「鳥取城の戦い」 その15

『因幡(鳥取)に転戦』

宇喜多直家が織田に味方して、祝山城に攻めかかったのは、天正7年(1579年)10月頃で

あった。

祝山城(医王山城)
iw.祝山城

この城は、山陽・山陰を結ぶ重要地点にあったので、落城したら大変と、毛利は湯原春綱・塩屋

豊後守らを城に入れ、城将・福田盛雅を支援した。

特に、春綱には所領を与える約束をして、守備を厳重にするよう指示したという。天正8年1月

のことであった。

秀吉は、三木城を陥落させ、中国経略の一歩前進をめざし美作に入り、直家をともに祝山城を襲

った。

さらに、弟の秀長を但馬に進出させ、みずからは因幡に向かった。

但馬進出の秀長軍は、出石城主・山名氏政を追放し、因幡に転戦、鳥取城に迫る。

鳥取城の背後では、羽衣石城主の南条元続が伯耆から因幡に入る。

宇喜多直家も出兵して、祝山城はいよいよ危うくなってきた。

信長は、今が時期だ。と湯原春綱に書状をしたためた。

「信長に降伏して、宇喜多直家と和睦すれば、出雲一国を与えよう」

信長の懐柔策です。

秀吉もまた帰服を勧めたが、春綱はこれを拒絶する。



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robin 20180716




                   <参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
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「鳥取城の戦い」 その14

『小豪族の生き方』

宇喜多直家は秀吉が播磨に侵入した頃、密かに応じようとしていたという。

毛利の上月城攻撃の時は、病といって岡山城にとどまり、弟の忠家を出陣させた。

形勢を観望していたのです。

岡山城古写真
ok.岡崎城古写真

この頃、ひそかに信長方に使者を送り、

「お味方にははせ参じ、忠勤を抽(ぬき)んでたい」

と申し入れていたという。

上月城が毛利に奪還されると、今度は両川の陣所に行って

「上月城をたやすく攻め落とされ、なお、秀吉を追放されたのは、良智深謀と勇猛のすぐれ給う

ところでござる」

と祝賀を述べ、馬・太刀を進上したという。

直家の人物を、『陰徳太平記』は、「虚偽第一」といい、「甚だ(はなはだ)佞智(ねいち)の

邪将」

と評している。

宇喜多直家にしても、三村元親にしても、織田・毛利という2つの世界に挟まれている小豪族の、

どうしようもならない生き方であったのでしょう。



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robin 20180715



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「鳥取城の戦い」 その13

『宇喜多直家』

秀吉軍が三木城を攻撃している最中の天正7年6月、宇喜多直家は毛利に背いて伯耆(鳥取)

の羽衣石城主・南条元続と連絡をとって、美作南部の祝山城を攻め、備中へも進出してきた。

宇喜多直家(1529-1582年)
uk.宇喜多直家

この直家は、主家にあたる浦上宗景を追放し、岡山城を拠点に、備前・美作に勢力を張ってい

た。

直家の勢力が強くなると、毛利と衝突することになる。

毛利の先鋒は備中松山城・三村家親であった。

家親は豪勇者であったので、直家は狙撃して殺した。

家親の子・元親は、直家を恨み、毛利を頼って父の仇を取ろうとしたが、毛利は元亀3年(1

572年)に直家と和睦したので、宿怨を晴らす機会を失った。

そこへ、信長が備後・備中両国を与えることを約束して、元親を誘ったので、毛利と袂をわか

った。

毛利は、天正3年(1575年)元親を討って、三村家は滅亡した。



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「鳥取城の戦い」 その12

『三木城の落城』

天正8年1月11日、秀吉は弟の秀長とともに三木城総攻撃を開始した。

三木城近くの鷹ノ尾城と新城を攻め落とし、一気に城下に迫った。

三木城の別所長治
mi.三木城 012

15日、城主・別所長治は、もはや武運もこれまでと悟り、罪なき将士の助命を秀吉に頼み、

17日、妻子の首をはねた後、自刃し、23歳の生涯を閉じた。

長治は死にあたり次の辞世の歌を詠じた。

今はただ恨みもあらずもろ人の命に代わるわが身と思へば

現在、三木城にはこの長治の歌碑と一族の歌碑があるのみで、遺構も残っていません。



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robin 20180712



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「鳥取城の戦い」 その11

『三木の干殺し』

秀吉は、美嚢川を隔てた平井山に本陣を置いて、籠城する別所の自滅を待った。

別所は密使を毛利のもとへ送り、来援を乞うたが、加古川河口の高砂城を失ったいまは、水路

を利用しての援来も期待できず、城内の糧米は日に日に乏しくなっていった。

羽柴軍の平井山本陣(平井山本陣と半兵衛さんのお墓参り「こちら」です。)
mi.三木城 105

翌天正7年2月5日、三木城内で軍議が開かれ、平井山の秀吉の本陣を壊滅して一挙に雌雄を

決しようとし、翌6日、2500余りの将兵が城を打って出た。

しかし、この作戦も別所軍の惨敗に終わった。

こうして6月になった。

秀吉の陣営では、病の身をおして参陣していた軍師・竹中半兵衛が死んだ。

時に35歳とも、36歳であったともいう。

三木の急を知った毛利は、幾度か兵糧を搬入しようとし、一度は成功したが、羽柴軍の陣立て

に失敗を重ねた。

天正7年9月に入ると、毛利は8千の軍夫を動員して大規模な兵糧輸送作戦を企て、三木城の

近くまで接近したが、平田の営を守る谷大膳亮にはばまれた。

この戦いで大膳は戦死したが、毛利もまた羽柴軍に追撃され、撫で切り討ち捨て、数を知らざる

状態であったという。

三木城の別所勢は兵糧の補給を完全に断たれ、草の根や木の皮はもちろんのこと、大切な軍

馬を殺して飢えをしのいだが、ついには絶食を余儀なくされに至った。

こうなっては戦う気力もなく、餓死か開城かの状態で、籠城2年目に入った。



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robin 20180711




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平成26年6月30日に100城を制覇しました!

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