戦国時代の合戦「桶狭間の戦い」 その28
『今川義元の佩刀』
その後、信長は首尾よく上洛し全国統一への道をひた走るが、桶狭間に敗れた今川氏の末路は、
名門だけにひとしお哀れだった。
織田信長(1534-1582年)

松平元康の離反をおさえることさえできず、しかも武田信玄の侵入をうけ、駿・遠の領地は分
割され、後継ぎの氏真は駿府から掛川にのがれ、相模の北条氏のもとに身を寄せ、ついに今川
の表看板だった『海道一の弓取り』の称号も、いまや徳川家康と名乗る、かつての家来・松平
元康に奪い取られ、その家康から、わずかの食い扶持を与えられる身の上となりさがり、足利
以来の名家・今川も滅亡に瀕した。
氏真は入道して、宋誾と号し、慶長19年(1614年)12月28日、77歳の高齢で果て
るまで、諸国流浪の生涯を送ったという。
今川義元の佩刀(はいとう)というのが、今に伝わります。
これは桶狭間の戦いのとき、信長がぶんどったものですが、信長の死後、豊臣秀吉、秀頼・徳
川家康などの手を経て、京都に建勲神社が建立されたとき、徳川将軍家から奉納されたといわ
れる。
『信長公記』にも、この刀を信長が秘蔵していたことを記しており、よほど桶狭間の戦勝が嬉し
かったのでしょう。
信長は、なお、戦勝を記念し、刀の表に「永禄3年5月19日、義元討ち捕りし候、彼所持の刀」
、裏に「織田尾張守信長」と刻ませた。
信長は、この刀を生涯愛用し、桶狭間の勝利を糧に、天下統一への道を疾走したのです。
桶狭間の戦いにお付き合い戴き、ありがとうございました。
次回の戦いは、信長VS浅井・朝倉が戦った「姉川の戦い」を勉強してみたいと思います。
よかったらお付き合いください。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
その後、信長は首尾よく上洛し全国統一への道をひた走るが、桶狭間に敗れた今川氏の末路は、
名門だけにひとしお哀れだった。
織田信長(1534-1582年)

松平元康の離反をおさえることさえできず、しかも武田信玄の侵入をうけ、駿・遠の領地は分
割され、後継ぎの氏真は駿府から掛川にのがれ、相模の北条氏のもとに身を寄せ、ついに今川
の表看板だった『海道一の弓取り』の称号も、いまや徳川家康と名乗る、かつての家来・松平
元康に奪い取られ、その家康から、わずかの食い扶持を与えられる身の上となりさがり、足利
以来の名家・今川も滅亡に瀕した。
氏真は入道して、宋誾と号し、慶長19年(1614年)12月28日、77歳の高齢で果て
るまで、諸国流浪の生涯を送ったという。
今川義元の佩刀(はいとう)というのが、今に伝わります。
これは桶狭間の戦いのとき、信長がぶんどったものですが、信長の死後、豊臣秀吉、秀頼・徳
川家康などの手を経て、京都に建勲神社が建立されたとき、徳川将軍家から奉納されたといわ
れる。
『信長公記』にも、この刀を信長が秘蔵していたことを記しており、よほど桶狭間の戦勝が嬉し
かったのでしょう。
信長は、なお、戦勝を記念し、刀の表に「永禄3年5月19日、義元討ち捕りし候、彼所持の刀」
、裏に「織田尾張守信長」と刻ませた。
信長は、この刀を生涯愛用し、桶狭間の勝利を糧に、天下統一への道を疾走したのです。
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戦国時代の合戦「桶狭間の戦い」 その27
『英雄・信長』
静岡市の臨在寺に、この岡部元信が持ち帰った義元の首を葬った墓だといいますが、桶狭間古
戦場の跡にも長さ1.5mのほどの自然石、「今川治部大輔義元之墓」と刻まれた墓石が建っ
ています。
桶狭間古戦場の義元の墓(訪問記は「こちら」です。)

これは、もちろん後世の歴史好きの人が建てたものだと思います。
信長が、桶狭間で意外な大勝利を得ることができたのは、まさに天運ともいうべき奇蹟的なで
きごとだった。
しかし、その奇蹟は信長の決断力と周到な作戦によってもたらされたものです。
敵情を、より早く、正確にキャッチし、将兵の心をとらえ、戦意を昂揚させる手腕の巧妙さ、
それも「うつけ」と呼ばれた青年時代に培った、新時代を生み出すための強烈なスタミナと鋭い
感覚によるところが多いのでしょう。
多量の鉄砲を装備し、槍の柄を長くし、偶像を破壊し、因襲を否定し、乱世に荒鍬を立てた英
雄・信長の第一歩は、この桶狭間戦勝によって踏み出されたといっていいのでしょう。
これにひきかえて今川義元は、信長に数倍する兵力への過信と、身に着いた悠長な性格、それ
に目前の勝利におごっていたことなどが、敗亡の原因として数えられる。
もしも義元が、勝って兜の緒をしめ、気を許すことなく、的確に兵を進めていったなら、反対
に信長は滅び、今川義元の名が上洛の大業をなしとげた覇者として、永遠に史上に記録された
ことでしょう
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静岡市の臨在寺に、この岡部元信が持ち帰った義元の首を葬った墓だといいますが、桶狭間古
戦場の跡にも長さ1.5mのほどの自然石、「今川治部大輔義元之墓」と刻まれた墓石が建っ
ています。
桶狭間古戦場の義元の墓(訪問記は「こちら」です。)

これは、もちろん後世の歴史好きの人が建てたものだと思います。
信長が、桶狭間で意外な大勝利を得ることができたのは、まさに天運ともいうべき奇蹟的なで
きごとだった。
しかし、その奇蹟は信長の決断力と周到な作戦によってもたらされたものです。
敵情を、より早く、正確にキャッチし、将兵の心をとらえ、戦意を昂揚させる手腕の巧妙さ、
それも「うつけ」と呼ばれた青年時代に培った、新時代を生み出すための強烈なスタミナと鋭い
感覚によるところが多いのでしょう。
多量の鉄砲を装備し、槍の柄を長くし、偶像を破壊し、因襲を否定し、乱世に荒鍬を立てた英
雄・信長の第一歩は、この桶狭間戦勝によって踏み出されたといっていいのでしょう。
これにひきかえて今川義元は、信長に数倍する兵力への過信と、身に着いた悠長な性格、それ
に目前の勝利におごっていたことなどが、敗亡の原因として数えられる。
もしも義元が、勝って兜の緒をしめ、気を許すことなく、的確に兵を進めていったなら、反対
に信長は滅び、今川義元の名が上洛の大業をなしとげた覇者として、永遠に史上に記録された
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戦国時代の合戦「桶狭間の戦い」 その26
『武士の意気地』
今川方の部将の相次ぐ離反の中にあって、ひとり忠節をつらぬいた男もいた。
例えば、鳴海城の守将・岡部元信です。
岡部元信(信長の野望)

元信は、桶狭間における味方の敗報を耳にしたが
「人は、ともあれ任務を守ることこそ武士の意気地」
といって、討死を覚悟で織田勢の攻撃を待ち構えていた。
まもなく織田勢が鳴海に襲来した。
しかし、「大高や沓掛も、恐れをなして逃げ散ったというのに、敵中に弧城を守るとは敵な
がらあっぱれである。あの意気込みでは、かりにわが軍が攻めたとて、いたずらに味方の死
傷者を増すだけであろう」
といって、信長は20日経って、使者を立て、岡部元信に鳴海退去を勧告している。
ところが、元信は信長の使者を受け付けない。
そのうちに駿府の今川氏真(義元の子)からも、撤兵の命令が下ったので、初めて退城を決意
し、開城の条件として、今川義元の首級の引渡しを信長に要求した。
この元信の堂々たる態度には、さすがの信長も感動し、10人の僧侶をつけて義元の首を鳴海
に送り届けている。
岡部元信は、主君・今川義元の首を奉じ、涙ながらに駿府への道をたどったが、池鯉鮒にさし
かかると、急に
「武士が出陣して、手柄もたてずに帰国できようか」
といって、織田方の部将・水野信近が守る刈屋城を夜襲し、今川総崩れのなかに、ひときわ目
立つ戦功を残し、悠々と駿府の城に引き上げたという。
この話を後に伝え聞いた徳川家康の直臣・大久保彦左衛門は
「首ばかりお供にして、国へ引き上げるなど、実に珍しいことだ。これを昔風にいえば、武辺
といい侍の義理といい、主君への忠義といい、異国の事はいざ知らず、本朝ではためしのない
ことである。だから東海地方で、岡部元信の名を知らぬ者とてない」
と、その著書『三河物語』の中で、激賞している。
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今川方の部将の相次ぐ離反の中にあって、ひとり忠節をつらぬいた男もいた。
例えば、鳴海城の守将・岡部元信です。
岡部元信(信長の野望)

元信は、桶狭間における味方の敗報を耳にしたが
「人は、ともあれ任務を守ることこそ武士の意気地」
といって、討死を覚悟で織田勢の攻撃を待ち構えていた。
まもなく織田勢が鳴海に襲来した。
しかし、「大高や沓掛も、恐れをなして逃げ散ったというのに、敵中に弧城を守るとは敵な
がらあっぱれである。あの意気込みでは、かりにわが軍が攻めたとて、いたずらに味方の死
傷者を増すだけであろう」
といって、信長は20日経って、使者を立て、岡部元信に鳴海退去を勧告している。
ところが、元信は信長の使者を受け付けない。
そのうちに駿府の今川氏真(義元の子)からも、撤兵の命令が下ったので、初めて退城を決意
し、開城の条件として、今川義元の首級の引渡しを信長に要求した。
この元信の堂々たる態度には、さすがの信長も感動し、10人の僧侶をつけて義元の首を鳴海
に送り届けている。
岡部元信は、主君・今川義元の首を奉じ、涙ながらに駿府への道をたどったが、池鯉鮒にさし
かかると、急に
「武士が出陣して、手柄もたてずに帰国できようか」
といって、織田方の部将・水野信近が守る刈屋城を夜襲し、今川総崩れのなかに、ひときわ目
立つ戦功を残し、悠々と駿府の城に引き上げたという。
この話を後に伝え聞いた徳川家康の直臣・大久保彦左衛門は
「首ばかりお供にして、国へ引き上げるなど、実に珍しいことだ。これを昔風にいえば、武辺
といい侍の義理といい、主君への忠義といい、異国の事はいざ知らず、本朝ではためしのない
ことである。だから東海地方で、岡部元信の名を知らぬ者とてない」
と、その著書『三河物語』の中で、激賞している。
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戦国時代の合戦「桶狭間の戦い」 その25
『きまじめな元康』
弱肉強食が乱世の慣いとはいえ、桶狭間の一戦に信長の武名は大いにあがり、上洛制覇への道
をひた走る。
これに反して、駿河の今川氏の勢力は日増しに衰え、家臣の離反も相次いで起こったが、その
ひとつに松平元康(家康)の独立事件があった。
松平元康(家康)

松平元康は、桶狭間の戦いの当時、尾張の大高城にいた。
今川軍の総大将・義元も夕刻には、この城に到着するてはずになっていた。
ところが意外にも、その義元が田楽狭間で討死したというのである。
元康はキツネにつままれたような気がした。
家臣の石川家成、酒井忠次らは、信長の来襲を予想し、元康に退城を勧めた。
しかし、元康は
「義元討死の報が、信長が仕組んだ虚報であれば、なんとする。まだ、今川方から正式な知らせ
があったわけではない。もし、大高を退いてのち、その知らせがいつわりと判明したら、この元
康は二度と今川殿に合わせる顔がないではないか」
と言って、撤退しようとしまかった。
そのうちに、織田方に属していた伯父の水野信元から知らせがあり、
「悪いことはいわぬ。織田勢が押し寄せぬうちに、早く逃げよ」
と忠告してきたので、初めて大高退城を決意し、月の出を待って、土一揆を蹴散らしながら、三
河の岡崎目指して、馬に鞭打った。
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弱肉強食が乱世の慣いとはいえ、桶狭間の一戦に信長の武名は大いにあがり、上洛制覇への道
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これに反して、駿河の今川氏の勢力は日増しに衰え、家臣の離反も相次いで起こったが、その
ひとつに松平元康(家康)の独立事件があった。
松平元康(家康)

松平元康は、桶狭間の戦いの当時、尾張の大高城にいた。
今川軍の総大将・義元も夕刻には、この城に到着するてはずになっていた。
ところが意外にも、その義元が田楽狭間で討死したというのである。
元康はキツネにつままれたような気がした。
家臣の石川家成、酒井忠次らは、信長の来襲を予想し、元康に退城を勧めた。
しかし、元康は
「義元討死の報が、信長が仕組んだ虚報であれば、なんとする。まだ、今川方から正式な知らせ
があったわけではない。もし、大高を退いてのち、その知らせがいつわりと判明したら、この元
康は二度と今川殿に合わせる顔がないではないか」
と言って、撤退しようとしまかった。
そのうちに、織田方に属していた伯父の水野信元から知らせがあり、
「悪いことはいわぬ。織田勢が押し寄せぬうちに、早く逃げよ」
と忠告してきたので、初めて大高退城を決意し、月の出を待って、土一揆を蹴散らしながら、三
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戦国時代の合戦「桶狭間の戦い」 その24
『信長の戦勝』
信長は逃げる敵を追わず、ただちに軍勢を大沢村近くの間米山に結集し、義元の首実験をすま
せ、午後4時ころ、その首を馬の先に掲げ、意気揚々と引き揚げた。
帰途、熱田神宮に勢揃いし、戦勝を神前に謝し、神馬一頭を奉納している。
熱田神宮に信長が奉納した築地塀

清洲城に着いた頃には、日もとっぷりと暮れていた。
このとき信長が、戦勝の礼として奉納したと伝えられる築地塀が熱田神宮に今に保存されている。
その翌日、信長は桶狭間の戦いで討ち取った今川勢の首実験をしている。
『信長公記』には、「首の数、3千余あり」
と、織田方の戦勝の結果を記している。
その後、論功行賞を行ったが、なかでも今川義元の移動を知らせ、これを急襲することを勧告し
た梁田広正に恩賞として、沓掛城と3千貫文の地を与えている。
それから、義元の首を清洲城から20町ほど南の須賀口にさらし、衆僧を招いて桶狭間の露と消
えた敵将の霊を慰めたという。
その他の今川将士の首は、曹源寺の和尚が集めて葬った。
今、仙人塚と呼ばれているのが、これらしい。
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信長は逃げる敵を追わず、ただちに軍勢を大沢村近くの間米山に結集し、義元の首実験をすま
せ、午後4時ころ、その首を馬の先に掲げ、意気揚々と引き揚げた。
帰途、熱田神宮に勢揃いし、戦勝を神前に謝し、神馬一頭を奉納している。
熱田神宮に信長が奉納した築地塀

清洲城に着いた頃には、日もとっぷりと暮れていた。
このとき信長が、戦勝の礼として奉納したと伝えられる築地塀が熱田神宮に今に保存されている。
その翌日、信長は桶狭間の戦いで討ち取った今川勢の首実験をしている。
『信長公記』には、「首の数、3千余あり」
と、織田方の戦勝の結果を記している。
その後、論功行賞を行ったが、なかでも今川義元の移動を知らせ、これを急襲することを勧告し
た梁田広正に恩賞として、沓掛城と3千貫文の地を与えている。
それから、義元の首を清洲城から20町ほど南の須賀口にさらし、衆僧を招いて桶狭間の露と消
えた敵将の霊を慰めたという。
その他の今川将士の首は、曹源寺の和尚が集めて葬った。
今、仙人塚と呼ばれているのが、これらしい。
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