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姉川の戦い その31

『浅井家の終焉』

信長は7月になって、初陣の嫡男・信忠を従え、虎御前山の本陣と並んだ雲雀山にも要塞を築く

と同時に、木下秀吉に命じて、阿閉貞征がたてこもる山本城を攻めさせた。

また草野谷に火を放ち、浅井方の尖兵を大吉寺に追い上げ、これを殺戮した。

朝倉義景が1万5千、朝倉景鏡が5千、あわせて2万の大軍が越前から南下してきたのは、この

ときであった。

浅井長政自刀の地
as.浅井長政自刃の碑

信長は、ただちに朝倉軍と小谷山麓で対峙した。

兵力のうえでは信長の方が、もちろん優勢です。

それに織田軍は、これと同様の布陣で姉川合戦に大勝した経験をもっていて、士気があがらない

わけはない。

しかし、こんどの戦いが、姉川合戦と違う点は徳川家康からの援兵が一騎も参加していないこと

であった。

とういのも、そのころ三河岡崎城を嫡男の信康に譲り、遠江の浜松城にいた家康は、全軍を遠江

に集結させていたのです。

重大な局面の大敵は、甲斐の強豪・武田信玄だったのです。

この後の小谷城の運命は、みなさんがご存知のとおりです。


31回にわたり、姉川の戦いにお付き合い頂き、ありがとうございました。

次回の合戦は、武田信玄Vs徳川家康の三方ヶ原の戦いを勉強してみたいと思います。

よかったらお付き合いください。



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                      <参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
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姉川の戦い その30

『小谷城総攻撃』

信長が、江北・越中および本願寺討伐の軍議を開いていた頃、江北小谷山の浅井長政が、横山城

を奪還しようとしていた。

城将・木下秀吉が岐阜に来ていたからです。

守将・竹中重虎(半兵衛)は、よく浅井勢を防ぎ、まもなく馳せつけた秀吉の兵と協力し、これ

を撃退した。

小谷城(小谷城登城記は「こちら」です。)
od.小谷城案内図

3月5日、信長は改めて5万の大軍を催し、小谷山を攻めた。

しかし、浅井長政が挑戦に応じないので、虎御前山に砦を築き、長囲の陣を張った。

それから江西方面にも、所々に築塁し、小谷攻勢に万全を期した。

小谷攻めに加わったのは、佐久間信盛・柴田勝家・丹波長秀・木下秀吉・蜂谷頼隆で、江西方面

を押さえたのは明智光秀・中川重政などであった。

小谷城は、もはや袋の中のネズミも同然であった。

信長は今度こそ、浅井長政の首を取るつもりであった。

おれに逆らうものは、それが身内であろうと、肉身であろうと、また過去はどうであろうと、決

して容赦しない。

自分の妹を娶った男だけに、どこまでも反抗してくる長政が、かえって憎くてたまらなかったの

かも知れません。



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姉川の戦い その29

『38歳の信長』

2月になって近江国佐和山の城主・磯野員昌が降参した。

員昌は浅井家臣で、しかも姉川合戦のときの猛将として知られている。その猛将が力尽きて降

服したことは、当時の信長にとって形勢がよくないなか、有望な事件であった。

5月になって、前に降参した松永久秀が大和国信貴山の居城で、信長に反旗をひるがえしたの

も、そのひとつであった。

松永久秀(1506-1577年)&piglet
ma.松永久秀pig

久秀は信長の前途を見限ったのです。信長の強引な武略に不安を抱いたのでしょう。

同時に長島一揆が蜂起した。

5月12日、信長は津島に出陣し、三方から長島を攻めたて、一揆にたいして壊滅的な打撃を

あたえた。

8月に入って、信長は、またもや江北の小谷城を攻めたが、9月12日、突如、比叡山を侵し

延暦寺の根本中堂をはじめ、山王21社、東塔の坊舎をことごとく焼き払い、老若の僧徒千数

百人を殺戮した。

昨年の僧兵の反抗に対する報復だったのです。

この風聞に接した畿内の寺々の坊主たちは、我が事とばかりに震えあがったと同時に、信長の

ことを仏敵と称して増悪した。

明けて、元亀3年(1573年)、39歳を迎えた信長は、岐阜城において、3男・信孝のた

めに元服の式をあげた。

分国の諸将士は、みな岐阜に参会し、これを慶賀したという。

信長は、その宴席を利用し、江北・越前および本願寺討伐の軍議を練った。



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姉川の戦い その28

『八方塞がりの信長』

浅井・朝倉との和議を結んだものの、それはもちろん一時的手段に過ぎなかった。

去る年の戦いで、いちばん信長を悩ましたのは、浅井・朝倉や六角・三好よりも、むしろ本願寺

門徒一揆のゲリラ作戦であった。

木下藤吉郎(1537-1598年)
to.豊臣秀吉 001

そのゲリラ戦のために、織田方の将兵がどれだけ苦労をしたかわからない。

坊主のくせに、槍や鉄砲など持って、と思うと、一層腹がたった。

その坊主どもは、本願寺の末寺があるかぎり、どこにでもうようよしている。

これに土民の一揆が合流するから、始末が悪い。

しかし、せめて北国の朝倉・浅井と本願寺の連絡だけでも、この際、断ち切っておきたいと考え

た。

そこで信長は、翌元亀2年(1571年)の正月早々、横山城将の木下藤吉郎に命じ、姉川から

朝妻までの水路を封鎖させた。

ところが、その結果は、かえって八方の形勢を、再び悪化させた。

北陸と京坂間の水路を遮断されたことは、本願寺の門徒だけでなく、江北の10ヶ寺にとっても

容易ならぬ苦痛であった。

それに、また比叡山の僧徒も激昂し、また伊勢の長島一揆が、本願寺の指令によって動き出して

いる。

打倒信長の声が諸方に起こったが、信長はそれに屈せず敵対するものを討ち平らげ京都に復帰

したかった。

いったん中央の政権を掌握した信長です。岐阜に追い返されまま黙っている男ではありません。



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姉川の戦い その27

『浅井・朝倉Vs織田の和睦』

義昭としては、今度の陰謀が露顕し、そのことについて信長から詰問されることを何よりも恐れ

ていたことでしょう。

足利義昭
as.足利義昭 001

そのことと相違した信長からの手紙を見て、ほっと一息ついたことでしょう。

知ってか、知らずか、信長が大目に見てくれたらいしいので、安心した。

そうした義昭のひけめが、彼をして、信長の請求を受け容れざる得ない羽目に追い込んだのです。

足利将軍の奏請によって、同年12月13日付けで正親天皇の綸旨がくだった。

文面には「天下安穏のため、和融を勧告する」とあった。

信長も、浅井も、朝倉も、もちろん、これを有り難く拝受した。

信長の策略は図にあたり、彼は浅井・朝倉と人質を交換し、岐阜に馬を進めた。

要するに、浅井・朝倉との対戦は、初め姉川の合戦で信長が大勝したが、その後、足利義昭の指

令によって、八方が信長の敵となったため、信長も一時、浅井・朝倉と和睦せざるを得なくなっ

たのです。



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平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


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*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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