「夫を餓死させられた満天姫」 その40

『福島家が途絶えるのを見届けた満天姫』

正則と正則の福島家に対する幕府の仕打ちはどこまでも執拗できびしい。

正則が信州高野井村で蟄居されられるようになって5年後の寛永5年(1624年)7月13

日、正則は64歳で死去した。

満天姫の墓がある長勝寺(弘前市)
ty.長勝寺(満天姫)

幕府は堀田正吉を検死に遣わした。

正則の家来・津田四郎兵衛は検死の到着を待たずに、正則の遺骸を信州高井郡雁田村の厳松寺

で荼毘にふした。

それが不届きとして、幕府は福島家の4万5千石を収公しています。

やりたい放題といっていいのですが、もれまた日ノ岡の関所からの怨念がえってのことでしょ

う。

嗣子の忠勝は4年前に死んでいたので、幕府は忠勝の下の弟・正利に捨て扶持3千石を与える

ものの、正利もまた寛永14年に死に、正則家は家が絶えてしまう。


一方、津軽信枚死後、津軽藩主は長男の信義(石田三成の孫に当たる)が若年ながら継だので、

満天姫の連れ子・直秀(福島正則の養嗣子・正之の子)はこれに不満だったという。

寛永13年(1636年)9月24日、直秀、自身をもって福島家の再興を図ろうと考え、江戸に上っ

て幕府に訴え出る決意をする。旅立ちのために母親(満天姫)に暇乞いに来た際、直秀が杯を

飲み干した直後、直秀は苦しみだし、ついに絶命したという。(大道寺家譜)満天姫は自分の子

を毒殺するほど、福島家を恨み、また津軽家を守ろうとしたのでしょうか。

満天姫はそれらすべてを見届けるためであったかのように生き、寛永15年3月22日に死去し

ています。



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<参考文献:戦国女人抄おんなのみち(佐藤雅美著)>
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「夫を餓死させられた満天姫」 その39

『賤ヶ岳の七本槍は4万5千石に』

正則からもこんな懇願があった。

「津軽はあまりにも遠すぎます。できたら津軽以外で封地をいただけないものでしょうか」

この懇願も京都にいた秀忠のもとに送られた。

福島正則の広島城 (広島城ライトアップは「こちら」です。)
20140630 広島城 001

先に満天姫からの懇願も届いている。

ごり押しをすることもないかと秀忠は思い直し、正則を津軽へという案を撤回し、かわりに越後

の魚沼郡で2万5千石、信州川中島で2万石を与えることにして、正則は信州の高野井で蟄居さ

せられることになり、せがれの忠勝も配所高野井に赴いた。

津軽家は本貫の地を離れることなく済み、以後、幕末まで無事に津軽に居続けることができた。

正則が芸・備両国49万余石を召し上げられて信州高野井村で蟄居させられることになった元和

5年という年は、津軽信枚の寵妾・大館御前が男子をもうけた年でもある。

男子はのちの津軽三代・信義。

ただし、「諸系譜』では、母は「東照宮の御養女」、つまり満点姫となっています。



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「夫を餓死させられた満天姫」 その38

『津軽4万5千石』

徳川家は津軽家が石田三成の次男と娘を匿っていたのをやはり知っていたのでしょう。

秀忠はやはり津軽家を許せない、不届き至極であるとかねてから思っていて、懲罰の意を込め、

ついでにと津軽信枚を本貫の地、津軽から立ち退かせようとしたのです。

津軽家の弘前城
hi.弘前城 003

でなければ突然このとき、津軽4万5千石が芸備両国49万8千石を没収するかわりに「恩命」

の地として浮かびあがってはきません。

自分の領地である津軽4万5千石が福島正則にあてがわれると知って、津軽信枚も腰を抜かさん

ばかりに驚いた。

本貫の地は住みよい。愛着もある。

津軽三郡4万5千石というが、それは表高で実高はもっとある。

いざというとき、領民も無理を聞いてくれる。

見知らぬ地で4万5千石を貰っても、足が地に着かない漂泊の領主も同然である。

満点姫は家康の養女、戸籍のうえでは秀忠の妹。

津軽信枚は満天姫を通じて巻き返しにでる。

京都にいる秀忠に願った。

「なにとぞ、なにとぞ、津軽にそのままいさせてください」

満点姫に対する気持ちは、家康と秀忠とは違います。

秀忠は満天姫に苦労をかけたなどと思っていない。

それより、石田三成の次男と娘を匿っているのを不届きと思う気持ちのほうが強い。だから津軽を

立ち退かせようとしたのです。



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「夫を餓死させられた満天姫」 その37

『恩命の地』

正則は神妙にいった。

「大御所(家康)が世にましますならば、正則、申すべきことなきにしもあらず。当代(秀頼の代)に

なりて、なにをかは申すべき。とにもかくにも仰せに従うべけれ」

重臣と議しての秀頼の申し渡しの最後はこうなっていた。

福島正則(1561-1624年)
fu.福島正則

「尚恩命を以って陸奥国津軽の地にて、懸命の所領を下さるべし」

懸命の所領とは、命を繋ぐ所領とでもいう意味なのでしょうが、牧野忠成と花房正成の2人は正則

に具体的にこういった。

「津軽における所領は4万5千石である」

津軽家2代、満天姫の夫・津軽信枚の津軽での所領をまるまる「尚恩命を以って下さる」としたので

すが、なぜ「恩命」の地は津軽4万5千石であったのでしょうか。



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「夫を餓死させられた満天姫」 その36

『あわれな正則』

福島正則が広島に帰った翌年(元和3年)の春の長雨で太田川が氾濫し、夏にまた洪水がって

城下一円が大災害に見舞われ、正則は武家諸法度の趣旨に従い、崩壊した城壁の修復を再三に

わたって幕府の執政・本多正純に申し出た。

広島城
hi.広島城 20120209 003

正純はそのことを秀忠に告げることなく、修復だから正式な許可はいらないのではないかと曖

昧な返事をする。

ならばと正則は修復を進めのだが、そのことが断りもなしに修復したとされ、咎められて正則は

陳謝した。

幕府はついでに、本丸を残し、そのほかは破却しろと命じたのです。

正則は承知しましたといって破却にとりかかったが、幕府は上に積んだ石だけをとりさるだけで

済まそうとしたと、言いがかりをいう。

正則は弁明のため、この年4月に出府した。

秀忠は正則と入れ替わるように江戸を発ち、上洛して6月2日に重臣と議し、申し渡すことを決

めた。

秀忠は同じ6月2日、久世広宣、坂部広勝ら旗本に、江戸に戻って、江戸にいる譜代大名らに

こう言えといった。

「福島正則がこたびの命を聞かず、手向かうようなら構わぬ、誅戮(ちゅうりく)しろ」

6月9日、秀忠は牧野忠成と花房正成を召して言った。

「すぐさま江戸に下って、福島正則のもとへ使いして余が厳命を伝えよ」

厳命とは秀忠が重臣らと議した申し渡しで、牧野と花房の両人は江戸に急行し、愛宕山下に出

向いて厳命を伝えた。



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