大坂の陣 その12
『豊臣氏最後の生き残り、天秀尼』
豊臣秀頼と千姫の間には子はなかったが、側室の成田氏との間には一男一女があった。
男子は国松と名づけられ、1615年当時、8歳。女子は7歳になっていた。
東慶寺山門(鎌倉)

大坂城落城後、2人は捕らえられ、国松は豊臣氏の血を根絶やしにするため、京の六条河原で斬首された。
しかし、さすがの家康も7歳の童女を殺すには忍びがたかったのか、とはいえ大坂方の残党に担ぎ出されて
は再び乱の種になると思い、千姫の養女にして男子禁制の尼寺に入れています。
この秀頼の娘が修行を終え、住持となったのが、東慶寺20世天秀尼です。
東慶寺は、俗に「駆込寺」、「縁切寺」と呼ばれた女人救済で有名な尼寺です。
天秀尼が入寺する際、開山以来の女人救済・駆け込みの寺法の永の許しを願い、家康がそれを聞き入れ、
「権現様のお声かかり」ということで、徳川期を通じ、虐げられた女たちの最後の拠り所となったのです。
天秀尼は、その生涯を不幸な女たちの救済に捧げ、1645年に37歳の若さで没しています。
彼女自身も、女としての幸せを手にすることなく、一生を終えた不幸な女のひとりであったのでしょう。
そして、天秀尼の死により、豊臣氏の血は完全に歴史から消えたのです。
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いつもありがとうございます。
千姫が寄進した東慶寺仏殿【重要文化財】 (現在は横浜三渓園に移設されています)

鎌倉東慶寺
<参考文献:戦国武将おもしろ辞典(監修奈良本辰也)>
豊臣秀頼と千姫の間には子はなかったが、側室の成田氏との間には一男一女があった。
男子は国松と名づけられ、1615年当時、8歳。女子は7歳になっていた。
東慶寺山門(鎌倉)

大坂城落城後、2人は捕らえられ、国松は豊臣氏の血を根絶やしにするため、京の六条河原で斬首された。
しかし、さすがの家康も7歳の童女を殺すには忍びがたかったのか、とはいえ大坂方の残党に担ぎ出されて
は再び乱の種になると思い、千姫の養女にして男子禁制の尼寺に入れています。
この秀頼の娘が修行を終え、住持となったのが、東慶寺20世天秀尼です。
東慶寺は、俗に「駆込寺」、「縁切寺」と呼ばれた女人救済で有名な尼寺です。
天秀尼が入寺する際、開山以来の女人救済・駆け込みの寺法の永の許しを願い、家康がそれを聞き入れ、
「権現様のお声かかり」ということで、徳川期を通じ、虐げられた女たちの最後の拠り所となったのです。
天秀尼は、その生涯を不幸な女たちの救済に捧げ、1645年に37歳の若さで没しています。
彼女自身も、女としての幸せを手にすることなく、一生を終えた不幸な女のひとりであったのでしょう。
そして、天秀尼の死により、豊臣氏の血は完全に歴史から消えたのです。
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千姫が寄進した東慶寺仏殿【重要文化財】 (現在は横浜三渓園に移設されています)

鎌倉東慶寺
<参考文献:戦国武将おもしろ辞典(監修奈良本辰也)>
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大坂の陣 その11
『戦国の終焉 太平の世に冷えゆく血』
淀殿、秀頼母子およびその近臣や侍女たちは、山里郭に火を逃げ糒蔵の中に非難していた。
自害しなかったのは、秀頼の正室であり、家康の孫である千姫を家康、秀忠のもとに送り届け、千姫から命
乞いを頼んで貰おうとしていたためだったからだという。
しかし、家康は許さず、銃撃をもって自害の覚悟を促がし、ここに豊臣家はわずか2代で滅亡した。
5月8日であった。
秀頼・淀殿自刃の地 (大坂城山里曲輪訪問は「こちら」です。)

7月13日、元和と改元される。
世にいう「元和偃武(げんなえんぶ)」です。
偃とは「伏す」の意で、偃武とは、武器を収め、用いないことを表す。
豊臣家を滅ぼした家康が、徳川治下による太平の世の現出を意図した改元であったのです。
これによって、戦国の世は完全にピリオドが打たといっていいのでしょう。
家康は、これより数日前の7月7日に「武家諸法度」を、7月17日には「禁中並公家諸法度」を定めている。
幕府の法の下に、天皇、公家、武家を統するものです。
また、この前月には「一国一城令」が出され、大名は、その居城以外の城を破却しなければならなかった。
平和の世に、城は無用ということです。
戦国、それはおびただしい血が流れた酷烈無比な時代であったが、同時に、あらゆる可能性を秘め、たぎり
たつエネルギーが噴出する気宇壮大な時代でもあったのです。
しかし、この後、徳川太平の世が続くなか、武士は牙を失い、その血が再び沸騰するのは、幕末の世を待た
ねばならなかった。
元和2年(1616)4月17日、戦国最後の覇者・徳川家康永眠。75歳であった。
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<参考文献:戦国武将おもしろ辞典(監修奈良本辰也)>
淀殿、秀頼母子およびその近臣や侍女たちは、山里郭に火を逃げ糒蔵の中に非難していた。
自害しなかったのは、秀頼の正室であり、家康の孫である千姫を家康、秀忠のもとに送り届け、千姫から命
乞いを頼んで貰おうとしていたためだったからだという。
しかし、家康は許さず、銃撃をもって自害の覚悟を促がし、ここに豊臣家はわずか2代で滅亡した。
5月8日であった。
秀頼・淀殿自刃の地 (大坂城山里曲輪訪問は「こちら」です。)

7月13日、元和と改元される。
世にいう「元和偃武(げんなえんぶ)」です。
偃とは「伏す」の意で、偃武とは、武器を収め、用いないことを表す。
豊臣家を滅ぼした家康が、徳川治下による太平の世の現出を意図した改元であったのです。
これによって、戦国の世は完全にピリオドが打たといっていいのでしょう。
家康は、これより数日前の7月7日に「武家諸法度」を、7月17日には「禁中並公家諸法度」を定めている。
幕府の法の下に、天皇、公家、武家を統するものです。
また、この前月には「一国一城令」が出され、大名は、その居城以外の城を破却しなければならなかった。
平和の世に、城は無用ということです。
戦国、それはおびただしい血が流れた酷烈無比な時代であったが、同時に、あらゆる可能性を秘め、たぎり
たつエネルギーが噴出する気宇壮大な時代でもあったのです。
しかし、この後、徳川太平の世が続くなか、武士は牙を失い、その血が再び沸騰するのは、幕末の世を待た
ねばならなかった。
元和2年(1616)4月17日、戦国最後の覇者・徳川家康永眠。75歳であった。
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大坂の陣 その10
『玉砕する大坂城 勝利なき栄光の代価は?』
5月7日、大坂城総攻撃の火蓋が切られる。
ひたひたと迫る徳川勢に対し、兵力を残存していた真田信繁部隊、毛利勝永隊が必死の反撃を加える。
一枚、二枚と、徳川方の厚い壁を蹴散らし、家康の首を狙い本陣に突撃を敢行。
信繁、勝永が家康本陣に突入するも、家康が本陣を捨てて逃げたため、目的を果たせず。
真田信繁(1567-1615年) (信繁終焉の地・安居神社訪問記は「こちら」です。)

また、秀忠も大野治長に攻められ、本陣まで突き崩されているが、衆寡敵せず、大坂方の反撃もここまで
であった。
真田信繁も討死する。
紀州九度山に蟄居すること14年。武将としての己の才を、最後に華と開かせた一戦であった。享年48歳。
父親の昌幸は、徳川を相手に3度勝利を得ている稀代の戦術家だが、信繁も、また当代一流の智将であっ
た。
あるいは、その才は父以上であったのかも知れません。父子2代で家康を苦しめたのです。
この日、徳川方が得た首級は、1万4千以上だったという。大坂方が、この戦いに生き残るつもりがなかっ
たことを如実に物語っています。
午後4時頃、大坂城落城。
徳川方に内通した者が台所に火をつけ、天守閣は巨大な火柱となって崩れ落ちた。
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大坂城炎上(1663年絵図)

<参考文献:戦国武将おもしろ辞典(監修奈良本辰也)>
5月7日、大坂城総攻撃の火蓋が切られる。
ひたひたと迫る徳川勢に対し、兵力を残存していた真田信繁部隊、毛利勝永隊が必死の反撃を加える。
一枚、二枚と、徳川方の厚い壁を蹴散らし、家康の首を狙い本陣に突撃を敢行。
信繁、勝永が家康本陣に突入するも、家康が本陣を捨てて逃げたため、目的を果たせず。
真田信繁(1567-1615年) (信繁終焉の地・安居神社訪問記は「こちら」です。)

また、秀忠も大野治長に攻められ、本陣まで突き崩されているが、衆寡敵せず、大坂方の反撃もここまで
であった。
真田信繁も討死する。
紀州九度山に蟄居すること14年。武将としての己の才を、最後に華と開かせた一戦であった。享年48歳。
父親の昌幸は、徳川を相手に3度勝利を得ている稀代の戦術家だが、信繁も、また当代一流の智将であっ
た。
あるいは、その才は父以上であったのかも知れません。父子2代で家康を苦しめたのです。
この日、徳川方が得た首級は、1万4千以上だったという。大坂方が、この戦いに生き残るつもりがなかっ
たことを如実に物語っています。
午後4時頃、大坂城落城。
徳川方に内通した者が台所に火をつけ、天守閣は巨大な火柱となって崩れ落ちた。
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大坂城炎上(1663年絵図)

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大坂の陣 その9
『大坂夏の陣』
5月6日、大坂方は徳川方の気勢を制すべく、後藤又兵衛、長曾我部盛親、木村重成ら野外決戦部隊を
投入する。
後藤又兵衛(1560-1615年)

後藤又兵衛の2千8百は道明寺方面に、長曾我部盛親隊5千3百は八尾方面に、木村重成隊4千7百は
若江方面に、それぞれ敵を叩くために隊列を組んで進発していった。
しかし、濃霧のため戦線は分裂し、大坂方は兵力をさらに分裂され撃破されていく。
道明寺方面の後藤部隊は、霧のため後続部隊が延着し、孤軍となって水野勝成・伊達政宗・本多忠政ら
3万6千と激突。
激闘数時間におよぶが疲れきったところを、徳川方の圧倒的な兵力の前に討たれ、次々と数を減らして
いった。
後藤又兵衛討死。55歳とも60余歳だったともいう。
満身53ヶ所に刀槍、矢弾があったという兵で、真田信繁とともに大坂方にあっては重きをなしていた千軍
万馬の勇将であった。
長曾我部隊、木村隊も同様な経過をたどったという。
長曾我部隊は、籐堂高虎隊を相手に完全に近い勝利を収めていた。
一槍を交えることなく終った関ヶ原の積年の怨みを晴らすごとき働きであったという。
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<参考文献:戦国武将おもしろ辞典(監修奈良本辰也)>
5月6日、大坂方は徳川方の気勢を制すべく、後藤又兵衛、長曾我部盛親、木村重成ら野外決戦部隊を
投入する。
後藤又兵衛(1560-1615年)

後藤又兵衛の2千8百は道明寺方面に、長曾我部盛親隊5千3百は八尾方面に、木村重成隊4千7百は
若江方面に、それぞれ敵を叩くために隊列を組んで進発していった。
しかし、濃霧のため戦線は分裂し、大坂方は兵力をさらに分裂され撃破されていく。
道明寺方面の後藤部隊は、霧のため後続部隊が延着し、孤軍となって水野勝成・伊達政宗・本多忠政ら
3万6千と激突。
激闘数時間におよぶが疲れきったところを、徳川方の圧倒的な兵力の前に討たれ、次々と数を減らして
いった。
後藤又兵衛討死。55歳とも60余歳だったともいう。
満身53ヶ所に刀槍、矢弾があったという兵で、真田信繁とともに大坂方にあっては重きをなしていた千軍
万馬の勇将であった。
長曾我部隊、木村隊も同様な経過をたどったという。
長曾我部隊は、籐堂高虎隊を相手に完全に近い勝利を収めていた。
一槍を交えることなく終った関ヶ原の積年の怨みを晴らすごとき働きであったという。
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大坂の陣 その8
『秀吉、痛恨の一言 息子を殺した“大坂城攻略法”』
和議の条件は、大坂城の外堀を埋めるというものであったが、家康は強引に二の丸、三の丸を破却し、
内堀まで埋め、城を裸城にしてしまった。
この謀略によって内堀まで埋め、裸城になったところを攻め落とすというのは、かつて秀吉が家康たちを
前にして、唯一の大坂城の攻城法として語ったものであった。
裸城の大坂城

家康は、それを実行したというわけですが、まさか自分が語った方法で息子が攻められるとは、夢にも思
わなかったことでしょう。
家康は剥き身と化した大坂方に対し、牢人の召し放ち、秀頼の大和または伊勢への国替えの二者択一
を命じる。
これは冬の陣の講和条件における、牢人対する不問と国替えはしない。という条件の違反であった。
家康は、ゴリ押しに再戦へと大坂方を追い込んだのです。
一般に城攻めには、城兵の10倍の戦力が必要であるとされます。
この説によれば、冬の陣では10万以上の兵が籠もった名城で、100万の兵をもってしても落すことはでき
ないことになる。
籠城が数年におよべば、家康の寿命がるきる。また、徳川方の旗色悪しとみた諸将が大坂方に味方すると
いう事態も考えられたのです。
しかし、今やその城もなく、大坂方は野外決戦をしなければならなくなった。
相手は野戦の名人の家康です。大坂方には、万にひとつの勝機もない。
慶長20年4月7日、講和決裂によって家康が西国大名に出陣を命じる。
大坂夏の陣です。
戦闘は4月29日に始まった。大坂方5万5千、徳川方15万であった。
この日、塙団右衛門が単騎敵勢に突っ込み、華々しい戦死を遂げる。
勝ち目のない戦いならば、いくさ人として、己の人生を一節の語りぐさとして、名を残したいという思いが大坂
方の誰の胸にもあったのでしょう。
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和議の条件は、大坂城の外堀を埋めるというものであったが、家康は強引に二の丸、三の丸を破却し、
内堀まで埋め、城を裸城にしてしまった。
この謀略によって内堀まで埋め、裸城になったところを攻め落とすというのは、かつて秀吉が家康たちを
前にして、唯一の大坂城の攻城法として語ったものであった。
裸城の大坂城

家康は、それを実行したというわけですが、まさか自分が語った方法で息子が攻められるとは、夢にも思
わなかったことでしょう。
家康は剥き身と化した大坂方に対し、牢人の召し放ち、秀頼の大和または伊勢への国替えの二者択一
を命じる。
これは冬の陣の講和条件における、牢人対する不問と国替えはしない。という条件の違反であった。
家康は、ゴリ押しに再戦へと大坂方を追い込んだのです。
一般に城攻めには、城兵の10倍の戦力が必要であるとされます。
この説によれば、冬の陣では10万以上の兵が籠もった名城で、100万の兵をもってしても落すことはでき
ないことになる。
籠城が数年におよべば、家康の寿命がるきる。また、徳川方の旗色悪しとみた諸将が大坂方に味方すると
いう事態も考えられたのです。
しかし、今やその城もなく、大坂方は野外決戦をしなければならなくなった。
相手は野戦の名人の家康です。大坂方には、万にひとつの勝機もない。
慶長20年4月7日、講和決裂によって家康が西国大名に出陣を命じる。
大坂夏の陣です。
戦闘は4月29日に始まった。大坂方5万5千、徳川方15万であった。
この日、塙団右衛門が単騎敵勢に突っ込み、華々しい戦死を遂げる。
勝ち目のない戦いならば、いくさ人として、己の人生を一節の語りぐさとして、名を残したいという思いが大坂
方の誰の胸にもあったのでしょう。
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