『女城主・井伊直虎』 その23

『家康に恭順の意思』

甲冑に身を固めた直虎は、家臣を従えて馬を走らせていた。

井伊家領内に入って来た徳川家康に敬意を表し、国境まで出迎えるためであった。

これは井伊家一族が家康に味方することを、当主として正式に伝えるためであり、請われれば

一族のしかるべき者をつけて、道案内もさせるつもりであった。

直虎 016


記録として残っていませんが、こうして井伊家は家康軍の進軍を歓迎したのでしょう。

長年にわたって制圧され、苦しめられ、多くの犠牲を払わされてきた今川氏と決別する時が、

いままさに訪れたと直虎は判断したのです。

一族一門は井伊家領内に入って来た家康軍に武器を置いて道を貸し、恭順の意思を示した。

直虎は今川氏に地頭職を罷免されたとはいえ、その罷免した張本人の氏真自体が武田信玄に

攻め込まれ。駿河国はおろか、今川館のある駿府までも追われ、遠江の掛川城まで逃げて、

今川氏の政治機能は完全に崩壊していたのです。

だから今川氏が直轄領とした井伊谷は、小野但馬守が井伊谷城を抑えたものの、主家・今川氏

の崩壊でうやむやになり、事実上、領地はそのまま井伊家が所有したままであったと思われま

す。

つまり直虎は地頭職を罷免されて、徴税権、警察権、裁判権の権限を失ったが、井伊家が井伊

谷を追われて滅亡することは免れていたのでしょう。

そして井伊谷城の小野但馬守は、家康からも、また井伊家からも、許せぬ敵として攻撃の標的

になるのです。



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                      <参考文献:女城主・井伊直虎(楠戸義昭著)>
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『女城主・井伊直虎』 その22

『武田氏の駿河攻略』

武田信玄は永禄11年(1568年)12月6日、駿河攻略を果たすため甲府を出発した。

但馬守は井伊谷の城代として栄達にひたる余裕もなく氏真に駿府に呼び出され、命じられるまま、

今川勢の一翼を担って薩摩峠に出陣した。

だが12日、信玄の甲州勢は今川勢を撃ち破った。

直虎 015

そして翌日、駿府に乱入し、氏真は抗戦する軍勢も整わないまま、駿府を捨てて、忠人の朝比奈

氏を頼って掛川城に逃げ込んだ。

但馬守も必死に逃げて井伊谷に脱兎のごとく逃げ帰ってきた。

「それ見たことか」

直虎も井伊一族の者たちも、その体たらくを笑った。

信玄は簡単に駿河を掌中にした。今川氏の滅亡を誰でもが予測する。

一方、27歳の家康も自ら動いた。

永禄11年12月、家康は信玄が駿府に攻め入ろうとしていると聞き、遠州を経略しようと岡崎城

を出馬した。

『改正三河後風土記』は、次のように述べている。

まず井伊谷の城を攻めようと三河野田城(新城市)の城主・菅沼貞盈に案内役を命じた。

そもそも井伊谷城とは今川の被官である井伊信濃守直盛の居城だったが、直盛は永禄3年の桶狭間

での今川義元の最後と時を同じくして討ち死に。その一族の肥後守直親が遺跡を継いで城を守った

が、これも被官の小野但馬守にあえなく討たれ、幼児の虎松は三河方面に漂泊した。家康はこの月

の朔日、大井川辺(これは違うとの指摘があります)へ陣を張ったが、ここへ菅沼貞盈が参陣して

「この城(三岳城)は、はなはだ要害の地に築いた城なので、力攻めすれば空しく月日を費やし、

将兵も多く損ないましょう。私の一族に菅沼忠久、近藤康用、鈴木重時の3人がいますが、3人は

いずれも井伊谷の豪傑です。この3人に恩を施し味方に招けば、この城は戦わずして手に入りまし

ょう」

と申し上げた。

家康は

「その申すところ、もっともである」

として、井伊谷の近くまで馬を進められ、菅沼・近藤・鈴木の3人に知行の宛行状を渡した。

と記しています。

迫る家康の軍馬の音に小野但馬守は怯え、直虎は期待に胸を弾ませたことでしょう。



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                  <参考文献:女城主・井伊直虎(楠戸義昭著)>

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『女城主・井伊直虎』 その21

『龍潭寺』

ドラマの方は迷走していますので、井伊谷観光を続けてみたいと思います。


龍潭寺は井伊家の菩提寺で、直虎はこの寺に出家して次郎法師と名乗っていました。

寺には享保15年(1730年)に祖山和尚がまとめた「井伊家伝記」など、井伊家について書か

れた古文書が残り、境内西側の墓地には、初代・共保から24代・直政までの井伊家歴代墓所や井

伊家と深く関わった人々の墓があります。

井伊家歴代墓所には直虎の五輪塔もあり、その右隣には直虎の母、左隣には直虎の許婚だった直親

の五輪塔が寄り添っています。

また、歴代墓所の近くには、直虎の母の兄で今川家と井伊家の架け橋となって虎松(井伊直政)を

守った、今川家出身の目付家老・新野左馬助の墓があります。

浜松龍潭寺山門
yo.浜松龍潭寺山門

龍潭寺の起源は行基が天平5年(733年)に開いた八幡山地蔵寺という寺で、元中2年(138

5年)に宗良親王の法名をとって冷湛寺となり、天文元年(1532年)に井伊直平が臨済宗に改

宗したのを機に龍泰寺と改められ、永禄3年(1560年)に井伊直盛の法名から龍潭寺と改名

され現在に至っています。

直虎の生きた戦国の世に、龍潭寺の住職をつとめ、次から次へと一族を襲う未曽有の危機から井

伊家を救おうと尽力した南渓和尚は、井伊直平の息子といわれてきましたが、龍潭寺の過去帳か

ら、実は養子であったといいます。

その南渓和尚は、直盛が桶狭間の戦いで戦死して、未亡人となった直虎の母のために、龍潭寺に

松岳院という庵を建てています。

永禄11年(1568年)11月9日に徳政令が実施されて失脚した後、井伊谷城を出て母とと

もにこの松岳院で暮らしたようです。

直虎の母は天正6年(1578年)7月15日に、直虎は天正10年(1582年)8月26日

に松岳院で亡くなっています。


龍潭寺には次のような秘話が伝わります。

永禄3年(1560年)の元旦、男子の誕生を切望した直親夫婦が南渓和尚に祈祷を依頼し、

今も龍潭寺に残る「世継千手観音像」に願掛けした翌年、虎松が生まれた。

虎松の父・直親は永禄5年(1562年)に殺害され、虎松とその母を自宅に引き取った新野左

馬助も、永禄7年(1564年)に戦死したため、一時期、虎松母子も松岳院で暮らしたといい

ます。


話は変わり、元亀3年(1572年)12月、三方原合戦に圧勝した武田軍は、翌年1月3日に

井伊谷に侵入して一帯を焼き払ったため、龍潭寺の堂塔は焼失し、井伊谷城付近の足切観音堂な

ども燃えたという。

このことを裏付けるように、龍潭寺に現存する伽藍はすべて江戸時代以降の建築なのです。

山門は明暦2年(1656年)、本堂は延宝4年(1676年)開山堂は元禄15年(1702

年)、井伊家霊屋は寛保2年(1742年)、稲荷堂は寛政8年(1794年)、庫裡は文化12

年(1815年)に建立されたことが棟札から判明しています。



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                   <参考文献:女城主・井伊直虎(楠戸義昭著)>

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『女城主・井伊直虎』 その20

『井殿の塚・井伊氏居館跡』

ドラマの方は停滞していますので、今後、このような時には直虎とその一族が生きた時代と触

れ合う旅に出てみたいと思います。

井殿の塚は、直虎の大叔父であり、徳川四天王のひとりとして活躍した井伊直政の祖父である

井伊直満とその弟・直義の墓です。

井殿の塚
直虎 014

2人が天文13年(1544年)に今川館で殺されたのは、井伊家の重臣で直満と不仲だった

小野和泉守が、直満一派を亡き者にしようと画策して、今川義元に偽りの反逆情報を流したせい

だといわれます。

井殿の塚から南の方向に歩いて数分のところに住宅が立ち並ぶ地域が、井伊氏居館二の丸の跡地

です。

周囲を見渡しても居館跡らしき面影は何も残っていないので、史跡を楽しむには、案内板に描か

れた古地図を参考に、周囲の景色や地形と照らし合わせながら、今も残るかすかな本丸の堀跡な

ど、わずかな痕跡を探して、想像を膨らませなければなりません。

これも楽しいのでしょう。

古地図によると、本丸の南にあった二の丸の西に、三の丸が存在していますが、その三の丸の

位置には、雇用促進住宅の敷地になっているようです。



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                 <参考文献:戦国女人抄おんなのみち(佐藤雅美著)>

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『女城主・井伊直虎』 その19

『井伊谷』

ドラマの方は停滞していますので、今後、このような時には直虎とその一族が生きた時代と触

れ合う旅に出てみたいと思います。

なお、井伊一族については、古文書などの史料が十分ではなく、確実な情報が限られるため、

どうしても曖昧で、すっきりしない点も多いかと思います。

直虎 013

井伊谷という地名は、この一帯が“井”と呼ばれる地域に該当し、山に囲まれた川沿いの平地

であることから付けられているようです。

引佐多目的研修センターの北の位置する標高114mの城山とその山麓が、井伊氏の本城の

ひとつに数えられる井伊谷城です。

井伊氏は、この城山を戦争が起きた際の要塞とし、普段はその麓に建てられた居住用の館で、

日常生活を送っていたといいます。

麓から10分で行ける山頂の広場の北側で一段高くなっている場所には、後醍醐天皇の皇子で

あり「新葉和歌集」を編纂した優れた歌人としても知られる宗良親王が、歌を詠んでいたとされ

る御所丸の跡があります。



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平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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