戦国乱世 その23

『上昇・転化』

足利政権は鎌倉幕府のいわば繰り返しで、南北朝動乱の繰り返しが戦国動乱となった感もあり

ます。

真に土地に立脚する者に最終の勝利がおとずれますが、その成長は遅々とし、いく度も、幾度

も代表者を推しあげるが、のし上がった者はたちまち貴族側に走っていわゆる上昇・転化がくり

返された。

織田信長(1534-1582年)
od.織田信長公

そのくり返しのうちに、いちおう土地に立脚した者が社会の表面に現れたのが、戦国乱世だった

のでしょう。

これを民衆時代到来として見ることもできるのでしょうけど、真に土地に立脚した者の出現では

なかった。

天下統一の信長政権も、なお鎌倉政権のくり返しの姿になります。

民衆がその政権の基盤に成長しているので、異質的なことはいうまでもありませんが、形のうえ

では信長は、鎌倉右大将殿頼朝の再現です、信長は公家の大将を狙ったのかも知れません。

その決意は桶狭間の戦いの頃にあったのかも知れませんが、それが固まったのは1567年(永

禄10)の岐阜入城によってです。

時運もここで信長を迎え、信長の「天下布武」が進められます。




戦国乱世のタイトルで、戦国時代背景を少し勉強してみました。

次回からは、観光名所となっている城郭について勉強してみたいと思います。 

よかったら、お付き合いください。




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もう、10月なのですね。

pig 20161001





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戦国乱世 その22

『暴力行為の繰り返し』

畿内では、三好長慶が1564年(永禄7)、家臣らの主導権争いに憤死し、国衆の乱闘時代に戻

ったかのように思わせる戦乱が展開した。

ここで町人らの実力は国衆らを上回っている。

松永秀久(1510-1577年)
ma.松永久秀03

町人も国衆らの縁者ですが、乱闘に無益な援助はしない。しかも町人らは、なお貴族武家の復興を

望んだ。

松永秀久は主家の三好義継と図って、1565年(永禄8)に将軍・義輝を殺したが、これで三好

家の家臣らの激突がはじまり、久秀の制覇の望みも絶えています。

久秀の将軍・義輝の殺逆は、伝統的権威に対する反撃だったのでしょう。

無力化した将軍を殺害する必要はありません。しかし、その存在のため、名もない者の出世は妨げ

られるし、対立する国衆はともかく領国の確立すらできないのです。

とりわけ町人などは、貴族・武家あっての秀久として彼を遇したのです。

そこで秀久は凶刀をふるったのでしょうが、秀久も権威否定に徹した訳でもないのです。

赤松満祐の将軍・義教殺逆事件とこれとは、比較して説く必要もないほどの差がありますが、案外

に暴力行為の繰り返しという点では共通点が大きいのでしょう。



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pig 20160929



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戦国乱世 その21

『全国政権を待望する町衆』

1560年(永禄3)桶狭間の戦いは、織田信長の勝利もそうですが、今川義元の上洛ということ

が群雄を刺激したでしょう。

当時の大名たちの諜報網は著しく発達していて、川中島の合戦をしばしば繰り返していた上杉謙信

や武田信玄がまず感じたことでしょう。

川中島の戦いの謙信公と信玄公
ka.川中島の戦い

越後や甲斐は中央化が遅れており、それが謙信や信玄の一代のうちに飛躍的に中央色に染まって

いったと思われます。

この2人に織田信長が加わります。信長は小名ですが冒険好きという条件を兼備していたのです。

この信長が進むところに幸運が追従し、冒険の進路を開けてくれたのです。

その他の大名たちは、応仁の乱の教訓から、大内氏に擁立された将軍・義稙(よしたね)時代の

栄華のはかなさも知っていた。

群雄らの多くは大内氏の滅亡を上洛のせいだと考えたに違いありません。これは武田信玄も同じ

だったのでしょう。

信玄は上洛のかけ声ばかりで、その行動が伴わなかったことから推測できるのではないのでしょ

うか。

一方、上杉謙信がいちばん上洛の意欲を持っていたといえそうです。

このほか越前の朝倉氏は上洛を欲したのでしょうが、一向一揆に阻害されて領国が確立していま

せんでした。

しかし、天下統一の気運は動いていて、文化のからみあいもありますが、全国政権の待望が「都」

の町衆らから発散していたのです。

しかし、西国との往来が盛んだった町人らは、東国から西上を欲する織田・上杉・武田氏らに注

意を払わなかったらしい。というより、これらの上洛の決意が聞こえてこなかったのかも知れま

せん。



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pig 20160928



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戦国乱世 その20

『文化人であった戦国大名』

戦国大名は学芸に励んだといいます。

その子弟には和漢の学芸を武芸とともに習わせています。

大名らの子弟は寺に通わせたというより、むしろ僧侶らを居館に招いて教授させ、寺に通わせたのは

家臣どもの子弟だったといいます。

戦国無双の義元さん
im. 今川義元・戦国無双 002

また、戦国武将たちは文字が上手かった。

これらの教養のすべてが権力的要素であったし、戦力の一翼ともなるものであったのです。

貴族化した奢侈生活さえも、その権威化のために役立てています。

さらに公家の子女を家に迎えるようになります。細川政元が九条関白家から養子・澄之を家に迎えた

のは画期的なことです。

駿河の今川氏もしばしば妻女・養子を公卿から迎えています。

また、武田信玄の継妻(三条の方)も公卿の出であった。

今川義元は、公卿そのものの生活を展開し、駕興で上洛軍を率いて、桶狭間で落命した。

周防の大内氏も文化人大名であったが、義元同様、その武士たる主体性を失って亡んでいます。



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sakura 20160927





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戦国乱世 その19

『金力の天下統一』

もとより国衆らが握った畿内中小都市も「都」に従属した。

将軍家と細川・三好氏らが握る「都」と国衆の都市とで、都市を媒介として全国組織が成立していき

ます。

賑あう京の町
ky.京都

商人の往来や商品流通が大名領国の障壁を崩すようになります。

「都」を頂点として、西は薩摩、東は陸奥に至る経済網が張られたのです。

城下町などはその結節点で、大名領国はその網目で、なお、そこに子網が張られた形であった。

経済的には全国組織が成立したといっていいのでしょう。

「都」の町人らの全国政権出現の待望は高まります。

金力の天下統一が、武力の天下統一を一歩先んじた感があった。

もちろん金力と武力は即一的なものだったのです。



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sakura 20160926


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