『四国の雄 長宗我部元親』 その34
『文化人であった元親』
長宗我部元親は文化人であったと想像できる記録があります。(長宗我部元親式目)
・「侍たる者は書学問ならびに軍法専一に仕り、君臣の節、父母への孝行、肝要たるべきこと」
・「敵(かたき)討つこと、親の敵の子、兄の敵を弟討ち申すべし。弟の敵を兄討つは逆なり。叔父、甥の敵討
つことは無用たるべきこと」
当時としてはなかなかの見識であったのでしょう。
長宗我部元親(1539-1599年)

名将言行録に、元親が讃岐の新名内膳正が篭もった鷲山の城を攻めた時、敵を兵糧攻めにするため、足軽
を出して青麦を刈らせたが、元親は特に命じて
「ひとあぜ毎に刈れよ。みな刈っては百姓らが困るであろう」
といった。
百姓らはその刈り方を見て
「土佐の仕置きはまことによいことじゃ。この地が早く長宗我部殿の所領になればよい」
と言ったという話が出ています。
また、彼が土佐領内の田畑を残らず測量して、国内の生産高とつきとめ、租税の法を定め家臣らの知行高
や扶持を詳細に記録させたという話も出ています。
信長や秀吉こそやっていることですが、他には殆んど出てこない話です。
政治も軍事もこの調査が先行しなければダメであることに気づき、これを実行した見識も非凡ではなかったの
でしょう。
元親はいつの時代、どんな境遇に生まれても、相当以上の人物になり得た人であったに違いありません。
マキャベリズム(権謀術数主義)は仕方ないことでしょう。
当時の大名にはある程度のマキャベリズムは自存の必要条件であったのですから。
これ程の人によって興隆した長宗我部家が2代にして滅んだのは天命だったのでしょう。
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<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
長宗我部元親は文化人であったと想像できる記録があります。(長宗我部元親式目)
・「侍たる者は書学問ならびに軍法専一に仕り、君臣の節、父母への孝行、肝要たるべきこと」
・「敵(かたき)討つこと、親の敵の子、兄の敵を弟討ち申すべし。弟の敵を兄討つは逆なり。叔父、甥の敵討
つことは無用たるべきこと」
当時としてはなかなかの見識であったのでしょう。
長宗我部元親(1539-1599年)

名将言行録に、元親が讃岐の新名内膳正が篭もった鷲山の城を攻めた時、敵を兵糧攻めにするため、足軽
を出して青麦を刈らせたが、元親は特に命じて
「ひとあぜ毎に刈れよ。みな刈っては百姓らが困るであろう」
といった。
百姓らはその刈り方を見て
「土佐の仕置きはまことによいことじゃ。この地が早く長宗我部殿の所領になればよい」
と言ったという話が出ています。
また、彼が土佐領内の田畑を残らず測量して、国内の生産高とつきとめ、租税の法を定め家臣らの知行高
や扶持を詳細に記録させたという話も出ています。
信長や秀吉こそやっていることですが、他には殆んど出てこない話です。
政治も軍事もこの調査が先行しなければダメであることに気づき、これを実行した見識も非凡ではなかったの
でしょう。
元親はいつの時代、どんな境遇に生まれても、相当以上の人物になり得た人であったに違いありません。
マキャベリズム(権謀術数主義)は仕方ないことでしょう。
当時の大名にはある程度のマキャベリズムは自存の必要条件であったのですから。
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『四国の雄 長宗我部元親』 その33
『よめない軍目付』
朝鮮に外征中のこととして、元親記におもしろい話が2つ出ています。
その二つ目です。
四川に城を築いて、門脇の狭間を切りあける時、秀吉から派遣されている軍目付の垣見一直が
「もう少し上げて切れ」
と下知した。
長宗我部元親(1539-1599年)

それを聞いて元親は
「それでは高すぎる。上を胸の高さにし、下を腰の高さにして切るがよい」
と言った。
垣見は
「さように下げて切っては、敵がのぞきこもうものを」
と言った。
元親はカラカラと笑って
「敵がこの門脇まで来て城中を覗き込むほどに城兵が弱ったらば、ひとささえも出来ようか。貴殿はえらい
高こう切れといわっしゃるが、敵の頭の上を撃つつもりかのう」
といいながら、杖を鉄砲のようにかまえて見せ
「どうじゃの、おわかりか。総じてかのようなことは、拙者次第に召されよ」
と言ったので、垣見はにがい顔をして口をつぐんだという。
元親は二度目の朝鮮役にも従軍しているが、多年の外地くらしに健康をむしばまれたのでしょう。帰還して
半年後の1599年5月、伏見で没した。
享年61歳であった。
最近、みなさまのブログに遊びに行く時間が不規則になったり、スマホーからの訪問で足跡がつかなかった
りしています。
もう少し、この状態が続くと思いますので、ご了承お願いします。
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四川に城を築いて、門脇の狭間を切りあける時、秀吉から派遣されている軍目付の垣見一直が
「もう少し上げて切れ」
と下知した。
長宗我部元親(1539-1599年)

それを聞いて元親は
「それでは高すぎる。上を胸の高さにし、下を腰の高さにして切るがよい」
と言った。
垣見は
「さように下げて切っては、敵がのぞきこもうものを」
と言った。
元親はカラカラと笑って
「敵がこの門脇まで来て城中を覗き込むほどに城兵が弱ったらば、ひとささえも出来ようか。貴殿はえらい
高こう切れといわっしゃるが、敵の頭の上を撃つつもりかのう」
といいながら、杖を鉄砲のようにかまえて見せ
「どうじゃの、おわかりか。総じてかのようなことは、拙者次第に召されよ」
と言ったので、垣見はにがい顔をして口をつぐんだという。
元親は二度目の朝鮮役にも従軍しているが、多年の外地くらしに健康をむしばまれたのでしょう。帰還して
半年後の1599年5月、伏見で没した。
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『四国の雄 長宗我部元親』 その32
『秀吉に評価された元親』
朝鮮の役が始まったのは、九州の陣から6年目で、元親は54才になっていた。
大儀なことではあったでしょうが、家の安泰のために、世子の盛親とともに土佐兵を率いて出征しています。
盛親は4男であったが、次男の五郎二郎(香川親和)は早く死に、3男の親忠は土佐の豪族・津野家を継い
だので、彼が世子となったのです。
この外征中のこととして、元親記におもしろい話が2つ出ています。
朝鮮の役

一つ目は
在韓の諸将が集まって軍議したとき
「小西摂津(行長)が居る城が味方の陣から離れすぎている。あれでは敵に接近しすぎている。せめて敵味
方の間にある河のこちらであれば、危急の際救い易い故、摂津に言うて、こちら側に築きなおさせようでは
ないか」
という議が軍目付らから出て、人々みなこれに同じた。
それに対し元親は
「小西殿がわざと敵陣近くに築かれたのでござる。考えあってのことなれば、こちらに退かせることはいかが
でござろうか。あの城は味方の諸陣を離れてはいるが、敵陣とは相当距離もある。拙者は不同意でござる」
と異議を唱えた。
その日はそれで済んだが、後日この相談がまた始まった。
元親はこの話が出ることを推察していたので、わざと病気だといって出席しなかった。
相談は、このことを秀吉に報告してその裁断を仰ごうということになり、連名して書を作成したが、元親が欠
席では具合が悪いから、強いて出席を求めてきた。
元親は盛親を代理として出席させますが、盛親には連署の権限はありません。
いたし方なく、報告書は元親の連署のないままに内地に送られ、秀吉に届いた。
日本の前線基地「名護屋城」 (名護屋城登城記は「こちら」です。)

秀吉はこれを見て
「けしからぬことかな。この地形で退くということがあるものか。大名ども、みな腰がぬけたな」
と、激怒したが、ふとその書状に元親の連諸がないことに気づいた。
事情を聞くと
「長宗我部殿は病気にて、その席には出られなかったのでございます。ご子息の盛親殿が代理として出
られましたが」
秀吉はうなずいて
「さもあろう。この相談、元親は気に入らなんだよ。しかしながら、目付どもの折角の意見にただ一人正面
きって反対も出来ぬ故、つくり病気して出なんじゃ。一人の働きをもって家をおこし名をあぐる者は、よほど
に普通の者と違うところがあるわ」
と言ったという。
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朝鮮の役が始まったのは、九州の陣から6年目で、元親は54才になっていた。
大儀なことではあったでしょうが、家の安泰のために、世子の盛親とともに土佐兵を率いて出征しています。
盛親は4男であったが、次男の五郎二郎(香川親和)は早く死に、3男の親忠は土佐の豪族・津野家を継い
だので、彼が世子となったのです。
この外征中のこととして、元親記におもしろい話が2つ出ています。
朝鮮の役

一つ目は
在韓の諸将が集まって軍議したとき
「小西摂津(行長)が居る城が味方の陣から離れすぎている。あれでは敵に接近しすぎている。せめて敵味
方の間にある河のこちらであれば、危急の際救い易い故、摂津に言うて、こちら側に築きなおさせようでは
ないか」
という議が軍目付らから出て、人々みなこれに同じた。
それに対し元親は
「小西殿がわざと敵陣近くに築かれたのでござる。考えあってのことなれば、こちらに退かせることはいかが
でござろうか。あの城は味方の諸陣を離れてはいるが、敵陣とは相当距離もある。拙者は不同意でござる」
と異議を唱えた。
その日はそれで済んだが、後日この相談がまた始まった。
元親はこの話が出ることを推察していたので、わざと病気だといって出席しなかった。
相談は、このことを秀吉に報告してその裁断を仰ごうということになり、連名して書を作成したが、元親が欠
席では具合が悪いから、強いて出席を求めてきた。
元親は盛親を代理として出席させますが、盛親には連署の権限はありません。
いたし方なく、報告書は元親の連署のないままに内地に送られ、秀吉に届いた。
日本の前線基地「名護屋城」 (名護屋城登城記は「こちら」です。)

秀吉はこれを見て
「けしからぬことかな。この地形で退くということがあるものか。大名ども、みな腰がぬけたな」
と、激怒したが、ふとその書状に元親の連諸がないことに気づいた。
事情を聞くと
「長宗我部殿は病気にて、その席には出られなかったのでございます。ご子息の盛親殿が代理として出
られましたが」
秀吉はうなずいて
「さもあろう。この相談、元親は気に入らなんだよ。しかしながら、目付どもの折角の意見にただ一人正面
きって反対も出来ぬ故、つくり病気して出なんじゃ。一人の働きをもって家をおこし名をあぐる者は、よほど
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『四国の雄 長宗我部元親』 その31
『浮世の夢を見尽くした元親』
仙石ほどの勇士が、敗戦になると人間は意外なくらい臆病になるものらしい。
当時、仙石のことをこう落首したという。
仙石は四国をさして逃げにけり
三国一の臆病者かな
秀吉が激怒したことは言うまでもないが、その怒りはもっぱら仙石秀久に向けられ、秀久は勘当されている。
長宗我部元親(1539-1599年)

元親に対してはたいへん同情して、籐堂高虎を遣わして元親の嫡男・信親の死を手厚く弔わせたばかりか、
島津氏降伏の後、大隅の国の2郡を与えようとしています。
元親の悲しみを慰めてやろうとの、秀吉のあたたかい心からであったのでしょうが、元親はこれを辞退してい
ます。
数10年の間、努力して、やっと四国を手中に入れたかと思うと、半年の後には土佐一国を残して手離さなけ
ればならず、今また愛する子を死なせた彼としては、浮世の夢を見尽くした気がしていたのかもしれません。
恐らく元親にはもう領地欲などなかったのでしょう。
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いつもありがとうございます。
先週の週末に移動中に出会った花火です。

<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
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当時、仙石のことをこう落首したという。
仙石は四国をさして逃げにけり
三国一の臆病者かな
秀吉が激怒したことは言うまでもないが、その怒りはもっぱら仙石秀久に向けられ、秀久は勘当されている。
長宗我部元親(1539-1599年)

元親に対してはたいへん同情して、籐堂高虎を遣わして元親の嫡男・信親の死を手厚く弔わせたばかりか、
島津氏降伏の後、大隅の国の2郡を与えようとしています。
元親の悲しみを慰めてやろうとの、秀吉のあたたかい心からであったのでしょうが、元親はこれを辞退してい
ます。
数10年の間、努力して、やっと四国を手中に入れたかと思うと、半年の後には土佐一国を残して手離さなけ
ればならず、今また愛する子を死なせた彼としては、浮世の夢を見尽くした気がしていたのかもしれません。
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<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
『四国の雄 長宗我部元親』 その30
『九州裏街道口の先鋒軍は崩壊』
味方敗軍、混戦になったので老臣・桑名は敵を防ぎながら、元親の嫡子・信親に
「急ぎ落ちさえ給え」
と手振りして知らせたが、一寸も退かず馬から下りて4尺3寸の大太刀を持って込み掛かってくる敵を一薙
ぎに8人も切り伏せた。(オーバー過ぎです)
高知・雪蹊寺の長宗我部信親の墓

そのうちしだいに敵が手許につけ入って来ると、今度はさし添えの刀左文字を抜き、また6人斬り伏せた。
物具の上から斬るので、刀の刃はぼろぼろにこぼれてノコギリのようになった。
「今はもうせん方なし。腹を切ろう」
と心にきめたが、なお襲いかかってくる敵についに討ち取られてしまった。
信親、享年22才であった。
この時、信親が用いた左文字の刀は、元親が最初に信長に懇親の使いを遣わし、信親のために名乗の一
字を乞うた時、信長が名前に添えて贈ってくれた、あの刀であったという。
信親は元親が最も愛する子であった。
信親の戦死を聞くと
「同じところで死のうぞ」
と、馬を乗り太刀を抜いて敵がかかって来るのを待ち受けていた。
そこへ家臣・十市が来て
「もったいなや、何とて退きたまわるぞ」
と諌めて、自分の馬に乗せようとしているところに、どこからか元親の馬が走り帰ってきたという。
以上は、元親記の記述です。
この時の馬は内記黒(ないきぐろ)という名であったといいますから、去年の10月に最初に秀吉にお目見
えした時に秀吉から貰った馬であった。
元親は伊予の日振島に逃れ、仙石は讃岐の居城に逃げ帰り、九州裏街道口の先鋒軍は崩壊してしまった。
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味方敗軍、混戦になったので老臣・桑名は敵を防ぎながら、元親の嫡子・信親に
「急ぎ落ちさえ給え」
と手振りして知らせたが、一寸も退かず馬から下りて4尺3寸の大太刀を持って込み掛かってくる敵を一薙
ぎに8人も切り伏せた。(オーバー過ぎです)
高知・雪蹊寺の長宗我部信親の墓

そのうちしだいに敵が手許につけ入って来ると、今度はさし添えの刀左文字を抜き、また6人斬り伏せた。
物具の上から斬るので、刀の刃はぼろぼろにこぼれてノコギリのようになった。
「今はもうせん方なし。腹を切ろう」
と心にきめたが、なお襲いかかってくる敵についに討ち取られてしまった。
信親、享年22才であった。
この時、信親が用いた左文字の刀は、元親が最初に信長に懇親の使いを遣わし、信親のために名乗の一
字を乞うた時、信長が名前に添えて贈ってくれた、あの刀であったという。
信親は元親が最も愛する子であった。
信親の戦死を聞くと
「同じところで死のうぞ」
と、馬を乗り太刀を抜いて敵がかかって来るのを待ち受けていた。
そこへ家臣・十市が来て
「もったいなや、何とて退きたまわるぞ」
と諌めて、自分の馬に乗せようとしているところに、どこからか元親の馬が走り帰ってきたという。
以上は、元親記の記述です。
この時の馬は内記黒(ないきぐろ)という名であったといいますから、去年の10月に最初に秀吉にお目見
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元親は伊予の日振島に逃れ、仙石は讃岐の居城に逃げ帰り、九州裏街道口の先鋒軍は崩壊してしまった。
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