出羽国米沢藩第9代藩主・上杉鷹山 その11
『3代をかけて健全財政へ』
鷹山がいかに仁慈の心に富んでいたかについて、こんな話があります。
ある年の台風の季節、田んぼには稲が実っていた。
「これで台風が来ねば、今年は豊作だの」
と、鷹山が言ったら侍臣の一人が、なんとか寺のなしがしという僧は、風の方向を変える法力を持
っているそうです。召して、台風がご領内を襲わぬように祈らせたらどうでしょうと言ったところ、
上杉鷹山(1751-1822年)

鷹山は
「それではわしの領内は助かっても、他領の民は助からない。他領の民も人間だ。どこを襲ってくれ
ないようにと、神仏に祈るほかはない」
と言ったという。
こういう鷹山でしたので、天明の飢饉には奥羽一帯は惨たる被害で、餓死者が道路に横たわり、死
人の肉を食う者もあったほどであったが、米沢領内は餓死者は少なかったという。
鷹山が早くから天候の不順であるのを見て、用心し、食を節して食い延ばすことにしたばかりでな
く、かねてから凶作の際の用心に蓄えておいた穀物を出して施したためであったという。
鷹山の政治は、純粋に儒学の方法により奇手を用いないので、時間は随分かかります。完全に財政
の立て直しが出来たのは1823年(文政6年)でした。
すなわち、鷹山が亡くなった翌年です。 なんと55年かかっています。
米沢の人の誠実で強靭な性格は、鷹山の流風余韻なのでしょうか。
出羽国米沢蕃第9代藩主・上杉鷹山にお付き合い頂きありがとうございました。
次回は、土佐藩家老・野中兼山について勉強してみたいと思います。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:覇者の条件(海音寺潮五郎薯)>
鷹山がいかに仁慈の心に富んでいたかについて、こんな話があります。
ある年の台風の季節、田んぼには稲が実っていた。
「これで台風が来ねば、今年は豊作だの」
と、鷹山が言ったら侍臣の一人が、なんとか寺のなしがしという僧は、風の方向を変える法力を持
っているそうです。召して、台風がご領内を襲わぬように祈らせたらどうでしょうと言ったところ、
上杉鷹山(1751-1822年)

鷹山は
「それではわしの領内は助かっても、他領の民は助からない。他領の民も人間だ。どこを襲ってくれ
ないようにと、神仏に祈るほかはない」
と言ったという。
こういう鷹山でしたので、天明の飢饉には奥羽一帯は惨たる被害で、餓死者が道路に横たわり、死
人の肉を食う者もあったほどであったが、米沢領内は餓死者は少なかったという。
鷹山が早くから天候の不順であるのを見て、用心し、食を節して食い延ばすことにしたばかりでな
く、かねてから凶作の際の用心に蓄えておいた穀物を出して施したためであったという。
鷹山の政治は、純粋に儒学の方法により奇手を用いないので、時間は随分かかります。完全に財政
の立て直しが出来たのは1823年(文政6年)でした。
すなわち、鷹山が亡くなった翌年です。 なんと55年かかっています。
米沢の人の誠実で強靭な性格は、鷹山の流風余韻なのでしょうか。
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出羽国米沢藩第9代藩主・上杉鷹山 その10
『生せは生る 成さねは生らぬ 何事も 生らぬは人の 生さぬ生けり』
文教政策としては、藩校興譲館を建て、また医学館も建てています。
武術の奨励はいうまでもなく、従来ずっと絶えていた武道上覧を再興させています。
産業の奨励も各方面で行っています。
開墾、用水路の整備、植樹など、この植樹には杉、松、ヒノキはもちろんのこと、漆、楮(こうぞ
)、桑などを百万本も植えているのです。
上杉鷹山公

「当家は、30万石から15万石になったのだから、工夫と努力で、15万石の土地から30万石
の収入を上げ得る筈である。それを目途としてやろう」
というのでした。
米沢は織物の町であったといいますが、これも鷹山によってなされたのです。
元来、米沢はカラムシ(青苧)の産地であったが、これまで原料のまま移出されていたが、鷹山は
越後の小地谷からちぢみ職人を呼び寄せ、家中の武士の子女らにそれを教授ます。
カラムシを原料とするだけでなく、麻を原料とする織物も伊達や福島から職人を入れて養蚕を奨励
し、絹織物も始めています。
鷹山は武士の子女らが織物をすることを奨励し、高級な織物は上流武士の子女でなければ織ること
を許さない定めにしたといいます。
上流武士の家は生活が楽ですから、単に内職を奨励しても働きません。
しかし、上級武士の家族でなければ、この種類のものは織ることは許されないのだということにな
れば、織る気になります。
人間心理の機微をつかんでいると感心してしまいます。
以上のほか、紙、墨、茶、藍、梨の栽培、陶磁器、鍛冶、武器類、陶器、ロウソク、たばこ、馬、
養魚など米沢地方でやれるものはすべて取り入れて奨励したのです。
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米沢城の上杉景勝と直江兼続像(天地人)

<参考文献:覇者の条件(海音寺潮五郎薯)>
文教政策としては、藩校興譲館を建て、また医学館も建てています。
武術の奨励はいうまでもなく、従来ずっと絶えていた武道上覧を再興させています。
産業の奨励も各方面で行っています。
開墾、用水路の整備、植樹など、この植樹には杉、松、ヒノキはもちろんのこと、漆、楮(こうぞ
)、桑などを百万本も植えているのです。
上杉鷹山公

「当家は、30万石から15万石になったのだから、工夫と努力で、15万石の土地から30万石
の収入を上げ得る筈である。それを目途としてやろう」
というのでした。
米沢は織物の町であったといいますが、これも鷹山によってなされたのです。
元来、米沢はカラムシ(青苧)の産地であったが、これまで原料のまま移出されていたが、鷹山は
越後の小地谷からちぢみ職人を呼び寄せ、家中の武士の子女らにそれを教授ます。
カラムシを原料とするだけでなく、麻を原料とする織物も伊達や福島から職人を入れて養蚕を奨励
し、絹織物も始めています。
鷹山は武士の子女らが織物をすることを奨励し、高級な織物は上流武士の子女でなければ織ること
を許さない定めにしたといいます。
上流武士の家は生活が楽ですから、単に内職を奨励しても働きません。
しかし、上級武士の家族でなければ、この種類のものは織ることは許されないのだということにな
れば、織る気になります。
人間心理の機微をつかんでいると感心してしまいます。
以上のほか、紙、墨、茶、藍、梨の栽培、陶磁器、鍛冶、武器類、陶器、ロウソク、たばこ、馬、
養魚など米沢地方でやれるものはすべて取り入れて奨励したのです。
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米沢城の上杉景勝と直江兼続像(天地人)

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出羽国米沢藩第9代藩主・上杉鷹山 その9
『七家騒動』
鷹山はきびしい倹約政治を励行したが、なかなか旨く行きません。
少しゆとりが出来たかと思うと、江戸の大火で桜田と麻布の藩邸が丸焼けになったりしたのです。
鷹山は屈せず努力を続け、領内の殖産にも取りかかるが、これも急に効果が上がるものではありま
せん。
米沢城 (米沢城登城記は「こちら」です。)

そのためでしょう。
江戸の大火にあった翌年の安永2年の夏、鷹山が帰国したところ、重臣らはわざと美衣を着て迎え
たばかりでなく、7老臣が連判の書付を差し出したのです。(七家騒動)
内容は鷹山の政治の弾劾状です。
「直ぐご返答をうけたまわりとうござる」
と、強要する。
「老公にご相談の上、返答する」
と、言ったが、きかない。
鷹山が立とうとすると、袴の裾をとって引き据えるありさまです。
これを見て、隣室から近習の佐藤文四郎が走り出して来て
「無礼でござるぞ!」
と、その手をはらい、鷹山はやっとその場を退出させた。
以降、この老臣らは病気と称して出仕しない。鷹山は使を出し言葉を尽くして、出仕を促したが出て
こないのです。
やむなく、鷹山は重定(義父)と相談して、処罰した。
2人は切腹、他は知行を減らした上で、隠居、閉門を命じた。
結局は、これが良かったのです。
鷹山の政治は、これから軌道に乗ることになります。
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鷹山はきびしい倹約政治を励行したが、なかなか旨く行きません。
少しゆとりが出来たかと思うと、江戸の大火で桜田と麻布の藩邸が丸焼けになったりしたのです。
鷹山は屈せず努力を続け、領内の殖産にも取りかかるが、これも急に効果が上がるものではありま
せん。
米沢城 (米沢城登城記は「こちら」です。)

そのためでしょう。
江戸の大火にあった翌年の安永2年の夏、鷹山が帰国したところ、重臣らはわざと美衣を着て迎え
たばかりでなく、7老臣が連判の書付を差し出したのです。(七家騒動)
内容は鷹山の政治の弾劾状です。
「直ぐご返答をうけたまわりとうござる」
と、強要する。
「老公にご相談の上、返答する」
と、言ったが、きかない。
鷹山が立とうとすると、袴の裾をとって引き据えるありさまです。
これを見て、隣室から近習の佐藤文四郎が走り出して来て
「無礼でござるぞ!」
と、その手をはらい、鷹山はやっとその場を退出させた。
以降、この老臣らは病気と称して出仕しない。鷹山は使を出し言葉を尽くして、出仕を促したが出て
こないのです。
やむなく、鷹山は重定(義父)と相談して、処罰した。
2人は切腹、他は知行を減らした上で、隠居、閉門を命じた。
結局は、これが良かったのです。
鷹山の政治は、これから軌道に乗ることになります。
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出羽国米沢藩第9代藩主・上杉鷹山 その8
『江戸料理で手伝い普請対策』
鷹山が説得するも、重臣らは受け入れようとしません。
米沢城(米沢神社)

隠居・重定は、隠居後は米沢にいましたが、これを聞いて、重臣らを召して
「その方どもの言うことも道理でだが、館(藩主)が江戸でふれ出してすでに実行しているものを、
国もとでは受け付けませんとあっては、館の威光にもかかわる。よし。しからば、わしが本丸に出
て、館に代わって申し渡すことにする」
と言って、本丸で申し渡した。
重臣らは、恐れ入って従ったが、芋川正令だけは、わしは飽くまでも不服じゃ。と言って出て来な
かった。
この大倹約によって財政を立て直そうとの政治が始まったが、老臣らが鷹山を軽蔑しきっていて、
何かと邪魔をするので随分やりにくかったという。
一方、江戸での諸大名はお留守居という外交官を江戸に駐在させていたが、そのお留守居の主た
る任務は、老中や用人に取り入って、手伝い普請がこないようにすることにあった。
そのため、お留守居には豊富な運動資金が与えられ、進物、饗応などをしていたのです。今の言葉
で言えば社用族ですから、金に糸目をつけず、ぜいたくな宴会などを開いていたのです。
これらの宴会の江戸料理は、お留守居の人たちが作り出した料理だったのです。
今日、江戸前の料理といえば、にぎり寿司やおでん、蕎麦くらいしか残っていないのでしょうが、
こんな料理は街頭料理で、ガテン系の人のものだったのです。
本当の江戸前の料理は、八尾善などの一流料亭の料理で、その殆どは江戸とともに滅んでしまっ
ています。
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鷹山が説得するも、重臣らは受け入れようとしません。
米沢城(米沢神社)

隠居・重定は、隠居後は米沢にいましたが、これを聞いて、重臣らを召して
「その方どもの言うことも道理でだが、館(藩主)が江戸でふれ出してすでに実行しているものを、
国もとでは受け付けませんとあっては、館の威光にもかかわる。よし。しからば、わしが本丸に出
て、館に代わって申し渡すことにする」
と言って、本丸で申し渡した。
重臣らは、恐れ入って従ったが、芋川正令だけは、わしは飽くまでも不服じゃ。と言って出て来な
かった。
この大倹約によって財政を立て直そうとの政治が始まったが、老臣らが鷹山を軽蔑しきっていて、
何かと邪魔をするので随分やりにくかったという。
一方、江戸での諸大名はお留守居という外交官を江戸に駐在させていたが、そのお留守居の主た
る任務は、老中や用人に取り入って、手伝い普請がこないようにすることにあった。
そのため、お留守居には豊富な運動資金が与えられ、進物、饗応などをしていたのです。今の言葉
で言えば社用族ですから、金に糸目をつけず、ぜいたくな宴会などを開いていたのです。
これらの宴会の江戸料理は、お留守居の人たちが作り出した料理だったのです。
今日、江戸前の料理といえば、にぎり寿司やおでん、蕎麦くらいしか残っていないのでしょうが、
こんな料理は街頭料理で、ガテン系の人のものだったのです。
本当の江戸前の料理は、八尾善などの一流料亭の料理で、その殆どは江戸とともに滅んでしまっ
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出羽国米沢藩第9代藩主・上杉鷹山 その7
『反発する重臣たち』
米沢にいる重臣らは、鷹山が送った文書を見て、ある者は
「お館は、まだ17歳のお年若じゃ。これは名文過ぎるは。必定、お側にいる莅戸善政や木村高広
なんどというやからが、知恵を押しつけたにきまった」
と言い、ある者は
「ご自身がお書きになったとしても、これほど重大なことを、われら老臣どもに一言のご相談もな
く独断でお決めになるということがあるものか。承服まかりならぬ」
と言い、ある者は
「江戸詰めの者にはご自身申されながら、国詰めの者には、われをしてご通達というのは、つり合
いがとれぬ。国侍を軽く見ておわすのか」
という。
米沢城の上杉鷹山

愚にもつかない言いぐさですが、もともと鷹山を軽蔑して、家付きの家臣の威をしたたかに見せつ
けようという腹なのです。
これが報告されたので、鷹山は重臣ら一人ひとりに親書を与えて懇々と説諭したという。
この手紙も、ほとんど嘆願の調子です。
「家の財政の危急、明日にもはかりがたいということを聞いて、恐怖のあまり、とりかかったのだ
が、その方どもに言われて軽率の至りであったと思う。しかし、いささかもその方どもを軽んじる
心はなかった。今後のことを戒めてくれたのは、浅からぬ親切だと思う。今後は必ず訓戒に従っ
てはかろう」
という意味の文句があり、
「今更後悔しても及ばぬことであるが、わしの申し渡したことが空しくならないように工夫しても
らいたい。その方どもは皆わしのためを思って、訓戒もしてくれたのだから、わしの申し渡したこ
とを、もう一度よく評議してほしい」
という意味の文句もあります。
手をついて頭をすりつけて頼んでいる風です。
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米沢城

<参考文献:覇者の条件(海音寺潮五郎薯)>
米沢にいる重臣らは、鷹山が送った文書を見て、ある者は
「お館は、まだ17歳のお年若じゃ。これは名文過ぎるは。必定、お側にいる莅戸善政や木村高広
なんどというやからが、知恵を押しつけたにきまった」
と言い、ある者は
「ご自身がお書きになったとしても、これほど重大なことを、われら老臣どもに一言のご相談もな
く独断でお決めになるということがあるものか。承服まかりならぬ」
と言い、ある者は
「江戸詰めの者にはご自身申されながら、国詰めの者には、われをしてご通達というのは、つり合
いがとれぬ。国侍を軽く見ておわすのか」
という。
米沢城の上杉鷹山

愚にもつかない言いぐさですが、もともと鷹山を軽蔑して、家付きの家臣の威をしたたかに見せつ
けようという腹なのです。
これが報告されたので、鷹山は重臣ら一人ひとりに親書を与えて懇々と説諭したという。
この手紙も、ほとんど嘆願の調子です。
「家の財政の危急、明日にもはかりがたいということを聞いて、恐怖のあまり、とりかかったのだ
が、その方どもに言われて軽率の至りであったと思う。しかし、いささかもその方どもを軽んじる
心はなかった。今後のことを戒めてくれたのは、浅からぬ親切だと思う。今後は必ず訓戒に従っ
てはかろう」
という意味の文句があり、
「今更後悔しても及ばぬことであるが、わしの申し渡したことが空しくならないように工夫しても
らいたい。その方どもは皆わしのためを思って、訓戒もしてくれたのだから、わしの申し渡したこ
とを、もう一度よく評議してほしい」
という意味の文句もあります。
手をついて頭をすりつけて頼んでいる風です。
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米沢城

<参考文献:覇者の条件(海音寺潮五郎薯)>