備中高松城水攻め その23
『毛利氏は秀吉の幕下へ』
後年、秀吉はこの時の毛利の態度を深く謝し、毛利輝元を五大老の地位に加えているが、両川
(小早川・吉川)に先見の明があったというべきなのでしょう。
毛利輝元(1553-1625年)

小早川隆景は
「毛利家が今日のようにご安泰なのは、兄上(吉川元春)と自分とが、備中高松の和約を堅く
守って、太閤の御感にあずかったからだ」
と自慢のひとつに数えていますが、当然のことでしょう。
しかし、備中高松講和の後、毛利・両川は独立の地位を失って、秀吉の幕下に転落した。
中国の山川を駆け廻り、連戦連勝の吉川元春が
「居常怏々として楽しまず、老を告げ、家を」
この年の暮れに、嫡男・元長に譲ったのも、必然のなりゆきであったのでしょう。
一方の秀吉は、6月9日、姫路を出馬して一路東に進軍する。
備中高松城の戦いで、中国陣のすべてが終わり、舞台は中央に移り、山崎合戦へと進んでいき
ます。
長い間、備中高松城の戦いにお付き合いいただきありがとうございました。
次回からは、「本能寺の変」を勉強してみたいと思います。
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robinくん、ただいま水泳の特訓中

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
後年、秀吉はこの時の毛利の態度を深く謝し、毛利輝元を五大老の地位に加えているが、両川
(小早川・吉川)に先見の明があったというべきなのでしょう。
毛利輝元(1553-1625年)

小早川隆景は
「毛利家が今日のようにご安泰なのは、兄上(吉川元春)と自分とが、備中高松の和約を堅く
守って、太閤の御感にあずかったからだ」
と自慢のひとつに数えていますが、当然のことでしょう。
しかし、備中高松講和の後、毛利・両川は独立の地位を失って、秀吉の幕下に転落した。
中国の山川を駆け廻り、連戦連勝の吉川元春が
「居常怏々として楽しまず、老を告げ、家を」
この年の暮れに、嫡男・元長に譲ったのも、必然のなりゆきであったのでしょう。
一方の秀吉は、6月9日、姫路を出馬して一路東に進軍する。
備中高松城の戦いで、中国陣のすべてが終わり、舞台は中央に移り、山崎合戦へと進んでいき
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備中高松城水攻め その22
『喪に乗じるは不詳』
秀吉は誓紙を交換したものの、毛利が本能寺の変を知れば約に背いて、追撃するかも知れない
と考え、備中高松城を杉原家次に守らせて、毛利の動きを監視させた。
そして両川(小早川・吉川)が岩崎山の陣営を引き上げるのを待って、6日午後2時ころ備中
高松城を引き払った。
信長変死の報は秀吉だけが独占できる訳がない。
明智光秀が出した使者は、秀吉に捕らえられたが、紀伊雑賀衆が発したものは無事に毛利に届
いた。
これは和睦成立の後であった。
備中高松城

毛利の将兵は秀吉に騙されたものと気負い立った。
この好機に乗じ、秀吉との誓紙を破り一斉に立ちあがって、追撃すれば毛利の天下になると
いうのです。
しかし両川は
「誓紙の血痕がまだ乾かないのに、これを破るのは武士の恥である。それに喪(信長)
に乗じるは不祥である」
というわけで、あくまで誓紙を守って動かなかった。
もしこの時、毛利が秀吉を追撃すれば、日本の歴史が変わったのであろうか。
そうではないのでしょう。
備中高松城には杉原家次がおり、岡山城を宇喜多秀家が守り、姫路城を浅野長政が死守する
でしょうから、追撃には日数がかかる。
秀吉の敏捷な行動には、両川といえどもついていけなかったのでしょう。
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生後3ヵ月のrobin

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
秀吉は誓紙を交換したものの、毛利が本能寺の変を知れば約に背いて、追撃するかも知れない
と考え、備中高松城を杉原家次に守らせて、毛利の動きを監視させた。
そして両川(小早川・吉川)が岩崎山の陣営を引き上げるのを待って、6日午後2時ころ備中
高松城を引き払った。
信長変死の報は秀吉だけが独占できる訳がない。
明智光秀が出した使者は、秀吉に捕らえられたが、紀伊雑賀衆が発したものは無事に毛利に届
いた。
これは和睦成立の後であった。
備中高松城

毛利の将兵は秀吉に騙されたものと気負い立った。
この好機に乗じ、秀吉との誓紙を破り一斉に立ちあがって、追撃すれば毛利の天下になると
いうのです。
しかし両川は
「誓紙の血痕がまだ乾かないのに、これを破るのは武士の恥である。それに喪(信長)
に乗じるは不祥である」
というわけで、あくまで誓紙を守って動かなかった。
もしこの時、毛利が秀吉を追撃すれば、日本の歴史が変わったのであろうか。
そうではないのでしょう。
備中高松城には杉原家次がおり、岡山城を宇喜多秀家が守り、姫路城を浅野長政が死守する
でしょうから、追撃には日数がかかる。
秀吉の敏捷な行動には、両川といえどもついていけなかったのでしょう。
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備中高松城水攻め その21
『誓紙交換』
備中高松城の戦は終わった。
義人・清水宗治は、「名を高松の苔に残して」武士の道を渡った。

その結果、行き悩んでいた講和も、6月4日に、毛利・羽柴間で誓紙が交換されることによって
成立した。
毛利は5ヵ国を織田に譲り、また人質2人を差し出すことを約束した。
秀吉もまた人質を出すことを決め、3ヵ条の誓紙を毛利輝元・両川(小早川、吉川)に与えた。
その第1条に「公儀(信長)に対せられ、ご身上御ことはりの儀」は、秀吉が請け負ったといい、
第2条に、毛利・両川のことは、秀吉の命にかけて、見放さないと安心感を与えている。
しかし、この時はすでに信長は死んでいるので、なにも信長にことわることはなかったし、秀吉
は一命をかける必要はなく、嘘つきの名人であったのです。
そして第3条は、たがいに信義を重んじようと述べている。
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備中高松城の戦は終わった。
義人・清水宗治は、「名を高松の苔に残して」武士の道を渡った。

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成立した。
毛利は5ヵ国を織田に譲り、また人質2人を差し出すことを約束した。
秀吉もまた人質を出すことを決め、3ヵ条の誓紙を毛利輝元・両川(小早川、吉川)に与えた。
その第1条に「公儀(信長)に対せられ、ご身上御ことはりの儀」は、秀吉が請け負ったといい、
第2条に、毛利・両川のことは、秀吉の命にかけて、見放さないと安心感を与えている。
しかし、この時はすでに信長は死んでいるので、なにも信長にことわることはなかったし、秀吉
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備中高松城水攻め その20
『武士どもの夢の跡』
現在の備中高松城跡には、本丸跡に清水宗治の首塚といわれる五輪塔が建てられていますが、
二ノ丸・三ノ丸の跡は、殆ど水田に埋没しています。
清水宗治首塚

備中高松城址と蛙ヶ鼻との間に、妙玄寺という寺がありますが、この境内が宗治らが自害した
付近だといわれます。
東南の隅に「清水長左衛門宗治塚」と書いた碑が立っています。
また、長堤の跡は、蛙ヶ鼻にほんの僅かに残されているに過ぎませんが、武士どもの夢の跡を
語るには十分なのかも知れません。
後日談として、秀吉が天下をとった後、小早川隆景が上洛して、秀吉に謁した。
その時、秀吉は隆景に向かって
「宗治の子供がいるだろう。その子を俺にくれ、1万石の知行をやろう」
といったという。
隆景は黒田官兵衛と同道して、宗治の子・景冶を訪ね、秀吉の言葉を伝えたが、景冶は毛利家
がよいと断った。
なかなか面白い話で、秀吉らしい。また、宗治の子供にふさわしい。
この話、事実であって欲しいものです。
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二ノ丸・三ノ丸の跡は、殆ど水田に埋没しています。
清水宗治首塚

備中高松城址と蛙ヶ鼻との間に、妙玄寺という寺がありますが、この境内が宗治らが自害した
付近だといわれます。
東南の隅に「清水長左衛門宗治塚」と書いた碑が立っています。
また、長堤の跡は、蛙ヶ鼻にほんの僅かに残されているに過ぎませんが、武士どもの夢の跡を
語るには十分なのかも知れません。
後日談として、秀吉が天下をとった後、小早川隆景が上洛して、秀吉に謁した。
その時、秀吉は隆景に向かって
「宗治の子供がいるだろう。その子を俺にくれ、1万石の知行をやろう」
といったという。
隆景は黒田官兵衛と同道して、宗治の子・景冶を訪ね、秀吉の言葉を伝えたが、景冶は毛利家
がよいと断った。
なかなか面白い話で、秀吉らしい。また、宗治の子供にふさわしい。
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備中高松城水攻め その19
『清水宗治主従の最後』
清水宗治らは秀吉から贈られた小舟に乗って、秀吉の本陣がある蛙ヶ鼻の前まで漕ぎ寄せた。
秀吉の要求であったのでしょう。
備中高松城の戦い

そして検死として、小舟であらわれた杉原家次の面前で、訣別の盃をくみかわした。
宗治は
「川舟をとめて逢瀬の波枕、浮世の夢の見習はしの、驚かぬ身ぞはかなき」
と、請願時の曲舞を謡い終わるや、腹十文字に切った。
次に、兄の月清が
「道のべの清水流るる柳陰、しばしが程の世の中に、心ともるぞ愚かなる」
と謡って腹を切った。
その他に、末近左衛門、難波伝兵衛・七郎次郎・与十郎まで清く自害した。
市之允は、これらの首を次々と桶に収め、従容として自刀した。
まことに壮烈な清水宗治主従の最後であった。
宗治は46歳であった。
秀吉は丁重に、首実験を終わって、「古今武士の明鏡なり」といったという。
そして石塔を建てて、冥福を祈らせたという。
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清水宗治らは秀吉から贈られた小舟に乗って、秀吉の本陣がある蛙ヶ鼻の前まで漕ぎ寄せた。
秀吉の要求であったのでしょう。
備中高松城の戦い

そして検死として、小舟であらわれた杉原家次の面前で、訣別の盃をくみかわした。
宗治は
「川舟をとめて逢瀬の波枕、浮世の夢の見習はしの、驚かぬ身ぞはかなき」
と、請願時の曲舞を謡い終わるや、腹十文字に切った。
次に、兄の月清が
「道のべの清水流るる柳陰、しばしが程の世の中に、心ともるぞ愚かなる」
と謡って腹を切った。
その他に、末近左衛門、難波伝兵衛・七郎次郎・与十郎まで清く自害した。
市之允は、これらの首を次々と桶に収め、従容として自刀した。
まことに壮烈な清水宗治主従の最後であった。
宗治は46歳であった。
秀吉は丁重に、首実験を終わって、「古今武士の明鏡なり」といったという。
そして石塔を建てて、冥福を祈らせたという。
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