『女城主・井伊直虎』 その30

『徳川四天王』

徳川四天王とは、徳川家康の側近として仕えて江戸幕府の樹立に功績を立てた酒井忠次・本多

忠勝・榊原康政・井伊直政の4人の武将を顕彰した呼称です。

本多忠勝(1548-1610年)
ho.本多忠勝 005

本多忠勝・榊原康政・井伊直政の3人は1590年の徳川氏の関東移封から1600年の関ヶ原

の戦いまでの時代に徳川氏の家政と関ヶ原の戦いに関わる大名工作・戦後処理に中心となって活

躍して幕府の基礎固めに功績があり、特に彼らを指して徳川三人衆とも呼んでいます。

「徳川四天王」の名称はいつから使われたかは定かではなく、「徳川三傑」については『榊原

家譜』を出典として1586年9月に使われ始めたとしています。

四天王はその後、1589年の家康関東移封時に家康配下の大名としていずれも万石以上となり、

徳川家の重臣としての地位を確立。

家康の関東転封時の家臣団統制強化策の一環として、新参の武将を抜擢する方針があり、新しく

台頭してきた本多・榊原・井伊の3名が家中で重きをなし、旧支配地の三河では東三河衆の旗頭

として古い権力を持っていた酒井は、以前の松平信康自刃事件の責任を取らされて低い禄高に甘

んじたといいます。



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『女城主・井伊直虎』 その28

『今川氏真』

今川氏真は天文7年(1538年)、今川義元と定恵院(武田信虎の娘)との間に嫡子として生

まれる。

天文23年(1554年)、北条氏康の長女・早川殿と結婚し、甲相駿三国同盟が成立していま

す。

今川氏真(1538-1615年)
im.今川氏真

父・今川義元が桶狭間の戦いで織田信長によって討たれ、その後、今川家の当主を継ぐ。その後、

武田信玄と徳川家康による駿河侵攻を受けて敗れ、戦国大名としての今川家は滅亡した。

その後は後北条氏を頼り、最終的には桶狭間の戦いで今川家を離反した徳川家康(松平元康)と

和議を結んで臣従し庇護を受けることになった(主従関係が逆転した)。

氏真は、和歌・連歌・蹴鞠などの技芸に通じた文化人であったという。 結果として子孫にも教育

で受け継がれ、今川家代々の公家文化の高い能力を活かし、氏真の子孫達が江戸幕府の朝廷や公

家との交渉役として抜擢されたので、安土桃山時代(戦国時代)の戦で武功を上げることはでき

なかったが、役人としては江戸時代になって平和になってから今川家の子孫が文化人の能力で登

用されている。

戦国武将としての今川家は滅亡したが、家康に臣従したことで今川家は存続し、徳川家臣の譜代

大名としての今川家の新たな祖と言えます。



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                      <参考文献:女城主・井伊直虎(楠戸義昭著)>

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『女城主・井伊直虎』 その27

『信玄と家康の密約』

永禄3年(1560年)6月の桶狭間で今川義元が織田信長に敗死し、今川領国では三河で松平

元康が独立するなど動揺が見られていた。

武田信玄(1521-1573年)
ta.武田信玄 002

信玄は義元討死の後に今川との同盟維持を確認しているが、この頃には領国を接する岐阜におい

ても信長が斎藤氏の内訌に介入して抗争しており、信長は斎藤氏との対抗上武田との関係改善を

模索し、こうした経緯から諏訪勝頼正室に信長養女が迎えられている。

川中島合戦・桶狭間合戦を契機とした対外情勢の変化に伴い武田と今川の同盟関係には緊張が生

じ、永禄10年(1567年)10月には武田家において嫡男義信が廃嫡される事件が発生する。

信玄は駿河侵攻にあたって、相模の北条氏康・北条氏政父子に今川領の分割を提案していた。

しかし、氏政の生母で氏康の正室である瑞渓院は氏真の祖父母でもある今川氏親と寿桂尼の娘で

あったことから、氏政は拒絶。

このため信玄は徳川家康と今川領分割の密約を結び、大井川を境にして東部を武田氏が、西部を

徳川氏がそれぞれ攻め取ることにしたという。

12月6日、信玄は1万2000の軍勢を率いて駿河侵攻を開始した。



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                <参考文献:女城主・井伊直虎(楠戸義昭著)>

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『女城主・井伊直虎』 その26

『寿桂尼(じゅけいに)』

寿桂尼は戦国大名今川氏親の正室で、藤原北家、勧修寺流の中御門家(公家)の出自で、父は

権大納言中御門宣胤。

寿桂尼(不明ー1568年)
ju.寿桂尼

夫・氏親の死後剃髪して瑞光院寿桂尼となり大方殿と称され、氏親、氏輝、義元、氏真の4代

にわたって今川氏の政務を補佐し「尼御台」と呼ばれています。

寿桂尼は甲斐の大名・武田晴信とその正室で三条家(公家)の出自である三条の方の縁談の斡旋

を努めたという説もあります。

義元が永禄3年(1560年)に桶狭間の戦いで織田信長に破れて戦死し、孫の今川氏真が当主

となった後も政治に関わっています。

今川氏没落の最中の永禄11年(1568年)、義元が亡くなった8年後に死去。

婚姻の年齢から推測すると70~80歳代だったと思われます。

「死しても今川の守護たらん」

という彼女の希望により、今川館の東北、鬼門の方角にあたる竜雲寺に埋葬されている。

寿桂尼の死後、今川氏と武田氏の外交関係は手切れとなり、同年12月には武田氏による今川領

国への侵攻が開始された(駿河侵攻)。


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『女城主・井伊直虎』 その25

『妙雲寺』

龍潭寺の北側に井伊直虎の菩提寺の妙雲寺があります。

直虎 018

直虎の死後に建立され、直虎の法名・妙雲院から妙雲寺と名付けられています。

直虎の墓は龍潭寺にありますので、この寺に直虎の墓はありません。

直虎 019

このお寺は普段は無人で、駐車場もありませんが、直虎と南渓和尚の位牌がこの寺で見つかっ

たのを機に、土日祝のみ公開されています。



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                 <参考文献:女城主・井伊直虎(楠戸義昭著)>

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平成26年6月30日に100城を制覇しました!

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*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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