「謂れのない汚名を後世に晒した悲劇の女・千姫」 その39
『鹿の子の振袖で』
俗謡にこんな歌があります。
吉田通れば二階から招く
しかも鹿の子の振袖で
千姫(1597-1666年)

「しかも鹿の子の振袖で」というのは、姥桜のくせに、若い娘が着る着物を恥ずかしげもなく
着てという意味で、そんな格好して二階から招くのは実は千姫なのである。
千姫は江戸に戻ると吉田御殿に住まったある夜、一人の町人が酔った浪人に追われて御殿に逃
げ込んだ。
千姫は侍女たちがその町人と楽しげに語らっているのを見て、おらの傍らに近づけ、夜な夜な
寵愛し、揚げ句、飽きて、その町人を殺した。
それに味をしめ、千姫は同じように次から次へと男を御殿に誘い、寵愛しては殺した。
千姫は淫乱な女だった。
いつの時代からか、こんな奇怪な伝説が生まれ、戦前には浪花節の題材にまでなったという。
なぜ、千姫にそんな伝説が生まれたのでしょうか。
いうまでもなく、坂崎直盛の騒動の時、千姫は思いもよらぬ印象を世間に与えてしまい、その
ことが世人の脳裡に残っていたからなのでしょう。
千姫は秀頼の崇りを恐れたといいますが、意外なことに直盛が崇って、なにも悪いことをして
いないのに後世にまがまがしい汚名を晒すことになってしまった。
千姫は、坂崎直盛とは関わりがなく、まったく謂れのない汚名を後世に晒した悲劇の女なので
しょう。
もっとも千姫のことも、吉田御殿のことも知る人も少ないのでしょうけど・・・。
せめて、姫路城に行かれた際は、千姫のことを思い出してあげてください。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:戦国女人抄おんなのみち(佐藤雅美著)>
俗謡にこんな歌があります。
吉田通れば二階から招く
しかも鹿の子の振袖で
千姫(1597-1666年)

「しかも鹿の子の振袖で」というのは、姥桜のくせに、若い娘が着る着物を恥ずかしげもなく
着てという意味で、そんな格好して二階から招くのは実は千姫なのである。
千姫は江戸に戻ると吉田御殿に住まったある夜、一人の町人が酔った浪人に追われて御殿に逃
げ込んだ。
千姫は侍女たちがその町人と楽しげに語らっているのを見て、おらの傍らに近づけ、夜な夜な
寵愛し、揚げ句、飽きて、その町人を殺した。
それに味をしめ、千姫は同じように次から次へと男を御殿に誘い、寵愛しては殺した。
千姫は淫乱な女だった。
いつの時代からか、こんな奇怪な伝説が生まれ、戦前には浪花節の題材にまでなったという。
なぜ、千姫にそんな伝説が生まれたのでしょうか。
いうまでもなく、坂崎直盛の騒動の時、千姫は思いもよらぬ印象を世間に与えてしまい、その
ことが世人の脳裡に残っていたからなのでしょう。
千姫は秀頼の崇りを恐れたといいますが、意外なことに直盛が崇って、なにも悪いことをして
いないのに後世にまがまがしい汚名を晒すことになってしまった。
千姫は、坂崎直盛とは関わりがなく、まったく謂れのない汚名を後世に晒した悲劇の女なので
しょう。
もっとも千姫のことも、吉田御殿のことも知る人も少ないのでしょうけど・・・。
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「謂れのない汚名を後世に晒した悲劇の女・千姫」 その38
『千姫の幸と不幸』
千姫が姫路に住むようになってから5ヵ月が経った元和4年2月1日、千姫(この時、22歳)
は女子を生んだ。
名は曽祖父・忠勝から一字をとって「勝」と名付けられた。後に、鳥取の池田光政に嫁いでい
ます。
千姫化粧櫓(姫路城) (姫路城登城記は「こちら」です。)

翌年の元和5年、千姫はまた子供を生んだ。
待望の男子で、名は「幸千代」と名付けられた。
幸千代が生まれた月日は不明ですが、喜びもつかの間、2年後の元和7年12月9日にわずか3
歳で死去しています。
千姫の不幸はその後も続き、好きで一緒になった相手と、ともに白髪になるまで暮らすことがで
きず、忠刻は寛永3年(1626年)5月、父・忠政に先立ち死去する。
忠刻31歳、千姫30歳の時のことで、もはや子を生むことができない千姫は幼い娘・勝を姫路
に残して江戸に帰っています。
母・お江も、その9月に亡くなっていて、江戸に帰り着いたのは、お江の死後2ヵ月後の11月
のことでした。
江戸に戻った千姫はしばらく母がいた西丸で暮らしたが、三代将軍・家光の計らいで、千姫のた
めに新しく建てられた竹橋の屋敷に移った。
そして、江戸に戻って40年、寛文6年(1666年)齢70、古希でその身をまっとうしてい
ます。
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千姫が姫路に住むようになってから5ヵ月が経った元和4年2月1日、千姫(この時、22歳)
は女子を生んだ。
名は曽祖父・忠勝から一字をとって「勝」と名付けられた。後に、鳥取の池田光政に嫁いでい
ます。
千姫化粧櫓(姫路城) (姫路城登城記は「こちら」です。)

翌年の元和5年、千姫はまた子供を生んだ。
待望の男子で、名は「幸千代」と名付けられた。
幸千代が生まれた月日は不明ですが、喜びもつかの間、2年後の元和7年12月9日にわずか3
歳で死去しています。
千姫の不幸はその後も続き、好きで一緒になった相手と、ともに白髪になるまで暮らすことがで
きず、忠刻は寛永3年(1626年)5月、父・忠政に先立ち死去する。
忠刻31歳、千姫30歳の時のことで、もはや子を生むことができない千姫は幼い娘・勝を姫路
に残して江戸に帰っています。
母・お江も、その9月に亡くなっていて、江戸に帰り着いたのは、お江の死後2ヵ月後の11月
のことでした。
江戸に戻った千姫はしばらく母がいた西丸で暮らしたが、三代将軍・家光の計らいで、千姫のた
めに新しく建てられた竹橋の屋敷に移った。
そして、江戸に戻って40年、寛文6年(1666年)齢70、古希でその身をまっとうしてい
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「謂れのない汚名を後世に晒した悲劇の女・千姫」 その37
『千姫、姫路へ』
三州吉田で15万2千石をとるに過ぎなかった池田輝政は妻・糸子を離縁し、小田原後家といわ
れた家康の娘・富子を後妻に迎え、富子の威光と後押しとねだりをして、みるみる所領を増やし
たという。
姫路城(姫路城ライトアップは「こちら」です。)

輝政父子だけで、播州52万石、備前28万石、淡路6万石の合計86万石、弟・長吉の因州鳥
取6万石を合わせると92万石。
加賀前田家の100万石に迫る大大名になった。
その後、時は移り、人は変わって、千姫が桑名に嫁いでいった翌年の元和3年、前妻・糸子系の
わずか8歳だった新太郎光政は因州と伯耆で32万石、居城を鳥取となった。
後妻・富子糸の忠雄は備前28万石と良正院(富子)の化粧料3万5千石を合わせて31万5千
石、居城を岡山となる。
播州では忠雄の弟・輝澄、政綱、輝興らが合わせて10万石を領していたが、光政が因幡と伯耆
に、忠雄が備前に移って、がらりと土地が空いた。
そこで、千姫は伯母の富子のようにおねだりをしたわけではないが、父・秀忠が結婚の引出物だ
といわんばかりに、忠刻の父・忠政に5万石を加増して播州で15万石とし、姫路の城も与える。
また、千姫の化粧料だといわんばかりに、まだ部屋住みだった忠刻に10万石を与える。
本多忠勝の本多家は、25万石を領するかなりの大名になった。
千姫は、元和3年8月から9月にかけて姫路に移住した。
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三州吉田で15万2千石をとるに過ぎなかった池田輝政は妻・糸子を離縁し、小田原後家といわ
れた家康の娘・富子を後妻に迎え、富子の威光と後押しとねだりをして、みるみる所領を増やし
たという。
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輝政父子だけで、播州52万石、備前28万石、淡路6万石の合計86万石、弟・長吉の因州鳥
取6万石を合わせると92万石。
加賀前田家の100万石に迫る大大名になった。
その後、時は移り、人は変わって、千姫が桑名に嫁いでいった翌年の元和3年、前妻・糸子系の
わずか8歳だった新太郎光政は因州と伯耆で32万石、居城を鳥取となった。
後妻・富子糸の忠雄は備前28万石と良正院(富子)の化粧料3万5千石を合わせて31万5千
石、居城を岡山となる。
播州では忠雄の弟・輝澄、政綱、輝興らが合わせて10万石を領していたが、光政が因幡と伯耆
に、忠雄が備前に移って、がらりと土地が空いた。
そこで、千姫は伯母の富子のようにおねだりをしたわけではないが、父・秀忠が結婚の引出物だ
といわんばかりに、忠刻の父・忠政に5万石を加増して播州で15万石とし、姫路の城も与える。
また、千姫の化粧料だといわんばかりに、まだ部屋住みだった忠刻に10万石を与える。
本多忠勝の本多家は、25万石を領するかなりの大名になった。
千姫は、元和3年8月から9月にかけて姫路に移住した。
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「謂れのない汚名を後世に晒した悲劇の女・千姫」 その36
『千姫騒動の直盛は犬死』
奉書が届いて、家老・坂崎勘兵衛らは坂崎直盛(出羽守)に自裁を勧めた。
出羽守はきかない。
勘兵衛らは隙を見て、直盛の首を掻き切り、公儀に差し出した。
なんのことはない。
本多正純が預けられた久保田城

肩肘を張って突っ張ったばかりに、直盛は犬死に同然に、それも家来から殺されてしまった。
そこで、坂崎家はどうなったかというと秀忠の、
「出羽守は非を改めずして、家老に命を奪われてしまった。もってのほかである。家を立てさせ
るべきでない」
という指示により断絶させられてしまった。
本多正純は家老に直盛を殺させるのはよくないと言った。
家老は老中の指示によって直盛を殺したのだが、秀忠は老中の指示を無視して、直盛が家老に殺
されたのがよくないから家を立てさせるべきではないという。
これは筋が通らない。
筋を通すのなら本多正純が主張するとおり、家老に殺させるのではなく、幕府が兵を送って殺す
べきだった。
ただ、目の前の騒動を鎮めるため、老中も秀忠も家老に直盛を殺させるという姑息な手段をとっ
たわけで、始末がついてみればなんとなく自分たちに理がないというのが分かります。
とりわけ秀忠が理を申し立てた正純に反感を抱いたようで、こののち、秀忠は正純を目の敵にし
て、ついには千石の捨て扶持で出羽秋田の佐竹義宣に預ける。
坂崎直盛を巡っての争いが尾を引いたのかもしれません。
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奉書が届いて、家老・坂崎勘兵衛らは坂崎直盛(出羽守)に自裁を勧めた。
出羽守はきかない。
勘兵衛らは隙を見て、直盛の首を掻き切り、公儀に差し出した。
なんのことはない。
本多正純が預けられた久保田城

肩肘を張って突っ張ったばかりに、直盛は犬死に同然に、それも家来から殺されてしまった。
そこで、坂崎家はどうなったかというと秀忠の、
「出羽守は非を改めずして、家老に命を奪われてしまった。もってのほかである。家を立てさせ
るべきでない」
という指示により断絶させられてしまった。
本多正純は家老に直盛を殺させるのはよくないと言った。
家老は老中の指示によって直盛を殺したのだが、秀忠は老中の指示を無視して、直盛が家老に殺
されたのがよくないから家を立てさせるべきではないという。
これは筋が通らない。
筋を通すのなら本多正純が主張するとおり、家老に殺させるのではなく、幕府が兵を送って殺す
べきだった。
ただ、目の前の騒動を鎮めるため、老中も秀忠も家老に直盛を殺させるという姑息な手段をとっ
たわけで、始末がついてみればなんとなく自分たちに理がないというのが分かります。
とりわけ秀忠が理を申し立てた正純に反感を抱いたようで、こののち、秀忠は正純を目の敵にし
て、ついには千石の捨て扶持で出羽秋田の佐竹義宣に預ける。
坂崎直盛を巡っての争いが尾を引いたのかもしれません。
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「謂れのない汚名を後世に晒した悲劇の女・千姫」 その35
『本多正純の正論』
出羽守(坂崎直盛)に自裁するように勧める奉書を家老に送り、出羽守が聞き入れなければ出羽
守の首を討って差し出せと命じことに、本多正純が反発して聞いた。
江戸城大手門

「家老が出羽守の首を討って差し出せば、後嗣を立てて家を存続させるのでござるか」
土井利勝ら老中は声を揃えていう。
「そういうことにはなりませぬ」
「だったら」
と本多正純は眉をしかめて言った。
「いつわってのこと。主人の首を討って差し出せなどという下知は、天下の仕置にあってはなら
ず、もってのほかでござる。出羽守を成敗するのは上に逆らうから行うのであって、なんなら、
それがしに仰せ付けくだされ。それがしが出羽守を成敗してまいりましょう」
「いやいや、やはりわれらがいま評議したとおりに事を行うがよろしかろう」
他の老中は同じく声をそろえていうが、ただ一人、本多正純が踏ん張って反対する。
正純は父・本多正信とともに駿府にあって、家康の参謀として睨みを利かせていたから発言に
は重みがあったが、秀忠が土井利勝ら大勢の老中の意見に与して、奉書が家老に送られた。
ちなみに本多忠勝の本多家と正信・正純父子の本多家とは縁戚関係はありません。
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<参考文献:戦国女人抄おんなのみち(佐藤雅美著)>
出羽守(坂崎直盛)に自裁するように勧める奉書を家老に送り、出羽守が聞き入れなければ出羽
守の首を討って差し出せと命じことに、本多正純が反発して聞いた。
江戸城大手門

「家老が出羽守の首を討って差し出せば、後嗣を立てて家を存続させるのでござるか」
土井利勝ら老中は声を揃えていう。
「そういうことにはなりませぬ」
「だったら」
と本多正純は眉をしかめて言った。
「いつわってのこと。主人の首を討って差し出せなどという下知は、天下の仕置にあってはなら
ず、もってのほかでござる。出羽守を成敗するのは上に逆らうから行うのであって、なんなら、
それがしに仰せ付けくだされ。それがしが出羽守を成敗してまいりましょう」
「いやいや、やはりわれらがいま評議したとおりに事を行うがよろしかろう」
他の老中は同じく声をそろえていうが、ただ一人、本多正純が踏ん張って反対する。
正純は父・本多正信とともに駿府にあって、家康の参謀として睨みを利かせていたから発言に
は重みがあったが、秀忠が土井利勝ら大勢の老中の意見に与して、奉書が家老に送られた。
ちなみに本多忠勝の本多家と正信・正純父子の本多家とは縁戚関係はありません。
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