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小田原平定 その18

『家康の決意』

天正17年(1589年)12月22日、駿府に帰った家康は翌年正月3日、むだな嫌疑をさけ

るために、第3子の長丸を人質として秀吉のもとに送った。

徳川秀忠(1579-1632年)
to.徳川秀忠

長丸はのちの2代将軍・秀忠であり、ときに12歳であった。

秀吉は、正月15日喜んで聚楽第に長丸を迎え、元服させて秀忠と名づけた。

秀忠の秀は、秀吉の「秀」であった。

そして正月21日には、織田信勝の娘と結婚させ、すぐに秀忠を駿府に送り帰した。

秀吉は、家康の決意を疑わなかったのでしょう。



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robin 20190716




<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
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小田原平定 その17

『小田原征伐の始動』

秀吉の宣戦布告状を受け取った北条氏政と氏直はさすがに驚き、12月7日には富田知信・津田

信勝あてに、また12月9日には家康宛てに書状を書いて、名胡桃奪取と上洛遅延の弁解につと

めた。

駿府城の家康
to.家康 駿府城

また、氏規も12月9日に家康宛てに書状を送って、「しかるべき取り成し」かたを依頼してい

る。

しかし、これらの書状が、駿府に届けられたときには、家康は、すでに駿府を出発して上洛の途

についていた。

家康は11月29日、駿府を出発した。

おそらくは氏直に秀吉の宣戦布告状を送付した、その直後に京都に向かったのでしょう。

家康は秀吉の決意を、身に染みて感じていたのでしょう。

上洛した家康は、12月10日聚楽第で、在京中の上杉景勝や前田利家らとともに。北条氏討伐

の作戦会議を行った。

そして13日には、酒井家次に命じて、使者を駿府に急派させ、小田原出陣の準備をさせた。



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robin 20190715



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小田原平定 その16

『宣戦布告状 その2』

宣戦布告の第5条は長文になりますが、秀吉の半生がわかりますので、全文を紹介したいと思い

ます。

第4条

沼田要害請け取り候上は、右の一札に相任せ、則(すなわ)ち罷り上るべしと思(おぼ)し食(

め)され候処、真田相抱ふ「なくろみ」の城を取り、表裏仕(つかさまつ)り候上は、使者に御

対面ならされるべき儀に非ず候。かの使、生害に及ぶべきといへども、命を助け返し遣し候こと。

大阪城の秀吉
to.豊臣秀吉 002

第5条

秀吉若輩の時、孤児となりて、信長公の幕下に属し、身を野山に捨て、骨を海岸に砕き、干戈(

かんか)を枕として、夜半に寝て、夙(つと)におきて、軍忠をつくし、戦功をはげます。しか

し、中ごろより、君恩を蒙(こうむ)り、人に名を知らせる。これによって西国征伐の儀、仰せ

付けられ、大敵に対し雌雄を争ふの刻、明智日向守光秀、無道の故をもって、信長公を討ち奉る。

この注進を聞き届け、いよいよ彼の表押に報い会稽(かいけい)を雪(そそ)ぐ。そののち柴田

修理亮勝家、信長公の厚恩を忘れ、国を乱し叛逆の条、これまた退治せしめをはんぬ。

このほか諸国の叛く者はこれを討ち、降るものはこれを近づけ、麾下(きか)に属せざるものな

し。就中(なかんづく)秀吉は一言の表裏もこれにあるべからず。この故をもって、天命に

相叶ふものか。予すでに登龍揚鷹(とうりゅうようおう)の誉れをあげ、塩梅則闕(あんばいそ

くけつ)の臣となり、万機の政ごとに関与す。しかるところに、氏直、天道の正理に背き、帝都

に対し奸謀(かんぼう)す。なんぞ天罰を蒙ららんや。古諺(こげん)に曰く「巧詐は排誠(せ

つせい)にしからず」と。所詮普天(ふてん)の下、勅命に逆ふ輩(やから)は、早く誅伐を加

へざるべからず。来歳、必ず節機(せつき)を携え進発せしめ、氏直の首を刎ぬべここと、踝(

くびす)をめぐらすべからざるものなり。

天正17年11月24日         (秀吉朱印)

北条右京大夫(氏直)とのへ

この第5条は、秀吉の略歴をみずから述べたものとして有名です。

この宣戦布告状を新庄直頼をして、駿府の家康に送った。

家康はこれを氏直に渡したのです。



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robin 20190714



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小田原平定 その15

『宣戦布告状 その1』

天正17年(1589年)11月24日の秀吉の後北条氏に対する宣戦布告状は、いかにも秀

吉らしい宣伝上手の文章であった。

豊臣秀吉(1537-1598年)
to.豊臣秀吉

秀吉は北条氏直に渡した本文と同じ文章を、みずからの朱印を捺して諸大名らに配っています。

今日、氏直に渡したものは伝えられていませんが、伊達家や真田家に渡したものが伝承されて

います。

この布告状の第一条は、家康と氏直との関係を尊重して、秀吉が後北条氏誅罰を速決しなかっ

たことを述べ、

第二条は、沼田城の帰属問題に関する秀吉の決裁と江雪下国の事情をのべています。

そして第三条は、氏政の上洛の約束と、それによって秀吉が津田・富田両人を真田方に派遣し

たことを述べています。



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robin 20190713


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小田原平定 その14

『名胡桃城』

天正17年(1589年)の春、秀吉によって決裁された沼田城の帰属問題の現地における詳

細は、次のようなものであった。

一、 北条氏領は、利根郡では、利根川の東岸全部と西岸の小川城以南。吾妻郡では、真田領1

 /3以外の全部。沼田城は北条氏の属城とすること。

一、 真田氏領は、利根郡では、利根川西岸の小川城以北。吾妻郡では、岩櫃を中心とした郡内

 の1/3、名胡桃城は真田氏の属城とすること。

名胡桃城 (名胡桃城登城記は「こちら」です。)
na.名胡桃城 013

この決裁によって、鉢形城主・北条氏邦は、沼田城の管理を命ぜられ、部将・猪範直を沼田城

の城代として派遣した。

真田昌幸は、名胡桃城の本丸には鈴木主水を、二ノ丸には中山九郎兵衛を派遣して守らせてい

た。

沼田城に入った猪俣範直は、この対岸の名胡桃城が、どうにも目障りでならない。

彼は10月に入ると、後に大事件を引き起こすとも知らずに謀略を使って、この名胡桃城を奪

い取ってしまった。

真田の城代・鈴木主水は、その不明を恥じて自刃した。

猪俣範直の名胡桃城奪取の報告は、真田昌幸をへて、10月29日、京都の秀吉のもとに届け

られた。

秀吉は、北条氏がこの年の春の決裁を破棄して、名胡桃城を奪取したことに対して激怒した。

秀吉は11月上旬、大谷吉継を徳川家康のもとに派遣して、自分の決意を示した。

そして、11月24日付けで、5ヵ条からなる後北条氏への宣戦布告状を、北条氏直に与えて

これを諸侯にしめした。

こうして沼田・名胡桃の両城は、後北条氏の命取りの城となったのです。



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robin 20190712



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平成26年6月30日に100城を制覇しました!

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