道真公に会いに
『18歳で行くべきだった大宰府天満宮』
先週、仕事で福岡に行ったので、うむ、福岡城に行ってもライトアップはないから、ちょっと足を伸
ばして、大宰府に行ってきました。
久しぶりの九州です。2年ぶりかな。

空港から大宰府へバスが出ていました。
道真公が京都から、左遷で流された大宰府。 その後、京に帰ることなく、ここで亡くなったそうです。

その道真公を祀った、大宰府天満宮。
参道もきれいに整備されています。年間700百万人が参拝に来られるとか。

境内はそんなに広くないようです。

写真スポットですね。

桜門。 大宰府天満宮といったら「梅」ですから、梅門でもいいのではと思いますけどねー。

この桜門には、左右におっちゃんたちが鎮座しています。

18歳でお参りに来ていれば、また、違った人生になったかもです。

全国にある天神さま12,000社の総本山だとか、荘厳で重厚な本殿です。

右側のこの梅が「飛梅」で、左は皇后の梅だそうです。 なぜ、の質問はなしです。 わかりませんから・・・。

この後に、隣接する「宝物館」に寄りましたが、道真公に関するものは殆どなく、なぜか、秀吉の朝鮮
の役を始め、戦国時代の展示ばかりでした。

今宵のホテルは中州にとってあったので、足取り軽く天神に向かい、長い博多の夜を堪能しました。
博多は、よかとこですばい!
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いつもありがとうございます。
先週、仕事で福岡に行ったので、うむ、福岡城に行ってもライトアップはないから、ちょっと足を伸
ばして、大宰府に行ってきました。
久しぶりの九州です。2年ぶりかな。

空港から大宰府へバスが出ていました。
道真公が京都から、左遷で流された大宰府。 その後、京に帰ることなく、ここで亡くなったそうです。

その道真公を祀った、大宰府天満宮。
参道もきれいに整備されています。年間700百万人が参拝に来られるとか。

境内はそんなに広くないようです。

写真スポットですね。

桜門。 大宰府天満宮といったら「梅」ですから、梅門でもいいのではと思いますけどねー。

この桜門には、左右におっちゃんたちが鎮座しています。


18歳でお参りに来ていれば、また、違った人生になったかもです。

全国にある天神さま12,000社の総本山だとか、荘厳で重厚な本殿です。

右側のこの梅が「飛梅」で、左は皇后の梅だそうです。 なぜ、の質問はなしです。 わかりませんから・・・。

この後に、隣接する「宝物館」に寄りましたが、道真公に関するものは殆どなく、なぜか、秀吉の朝鮮
の役を始め、戦国時代の展示ばかりでした。

今宵のホテルは中州にとってあったので、足取り軽く天神に向かい、長い博多の夜を堪能しました。
博多は、よかとこですばい!
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清正公に会いに熊本・本妙寺へ
『熊本城を眼下に見下ろす清正公の像』
GWの5月1日、清正公(せいしょこさん)に会いに熊本・本妙寺に行ってきました。
清正公の死因は「虚ノ病」(花柳病)だったといわれ、一方で家康またはその一派による毒殺説もあります。
清正公は豊臣氏恩顧の有力大名として家康から警戒されていたのは事実であり、暗殺説の中でも二条城
会見での料理による毒殺、毒饅頭による毒殺など様々あります。
加藤清正(1562-1611年)

根強い毒殺説を題材としたのが池波正太郎の『火の国の城』です。
また、死因は瘡(ハンセン病)であったとする説もあり、罹患者の多かった時代には清正公を祀る加藤神社
に平癒を願う参詣者が多かったという。
胸突雁木
胸突雁木と呼ばれるこの長い石段は、 加藤清正公の墓所である浄池廟へと続きます。
雁木(がんぎ)とは、石段のことで、この石段は胸を突く様な急勾配で176段もあるので、 胸突雁木と呼ば
れています。

本妙寺は加藤家代々の菩提寺で、1585年に清正公が父の菩提寺として大坂に建立したものを、清正が
肥後入国後、熊本城下に移し、清正の逝去後、清正の遺言により現在の中尾山中腹に移建されています。
「胸突雁木(むなつきがんぎ)」と呼ばれる急勾配の石段を上ると、清正公がまつられている浄池廟に行き
着きます。
浄池廟中門

浄池廟拝殿

拝殿から見る浄池廟本殿

清正公を祀る浄池廟(じょうちびょう)本殿
明治時代の神仏分離令によって浄池廟と本妙寺は神社と寺として分けられ、明治4年に社殿だけが熊本城
内に移され、加藤神社となっています。
その後、西南戦争で焼失した大本堂と同時に浄池廟の建物も再建され(明治27年)、現在の姿になっていま
す。

浄池廟の裏手から300段の石段を登ると、鑓を持ち長烏帽子形兜を被った清正像が立っています。

清正公の遺骸は甲冑の武装のまま石棺に朱詰めにされ、清正公像の真下にあたるところに埋葬され
ているそうです。

ここからは熊本市内をよく見渡すことができます。

この後、熊本城のライトアップを撮りにいきました。 (熊本城のライトアップは「こちら」です。)

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GWの5月1日、清正公(せいしょこさん)に会いに熊本・本妙寺に行ってきました。
清正公の死因は「虚ノ病」(花柳病)だったといわれ、一方で家康またはその一派による毒殺説もあります。
清正公は豊臣氏恩顧の有力大名として家康から警戒されていたのは事実であり、暗殺説の中でも二条城
会見での料理による毒殺、毒饅頭による毒殺など様々あります。
加藤清正(1562-1611年)

根強い毒殺説を題材としたのが池波正太郎の『火の国の城』です。
また、死因は瘡(ハンセン病)であったとする説もあり、罹患者の多かった時代には清正公を祀る加藤神社
に平癒を願う参詣者が多かったという。
胸突雁木
胸突雁木と呼ばれるこの長い石段は、 加藤清正公の墓所である浄池廟へと続きます。
雁木(がんぎ)とは、石段のことで、この石段は胸を突く様な急勾配で176段もあるので、 胸突雁木と呼ば
れています。

本妙寺は加藤家代々の菩提寺で、1585年に清正公が父の菩提寺として大坂に建立したものを、清正が
肥後入国後、熊本城下に移し、清正の逝去後、清正の遺言により現在の中尾山中腹に移建されています。
「胸突雁木(むなつきがんぎ)」と呼ばれる急勾配の石段を上ると、清正公がまつられている浄池廟に行き
着きます。
浄池廟中門

浄池廟拝殿

拝殿から見る浄池廟本殿

清正公を祀る浄池廟(じょうちびょう)本殿
明治時代の神仏分離令によって浄池廟と本妙寺は神社と寺として分けられ、明治4年に社殿だけが熊本城
内に移され、加藤神社となっています。
その後、西南戦争で焼失した大本堂と同時に浄池廟の建物も再建され(明治27年)、現在の姿になっていま
す。

浄池廟の裏手から300段の石段を登ると、鑓を持ち長烏帽子形兜を被った清正像が立っています。

清正公の遺骸は甲冑の武装のまま石棺に朱詰めにされ、清正公像の真下にあたるところに埋葬され
ているそうです。

ここからは熊本市内をよく見渡すことができます。

この後、熊本城のライトアップを撮りにいきました。 (熊本城のライトアップは「こちら」です。)

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