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「鳥取城の戦い」 その30

『戦いは山陰から山陽へ』

さすがの秀吉も決死の吉川元春には兵が動かせない。

そこで宮部継潤を久松城、亀井玆矩を鹿野城にとどめて鳥取を引き上げ、11月8日、姫路城に

凱陣した。

豊臣秀吉(1537-1598年)
to.豊臣秀吉 002

そして、この年の暮、安土に行って歳暮の挨拶を述べた。

信長は「武勇の名誉前代未聞」と書いた感状と、名物茶の湯道具八色を与え、秀吉の額をなでて

「侍ほどの者は、筑前(秀吉)にあやかりたく存ずべし」

と褒めたたえた。

鳥取城の攻防は、城将・吉川経家が「日本に二つの弓矢」といったように、織田・毛利の天下分

け目の戦いであったとも考えられます。

鳥取城の一戦によって、山陰方面の毛利勢力の東上は、まったく終止符が打たれた。

その半面、織田信長の天下統一への歩みは、一歩前進し、戦さの舞台は山陽方面に移され、信長

の先陣・羽柴秀吉と、毛利・両川が全力を集中する備中高松城の戦いが始まります。


次回は、この高松城水攻めを勉強してみたいと思います。



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                    <参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
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「鳥取城の戦い」 その29

『豪胆な元春』

鳥取を開城させ、因幡一円の殆どを手中に入れた秀吉は、羽衣石城の南条元続を助けようとし

て、3万(4万5千とも、8万とも)の大兵を率いて、10月27日、伯耆の国境に近い18

6mの高山(御冠山)に陣をすえ、はるかに吉川元春の本陣、馬の山を俯瞰した。

吉川元春
ki.吉川元春

一方の元春は、背後の橋津川に架かっていた橋を切り落とし、警護船を全部陸に揚げ、文字通

り背水の陣をしいて、秀吉の大軍と向かいあった。

元春の兵力は6千余人である。

そこで部将たちは、撤兵するように進言するため、元春の陣所へ訪れる。

元春は彼らと酒を酌み交わし、ついに酔って高いびき、背を炉にあぶりながら眠ってしまった。

元春の豪胆さにあきれはて、陣営撤退の発言を封じられ、味方の勝利を確信したという。

かつて毛利元就は

「数万の衆を領し、機を両陣に決し、戦えば勝ち、攻めれば取り、威を天下に争はんことは元春

に及はなし、仁を施し民を愛し、国家を保んずることは隆景に一任す」

といい、鳥取城の戦いで勲功第一、開城の後、5万石を与えられ城主となった宮部継潤も

「吉川が有らん程は、毛利の弓矢は盛なるべし、小早川が有らん際は、毛利家の政道邪ならず」

と言ったというが、勇将・元就の面影をしのばれます。


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「鳥取城の戦い」 その28

『毛利一門の哀悼』

吉川元春は、鳥取城陥落の悲報を伯耆の馬の山(鳥取県東伯郡)の陣営で聞いた。

吉川元春(1530-1586年)
ki.吉川元春

そこで、10月27日、吉川経家の父・経安に弔文をしたため、

「吉川家としては、永久に忘れることができない」

と慰めた。

また、元春の嫡子・元長も同日、経家の壮烈な最期を褒めたたえ

「自分が経安の子にもなり、また、経家の子の親ともなって、面倒を見るつもりである」

と申し送った。

さらに、輝元、隆景もそれぞれ、経安を慰めた。

毛利一門が、経家を惜しみ、いかに感謝したかが察されます。



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「鳥取城の戦い」 その27

『鳥取城の開城』

遺言をしたためた吉川経家は、城内の諸士と最後の酒宴を開いた。

鳥取城大手門
to.鳥取城 001

そして納めの盃を介錯人となる静間につかわした時、高声に、から笑い、二つ三つして、それ

から上座に置いた具足唐櫃に腰をかけ、脇差を布で巻き、座中を見廻し、いかのも大声で

「常日頃、稽古せんことじゃ、不調法な切りようになるかもしれんからのう」

と叫び、10月25日寅の刻(午前4時頃)、久松山麓の真教寺において、35年の生涯を終

わった。

家来の福光小三郎、若鶴甚右衛門、坂田孫次郎の3人も、その場で追腹を切った。

経家の首は首桶に収められ、秀吉あての一書とともに、秀吉の陣営におくられた。

秀吉は首実験をし、「あわれ義士かな」と鎧の袖をしぼったという。

ところで、籠城軍は秀吉の攻撃よりも、日ごとにせまる飢餓との闘いで、やつれ果て、見る影

もなかった。

秀吉は城の麓に大釜をすえ、粥の用意をして与えたが、一度に多食した者は、みな死んでしま

った。

『信長公記』は「食にゑひ、過半頓死候」と報じているが、彼らの消火器は、すでにその機能

を失っていたのです。



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「鳥取城の戦い」 その26

『吉川経家の遺言』

10月24日の夜、森下道誉・中村春続は、それぞれの陣所で切腹し、奈佐日本助・塩冶高清・

佐々木三郎左衛門も丸山城で自刃して果てた。

この日、吉川経家は吉川元春の次男・吉川経言(広家)、父・経安、元春の家臣、自分の家来、

長子・亀寿丸にあてて遺言状を書いた。

鳥取城
to.鳥取城 007

経言にあてたものは、次のようなものであった。

我ら鳥取において御用にまかり立ち候。内々覚悟の前に候条、忘却いたさず候。日本二つの

御弓矢境(天下分け目の戦い)において、切腹に及び候事、末代の名誉たるべくと存じ候。

累年別にして御芳情の段、其の期に望み、失念申さず候。存じ候ほど申し得ず候。したがって、

預け奉り候長光の刀、息亀寿の所へつかはされ候て下さるべく候、恐惶謹言。

10月24日  経家

次に、元春の家臣に与えたものは、土地の斡旋を依頼したものであった。

義士・経家が所領を拝領したいという置文していることに、奇異の眼をしてはいけないのです。

経家とて人間なのです。所領がなければ、子孫は滅亡してしまうので、わが家が栄えることを

願ったのです。

翌25日、また3通の遺書をしたためた。

一つは、あちゃこ・かめじゅ・かめ五・とく五の4人の子後もにあてたもので、

とっとりの事、よるひる2ひゃく日こらへ候。ひやうらうにつきはて候まま、我ら一人御ように

たち、おのおのをたすけ申し、一もん(門)のなをあげ候、そのしあはせ、ものがたり、御きき

あるべく候、かしく。

と書いた。

二つは、父・吉川経安にあてたもので、一人切腹して、諸人を無事に助け、吉川一門の名をあげ、

喜んで死んでいくことを述べている。

三つは秀吉にあてたもので、その中で

「恐れながら、後代名誉たるべく候。此等の趣、天下に於て御披露仰ぐ所に候」

といい、自分の死を天下に紹介してほしい、といっている。

自分の存在価値が高く評価されることによって、吉川家の子孫に利益がもたらされることを意識

したものだったのでしょう。



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robin 20180728




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平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

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*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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