蔵は建物老朽化に伴う検査が行なわれているため、当面の間、内部参拝を停止になっています。

【歴代回向柱】
数え年で7年に一度開かれる御開帳のシンボルとして、前立御本尊と人々との架け橋となった回向柱は、
御開帳終了後には経蔵裏手へ移動され、人々の思いと共に長い年月を経て土に還っていくそうです。
現在は昭和30年から平成21年までの10本の回向柱があり、一番古い柱は30cm程になっています。
50年間座って見ていることはできませんから、信じる者は救われるって感じですかね。


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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 慶長遣欧使節
大坂の陣の直前、1613年に伊達政宗がヨーロッパに向け遣わせた使節は、当時の年号
(慶長18年)から「慶長遣欧使節」と呼ばれています。
家康が幕府を開き、天下人となった後のこの派遣は、密かに天下を狙っていた政宗の
野心の表れだという説もあります。
≪本日の問題≫
<参考文献:善光寺HPなど>
武田神社
『武田家3代にわたって居住した館跡に鎮座』
武将を祀った神社が 続いておりますが、、
武田信虎 信玄 勝頼の3代が60年以上にわたって居住した躑躅ヶ崎館跡に
創建され 信玄を祀っている
息女誕生の際 産湯を使ったといわれる「姫の井戸」をはじめ 信玄ゆかりの
見どころが数多く残り ファンにはたまらない
宝物殿では信玄の軍扇など貴重な遺品を展示している
また 境内には甲陽武能殿が建立されている
「甲陽軍艦」は読んだことありませんが 信玄は父親の信虎に 本当に嫌われ
ていたのでしょうかね
写真は 2009年6月21日に武田氏館に登城した時に 撮影したものです





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武将を祀った神社が 続いておりますが、、
武田信虎 信玄 勝頼の3代が60年以上にわたって居住した躑躅ヶ崎館跡に
創建され 信玄を祀っている
息女誕生の際 産湯を使ったといわれる「姫の井戸」をはじめ 信玄ゆかりの
見どころが数多く残り ファンにはたまらない
宝物殿では信玄の軍扇など貴重な遺品を展示している
また 境内には甲陽武能殿が建立されている
「甲陽軍艦」は読んだことありませんが 信玄は父親の信虎に 本当に嫌われ
ていたのでしょうかね
写真は 2009年6月21日に武田氏館に登城した時に 撮影したものです





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