近代の城 その14

『江戸末期に西洋式の城』

日本で西洋築城の様式を模倣した全く新しい城が出現したのが、江戸時代の末期すなわち対外

交渉の問題が緊迫して来た時期です。

函館五稜郭 (函館五稜郭登城記は「こちら」です。)
go.五稜郭 008

江戸品川の台場や大坂天保山の砲台などがその初めで、函館の五稜郭は全く西洋式の稜堡(パ

スチオン)要塞の出現です。

要するに近世日本の城は主として小銃を使用するための城であって、大砲を備える砲座を持った

城ではありません。

大砲の使用とともに日本の城が西洋式になるのは江戸時代末期まで待つことになります。

この城郭は五稜郭と呼ばれ、江戸時代末期に江戸幕府により蝦夷地の箱館(函館市)郊外に建造

された稜堡式の城郭である。同時期に築城された長野県佐久市の龍岡城も稜堡式城郭であり「五

稜郭」と呼ばれますが、単に「五稜郭」といえば函館の城郭を指す場合が多いようです。

龍岡城(信州龍岡城登城記は「こちら」です。)
ta.龍岡城 wiki



近代の城郭にお付き合い戴き、ありがとうございました。

次回は、「秀吉と桃山文化」について勉強してみたいと思います。



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sakura 004



                        <参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
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近代の城 その13

『日本の城』

日本の城は日本独特の文化遺産なのです。

今日、日本の城として伝えられているものは、近世初期の産物であり、それがまた日本の城が最

も発達した段階のものですが、その時代がちょうど日本が西洋の文化に初めて接触した時期であ

る関係上、近世日本の城の成立は西洋文化の影響を受けた結果と考えることもできるのでしょう。

熊本城の雄姿
熊本城 20150501 007

特に西洋の新武器として鉄砲が採用され、それが戦国の武将たちの戦術を一変させた事実から見

て、城の上にも同様の関係を認めようとするのは自然のことでしょう。

天守閣の発生もちょうど同じ時期であり、天守閣もまた西洋の城から学んだという説もあるよう

ですが、日本の城が時代の産物であることは明白なことであり、西洋文化の影響が間接的に加わ

っていることは異論のないところです。

戦国の武将たちは西洋の新武器鉄砲を採用し、城もまた鉄砲の戦術に適するように造られていま

すが、西洋の城の形態を模倣したのではなく、中世以降の日本の城の形態を根本的に崩すことな

く、新時代の要求に適応させたのです。

その結果、石塁の土木工事の上に木造の軍事建築を設けたのが、日本の城なのです。



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左から、現存宇土櫓、小天守、大天守です。

熊本城 20150501 013



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近代の城 その12

『御殿は本丸から二の丸へ』

城内の建造物として城主の住居や役所などがありますが、それらは特に軍事建築でなく、普通の

建築物です。

時代が平和に向かうとともに天守は主として望楼として用いられ、城主の御殿は天守から離れて

城内の平地へと移っていきます。

そうして天守の下層などは倉庫として利用されることになります。

天守と御殿が直結の高知城 (高知城登城記は「こちら」です。)
ko.高知城 001

天守という名称は、もともと城主の住居としての意味から起こったものでしょうが、その本体た

るべき城主が天守を去って平地の御殿に住むこととなったのは、辞世の変化に伴う現象として当

然のことなのでしょう。

初期の天守ほど御殿と結びついており、たとえ両者が離れたとしても、なお天守が直接本丸の御殿

に連続していた場合もあります。

加藤清正が築いた熊本城や山内一豊が築いた高知城などはその一例です。

しかし御殿も天守も木造建築である限り火災の危険は大きく、特に御殿にそれが多いので、防火の

点からも天守と御殿とが分離していったのでしょう。

城主の御殿は城により、また時代により、その位置は一定していませんが、初期には天守に近い本

丸に置かれ、後世になるに従い二の丸に移る傾向があります。

実際各地の城では火災が発生しており、天守それ自身が焼けた例もありますが、城内御殿の火災は

頻繁に起こり、そのたびに改築され移動した例が多いのです。

金沢城などはその一例でしょう。要するに江戸時代が進むとともに、城の歴史は天守を去って御殿

に移ってしまったのです。



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pig 20161019




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近代の城 その11

『熊本城は初期スタイル?』

初期の天守については、正確な記録が少なく不明な点が多いといいます。信長の安土城天守など

から逆に推考し得る程度ですが、現存している犬山城や丸岡城天守など比較的初期の様式に近い

ものだと住居が認められます。

犬山城
in.犬山城 001  in.犬山城 005

犬山城や丸岡城の天守に昇られた経験のある方はご存知だと思いますが、天守の下段は二層の広

間で相当に広いですが、上段の望楼は著しく小さく、上下の差が甚だしいものです。

従って、外観は均整感が乏しいものです。

これに対して、完成期の天守は上下の大きさに差が少なく、全体にまとまった均整感が強く、極

めて美しい外観を発揮しています。

名古屋城・姫路城・広島城・松本城など、いずれも完成期の天守として知られています。

この完成期の天守でも、初期様式に近いもの少なくなく、時代の前後に関係なく初期と完成期の

両様式は混在しています。

熊本城は大城ですが、その天守には初期的傾向が見られます。


熊本城の復興はいつになるのでしょうかね。

熊本城は一口城主の募集で城の復元を続けてきましたが、現在は復興城主を募っていますので熊本

城ファンの方々はいかがでしょうか。



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こんにちは。 一応生きています。

pig 20161017



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近代の城 その10

『城主は天守から城内へ』

天守は戦国時代が生んだ特産物で、城主の住居と展望用の高い楼閣とを結合したものです。

天守は櫓の一種に違いありませんが、普通の櫓が主として倉庫であったのに対し、天守は城主の

いる場所という特性があります。

安土城天守
az.安土城 005

古くは城主の住居は城内にあり、また展望用の高楼は別に設けられていたが、その両者が結合し

て一体のなったのは結局戦争が多かった事情によるものなのでしょう。

ただし、城主の日常の私生活は天守の内で営まれたか、あるいは天守は城主の公生活の場所であ

って、奥向きの私生活は天守に近い他の建物で行われたのかを確定するのは難しいです。

恐らく極めて初期の天守にあっては私生活も天守で行われたが、時が進みに公生活は天守で、私

生活は普通の御殿で営まれたのでは思います。

安土城の天守はそのようなものであったらしいのです。

すなわち安土の天守は、初期天守の最後の段階に属するもので、それは天守と城主の住居がよう

やく分離し始める時期であったのでしょう。

信長の時代以後、この分離の傾向は急速に発達し、秀吉の大坂城にいたっては全く分離していた

といいます。



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平成26年6月30日に100城を制覇しました!

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