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家康の過酷な命を受けた千世姫 その33「最終回」

『千世と忠隆の別れ』

2人は祖父母の居候となり、肩身の狭い思いをして暮らし始めた。

やがて男の子が生まれた。

だが、哀れにもその子は5歳で亡くなった。

それがきっかけであるかのように、2人の間には透き間風が吹き始めた。

仕官することができぬ牢人者の夫に千世が愛想をつかしたということもあった。

千世姫の実家「金沢城」(金沢城登城記は「こちら」です。)
金沢城

千世は

「国へ帰らしていただきます」

といって、加賀に帰っていった。

細川家は長寿の家系で、幽斎は77歳まで生きた。

三斎と号した忠興も83歳まで生きた。忠興の跡を襲った忠利(三千代)は56歳と幽斎や忠興

に比べるとやや短命だったが、忠隆もまた長生きした。

さすがにそんな忠隆を哀れと思ったか、忠利が他界したと思えるころ、忠興は許して忠隆に、忠

利の跡を継いだ光尚名義で3千石の捨て扶持を与えた。

4年後の正保2年(1645年)に忠興は逝去した。

さらにその翌3年に忠隆は病に伏した。

光尚は参勤年で、江戸への途中、京に立ち寄り、哀れな伯父を病床に見舞った。

忠隆は京に住むようになって娘3人と倅2人を設け、養女も育てていた。

3千石は彼らに遣わし、倅どもは、あらたな細川家の領地である肥後の熊本に呼び寄せて貰いた

いと、甥にあたる光尚にたのんだ。

光尚は快く了解し、忠隆は67歳で生涯を終えた。

一方、加賀に戻った千世は、前田加賀八家のひとつで芳春院の信頼が深い村井長頼の子・長次に

再嫁し、長次との間に子はなかったものの、村井家石高は16,500石余で経済的には恵まれていた

と思われる。

千世は1641年金沢で、62歳で他界したという。

なお、細川家と前田家との縁者振りは元禄期にようやく復活したという。



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              <参考文献:戦国女人抄おんなのみち(佐藤雅美著)>
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家康の過酷な命を受けた千世姫 その32

『安住の地がない二人』

兄・前田利勝(利長)にとっても、家康の世の今となっては、縁者振りを断たされている細川家

の廃嫡された嫡男と、たとえ妹ではあれその妻に来られるのは迷惑だ。

金沢に入るのを拒み、ずっと上方寄りの大聖寺で足止めを食わせた。

前田利勝(利長)(1562-1614年))
ma.前田利長 002

1月、2月と経つが、放ったらかしにされたままという待遇に変わらない。出て行けよがしに

冷遇する。

2人はすごすごと京に引き返した。

細川家は京に地縁血縁がある。祖父・幽斎、祖母・麝香もふだん京に住み着いている。

2人は祖父母をたよった。

あのとき、諸将の妻子や母も少なからず、大坂の屋敷を逃げ出した。

千世だけが逃げたのではない。それに姑は自害したのにと非難するが、自害したのは姑。

つまり母・ガラシャだけで、それは異例のことでもあった。

忠隆はこう開き直って、関ケ原では一方の将となって働いたことでもあり、しかるべき処遇を

公儀、とりもなおさず家康に求めた。

公儀は忠興との父子間の争いとみなして提訴を却下した。


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                 <参考文献:戦国女人抄おんなのみち(佐藤雅美著)>

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家康の過酷な命を受けた千世姫 その31

『見捨てられた忠隆』

細川忠興は大坂に入って家康に面会した。

忠興の妻が自害して、諸将を奮い立たせかつ安堵させた。さらには父・幽斎が弱兵500で田辺

に50日も籠城して、1万5千の兵をくぎ付けにした。

忠興の功は計りきれない。

功には報いなければならない。

細川幽斎(1534-1610年)
ho.細川幽斎 002

忠興に、豊前一国と豊後の速水、国東の2郡、およそ39万石余りを与えた。

忠興は押しも押されもせぬ国持大名となった。

国が替わる。

家来や家族は丹後から遠く九州に向かう。

誰もが支度に追われはじめた頃、河守に足止めを食わされていた忠隆に、忠興からこう指示が

届いた。

「豊前に足踏み、無用たるべく候」

豊前にきてはならない。

あからさまにいうと、牢人せよと。

忠興の母、忠隆にとっては祖母になる麝香(じゃこう)はそうと知って、忠興をいさめていった。

「むごいことを申されるな」

忠興はますます機嫌を悪くして、さらにこう言った。

「豊前へくだると切腹を申しつける」

牢人はつらい。今日、食う飯に困る。

「ならば、兄の国・加賀へ」

千世がそういい、2人は手に手をとりあって加賀へくだった。


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家康の過酷な命を受けた千世姫 その30

『夫・忠隆との再会』

千世は旅慣れていないうえに、山また山を分け入らなければならない。

足の豆を何度も潰し、棒のようになった足を引きずりながら、ようやく河守の城についた。

「お方さま」

数人ほどにされてしまった家来のひとりが絶句して迎え、忠隆に注進する。

河守城址
ka.河守城

忠隆は玄関まで走った。

そこにはいとおしい妻のやつれた姿がある。

「よくぞ、やってきた」

千世はすがりつき、涙ながらにいった。

「お会いしとうございました」

ここで千世を迎えると、父・忠興がどうでるか分りきっている。

これ幸い。“姑が自害しようとしているのに、縁者振りを断たれている里に逃げ出すような嫁を、

許して迎えるなど言語同断、勘当を申しつかわす”こういうに違いない。

だが、いとおしい。

千世もおなじくいとおしいと思ってくれていて、こんな山奥までわざわざやって来てくれた。

帰すなどどうしてできよう。

あとのことは運を天に任せよう。

瞬時にそう決断して、忠隆は千世を抱きかかえるように居間にいれた。




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家康の過酷な命を受けた千世姫 その29

『千世も窮地』

お光こと光千代は、秀忠に従って宇都宮までやってきた。誰が見てもわかるように、光千代は

秀忠に気に入られていた。

これからの天下を握った徳川家との関係を考えるなら、秀忠にかわいがってもらっている光千

代に跡をゆずったほうが無難。

細川三千代(忠利)
ho.細川忠利

父・忠興はそう考えて千世が逃げたのを物怪の幸いに、それを問題として、おのれを嫡廃しよ

うとしている。

忠隆は城とはいうのもおこがましい、さびれた河守の城に入った。

千世は前田の屋敷に逃げ込んだ。だが、前田家とて当主・利勝の生母・芳春院を証人として江

戸にくだしているほど、家康に屈服している。

おや、そうかい。そりゃ大変だったねえ、ここでゆっくり骨休みなさいなどといえる雰囲気で

はない。

ましてや姑(ガラシャ)は華々しい自害を遂げ、あっぱれ武家の妻の鑑と栄誉を欲しいままに

している。

その姑をおきざりにして逃げ帰ってきているのである。

迷惑このうえない。

扱いはおのずと冷たくなる。

居心地はよくない。

かくなるうえはただ一人の味方、愛する夫をたよることしかない。

侍女に、夫の消息を探らせた。

大坂には戻っていないという。

さらに探させると、なんと丹波と丹後の国境のさびれた城にいるのだという。

屋敷の者の冷たい目を背に、落人同然に千世は河守の城に向かった。



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平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


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*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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