「謂れのない汚名を後世に晒した悲劇の女・千姫」 その10

『伏見城で入輿の準備』

千姫が生まれた伏見城は、関ケ原の戦いの前に西軍から攻められて焼け落ちた。

それから3年、家康は伏見城を修復し、他にも京の二条に城を建て、上方では二条城と伏見城の

2城を本拠にし、引き続き上方にいた家康は、7月3日に伏見城から二条城に移り、大坂の尼孝

蔵主をはじめとする女房たちを招いて、8日に猿楽を催している。

伏見城(伏見城登城記は「こちら」です。)
fu.伏見城(模擬天守)

これは千姫を入輿させる前祝のような催しで、このことからも家康は千姫の入輿を心から祝福し

ていたと思われます。

いずれそのうち、秀頼と淀殿の息の根を止めてやるなどと思っていたのなら、このように上方に

長期に滞在などしていず、さっさと本拠の駿府に戻り、千姫の入輿はいたって冷淡な態度をとっ

ていた筈です。

千姫と母・お江はそんな、家康がことのほか気を遣っている上方へ到着し、伏見に入った。

「ここであなたは生まれたのよ」

と、お江は言って聞かせたのでしょうが、もとより千姫には記憶があるはずもなく、伏見城に入

るとその日から、お江と千姫は入輿の支度に追われた。

家康が二条城から伏見城に戻ったのは7月15日。

入輿まであと13日。

お江と千姫が支度に追われている様子を見て、家康は口を出して世話をやいたことでしょう。



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                   <参考文献:戦国女人抄おんなのみち(佐藤雅美著)>
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「謂れのない汚名を後世に晒した悲劇の女・千姫」 その9

『千姫の夢と希望』

入輿の日は慶長8年7月28日。

千姫7歳。満で6歳と3ヵ月余、今なら小学校の一年生です。

分別はないようであり、あるようでないという歳。

千姫(1597-1666年)
se.千姫(大河ドラマ 江より)

千姫はどんな気持ちであったのでしょう。

もし家康に、秀頼と淀殿をのちのち害する気があったなら、なにかの拍子に、たとえばお江がとき

に深いため息をつくなどということがあって、なんとはなしに背後にある暗い事情を察知するはず。

このときの千姫はおそらく、どこにでもいる女の子のように、自分をお婿さんになり人はどんな人

なのだろうと気持ちをわくわくさせ、夢と希望を抱いていたことでしょう。



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pig 20170720




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「謂れのない汚名を後世に晒した悲劇の女・千姫」 その8

『家康の思量』

千姫を秀頼に入輿させる時点で、家康は豊臣恩顧の武将のことなどなんとも思っていない。

では、どんな訳があって千姫を秀頼に嫁がせたのでしょう。

徳川家康(1543-1616年)
to.徳川家康

征夷大将軍になった慶長8年2月という時点で、家康は淀殿や秀頼をやがて死に追いやること

など考えていなかったのでしょう。

かつてはおのれが秀吉の前に膝を屈した。

今度は立場が入れ替わって、秀頼がおのれに膝を屈すればいい。

そうすれば、大大名の一人として遇してやる。

そんなふうに考えていて千姫を、大大名の一人として遇することになるだろう秀頼に嫁がせた。

こう考えるのが自然のような気がします。



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「謂れのない汚名を後世に晒した悲劇の女・千姫」 その7

『城を高くして池を深くして、余が攻めるのを待て』

はたしてそうだったのでしょうか。

秀吉が死ぬとすぐ家康は四大老五奉行をさかんに挑発し、揺さぶりをかけて、なんだかんだと

関ケ原の戦いまで持ち込んでいます。

篠山城(篠山城登城記は「こちら」です。)
sa.篠山城 001

あの時点と、この時点の家康のどちらが強力かというと比較にならない。

この時点の方がはるかに強力で、この時点の家康に、豊臣恩顧の武将の機嫌をとらなければな

らない理由は微塵もなくなっているのです。

自分は京にいながら諸大名70家に動員をかけ、70家は黙々と江戸で働かされている。

むろん、その70家の中には、福島正則も加藤清正もいるのです。

こんな話が伝わります。

福島正則は翌慶長9年と慶長11年に江戸城の修築に、12年は駿府城の建設に、14年に笹

山城の建設にと駆り出された。

そのまた次の年、15年に名古屋城に城が築かれるらしいという噂が立ったが、篠山城の建設

に駆り出された面々は工役を免れることができるらしいとのことだったので、正則はほっと胸

を撫でおろしていたが、案に相違して、またも正則に声がかかった。

正則はしぶしぶ出かけ普請が始まり、一休みして茶を飲んでいるとき、池田輝政にこう愚痴を

こぼした。

「ここのところ、やたらに土木の工役に駆り出される。江戸や駿府はまあ天下普請ともいえる

普請だから止むを得ないとしても、名古屋は庶子の住居。庶子の居住にまで駆り出されるのは

おかしい。御身(輝政)は駿府(家康)の愛婿である。われらがために、おかしいと訴えてく

れぬか」

微妙な話だから輝政が返事を渋っていると。清正が髭を震わせ、笑って言った。

「粗忽なことを申すものかな。工役が嫌なら、ただちに国に帰って謀反するがいい。謀反が出

来ぬのなら、黙って工役に就くしかあるまい」

「それもそうだ」

と正則は苦笑してその場は何事もなく終わったが、諸大名がまたまた駿府城の修復に駆り出さ

れたとき、家康は諸大名を前にして言った。

「最近、しきりに工役がつらいなどと愚痴をこぼす者がいると聞く、本当にそうなら、速やか

に帰国し、城を高くして池を深くして、余が到らん日を待たるべし」

諸大名は大いに恐れて工役の人数を増やし、城郭は不日に完成した。



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pig 20170718



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「謂れのない汚名を後世に晒した悲劇の女・千姫」 その6

『政略結婚』

疑問を抱いた人は、こう考える人が多いのでしょうか。

関ケ原の戦いでは徳川の主力軍を率いていた秀忠が遅参したばかりか、戦場で働いたのが豊臣恩

顧の武将が主力であったので、論功行賞は圧倒的に彼らに対して行わなければならず、中四国・

九州で没収した土地の殆どすべては彼らに与えなければならなくなった。

福島正則(1561-1624年)
fu.福島正則

とりわけ、豊臣恩顧の武将でも有力で強力な福島正則には芸備両国49万8千石を、加藤清正に

は肥後52万石に豊後の一部2万石を添えて54万石を与えることになったから、彼らは表向き、

家康に恭順の意を表してはいるが、秀頼への忠義を隠そうとせず、不気味にその存在感を示そう

としていた。

だから、家康としては、彼らのご機嫌を損なわないように暫くは気を配っていなければならなか

ったのです。

千姫は生まれるとすぐ、秀吉によって秀頼の許婚とされ、そのことを豊臣恩顧の武将だけでなく、

みんな知っている事実なのです。

家康はいずれ秀頼の息の根を止めるつもりではいるが、今のところは彼ら、豊臣恩顧の武将の機

嫌を損なわないようにしておかねばならず、哀れだと思うが約束どおり、千姫を秀頼に嫁がせた。

普通は、以上のような説明なのでしょう。



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平成26年6月30日に100城を制覇しました!

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*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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