春を迎える江戸城
『梅花が爛漫の江戸城』
「ぺこぽこ大魔王さん」が東御苑の梅の花を紹介されていましたので、特に予定がなかった週末の日曜日に
行ってきました。
北の丸の駐車場を利用しましたので、入城したのは「北桔橋門」からです。ここは江戸城で一番の高石垣が
見ることが出来る門です。
北桔橋の高石垣

北桔橋門

北桔橋門から入城すると、すぐ巨大な天守台です。

今日は、梅の花を見に来ましたので、梅林坂を通って天神濠へと歩きます。

天気がいいので、青い空に梅の花がきれいです。

つぼみも多いので、今しばらくは楽しめると思います。


梅林を見て汐見坂を通り、再び本丸へ

現在の東御苑の観光客は、欧米の観光客が一番多いかと思います。

2020年の東京オリンピック開催に向けて、木造の江戸城天守復興運動がなされています。
ぜひ、東京観光の目玉として再建して頂きたいと思います。

天守台から見る本丸(一番手前が大奥)と大手町のビル群

暖かい一日を選んで、梅が満開の江戸城東御苑へ、ぜひ足を運ばれてください。
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「ぺこぽこ大魔王さん」が東御苑の梅の花を紹介されていましたので、特に予定がなかった週末の日曜日に
行ってきました。
北の丸の駐車場を利用しましたので、入城したのは「北桔橋門」からです。ここは江戸城で一番の高石垣が
見ることが出来る門です。
北桔橋の高石垣

北桔橋門

北桔橋門から入城すると、すぐ巨大な天守台です。

今日は、梅の花を見に来ましたので、梅林坂を通って天神濠へと歩きます。

天気がいいので、青い空に梅の花がきれいです。

つぼみも多いので、今しばらくは楽しめると思います。



梅林を見て汐見坂を通り、再び本丸へ


現在の東御苑の観光客は、欧米の観光客が一番多いかと思います。

2020年の東京オリンピック開催に向けて、木造の江戸城天守復興運動がなされています。
ぜひ、東京観光の目玉として再建して頂きたいと思います。

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pigletも攻めた 江戸城「清水門」
江戸城北の丸・清水門
清水門は、1624年に助役大名・浅野長晟により建てられた枡形の城門です。
門名については、昔この辺りに清水が湧き出ていた。また、古くはこの辺りに清水寺があったことから、
その名をとって清水門と称したともいわれています。
1759年、9代将軍・家重の第2子・重好をして、この門内に一家を創立させて門名にちなんで清水家と
称したといいます。
1863年の本丸炎上の時には、将軍家・茂と妻・和子は一時ここに移っていたそうです。
現在は、24時間開門されていますが、国指定重要文化財に指定されています。
9月16日、神保町に仕事で出向きましたので、夕刻に竹橋から九段下まで歩いてみました。
pigletの江戸城登城記(平成23年3月)は、「こちら」です。
江戸城・北の丸 (クリックで拡大します)

清水濠
写真の奥が竹橋です。

清水門土橋から望む牛ヶ淵
奥の屋根は、日本武道館です。

清水門

清水門を枡形から見る高麗門

枡形から見る内堀

高麗門前からの渡櫓門(枡形内)

九段下からの牛ヶ淵
ハスの時期に来て見たいですね。


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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 織田信雄
尾張国知多郡大野領主で信長の次男・織田信雄の家臣であり、従兄にあたる佐治一成の
もとへ嫁いだという。
佐治氏は、一成の父・佐治信方が信長の妹(お犬の方)を室とした織田一族で、秀吉は
清洲会議後に尾張を領有した信雄の懐柔を意図していたといいます。
≪本日の問題≫
清水門は、1624年に助役大名・浅野長晟により建てられた枡形の城門です。
門名については、昔この辺りに清水が湧き出ていた。また、古くはこの辺りに清水寺があったことから、
その名をとって清水門と称したともいわれています。
1759年、9代将軍・家重の第2子・重好をして、この門内に一家を創立させて門名にちなんで清水家と
称したといいます。
1863年の本丸炎上の時には、将軍家・茂と妻・和子は一時ここに移っていたそうです。
現在は、24時間開門されていますが、国指定重要文化財に指定されています。
9月16日、神保町に仕事で出向きましたので、夕刻に竹橋から九段下まで歩いてみました。
pigletの江戸城登城記(平成23年3月)は、「こちら」です。
江戸城・北の丸 (クリックで拡大します)

清水濠
写真の奥が竹橋です。


清水門土橋から望む牛ヶ淵
奥の屋根は、日本武道館です。

清水門

清水門を枡形から見る高麗門


枡形から見る内堀


高麗門前からの渡櫓門(枡形内)


九段下からの牛ヶ淵
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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 織田信雄
尾張国知多郡大野領主で信長の次男・織田信雄の家臣であり、従兄にあたる佐治一成の
もとへ嫁いだという。
佐治氏は、一成の父・佐治信方が信長の妹(お犬の方)を室とした織田一族で、秀吉は
清洲会議後に尾張を領有した信雄の懐柔を意図していたといいます。
≪本日の問題≫
piglet お江に会いに江戸城へ
『piglet お江に会いに大奥へ乱入』
江戸城は、動物侵入禁止の神聖な場所になっています。
しかし、そこは戦国武将のpigletです。「お江」に会うため知恵と勇気をもって江戸城に
乱入です。
先ずは、動物も入城可能な北の丸へ登城するため、清水門から入城です。
清水門
現在は北の丸公園へ自由に入城できる門のひとつで、国の重要文化財に指定されています。

後をつけられていないか、注意深く…、堀も…。

堀を覗き込む姿は、ヘッピリ腰になっています…。

北の丸に侵入し、しばしくつろぐpiglet

女・子供も行ける北の丸を後にして、いよいよ動物は入れない本丸へ!!
慎重なpigletは、自らキャリーに入ることを進言。

さあ~、あの北桔橋門をくぐると、大奥にいるお江には会うことができます。

左は深い平川濠、右も深い乾濠ですから、北桔橋門を通過するしかありません。
警備しているお巡りさんに、pigletであること、尾張(嘘をついてはいけません。)から来たこと、
キャリーから出ないことを説明し、特別に許可を貰いました。

本丸に入城したうさぎは、pigletが最初で最後かも知れませんが、本丸に登城です。
しかし、巨大な天守台があるのみで、天守はありません。

天守台の石垣は巨石で積み上げられています。

天守台から大奥方面を望むも、大火で燃えたらしく何も残っていません。

天守が燃えた後、本丸の代わりになった富士見櫓に行っても、人影はありません。

お江が江戸城に来た頃、よく海辺を見たという潮見坂に行くも、今は大手町のビルばかり…

お江の手がかりを探しに、大奥に…

本丸跡には、お江の手がかりがないことを残念がり、大奥から天守台を見上げるpiglet

江戸攻城に成功するも、お江は増上寺にいるとかで対面することはできず、北桔橋門から退城。

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応援ありがとうございました
『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 加藤清正
外様有力大名の福島正則(広島50万石)、田中忠政(筑後柳川32万石)、最上義俊
(山形57万石)、蒲生忠郷(会津若松60万石)などが改易されています。
最終的に秀忠が大御所の時代も含めると、外様23家、親藩・譜代16家も改易し、遠慮
なく改易するぞという姿勢を出し、大名統制を行い、幕府に刃向かいそうな芽はこと
ごとく潰しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:お江(楠戸義昭薯)>
江戸城は、動物侵入禁止の神聖な場所になっています。
しかし、そこは戦国武将のpigletです。「お江」に会うため知恵と勇気をもって江戸城に
乱入です。
先ずは、動物も入城可能な北の丸へ登城するため、清水門から入城です。
清水門
現在は北の丸公園へ自由に入城できる門のひとつで、国の重要文化財に指定されています。

後をつけられていないか、注意深く…、堀も…。


堀を覗き込む姿は、ヘッピリ腰になっています…。

北の丸に侵入し、しばしくつろぐpiglet


女・子供も行ける北の丸を後にして、いよいよ動物は入れない本丸へ!!
慎重なpigletは、自らキャリーに入ることを進言。


さあ~、あの北桔橋門をくぐると、大奥にいるお江には会うことができます。

左は深い平川濠、右も深い乾濠ですから、北桔橋門を通過するしかありません。
警備しているお巡りさんに、pigletであること、尾張(嘘をついてはいけません。)から来たこと、
キャリーから出ないことを説明し、特別に許可を貰いました。


本丸に入城したうさぎは、pigletが最初で最後かも知れませんが、本丸に登城です。
しかし、巨大な天守台があるのみで、天守はありません。

天守台の石垣は巨石で積み上げられています。


天守台から大奥方面を望むも、大火で燃えたらしく何も残っていません。

天守が燃えた後、本丸の代わりになった富士見櫓に行っても、人影はありません。

お江が江戸城に来た頃、よく海辺を見たという潮見坂に行くも、今は大手町のビルばかり…

お江の手がかりを探しに、大奥に…

本丸跡には、お江の手がかりがないことを残念がり、大奥から天守台を見上げるpiglet

江戸攻城に成功するも、お江は増上寺にいるとかで対面することはできず、北桔橋門から退城。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 加藤清正
外様有力大名の福島正則(広島50万石)、田中忠政(筑後柳川32万石)、最上義俊
(山形57万石)、蒲生忠郷(会津若松60万石)などが改易されています。
最終的に秀忠が大御所の時代も含めると、外様23家、親藩・譜代16家も改易し、遠慮
なく改易するぞという姿勢を出し、大名統制を行い、幕府に刃向かいそうな芽はこと
ごとく潰しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:お江(楠戸義昭薯)>
百名城21 「江戸城」 その4
将軍家とともに歴史を刻んだ 日本最大の城郭
『広大な縄張りや巨大な櫓・門が天下人の格を示す』
江戸城4回目の今回は、前回までの登城で廻りきれなかった北側の「桜田濠」~「竹橋」までの
門・濠について記載したいと思います
半蔵門に仕事に行った帰りに廻ってみましたが ちょうど1時間くらいで廻りました。
「桜田濠」
江戸城で一番景色のよい場所で四季折々の風景が見ることができるそうです。
秋には真っ赤な彼岸花が咲きその数は毎年増えているそうです。その時期に再訪したいものです。
半蔵門から見た桜田濠、写真は平成22年6月10日に撮ったものです。

「半蔵門」
半蔵門の名の由来は,伊賀忍者で有名な服部半蔵が警備をしていたから、この名がついたといわれています。
本能寺の変で、明智光秀軍に追われる家康を堺から三河に戻る際に援護し、無事に江戸へ帰還させた功績で家康が入城してから、ここに屋敷を与え防備をかねて住ませたといわれています。

桜田濠からの高さが良く分かります。

「半蔵濠」
吹き上げ曲輪の塁も始めは総て石垣にする計画でしたが、あまりの難航工事のため途中で中止となり、芝を植えた土塁の上部に鉢巻石垣を巡らした造りになっています。(桜田濠も同様です。)

「乾門」
ここから入ると宮内庁に通じ、皇室の方々の出入り門になっていて警備が厳重です。

「北桔橋門」
北桔橋門は高麗門だけが復元されております。
北桔橋を入るとその真向かいに天主台があります。当時は五層で高さ51m日本最大の天守閣がそびえていました。

「平川濠」
本丸に近い重要地点だったので、石垣は堅固、雄大で高く、濠は深く、見事な眺めです。

「竹橋」
竹橋御門は旧江戸城内曲輪15門の一つで徳川家康江戸入国の頃、「竹を編みて渡されしよりの名残」と、その由来が伝えられています。(他の説もあります)

「清水濠」
竹橋から平川橋(平川門)を望んでいます。
この竹橋の際に地下鉄の駅がありますので、今回は江戸城を半周して終わりにしました。
17時を過ぎていましたので、ジョギングの方がたくさん走られていましたので邪魔にならないように
端を歩きました。
次回は、千鳥が淵、牛が淵を歩いてみたいと思います。江戸城は広すぎます!!

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『広大な縄張りや巨大な櫓・門が天下人の格を示す』
江戸城4回目の今回は、前回までの登城で廻りきれなかった北側の「桜田濠」~「竹橋」までの
門・濠について記載したいと思います
半蔵門に仕事に行った帰りに廻ってみましたが ちょうど1時間くらいで廻りました。
「桜田濠」
江戸城で一番景色のよい場所で四季折々の風景が見ることができるそうです。
秋には真っ赤な彼岸花が咲きその数は毎年増えているそうです。その時期に再訪したいものです。
半蔵門から見た桜田濠、写真は平成22年6月10日に撮ったものです。

「半蔵門」
半蔵門の名の由来は,伊賀忍者で有名な服部半蔵が警備をしていたから、この名がついたといわれています。
本能寺の変で、明智光秀軍に追われる家康を堺から三河に戻る際に援護し、無事に江戸へ帰還させた功績で家康が入城してから、ここに屋敷を与え防備をかねて住ませたといわれています。

桜田濠からの高さが良く分かります。

「半蔵濠」
吹き上げ曲輪の塁も始めは総て石垣にする計画でしたが、あまりの難航工事のため途中で中止となり、芝を植えた土塁の上部に鉢巻石垣を巡らした造りになっています。(桜田濠も同様です。)

「乾門」
ここから入ると宮内庁に通じ、皇室の方々の出入り門になっていて警備が厳重です。

「北桔橋門」
北桔橋門は高麗門だけが復元されております。
北桔橋を入るとその真向かいに天主台があります。当時は五層で高さ51m日本最大の天守閣がそびえていました。

「平川濠」
本丸に近い重要地点だったので、石垣は堅固、雄大で高く、濠は深く、見事な眺めです。

「竹橋」
竹橋御門は旧江戸城内曲輪15門の一つで徳川家康江戸入国の頃、「竹を編みて渡されしよりの名残」と、その由来が伝えられています。(他の説もあります)

「清水濠」
竹橋から平川橋(平川門)を望んでいます。
この竹橋の際に地下鉄の駅がありますので、今回は江戸城を半周して終わりにしました。
17時を過ぎていましたので、ジョギングの方がたくさん走られていましたので邪魔にならないように
端を歩きました。
次回は、千鳥が淵、牛が淵を歩いてみたいと思います。江戸城は広すぎます!!

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「百名城21 江戸城」 その3
将軍家とともに歴史を刻んだ 日本最大の城郭
『広大な縄張りや巨大な櫓・門が天下人の格を示す』
江戸城3回目の今日は、普段は入城できない皇居側を城外から 城門について記載したいと思います
「桜田二重櫓」
桜田櫓とも巽櫓ともいわれる
江戸城に残る唯一の隅櫓で その姿は美しく濠に映えている 櫓の中には有事に備えて鉄砲・弓・
長柄・持筒などが保管されていたという
江戸城にはこのような二重または三重の櫓が20基もあったが 今では富士見櫓・伏見櫓の三基が
残っているだけです

「桔梗門」
かつては内桜田門といっていた
この門は三の丸に入る南門で 幕府の要職者が登下乗する門であり 大門六門の一つとして厳重に
警備され門外に下馬札があった
現在は 宮内庁の関係者や皇居参観の時の入り口 また この奥に皇宮警察本部があり その関係者
の出入り門になっています

「坂下門」
1862年1月 坂下門前の屋敷から登城途中にあった安藤信正を襲撃した 傷ついた信正は坂下門
内に逃げ込んで一命を取り留めた 世に言う坂下門外の変である
現在の坂下門は渡櫓門のみとなっているが 昔は江戸城の標準的は枡形の門で今とは違って渡櫓
門は左側にあったそうです

「皇居正門」
江戸城西の丸の大手門であったが 今は皇居正門となっている
もともとはこの門のすぐ前に高麗門があって一種の桝形をつくっていた
明治21年の宮殿造営の際に高麗門は撤去され 現在の渡櫓門のみとなり 名称も翌年から正門と改め
られています
天皇誕生日の12月23日と新年の2日の皇居一般参賀には この正門から一般の方も入場できます

「鉄橋」
昔はこの鉄橋は「西丸下乗橋」と言っていた新宮殿造営の時に木造橋から現在の鉄橋に架け替えられた
この橋を二重橋といわれていたそうです
二重橋というのは、前後(石橋と鉄橋)に橋が二つ重なって見えるから という通説もあるそうです

「二重橋」
皇居正門前の橋で 日本の古い文化と西洋文化とがよく調和した世界でもっとも美しい景観の一つである
といわれています
昔は西丸大手下乗橋といい木橋が架けられていた その木橋に替わり明治20年に架け替えられ石橋に
改め俗に「めがね橋」ともいわれていたそうです

「現代の江戸城!?」
皇居前広場から見る大手町(旧大名屋敷)のビル群 これが現代の江戸城かも知れませんね

2時間で東御苑と皇居の正門側を巡りましたが まだ半周を廻っておりません
本当に江戸城は広いです 時間をかけてゆっくり廻りたいものです
「リクエストがあったそうですから パパに代わってチョット顔をだしてみました」by 1号
PS.「あの~ まだ彼氏いないので誰か紹介してくださいな!」 「エッ 合コンに行きなさいと!!」

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<参考文献:現地案内板など>
『広大な縄張りや巨大な櫓・門が天下人の格を示す』
江戸城3回目の今日は、普段は入城できない皇居側を城外から 城門について記載したいと思います
「桜田二重櫓」
桜田櫓とも巽櫓ともいわれる
江戸城に残る唯一の隅櫓で その姿は美しく濠に映えている 櫓の中には有事に備えて鉄砲・弓・
長柄・持筒などが保管されていたという
江戸城にはこのような二重または三重の櫓が20基もあったが 今では富士見櫓・伏見櫓の三基が
残っているだけです

「桔梗門」
かつては内桜田門といっていた
この門は三の丸に入る南門で 幕府の要職者が登下乗する門であり 大門六門の一つとして厳重に
警備され門外に下馬札があった
現在は 宮内庁の関係者や皇居参観の時の入り口 また この奥に皇宮警察本部があり その関係者
の出入り門になっています

「坂下門」
1862年1月 坂下門前の屋敷から登城途中にあった安藤信正を襲撃した 傷ついた信正は坂下門
内に逃げ込んで一命を取り留めた 世に言う坂下門外の変である
現在の坂下門は渡櫓門のみとなっているが 昔は江戸城の標準的は枡形の門で今とは違って渡櫓
門は左側にあったそうです

「皇居正門」
江戸城西の丸の大手門であったが 今は皇居正門となっている
もともとはこの門のすぐ前に高麗門があって一種の桝形をつくっていた
明治21年の宮殿造営の際に高麗門は撤去され 現在の渡櫓門のみとなり 名称も翌年から正門と改め
られています
天皇誕生日の12月23日と新年の2日の皇居一般参賀には この正門から一般の方も入場できます

「鉄橋」
昔はこの鉄橋は「西丸下乗橋」と言っていた新宮殿造営の時に木造橋から現在の鉄橋に架け替えられた
この橋を二重橋といわれていたそうです
二重橋というのは、前後(石橋と鉄橋)に橋が二つ重なって見えるから という通説もあるそうです

「二重橋」
皇居正門前の橋で 日本の古い文化と西洋文化とがよく調和した世界でもっとも美しい景観の一つである
といわれています
昔は西丸大手下乗橋といい木橋が架けられていた その木橋に替わり明治20年に架け替えられ石橋に
改め俗に「めがね橋」ともいわれていたそうです

「現代の江戸城!?」
皇居前広場から見る大手町(旧大名屋敷)のビル群 これが現代の江戸城かも知れませんね

2時間で東御苑と皇居の正門側を巡りましたが まだ半周を廻っておりません
本当に江戸城は広いです 時間をかけてゆっくり廻りたいものです
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