『女城主・井伊直虎』 その40

『井伊谷城が戻る』

直虎は曲がりなりにも井伊谷の居館にいたが、井伊谷三人衆に管理され、わが領地でありなが

ら、領地とはいえなかった。

井伊谷城址
直虎 021

万千代の初陣での戦功により、3千石に加増され宙ぶらりんの状況から、ここに確実に立ち直り、

井伊谷城は完全に戻ってきた。

万千代はその井伊谷3千石を直虎に預けた。

直虎は依然、井伊家の総領だったからです。

また、虎松から万千代と名は変わっても、直虎は実質上の母であることに変わりはなかった。

万千代が18歳になった天正6年(1578年)3月7日、家康のお声がかりで甲冑着初め式が

行われた。

家康は具足親(具足を着させる役)に姉川の戦いなどの合戦ごとに武勇を立ててきた菅沼藤

蔵(土岐定政)を指名した。

万千代が武勇に秀でた武人になるよう願う家康の気持ちが込められた甲冑着初めだった。



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               <参考文献:戦国女人抄おんなのみち(佐藤雅美著)>
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『女城主・井伊直虎』 その39

『長篠の戦い』

虎松(万千代)が家康の御眼鏡にかなって浜松城に上がり、小姓となった3ヶ月後、家康は信長

に援軍を頼み、長篠城に出陣した。

家康が武田から奪回した長篠城を信玄の息子・勝頼が囲んだからです。

信長自身3万の兵を率いて家康軍8千と合流し、長篠城の手前の設楽原に馬防柵を構えて、1万

3千の武田軍と対峙した。

長篠の戦い
na.長篠の戦い 002

戦闘は5月21日、信長の指示で三段に構えた3千挺の鉄砲が火を噴き、攻め寄せた騎馬隊を主

軸とした武田軍団を破滅させた。

信玄以来の馬場信房ら名だたる武将たちが枕を並べて討ち死にした。

井平城を陥落させ、井伊谷城も占拠した山県昌景もまた銃弾に倒れた。

この大敗北を契機として、武田氏は滅亡への道を進む。

15歳の万千代は家康に出仕したばかりだったので、この長篠の戦いには参陣していなかった。

東遠江の重要戦略拠点に高天神城(掛川市)がある。

武田勝頼は、父・信玄が落とせなかったこの城を、天正2年(1574)6月、家康から奪い

とっていた。

天正3年の長篠の戦いで負けた勝頼だったが、劣勢を挽回しようと翌年4年春には東遠江に討っ

て出てきて、高天神城に兵糧を運び入れた。

家康は出陣して柴原で勝頼と対峙した。

この時に勝頼は戦いを回避して結局甲府に戻ったが、ここで万千代は大手柄を立てたという。

2月7日夜、陣営で就寝中、命を狙い寝所に忍び込んできた間者数人に気づいた万千代は、一人

を斬り殺し、もうひとりに手傷を負わせて、家康の命を守った。

この時が万千代の初陣だったらしく、16歳であった。

『井伊家伝記』によれば、この恩賞として、一気に10倍の3千石に加増されたという。



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                     <参考文献:女城主・井伊直虎(楠戸義昭著)>

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『女城主・井伊直虎』 その38

『龍潭寺炎上』

鈴木重好主従を追って来た、武田氏の山県昌景勢と井平城を出てここを決戦の場としてみた井平

方が、仏坂でぶつかる。

両者は激しい戦闘になったが、兵力に勝る山県昌景の軍に打ち負ける。

龍潭寺
ry.龍潭寺山門

山県昌景が率いる武田別動隊は井平城を陥落させると、兵を進めて井伊谷に入り、井伊谷城を占

拠したと思われます。

この時に周囲に放火し、二宮山円通寺の足切観音堂が焼かれ、龍潭寺も燃えたという。

龍潭寺の炎上は三方原の戦いの直後、信玄の本隊が刑部城の周辺で年越えをした元亀4年1月と

いう説もあります。

無念、直虎は戦う兵力もなく、放火によって周辺の村々から立ち上がる煙を見ながら、退去した。

龍潭寺も焼かれて避難所とならず、一族の誰かを頼って身を隠したのでしょうが、三人衆ととも

に浜松に逃げたことも考えられます。

おそらく、山県昌景はある程度の兵を井伊谷城に残して留守番させ、自らは主力を率いて信玄の

本隊と合流するため二俣城に向かい、武田軍は12月19日に総攻撃して、堅城の二俣城を落とし

ます。




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『女城主・井伊直虎』 その37

『信玄の南下』

信玄は信長と同盟する徳川家康を目前の敵とした。

その家康VS信玄の三方ヶ原の戦いの2ヵ月前の元亀3年10月22日、井伊家の分家である

井平氏の支配地、信玄本隊とは別行動をとる山県昌景が率いる5千の軍勢に蹂躙された。

武田信玄(甲府駅前)
ta.武田信玄(甲府駅前)

山県昌景は井伊谷から東三河に入り、鳳来寺街道を長篠から山吉田を通って遠江に侵攻しよう

とした。

この街道は井平、井伊谷、金指を経由して三方原へと続いていた。

山県はまず、山家三方衆の道案内で井伊谷3人衆のひとり、鈴木氏の本拠地である山吉田の

柿本城を囲んだ。

この時、柿本城は普請中で本丸は塀ができていたが、二の丸は工事前で仮柵で囲ってあるだ

け。

とても籠城できる状況になく、兵も5百しかいなかった。

しかも3人衆の中心にいた鈴木重時は、3年前の堀江城攻めで銃弾を受けて死亡し、家督を

継いだ重好はまだ15歳であった。

幸い山家三方衆のひとり、菅沼定仙が死んだ重時と親しかったことで和議を申し入れ、人質

を出して開城した。

重好主従は国境を越えて井平城を頼った。

重好の叔父、つまり重時の2人の弟・出雲守と重俊が井平城にいたからです。

井平城では井伊谷3人衆が山県勢の襲来を予測して、まだ若い井平直成を助け、菅沼俊之、

近藤石見守らが応援に駆けつけていた。

おそらく直虎もわずかな兵を出して、若い分家の城主を励ましたことでしょう。



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                  <参考文献:女城主・井伊直虎(楠戸義昭著)>

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『女城主・井伊直虎』 その36

『虎松を保護』

虎松の母と松下清景(源太郎)はお互いに連れ合いを亡くしての再婚で、清景には一人娘がいた。

いつ再婚したのかは定かでないが、清景は伊那谷から帰国した直親に付けられた井伊家の旧陣で、

直親が殺された時には虎松母子を新野屋敷に匿うなど、いつも母子の身辺警護をしていたという。

この再婚には虎松を守る意味合いもあった。

直虎 020

小野但馬守は処刑され、今川氏も滅びたとはいえ、まだ今川のシンパは多く、虎松に危害がおよぶ

恐れは消えていなかった。

直虎はこれを最も恐れていた。

母が再婚することで、虎松が松下姓を名乗るようになれば、鳳来寺から帰った時に身を隠し易いと

して、母親を説得して再婚させていたのです。

松下一族はずっと今川氏に仕え、引馬城の飯尾氏の寄木として頭陀寺城を守ってきた。

しかし、家康が引馬城を攻略すると、松下一族は家康に仕え、こうして虎松の母は頭陀寺城に住む

ようなった。



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平成26年6月30日に100城を制覇しました!

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*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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