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「三方ヶ原の戦い」 その35

『歴史の流れが変わる』

信長は、日ごろから訓練しておいた3千3百挺の鉄砲をもつ足軽鉄砲隊を活用し、味方の陣営の

前方に柵を設けて、武田の騎馬隊をひきつけ、これに一斉射撃を浴びせかけるといった、新しい

戦術を併用した。

甲府駅前の武田信玄
ta.武田信玄(甲府駅前)

しかし、信玄生存中の武田家が、3万5千にのぼる騎兵を備えていたのに、その半数ほどに減っ

てしまったことは、やはり勝頼に味方の離反を押さえる器量がなかったのでしょう。

それは、勝頼が生まれながらの悲劇の英雄だったのかもしれない。

勝頼の母は、信玄が攻め滅ぼした信州諏訪上原の城主・諏訪頼重の娘であった。

そうした因縁が、勝頼に不運を背負わせたのでしょうか。

しかし、皮肉にもこれが信長にとっては、天から授かった幸福となったのです。

立ち塞がる大きな壁がなくなった信長は、これより天下の覇者へと一歩大きく前進した。

その歴史の流れを変えるきっかけと作ったのが、この三方ヶ原の合戦であったのでしょう。



三方ヶ原の戦いにお付き合い戴き、ありがとうございました。

その後の武田家が気になりますので、次回は長篠の戦いを勉強してみたいと思います。

よかったらお付き合いください。



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眠くて・・・

robin 20180520




                      <参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
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「三方ヶ原の戦い」 その35

『甲斐・武田家』

武田家では、信玄の遺言に従って、その喪を秘し、3年経った天正4年(1576年)4月16

日、甲斐の恵林寺で葬儀を行った。

しかし、その死報は早くも死の13日後に、越後の上杉謙信の耳にも入った。

武田信玄墓所 (武田信玄ゆかりの地廻りは「こちら」です。)
ta.武田信玄墓所(恵林寺)

信玄は死に臨んで、重臣・山県昌景を呼び寄せ、世嗣・勝頼を託し

「わが亡き後は、武田の旗を瀬田に立てよ」

といって、生死の境を彷徨していても、その心は、はや京洛の地にひるがえる武田の旗を夢見て

いたのであったが、惜しくもその宿望はとげられなかった。

信玄の死は、天下の形勢を急転させた。

かれの存在は偉大だった。広大な領土と兵力を持ちながら、武田家は衰運に向かわなければなら

なかった。

世嗣・勝頼が凡庸な武将だったからではない。

勝頼もまた、当代一流の勇将であった。

だが、何か欠けているものがあったことは確かです。

天正3年(1575年)、すなわち信玄の死後2年目に、再び、織田・徳川の同盟軍と武田軍は、

三河国長篠の西方、設楽原の高原で衝突した。いわゆる長篠の合戦です。

これは織田・徳川軍の圧倒的な勝利に終わったが、それも勝頼が弱かったわけではない。

この時には、ちょうど三方ヶ原合戦とは反対に、織田・徳川軍3万8千に対し、勝頼はその半分に

も満たない1万5千の兵力に過ぎなかった。



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「三方ヶ原の戦い」 その33

『信玄の没』

信玄は、12月28日付けで、一乗ヶ谷に早飛脚をたて、義景のだらしない態度を咎めるととも

に、三方ヶ原の勝利を大げさに報告し、奮起して事にあたれとネジを巻いている。

それから、翌29日付けで、松永久秀にも戦勝を報じ、信玄の上洛を迎えるように念を押すと、

再び兵を起こして西に進み、大晦日には刑部に入り、そこで年を越しています。

明けて元亀4年1月11日、信玄は、徳川の部将・菅沼定盈が守る三河の野田城を戦さ初めに選

んだ。

武田信玄(1521-1573年)
ta.武田信玄 002

急を聞いた家康が、野田城を救おうとして笠頭山に陣取ったが、武田の大軍の前には身動きもで

きず、野田城はあっけなく陥落した。

そのころ、信玄の手元に、松永久秀や本願寺光佐から、三方ヶ原戦勝の祝賀の書状が届き、信玄

も幾分か気分を持ち直していた。

しかし、不運にもこのころ信玄は労咳(結核)に悩まされていた。

信玄の画像として伝わっているものは、ずいぶんと肥満しているが肺をおかされていたらしいの

です。

それで剛気な信玄も、熱とはげしい喀血に苦しみ、三河の鳳来寺で暫く療養していたが、快方に

向かわないので、やむなく一旦、甲府に引き揚げることにした。

しかし、上洛を断念せねばならない悲運を嘆いたあまりか、その途中、信州伊那郡の駒場で、5

3歳で息をひきとった。

4月12日のことであった。



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robin 20180517



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「三方ヶ原の戦い」 その32

『信長包囲作戦から朝倉義景脱落』

三方ヶ原で徳川軍と織田の援兵を叩きのめした信玄は、そのまま一気に浜松城をおとしいれよう

としたが、それを中止し、そのまま上洛への一歩を進めようとして、兵を整えた。

ところが信玄は予期せぬ情報を受け取った。

あれほど念を押して、信長をひきつけておくようにと、言い聞かせた朝倉義景が、あっさりと江

北から越前に引き揚げてしまった、というのです。

朝倉義景(1533-1573年)
as.朝倉義景

信玄は茫然自失した。

義景は、この頃、江北の小谷山の西方大獄山に陣取って、本願寺や三好・松永、それに伊勢の長

島の一揆と連絡して、信長包囲作戦に重要な位置にあった。

信玄が背後から信長を衝いて上洛するまで、是が非でもがんばって欲しいと、義景に言っておい

た筈である。

ところが義景は、織田軍の猛攻にあい、救いを求めてきた浅井長政を助けるために、1万5千の

兵を率いて加勢したが、長島一揆に脅かされた信長が、あわてて岐阜に引き揚げたのを見とどけ

ると、義景もあっさりと越前に引き上げてしまったのです。

せっかく信長滅亡の時期が押し迫ったというのに、いくら戦いに疲れたとはいえ、このだらしな

さは話にもならない。

ここまでうまくいった信長包囲作戦も、これで失敗に終わったも同然であり、信玄はじつに困惑

した。

しかし、朝倉が引き揚げたとはいえ、本願寺や松永、それに長島一揆がまだ執拗に信長に食いつ

いていることを思えば、彼らのためにも計画通りに事を運ばねば、信玄の男が立たない。



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「三方ヶ原の戦い」 その31

『犀ヶ崖古戦場』

三方ヶ原の信玄は、十分の勝利を得ながら、決しておごらなかったという。

勝運にありながら、織田方の新手の後詰め警戒し、また、はげしい行動と激戦に疲れ果てた将兵

を、これ以上疲弊させぬためでもあった。

信玄の目的は、なんといっても上洛にあったからでしょう。

犀ヶ崖古戦場
sa.犀ヶ崖
(浜松市HPよりお借りしています)

そこで、時を見計らって、信玄は徳川軍の追撃をやめさせ、その夜は、犀ヶ崖と呼ぶ地に陣し、

昼間の戦闘に参加しなかった予備隊・穴山梅雪を全前面に配置し、警固につかせている。

犀ヶ崖(さいががけ)の夜襲というのは、この武田の本陣を目がけて、徳川の部将・天野康景と

大久保忠世が、16人の銃手を集め、鉄砲玉を撃ち込んだので、三河武士の根性を示す美談とし

て、語り伝えられている。

犀ヶ崖というのは、浜松城より西北2.5kmの名残町付近の台地にできた亀裂で、幅30m、

東西約2kmに渡る両岸絶壁の深い谷となって走っている。

深さ9mの谷底には一筋の小川が流れている。

勝ち戦で気がゆるんでいるところへ、いきなり鉄砲玉をあびせかけられ、暗夜で敵の兵力も確認

できない武田軍は、大騒動して、この犀ヶ崖に落ち込んで死んだ者も数多く、三河武士の面目を

大いにほどこしたというのです。

この話は、浜松市の北にある八幡宮の境内にある樹齢千年といわれる楠の老木にまつわる伝説と

して土地の人に伝えられています。

しかし、この話も面白くでき過ぎています。

家康が夜襲させたことは、考えられなくもないが、こうした伝説は、後世に土地の人が、神秘的

な犀ヶ崖をながめ、ふと、そんな気がして作り上げたものなのでしょう。



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robin 20180515




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