肥後の鳳凰 肥後藩・細川重賢 その12
『人材育成にも注力した重賢』
重賢は経済復興に骨折ると同時に、熊本城内に藩校時習館を設立し、許可が得られれば身分に
関係なく入校が出来たという。
細川重賢(1721-1785年)

江戸の湯島聖堂、岡山の閑谷学校など、将軍や藩主のための学問所、藩校はあったが、家臣や
領民、藩外へも広く門戸を開いた日本初めての学校とされます。
今で言う奨学金制度も制定するなど、人材育成にも注力しています。
また、日本最初の公立の藩の医学校再春館を宝暦6年(1756年)に飽田郡宮寺村(現在の
二本木:熊本駅の近く)に創設、翌年開校し、その付属の薬草園も現在の薬園町に造っていま
す。
民政に力を入れ、仁政を施したことは言うまでもありません。
民はおおいに喜び、宝暦の中ごろから、村々では毎年「殿様祭り」を行うようになったといいま
す。
細川重賢は、天明5年(1785年)10月26日に江戸の龍口亭で没しています。
享年66歳。
品川の東海寺塔頭の妙解院に葬られ、遺髪と落歯は熊本市の妙解寺にあります。
熊本藩は長男・治年が継いでいます。
江戸時代の名君、上杉鷹山、野中兼山、細川重賢にお付き合い戴き、ありがとうございました。
次の戦国武将は、戦国時代の巨星を記事にしてみたいと思います。
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いつもありがとうございます。
この美しい姿は、いつになったら見ることができるのでしょう。

<参考文献:覇者の条件(海音寺潮五郎薯)>
重賢は経済復興に骨折ると同時に、熊本城内に藩校時習館を設立し、許可が得られれば身分に
関係なく入校が出来たという。
細川重賢(1721-1785年)

江戸の湯島聖堂、岡山の閑谷学校など、将軍や藩主のための学問所、藩校はあったが、家臣や
領民、藩外へも広く門戸を開いた日本初めての学校とされます。
今で言う奨学金制度も制定するなど、人材育成にも注力しています。
また、日本最初の公立の藩の医学校再春館を宝暦6年(1756年)に飽田郡宮寺村(現在の
二本木:熊本駅の近く)に創設、翌年開校し、その付属の薬草園も現在の薬園町に造っていま
す。
民政に力を入れ、仁政を施したことは言うまでもありません。
民はおおいに喜び、宝暦の中ごろから、村々では毎年「殿様祭り」を行うようになったといいま
す。
細川重賢は、天明5年(1785年)10月26日に江戸の龍口亭で没しています。
享年66歳。
品川の東海寺塔頭の妙解院に葬られ、遺髪と落歯は熊本市の妙解寺にあります。
熊本藩は長男・治年が継いでいます。
江戸時代の名君、上杉鷹山、野中兼山、細川重賢にお付き合い戴き、ありがとうございました。
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肥後の鳳凰 肥後藩・細川重賢 その11
『天下普請は災難』
もちろん倹約政治ばかりで、財政が大きく立ち直る筈はありません。
積極的に産業を興すこともやっています。
熊本城

養蚕、織物、山林などに役人を任命し、積極的に奨励しています。
糸取りや織物は京や近江の長浜から織人を連れて来て領内の民に教授させています。
山林行政には、水足五郎兵衛という武士が植樹に詳しいというので、これに命じ、絶え間なく領内
をまわらせ、その土地に適した木を植えさせ、土地の人に手入れの方法を詳しく教えたので、よく
育ったという。
また、阿蘇山から硫黄を採取して、これも大坂に売り出しています。
堀勝名は商機に俊敏で、彼は決して長田作兵衛に任せきりにせず、大坂地方にかくし目付を出し
て、米やその他の値段をたえず調べさせて報告させ、高い時に積み出しているのです。
土佐藩でも、やっていましたので、全国の大名が高値を狙って売っていたのでしょう。
また、彼の屋敷には色々な人物、町人、軍書読み、江戸の大通といわれるような者など出入りさせ
て、色々な情報を集めています。
これは物価を知る便宜のためばかりでなく、天下の政機を知るためでもあったのでしょう。
幕府の内議などを探り知ることは、この時代大変重要であったのです。
もし幕府に手伝い普請など命ぜられるようなことがあっては10年以上の不作にあったほどの損失
を受けます。
薩摩藩が木曽川の治水工事を命ぜられ、苦しんだことは有名です。
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もちろん倹約政治ばかりで、財政が大きく立ち直る筈はありません。
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養蚕、織物、山林などに役人を任命し、積極的に奨励しています。
糸取りや織物は京や近江の長浜から織人を連れて来て領内の民に教授させています。
山林行政には、水足五郎兵衛という武士が植樹に詳しいというので、これに命じ、絶え間なく領内
をまわらせ、その土地に適した木を植えさせ、土地の人に手入れの方法を詳しく教えたので、よく
育ったという。
また、阿蘇山から硫黄を採取して、これも大坂に売り出しています。
堀勝名は商機に俊敏で、彼は決して長田作兵衛に任せきりにせず、大坂地方にかくし目付を出し
て、米やその他の値段をたえず調べさせて報告させ、高い時に積み出しているのです。
土佐藩でも、やっていましたので、全国の大名が高値を狙って売っていたのでしょう。
また、彼の屋敷には色々な人物、町人、軍書読み、江戸の大通といわれるような者など出入りさせ
て、色々な情報を集めています。
これは物価を知る便宜のためばかりでなく、天下の政機を知るためでもあったのでしょう。
幕府の内議などを探り知ることは、この時代大変重要であったのです。
もし幕府に手伝い普請など命ぜられるようなことがあっては10年以上の不作にあったほどの損失
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薩摩藩が木曽川の治水工事を命ぜられ、苦しんだことは有名です。
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肥後の鳳凰 肥後藩・細川重賢 その10
『破れた畳』
服部南郭は萩生徂徠門下で、当時第一の詩人といわれた人物ですが、白銀台の肥後藩邸に招かれ
て来て、重賢の浴室を見て、その粗末さに驚いて
「小身の者でも、これほどでない」
と、言ったという。
熊本城

こんな話もあります。
ある時、重賢の居間に竹原玄路と老女の初島が来て、重賢と話をしていたが、重賢が厠へ立った
留守に、初島が竹原に
「ごらんなされよ、このお居間を。とうてい54万石の太守のお居間とは思えないでしょう。畳は
破れ、壁は煤け、うとましいこと。畳替えをなさるようにと、いつも申し上げるのですが、お聞き
入れになさらないのですよ」
と語った。
重賢は厠から出てきて、手を洗っていたが、これを耳にして
「ほんとよのう。初島の言う通り、古いものはうとしいものじゃ。初島も長い間、奉公して、年が
寄った故、今日からは捨てるぞよ」
といって、笑ったという。
54万石で、畳は破れ、壁は煤けていたとは、なんとも切ない話ですね。
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服部南郭は萩生徂徠門下で、当時第一の詩人といわれた人物ですが、白銀台の肥後藩邸に招かれ
て来て、重賢の浴室を見て、その粗末さに驚いて
「小身の者でも、これほどでない」
と、言ったという。
熊本城

こんな話もあります。
ある時、重賢の居間に竹原玄路と老女の初島が来て、重賢と話をしていたが、重賢が厠へ立った
留守に、初島が竹原に
「ごらんなされよ、このお居間を。とうてい54万石の太守のお居間とは思えないでしょう。畳は
破れ、壁は煤け、うとましいこと。畳替えをなさるようにと、いつも申し上げるのですが、お聞き
入れになさらないのですよ」
と語った。
重賢は厠から出てきて、手を洗っていたが、これを耳にして
「ほんとよのう。初島の言う通り、古いものはうとしいものじゃ。初島も長い間、奉公して、年が
寄った故、今日からは捨てるぞよ」
といって、笑ったという。
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肥後の鳳凰 肥後藩・細川重賢 その9
『質素な生活』
金の融通がきくようになっても、重賢は気をゆるして贅沢をするような人ではありません。
鎖国・封建の時代は積極策をとっても、質素倹約をしないかぎり行き詰るのです。
細川重賢(1721-1785年)

重賢自身も
「わしの領地は54万石だが、54万石のつもりで生活していれば、立ちどころに貧困になるだろう。
じゃから、わしは20万石の見代じゃと思っている。その心得で、万事のことを賄うよう」
い言っていた。
また、領民らにも倹約令のふれを出しています。
家臣、民百姓、その妻子らの衣服、飲食等のこと、祝儀・不祝儀、祭日等の飲食物のことまで規定
しているのです。
贈答品などは、親類間以外は一切禁止です。
自らも、これを厳守した。
朝食は茶漬、香の物、焼味噌、梅干。汁はなしです。
昼食は一汁、一葉、夜は吸い物、ありあわせの軽い魚一皿、酒、飯、香の物、焼味噌というもので
す。
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鎖国・封建の時代は積極策をとっても、質素倹約をしないかぎり行き詰るのです。
細川重賢(1721-1785年)

重賢自身も
「わしの領地は54万石だが、54万石のつもりで生活していれば、立ちどころに貧困になるだろう。
じゃから、わしは20万石の見代じゃと思っている。その心得で、万事のことを賄うよう」
い言っていた。
また、領民らにも倹約令のふれを出しています。
家臣、民百姓、その妻子らの衣服、飲食等のこと、祝儀・不祝儀、祭日等の飲食物のことまで規定
しているのです。
贈答品などは、親類間以外は一切禁止です。
自らも、これを厳守した。
朝食は茶漬、香の物、焼味噌、梅干。汁はなしです。
昼食は一汁、一葉、夜は吸い物、ありあわせの軽い魚一皿、酒、飯、香の物、焼味噌というもので
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肥後の鳳凰 肥後藩・細川重賢 その8
『名君、銀台候』
堀勝名は喜んで会って、財政立て直しのプランを打ち明けて協力を要請した。
長田作兵衛は、そのプランにも堀の人物にも感心して、これは必ず成功すると見極めをつけ、
「永大、お蔵元を仰せつけられ、ご領内の産物を残らずわたくしにお任せくださるなら、仰せつ
けられ次第、わたくし所持の金子は全部でもご用立てして、全身的に踏みはまって御用を相務め
ましょう」
「そうしてくれるか。礼を申すぞ」
双方とも、永代変わらないとの誓言を立てて、契約が成立した。
金の融通がつけば、魚が水を得たようなものです。
善政も抱負も思うままに行うことができます。堀の名君ぶりが光り、当代一の名君、銀台候とた
たえられることになるのはこの時からです。
細川家の上屋敷は芝の白銀台(しろがねだい)にあったので、当時の人は銀台候と異名してたた
えたという。
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いつになったら復元できるのでしょうか。熊本城

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堀勝名は喜んで会って、財政立て直しのプランを打ち明けて協力を要請した。
長田作兵衛は、そのプランにも堀の人物にも感心して、これは必ず成功すると見極めをつけ、
「永大、お蔵元を仰せつけられ、ご領内の産物を残らずわたくしにお任せくださるなら、仰せつ
けられ次第、わたくし所持の金子は全部でもご用立てして、全身的に踏みはまって御用を相務め
ましょう」
「そうしてくれるか。礼を申すぞ」
双方とも、永代変わらないとの誓言を立てて、契約が成立した。
金の融通がつけば、魚が水を得たようなものです。
善政も抱負も思うままに行うことができます。堀の名君ぶりが光り、当代一の名君、銀台候とた
たえられることになるのはこの時からです。
細川家の上屋敷は芝の白銀台(しろがねだい)にあったので、当時の人は銀台候と異名してたた
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