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「長篠の戦い」 その31

『心頭滅却すれば火もおのずから涼し』

最後に、信長の性情と戦国の非情を示す事実を確認してみます。

それは甲斐恵林寺の焚殺事件です。

恵林寺(恵林寺訪問記は「こちら」です。)
恵林寺 002

この恵林寺は夢窓開基の禅刹であり、当時、信玄と親しかった快川国師が住持していたが、敗兵

を隠したために、織田信忠の兵に囲まれてしまった。

兵たちは寺中残らず、老いも若きも山門へ呼び寄せ、廊門より山門へ籠草を積ませ火をつけた。

はじめは黒煙が立って見えなかったが、しだいに煙がおさまり、人の形も見えてきた。

快川長老は少しも騒がず、まっすぐ座ったまま動かず

「安禅は必ずしも山水を求めず、心頭滅却すれば火もおのずから涼し」

という有名な言葉を残して従容として死んでいった。

このとき、長老のほか11人がなくなった。

恵林寺は破滅し、老若上下150余人が焼き殺されている。

人生には予測ができない事態が待っているものです。この快勝の3ヵ月のち、織田信長は6月

10日、本能寺で殺されてしまうのです。




長い間、長篠の戦いにお付き合いいただき、ありがとうございました。

次回は、鳥取城の戦いについて勉強してみたいと思います。

よかったら、お付き合いください。



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robin 20180625




                  <参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
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「長篠の戦い」 その30

『信長・家康軍の勝利』

信長は3月5日、安土を出発し、6日に仁科盛信(19歳)の首を呂久川で検分して長良川にさ

らした。

14日、波合で勝頼父子の首を見て、これを飯田にさらした。

織田信長
od.織田信長

信長はその首級を見たとき

「日本に隠なき弓取なれども、運が尽きさせ給ひて、かく成らせ給ふものかな」

といったことが、徳川方の記録にある。

20日、上諏訪で徳川家康に会見し、駿河・上野・甲斐・信濃四ヵ国の侍たちが、色々なツテを

求めて挨拶に来ることは勝ち戦の常で、信長の宿舎は門前市をなす有様であったといいます。

ここで論功行賞により、小笠原信嶺・穴山梅雪には旧領を、木曾義昌には旧領筑摩郡のほかに安

曇郡を加え、滝川一益には信濃2郡(小県・佐久)および上野を与えた。

駿河は家康に、甲斐および諏訪郡を河尻秀隆に、信濃4郡(高井・水内・更科・埴科)を森長可

に、伊那郡を毛利秀頼に与えた。

信長は4月10日に甲府を去り、21日に安土に凱旋した。

その陣中から松井有閑にあてた手紙では

「このように30日や40日で一挙に片付いたことは、我ながら驚くばかりである」

といっている。

信長はそうとうに満足であったのでしょう。



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robin 20180624


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「長篠の戦い」 その29

『武田家の滅亡』

追撃してやってきた滝川一益・川尻秀隆らは、婦人子供を一人ずつ刺し殺し、侍らは斬ってでて、

甲州武士の最後を飾った。

武田勝頼一家の墓景徳院訪問記は「こちら」です。)
ta.武田勝頼一家の墓

このとき自殺・斬死したものは武田勝頼・信勝をはじめとして、長坂釣閑斎・跡部尾張守・小宮

山友晴・小原下総守などであった。

思えば、勝頼は悲劇の人であったのです。

勝頼の母は信濃諏訪郡上原の城主、諏訪頼重の娘です。

頼重が信玄に殺されたとき、姪ではあるが美しい娘は信玄の側室に迎えられたのです。

姫は勝頼を産んで、永禄4年に病没している。

勝頼にとって信玄は祖父の仇であり、母を戦利品として略奪した非道な人物なのです。

そして今は、信玄の占領地域のすべてを失い、父の一族老臣から見捨てられて、死出の旅路を

歩んで行ったのです。

悲劇の部将・武田勝頼の墓は田野の景徳院にあります。



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robin 20180623



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「長篠の戦い」 その28

『逃げ出す臣下』

織田・徳川の軍勢が武田方の諸城を次々に陥れているのを聞いて、甲斐の諸将が動揺し、逃亡

者が続出した。

このとき真田昌幸は上野の吾妻城に退くように勧告し、小山田信茂は居城・岩殿城に拠るよう

にすすめた。

岩殿城
iw.岩殿城 001

勝頼は信成の勧めに従って、3月3日、新府城に火をかけ、都留郡岩殿城に向かった。

小山田氏は古くから郡内地方に勢力を振るっていた豪族で、信玄の重臣であったし、信濃方面

から圧迫された勝頼の逃げ道としては、郡内地方が最も適切であった。

このとき従う者は500余人であったが、途中から逃げ出すものが多かった。

7日、信茂は、まず帰城して防備を整え、それから迎えに来ると称し、夜ひそかに人質に置い

ていた母を連れて立ち去った。

9日になっても信茂が帰って来ないので、勝頼が怪しみだし、使者を郡内に出したところ、小

山田勢が笹子峠にいて、使者を追い返してしまった。

勝頼は激怒したが、今の落人の身の上でどうすることもできない。

ここ鶴瀬の土民も、勝頼に背いていたので、勝頼父子・妻・一門の4、50人は天目山棲雲寺

に籠ろうと田野というところまでやってきた。



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robin 20180621




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「長篠の戦い」 その27

『武田家の崩壊』

家康は18日、浜松を出発、20日、駿河の田中城を降し、21日、駿府に入った。

永年の間、徳川・武田係争の地をまたたく間に掌握した。

3月2日、家康は駿河江尻城の穴山梅雪に書状を送り、降服するならば甲斐の下山の所領を与え

るし、信長から扶持をもらえるよう斡旋する。

もし不成功に終わったならば自分が扶助すると申し入れた。

穴山梅雪(1541-1582年)
an.穴山梅雪

梅雪は信玄の甥で、勝頼の妹婿にあたり、もっとも近い親戚であった。

しかし、ここにいたって甲府の人質を盗み取らせ徳川家によしみを通じ、のち黄金2千枚を持参

金として信長に謁見している。

穴山梅雪だけではない。あれだけの勇武と忠誠で鳴らした信玄以来の一族と将星たちが、つぎ、

つぎに織田・徳川の軍門にくだり、逃亡してしまった。

武田信豊は信玄の甥で、その子は勝頼の娘と結婚していたが、虚病をついて軍議に参加せず、信

州に逃げて殺されてしまった。

画家として著名な武田信簾は信玄の弟、勝頼の祖父であるが、命令を聞かずに逃げ出して織田に

降参し、殺されてしまっている。

勝頼の弟・仁科盛信が高遠城を死守し、大広間を朱に染めて壮烈な戦死をしたほかは、上下の不

和から、落ち目の武田家のために、織田軍を逆撃しようとするものはなかった。

いかに勝頼に対する信望がなくなっていたかを証明するとともに、大国が解体せんとする末期的

症状として注目されるところです。



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robin 20180620



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平成26年6月30日に100城を制覇しました!

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*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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