『女城主・井伊直虎』 その62

『井伊家の居城・彦根城』

佐和山城に入った直政は、三成の居城であった佐和山城の居心地が悪くて仕方なかったので、

城の移転を決めた。

この間、病状は進み、慶長6年の暮れ、有馬温泉に湯治に出かけたが思わしくなく、佐和山

に帰って、慶長7年(1602年)2月1日、家康が征夷大将軍になるのを見ることなく、

42歳でこの世を去った。

まだやりたいことが沢山あり、さぞ無念であったでしょう。

彦根城(彦根城登城記は「こちら」です。)
hi.彦根城 20121118 007

家督は嫡子・直継が13歳で継承した。

重臣たちは直政の遺志を守って家康に新城の建設を具申する。

家康は直政の死は三成の祟りだと地元の人々が騒いでいることを耳にしていた。

城は太古の昔、活津彦根命が鎮座したとされることから地名になった、彦根山に築かれること

になった。
家康は周辺7ヵ国の12大名に命じて天下普請とし、慶長8年(1603年)に起工した。

翌年春、井伊家は普請半ばの彦根城に佐和山城から移り住んだ。

そして家康は直政が三成密封するため、5層天守のあった佐和山城の頂上を、6mも削って平

らにし、佐和山への立ち入りを禁止させた。

以後、井伊家は120年間に渡り、禁止令を解かなかった。

直政の歌があります。

「祈るぞよ 子の子の末の末までも 護れ近江の国つ神々」

直政は志半ばで死んだが、願いは通じた。

直虎の苦闘を根っこにして、直政は大輪の花を咲かせた。

病弱な直継と後退した異母弟・直孝が、さらに井伊家を盤石なものにする。

最大で35万石、大老を出すことのできる譜代筆頭として、江戸時代、井伊家は徳川を支える

主柱であり続けたのです。


直虎の史実情報が少なすぎたので、万千代に拡大してお付き合い頂きました。

来年の大河ドラマは西郷ドンですが、戦国時代から大きく外れてしまいますので、どうしようか

迷っています。


おんな城主・井伊直虎にお付き合い頂き、ありがとうございました。



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                   <参考文献:女城主・井伊直虎(楠戸義昭著)>
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『女城主・井伊直虎』 その62

『土佐藩も支援した井伊家』

直政が関ケ原の戦後処理として大きな成果を上げたのは、土佐の仕置きだった。

西軍についた長宗我部盛親から所領を没収して、これを山内一豊に与えた。

高知城(高知城登城記は「こちら」です。)
ko.高知城 001

だが長宗我部を支えた半士半農の一領具足たちが、盛親は戦ったわけではなく、静観して戦い

に参加しなかったのだから、せめて土佐半国を残して欲しいと嘆願して一揆を起こした。

直政自ら土佐に乗り込もうとしたが、直政の被弾した傷が思わしくないことを知って、家康は

家臣に任せるよう命じた。

そこで井伊谷三人衆で、今では直政の信頼の厚い鈴木重好が派遣された。

重好は盛親旧臣を利用して、一揆軍を一網打尽にして、浦土城を接収し、山内一豊の土佐入国

を可能にした。

この重臣の働きで井伊家の株はまた上がった。

この頃、直政は傷口から細菌が入り、敗血症もしくは破傷風になったらしく症状は悪化してい

た。



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『女城主・井伊直虎』 その61

『直政の評価』

直政の関ケ原での活躍を家康は評価して、一挙に6万石を加増し、佐和山18万石にした。

大坂と北陸、また中山道を結ぶ、古代からの軍事・交通の要衝として重視されてきた地を、直政

は任せられたのです。

佐和山城(佐和山城登城記は「こちら」です。)
sa.佐和山城 002

直政は慶長6年(1601年)1月、高崎城から佐和山城に移った。

ちなみに徳川四天王のひとり、本多忠勝は伊勢桑名に転封になったが、石高は10万石のままだ

った。

榊原康政も10万石と変わらず、上野館林の旧領を安堵されただけで、家康の家臣で直政の突出

ぶりが目立った。

そして注目は直政の長女の婿・忠吉です。

直政のもとで初陣を果たし、しかも関ケ原開戦の端緒をつくり、率いた家臣たちも西軍と戦い、

島津義弘の敵中突破にも直政と一緒に追撃し、負傷したわが息子を家康は喜んだ。

身内で関ケ原の戦いで奮戦したのは、唯一、忠吉だけだったからです。

家康は忠吉を武蔵国・忍(行田市)10万石の城主から、一挙に尾張清洲52万石に取り立てた。

ただ忠吉は残念なことに28歳の若さで亡くなったため、弟の直義が清洲城を継ぎ、やがて名古

屋に城を移します。



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『女城主・井伊直虎』 その60

『直政撃たれる』

島津軍1千余りは義弘を真ん中に、鉾のように切っ先鋭く、敵陣を刺し貫く陣形で一丸となって

家康の本陣に向かって突進し、その横を通り抜けた。

東軍の将兵は何が起きたのか理解できず、一瞬あっけにとられた。

島津軍の捨て奸(すてがまり)戦法による退却
島津軍退却

だが事態を呑み込むと、直政は松平忠吉とともに島津軍を追撃した。

島津軍は銃を放ち、槍を繰り出して、人馬一体となってこれをしのいだ。

伯父の義弘に生きて薩摩に地を踏んでほしいと、島津豊久は踏みとどまって井伊軍らを押し止め、

時間を稼いで壮絶な戦死をした。

義弘の家老・長寿院盛敦は乱戦の中で馬を立て、羽織をまとい、団扇をかざして「殿さまはここ

に御座る」と呼ばせて、義弘の身代わりになって死んだ。

島津軍の死を決した応戦に多くの死傷者を出しながら、直政は執拗に追跡し、ついに義弘を包囲

した。

だがその時、義弘の家臣・柏木源藤が狙撃した銃弾が、直政の右肘を打ち抜き、落馬した。

井伊軍がひるむ間に義弘は危地を脱出し、この後、3日がかりで200kmの距離がある堺に辿

り着き、無事に船で薩摩に戻った。

直政の傷は大したことがないようにみえた。

事実、直政はこの後の三成の居城で、父・正継が守る佐和山城の攻撃に加わっている。


家康は先陣を直政に命じたが、小早川秀明が強く望んだので、直政は二陣に定められたとい

う。

それほどこの時、直政は元気であった。

佐和山城は関ケ原合戦から3日後の9月18日に陥落した。



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『女城主・井伊直虎』 その59

『義弘クンは怒っていた』

戦いは石田三成方の西軍がやや有利に進行したが、松尾山にいた小早川秀明が裏切って東軍

についたため、戦況は一変して、6時間の攻防戦に決着がついた。

三成らが逃亡したたかで、西軍方の戦場に薩摩の島津義弘を大将とする1千余りの島津軍が取り

残された。

関ケ原・島津義弘陣所跡(関ケ原陣所巡りは「こちら」です。)
si.島津義弘陣所跡 001

義弘は三成に具申した夜襲を却下されたばかりでなく、前哨戦で三成は島津軍を残してさっさと

戦場から撤退するなどした。

その三成の采配に怒りを覚えていたため、義弘は関ケ原に布陣はしたものの戦いには加わらなか

った。

だが戦わなくても西軍は西軍である。

そして島津軍は東軍を目の前にして孤立した。

戦いの強者・義弘は

「老武士のため、伊吹山の大山を越え難し。たとえ討ち取られるといえども、敵に向かって死す

べきであると思う」

と決断して、敵中突破を断行した。

この時、家康は本陣を桃配山から徐々に押し出して来ており、義弘との距離はわずか500mに

過ぎなかった。


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平成26年6月30日に100城を制覇しました!

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*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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