「長篠の戦い」 その31
『心頭滅却すれば火もおのずから涼し』
最後に、信長の性情と戦国の非情を示す事実を確認してみます。
それは甲斐恵林寺の焚殺事件です。
恵林寺(恵林寺訪問記は「こちら」です。)

この恵林寺は夢窓開基の禅刹であり、当時、信玄と親しかった快川国師が住持していたが、敗兵
を隠したために、織田信忠の兵に囲まれてしまった。
兵たちは寺中残らず、老いも若きも山門へ呼び寄せ、廊門より山門へ籠草を積ませ火をつけた。
はじめは黒煙が立って見えなかったが、しだいに煙がおさまり、人の形も見えてきた。
快川長老は少しも騒がず、まっすぐ座ったまま動かず
「安禅は必ずしも山水を求めず、心頭滅却すれば火もおのずから涼し」
という有名な言葉を残して従容として死んでいった。
このとき、長老のほか11人がなくなった。
恵林寺は破滅し、老若上下150余人が焼き殺されている。
人生には予測ができない事態が待っているものです。この快勝の3ヵ月のち、織田信長は6月
10日、本能寺で殺されてしまうのです。
長い間、長篠の戦いにお付き合いいただき、ありがとうございました。
次回は、鳥取城の戦いについて勉強してみたいと思います。
よかったら、お付き合いください。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
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それは甲斐恵林寺の焚殺事件です。
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この恵林寺は夢窓開基の禅刹であり、当時、信玄と親しかった快川国師が住持していたが、敗兵
を隠したために、織田信忠の兵に囲まれてしまった。
兵たちは寺中残らず、老いも若きも山門へ呼び寄せ、廊門より山門へ籠草を積ませ火をつけた。
はじめは黒煙が立って見えなかったが、しだいに煙がおさまり、人の形も見えてきた。
快川長老は少しも騒がず、まっすぐ座ったまま動かず
「安禅は必ずしも山水を求めず、心頭滅却すれば火もおのずから涼し」
という有名な言葉を残して従容として死んでいった。
このとき、長老のほか11人がなくなった。
恵林寺は破滅し、老若上下150余人が焼き殺されている。
人生には予測ができない事態が待っているものです。この快勝の3ヵ月のち、織田信長は6月
10日、本能寺で殺されてしまうのです。
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「長篠の戦い」 その30
『信長・家康軍の勝利』
信長は3月5日、安土を出発し、6日に仁科盛信(19歳)の首を呂久川で検分して長良川にさ
らした。
14日、波合で勝頼父子の首を見て、これを飯田にさらした。
織田信長

信長はその首級を見たとき
「日本に隠なき弓取なれども、運が尽きさせ給ひて、かく成らせ給ふものかな」
といったことが、徳川方の記録にある。
20日、上諏訪で徳川家康に会見し、駿河・上野・甲斐・信濃四ヵ国の侍たちが、色々なツテを
求めて挨拶に来ることは勝ち戦の常で、信長の宿舎は門前市をなす有様であったといいます。
ここで論功行賞により、小笠原信嶺・穴山梅雪には旧領を、木曾義昌には旧領筑摩郡のほかに安
曇郡を加え、滝川一益には信濃2郡(小県・佐久)および上野を与えた。
駿河は家康に、甲斐および諏訪郡を河尻秀隆に、信濃4郡(高井・水内・更科・埴科)を森長可
に、伊那郡を毛利秀頼に与えた。
信長は4月10日に甲府を去り、21日に安土に凱旋した。
その陣中から松井有閑にあてた手紙では
「このように30日や40日で一挙に片付いたことは、我ながら驚くばかりである」
といっている。
信長はそうとうに満足であったのでしょう。
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信長は3月5日、安土を出発し、6日に仁科盛信(19歳)の首を呂久川で検分して長良川にさ
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14日、波合で勝頼父子の首を見て、これを飯田にさらした。
織田信長

信長はその首級を見たとき
「日本に隠なき弓取なれども、運が尽きさせ給ひて、かく成らせ給ふものかな」
といったことが、徳川方の記録にある。
20日、上諏訪で徳川家康に会見し、駿河・上野・甲斐・信濃四ヵ国の侍たちが、色々なツテを
求めて挨拶に来ることは勝ち戦の常で、信長の宿舎は門前市をなす有様であったといいます。
ここで論功行賞により、小笠原信嶺・穴山梅雪には旧領を、木曾義昌には旧領筑摩郡のほかに安
曇郡を加え、滝川一益には信濃2郡(小県・佐久)および上野を与えた。
駿河は家康に、甲斐および諏訪郡を河尻秀隆に、信濃4郡(高井・水内・更科・埴科)を森長可
に、伊那郡を毛利秀頼に与えた。
信長は4月10日に甲府を去り、21日に安土に凱旋した。
その陣中から松井有閑にあてた手紙では
「このように30日や40日で一挙に片付いたことは、我ながら驚くばかりである」
といっている。
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「長篠の戦い」 その29
『武田家の滅亡』
追撃してやってきた滝川一益・川尻秀隆らは、婦人子供を一人ずつ刺し殺し、侍らは斬ってでて、
甲州武士の最後を飾った。
武田勝頼一家の墓景徳院訪問記は「こちら」です。)

このとき自殺・斬死したものは武田勝頼・信勝をはじめとして、長坂釣閑斎・跡部尾張守・小宮
山友晴・小原下総守などであった。
思えば、勝頼は悲劇の人であったのです。
勝頼の母は信濃諏訪郡上原の城主、諏訪頼重の娘です。
頼重が信玄に殺されたとき、姪ではあるが美しい娘は信玄の側室に迎えられたのです。
姫は勝頼を産んで、永禄4年に病没している。
勝頼にとって信玄は祖父の仇であり、母を戦利品として略奪した非道な人物なのです。
そして今は、信玄の占領地域のすべてを失い、父の一族老臣から見捨てられて、死出の旅路を
歩んで行ったのです。
悲劇の部将・武田勝頼の墓は田野の景徳院にあります。
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追撃してやってきた滝川一益・川尻秀隆らは、婦人子供を一人ずつ刺し殺し、侍らは斬ってでて、
甲州武士の最後を飾った。
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このとき自殺・斬死したものは武田勝頼・信勝をはじめとして、長坂釣閑斎・跡部尾張守・小宮
山友晴・小原下総守などであった。
思えば、勝頼は悲劇の人であったのです。
勝頼の母は信濃諏訪郡上原の城主、諏訪頼重の娘です。
頼重が信玄に殺されたとき、姪ではあるが美しい娘は信玄の側室に迎えられたのです。
姫は勝頼を産んで、永禄4年に病没している。
勝頼にとって信玄は祖父の仇であり、母を戦利品として略奪した非道な人物なのです。
そして今は、信玄の占領地域のすべてを失い、父の一族老臣から見捨てられて、死出の旅路を
歩んで行ったのです。
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「長篠の戦い」 その28
『逃げ出す臣下』
織田・徳川の軍勢が武田方の諸城を次々に陥れているのを聞いて、甲斐の諸将が動揺し、逃亡
者が続出した。
このとき真田昌幸は上野の吾妻城に退くように勧告し、小山田信茂は居城・岩殿城に拠るよう
にすすめた。
岩殿城

勝頼は信成の勧めに従って、3月3日、新府城に火をかけ、都留郡岩殿城に向かった。
小山田氏は古くから郡内地方に勢力を振るっていた豪族で、信玄の重臣であったし、信濃方面
から圧迫された勝頼の逃げ道としては、郡内地方が最も適切であった。
このとき従う者は500余人であったが、途中から逃げ出すものが多かった。
7日、信茂は、まず帰城して防備を整え、それから迎えに来ると称し、夜ひそかに人質に置い
ていた母を連れて立ち去った。
9日になっても信茂が帰って来ないので、勝頼が怪しみだし、使者を郡内に出したところ、小
山田勢が笹子峠にいて、使者を追い返してしまった。
勝頼は激怒したが、今の落人の身の上でどうすることもできない。
ここ鶴瀬の土民も、勝頼に背いていたので、勝頼父子・妻・一門の4、50人は天目山棲雲寺
に籠ろうと田野というところまでやってきた。
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者が続出した。
このとき真田昌幸は上野の吾妻城に退くように勧告し、小山田信茂は居城・岩殿城に拠るよう
にすすめた。
岩殿城

勝頼は信成の勧めに従って、3月3日、新府城に火をかけ、都留郡岩殿城に向かった。
小山田氏は古くから郡内地方に勢力を振るっていた豪族で、信玄の重臣であったし、信濃方面
から圧迫された勝頼の逃げ道としては、郡内地方が最も適切であった。
このとき従う者は500余人であったが、途中から逃げ出すものが多かった。
7日、信茂は、まず帰城して防備を整え、それから迎えに来ると称し、夜ひそかに人質に置い
ていた母を連れて立ち去った。
9日になっても信茂が帰って来ないので、勝頼が怪しみだし、使者を郡内に出したところ、小
山田勢が笹子峠にいて、使者を追い返してしまった。
勝頼は激怒したが、今の落人の身の上でどうすることもできない。
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に籠ろうと田野というところまでやってきた。
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「長篠の戦い」 その27
『武田家の崩壊』
家康は18日、浜松を出発、20日、駿河の田中城を降し、21日、駿府に入った。
永年の間、徳川・武田係争の地をまたたく間に掌握した。
3月2日、家康は駿河江尻城の穴山梅雪に書状を送り、降服するならば甲斐の下山の所領を与え
るし、信長から扶持をもらえるよう斡旋する。
もし不成功に終わったならば自分が扶助すると申し入れた。
穴山梅雪(1541-1582年)

梅雪は信玄の甥で、勝頼の妹婿にあたり、もっとも近い親戚であった。
しかし、ここにいたって甲府の人質を盗み取らせ徳川家によしみを通じ、のち黄金2千枚を持参
金として信長に謁見している。
穴山梅雪だけではない。あれだけの勇武と忠誠で鳴らした信玄以来の一族と将星たちが、つぎ、
つぎに織田・徳川の軍門にくだり、逃亡してしまった。
武田信豊は信玄の甥で、その子は勝頼の娘と結婚していたが、虚病をついて軍議に参加せず、信
州に逃げて殺されてしまった。
画家として著名な武田信簾は信玄の弟、勝頼の祖父であるが、命令を聞かずに逃げ出して織田に
降参し、殺されてしまっている。
勝頼の弟・仁科盛信が高遠城を死守し、大広間を朱に染めて壮烈な戦死をしたほかは、上下の不
和から、落ち目の武田家のために、織田軍を逆撃しようとするものはなかった。
いかに勝頼に対する信望がなくなっていたかを証明するとともに、大国が解体せんとする末期的
症状として注目されるところです。
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家康は18日、浜松を出発、20日、駿河の田中城を降し、21日、駿府に入った。
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3月2日、家康は駿河江尻城の穴山梅雪に書状を送り、降服するならば甲斐の下山の所領を与え
るし、信長から扶持をもらえるよう斡旋する。
もし不成功に終わったならば自分が扶助すると申し入れた。
穴山梅雪(1541-1582年)

梅雪は信玄の甥で、勝頼の妹婿にあたり、もっとも近い親戚であった。
しかし、ここにいたって甲府の人質を盗み取らせ徳川家によしみを通じ、のち黄金2千枚を持参
金として信長に謁見している。
穴山梅雪だけではない。あれだけの勇武と忠誠で鳴らした信玄以来の一族と将星たちが、つぎ、
つぎに織田・徳川の軍門にくだり、逃亡してしまった。
武田信豊は信玄の甥で、その子は勝頼の娘と結婚していたが、虚病をついて軍議に参加せず、信
州に逃げて殺されてしまった。
画家として著名な武田信簾は信玄の弟、勝頼の祖父であるが、命令を聞かずに逃げ出して織田に
降参し、殺されてしまっている。
勝頼の弟・仁科盛信が高遠城を死守し、大広間を朱に染めて壮烈な戦死をしたほかは、上下の不
和から、落ち目の武田家のために、織田軍を逆撃しようとするものはなかった。
いかに勝頼に対する信望がなくなっていたかを証明するとともに、大国が解体せんとする末期的
症状として注目されるところです。
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