『女城主・井伊直虎』 その15

『狙われる今川家』

徳政令を直虎がふんばって停止していた2年の間に、今川の状況は悪化の一途をたどっていた。

直虎が徳政令を握りつぶした同じ年の永禄9年(1566年)、信長と同盟を結んだ家康は松平

姓を徳川に改め三河一国を統一して、三河守にも任ぜられた。

直虎 007

そして遠江進出の機会を狙い、永禄11年2月10日、宇津山城(静岡県湖西市)の在藩を松平

家忠に命じ、いよいよ遠江国の獲得に動き出した。

一方の武田信玄はこの前年、嫡子・義信の妻であった今川義元の娘を駿府に返し、しかも今川を

重視している義信を自害させ、翌年8月7日には今川との同盟を破棄した。

そして家康と信玄の間では、大井川を挟んで領土を分け合う密約が成されたともいわれます。

駿府・遠江が緊迫し、徳政令により直虎が失脚する寸前「井伊家伝記」によれば、信玄の駿府侵

略を阻止するため、氏政は井伊家にも駿府への出兵を求めてきた。

こうした場合、女城主が兵を率いて出陣した例はなく、同じような状況下、南部藩の支藩だった

八戸城の女城主・清心尼は、大坂冬の陣の際、一族の者を名代に立て、兵320を与えて出陣さ

せている。

直虎の場合も、小野但馬守を名代にした。それは但馬守が自ら願い出たものであった。

直虎としては一族の者を大将に指名したいと思ったが、但馬守に押し切られた。




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pig 20170422




                <参考文献:女城主・井伊直虎(楠戸義昭著)>
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『女城主・井伊直虎』 その14

『今川氏真と家老・小野との闘争の行方』

今川氏真が瀬戸方久に安堵状を与えて2ヵ月足らずの11月9日、直虎はやっと徳政令を布告

した。

直虎 006

その内容を要約すると

永禄9年に氏真殿が出した徳政令の判形は銭主が難渋するとことで、いまもって出ていない。

だが本百姓の訴訟した件は先の判形どおりで、前々からの筋道によって名職などは受け取っ

てよい。

よって銭主方はたとえ負担が重いとしても、この件で訴訟をしてはならない。


というものであった。

こうした文書を、直虎が今川氏からの圧力に抗しきれず、ついに氏真の重臣・関口氏経と連名

で出さねばならなかったことは、さぞ無念であったでしょう。

直虎は負け、小野但馬守が勝ったのです。

しかし、この直虎の屈服は単なる負けに留まらず、今川氏の領内介入を阻んできた井伊家から、

今川氏がその統治権を奪うことを意味した。

今川氏真は地頭であった直虎を罷免し、井伊谷を今川氏の直轄にし、小野但馬守を任命し、井伊

谷をわがものにしたのです。

この徳政令をめぐる2年間の直虎と氏真・小野但馬守の抗争は、蜂前神社文書と瀬戸文書か

ら明らかになった事実なのです。

そしてこの文書に書かれていること以外、ほとんどで何も伝わっていません。

その伝わっていない空白の部分も、直虎は女城主として、政務をこなしていた筈です。

さらに、この徳政令の背後で、流血をみるような但馬守方との暗躍があったと考えるのが普通

です。

直虎は刀を握りしめ、相手を討ち果たそうとしたことも一度や二度ではなかったのでしょう。

そして今川への憎しみが消えない一族一門も但馬守を嫌い、武力衝突があったことも十分に

考えられます。

しかし、こうした記録は何ひとつ今日に伝わってはいません。



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『女城主・井伊直虎』 その13

『今川氏真の徳政令』

今川氏真が百姓の要請によって、直虎支配地である井伊谷とのその南辺の都田、祝田、瀬戸など

の都田川流域に徳政令を出したのは永禄9年(1566年)のことだった。

しかしこの徳政令は実施されなかった。直虎がこれを握りつぶしたからです。

井伊家は度重なる出陣や策謀の被害を受けて、人的損傷だけでなく、経済的にも大きな損失をこ

うむっていたのです。

直虎 005

そのため銭主と呼ばれる豪商から多額の借金をして、なんとか領主の対面を保ってきた。

だから徳政令によって、この銭主のもつ権利を放棄させることは、井伊家の財政をも揺るがす大き

な問題であったのです。

直虎としては百姓より銭主を守らねばならぬ必然性があった。

氏真の家臣・関口氏経が直虎に宛てた、棚上げされた徳政令の実行を迫る書状が残っています。

この督促の陰に小野但馬守がいるのです。

徳政令を仕掛けたのは誰あろう、本来ならば直虎を支えるべき年寄の小野但馬守だったのです。

理由は直虎が自分の自由にならないしっかりした城主だったからです。

頑固な直虎に我慢がならず、小野但馬守は駿府に出かけたことを示す手紙が残っています。

その手紙は、匂坂直興が祝田禰宣に宛てたもので、

「年末になり忙しく、この件は年越しとするが、年明け早々に凍結されている徳政令について具申

するつもりで、駿府に来ている小野但馬守と談合しているとことである。しかし、この件はそちら

では絶対に秘密にしておいてほしい」

というものである。

徳政令は小野但馬守と匂坂直興が祝田禰宣によって進められたことが、この手紙からわかります。

小野但馬守は祝田禰宣ら旧勢力と手を結び、今川氏の威光を借りて徳政令によって直虎を失脚させ、

井伊家乗っ取りを策謀したのです。



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『女城主・井伊直虎』 その12

『女城主・直虎誕生』

井伊家から男が消えた。

井伊家は立ち行かなくなる。そこで残された策はもう「次郎法師」しかなかった。

次郎法師は男性名であったが、これまで姿かたちは女、つまり尼僧であった。

この彼女が、男として生きていかなければならない時が、ついに永禄8年(1565年)にや

ってきた。

直虎 004

中野信濃守直由が新野左馬助親矩とともに引馬城を攻めて戦死したのは永禄7年9月15日の

ことだった。

これにより井伊家一族一門で、地頭の任にあたれる者は誰もいなくなってしまう。

地頭とは年貢の徴収権、警察権、裁判権をもって領内の住民を支配した在地領主のことで、戦

国時代は守護の被官となっていた。

つまり井伊家では井伊谷を支配する一方、守護の今川氏の被官として軍役を担っていたのです。

2万5千石の所領を有し、今川家への軍役を果たす地頭職をどうすべきか。

男がいなくなった井伊家の未来をどうすればよいか、頭を痛めたのは龍胆寺の南渓和尚であっ

た。

才知に富み、武勇にも優れていた南渓和尚は、養子ゆえに直平の子であっても井伊家を継ぐこ

とはできなかった。

そんな南渓が、直盛の未亡人で直虎の母でもある祐椿尼と相談して、直虎(次郎法師)を地頭

にすることを決めた。

直虎を地頭にすると決めたのは、井伊一族一門の皆が戦死するなかで、ただひとり虎松(直政)

がいたが、まだ5歳と幼く、小野但馬守からいつ命を狙われるかわからない。

この虎松だけはどんなことがあっても守り通さなければならない。

このために直虎は虎松を後見するという理由をもって地頭となり、井伊谷城の女城主になったの

です。



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『女城主・井伊直虎』 その11

『城主・直親謀殺される』

小野氏は父の和泉守直政が直満・直義兄弟を讒言したように、またもその子を・但馬守道好が、

直満の子の直親を訴えたのです。

直親は申し開きをするため駿府に出向き、いよいよ掛川城が近づいてきたときだった。

直虎 003

『井伊家伝記』は

「掛川御通りの節朝比奈備中守取り囲み一戦に及び、直親主従共粉骨を尽くすといえども、無勢

故ついには傷害成され候」と記す。

直親が今川を攻めると誤認して討ったとするが、氏真の命令を受けて城下への入口で待ち伏せ、

問答無用に謀殺したのでしょう。

直親の遺骸は同行して生き残った足軽や中間に担がれ、直親の屋敷があった祝田(浜松市北区

細江町)まで運ばれた。

この遺骸は、南渓和尚が蜂崎神社の荻原宮司を使いに出して、掛川城からもらい受けてきた。

27歳の元許婚の短い人生は、今川家への怨嗟の生涯だったと、直虎は改めて思ったことでしょ

う。

火葬の現場に直親の妻はいたが、一粒種の息子・虎松の姿はなかった。

直親が殺された時、氏真から虎松も誅殺するよう命が出されたのです。

駿府にあった新野左馬助が、身命を賭し虎松の助命を嘆願し、やっと許されたが、いつ殺せとの

命令が出るかわからない。

左馬助は母親から虎松を預かり、まず井伊谷城の居館三の丸の南に隣接する新野屋敷に保護

した。

そして暫くして小野但馬守にわからないように、虎松を母親とともに安全な場所に匿った。

「礎石伝」は、虎松と母が隠れ住んだのは、新野左馬助の伯父が住職である引馬の浄土寺という。

直親を助けて信州松源寺まで従った忠臣の今村家が今回も供をした。



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平成26年6月30日に100城を制覇しました!

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*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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