本能寺の変 その25
『光秀の歴史的役割は、独裁者信長を倒すことだった』
光秀が最も深く頼み、流浪の時代から20余年の親交を結んでいた、丹後宮津の城主・細川幽
斎にも手紙を書いた。
明智光秀(1528-1582年)

一、 御父子元結ひ御払ひの由、もっとも余儀なく候。一旦我等も腹立ち候へども、思案候程、
かやうにあるべきと存じ候、然りといえども、此の上は大身を出され候て、御入魂、希ふ
ところに候事。
一、 国の事、内々摂州を存じ当て候て、御上りを相待ち候ひつる。但(但馬)・若(若狭)の
儀思召し寄はば、是以て同前に候。指合せ、きと申付くべく候事。
一、 我等不慮の御儀存じ立ち候事、忠興など取り立て申すべきとての儀に候。更に別条なく候。
五十日、百日の内には、近国の儀相堅むべく候間、其の以後は、十五郎(光秀の嫡男)・
与一郎(忠興)殿など引渡し申し候て、何事も存じ間敷く候、委細両人申さるべく候事。
以上
(天正10年)六月九日 光秀
なんと弱々しい書状なのでしょうか。
光秀は打倒信長を心に描いて苦悶し、今また目的を達して苦しみあえいでいたのでしょう。
孤立した光秀の最後の頼みは、娘婿・忠興とその父・幽斎であったが、彼ら父子も光秀に従わ
なかった。
光秀の歴史的役割は、独裁者・信長を倒すことによって、終りを告げたということなのでしょ
う。
この年、55歳と伝わる光秀の神経は、疲れきっていたのです。
手紙の中で、50日、100日のうちに近畿を固めるという光秀の考えは、この日から4日後
の山崎合戦の運命を予知させるものだったのです。
本能寺の変にお付き合いいただき、ありがとうございました。
次回は、信長の弔い合戦として行われた、明智光秀Vs羽柴秀吉の山崎の合戦を勉強してみたい
と思います。
よかったら、ぜひ、お付き合いください。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
光秀が最も深く頼み、流浪の時代から20余年の親交を結んでいた、丹後宮津の城主・細川幽
斎にも手紙を書いた。
明智光秀(1528-1582年)

一、 御父子元結ひ御払ひの由、もっとも余儀なく候。一旦我等も腹立ち候へども、思案候程、
かやうにあるべきと存じ候、然りといえども、此の上は大身を出され候て、御入魂、希ふ
ところに候事。
一、 国の事、内々摂州を存じ当て候て、御上りを相待ち候ひつる。但(但馬)・若(若狭)の
儀思召し寄はば、是以て同前に候。指合せ、きと申付くべく候事。
一、 我等不慮の御儀存じ立ち候事、忠興など取り立て申すべきとての儀に候。更に別条なく候。
五十日、百日の内には、近国の儀相堅むべく候間、其の以後は、十五郎(光秀の嫡男)・
与一郎(忠興)殿など引渡し申し候て、何事も存じ間敷く候、委細両人申さるべく候事。
以上
(天正10年)六月九日 光秀
なんと弱々しい書状なのでしょうか。
光秀は打倒信長を心に描いて苦悶し、今また目的を達して苦しみあえいでいたのでしょう。
孤立した光秀の最後の頼みは、娘婿・忠興とその父・幽斎であったが、彼ら父子も光秀に従わ
なかった。
光秀の歴史的役割は、独裁者・信長を倒すことによって、終りを告げたということなのでしょ
う。
この年、55歳と伝わる光秀の神経は、疲れきっていたのです。
手紙の中で、50日、100日のうちに近畿を固めるという光秀の考えは、この日から4日後
の山崎合戦の運命を予知させるものだったのです。
本能寺の変にお付き合いいただき、ありがとうございました。
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本能寺の変 その24
『裏切り、そして裏切られ』
7日、光秀は安土城で勅使・吉田兼見を迎え、明智秀満にここを守らせ、翌8日、安土を発って
坂本城に帰り、一泊して9日に京に上った。
そして宮中に銀子500枚献じ、公家・五山・大徳寺にも、それぞれ銀子を寄進し、また京都市
中の地子、つまり地租を免除するなど、各方面の人心収攬に努め、さらに諸将への書状を出して
応援を求め、近畿の経営にあたった。
筒井順慶(1549-1584年)

しかし、光秀のもとに集まった者は小者ばかりであった。
光秀の女婿の織田(津田)信澄(信長の弟・信行の子)は、信孝の四国征伐に参加予定で、丹羽
長秀とともに大坂城にいた。
が、当然、光秀に付くだろうと疑われて殺された。
光秀の組下の大和郡山城主・筒井順慶は、光秀の子を養子にしたといわれるほど、親密な関係に
あったので、はじめは光秀に味方したが、9日頃になると、郡山に兵糧を入れ籠城の準備をし、
天下の形勢を眺めたという。
また、同じように光秀の組下、高山重友・中川清秀らの摂津の武将も、だれ一人として光秀に応
じなく、光秀は摂津を抑えることができなかった。
信長を裏切った光秀は、今度は裏切られる立場になったのです。
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7日、光秀は安土城で勅使・吉田兼見を迎え、明智秀満にここを守らせ、翌8日、安土を発って
坂本城に帰り、一泊して9日に京に上った。
そして宮中に銀子500枚献じ、公家・五山・大徳寺にも、それぞれ銀子を寄進し、また京都市
中の地子、つまり地租を免除するなど、各方面の人心収攬に努め、さらに諸将への書状を出して
応援を求め、近畿の経営にあたった。
筒井順慶(1549-1584年)

しかし、光秀のもとに集まった者は小者ばかりであった。
光秀の女婿の織田(津田)信澄(信長の弟・信行の子)は、信孝の四国征伐に参加予定で、丹羽
長秀とともに大坂城にいた。
が、当然、光秀に付くだろうと疑われて殺された。
光秀の組下の大和郡山城主・筒井順慶は、光秀の子を養子にしたといわれるほど、親密な関係に
あったので、はじめは光秀に味方したが、9日頃になると、郡山に兵糧を入れ籠城の準備をし、
天下の形勢を眺めたという。
また、同じように光秀の組下、高山重友・中川清秀らの摂津の武将も、だれ一人として光秀に応
じなく、光秀は摂津を抑えることができなかった。
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本能寺の変 その23
『光秀 安土城入城』
光秀は、6月5日に安土城に入り、信長が貯えていた天下の財宝を部下に与えたという。
安土城に本能寺の変報が届いたのは、2日の午前10時頃で、城を預かっていた蒲生賢秀(氏郷
の父)は、籠城を不可能とし、3日の午後2頃、信長の妻妾・一族を伴って、居城の日野(滋賀
県蒲生郡)に退いた。
安土城

この時、妻妾らは
「天守に貯蔵されている金銀以下を取り出し、城に火をかけて退かれるよう」
といったが、賢秀は
「信長公年来御心を尽くされ、金銀をちりばめて築いた天下無双の殿舎(安土城)を、赤土と
することは、冥加なき次第である。それに、金銀・名物を乱取りすることは、都鄙の嘲弄もい
かがでござりましょう」
といって、奉行の木村次郎左衛門に安土城をあずけて立ち退いたという。
光秀は長浜城を攻略させ、ここに斎藤利三を入れ、さらに佐和山城を攻略し、山崎片家に守ら
せた。
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光秀は、6月5日に安土城に入り、信長が貯えていた天下の財宝を部下に与えたという。
安土城に本能寺の変報が届いたのは、2日の午前10時頃で、城を預かっていた蒲生賢秀(氏郷
の父)は、籠城を不可能とし、3日の午後2頃、信長の妻妾・一族を伴って、居城の日野(滋賀
県蒲生郡)に退いた。
安土城

この時、妻妾らは
「天守に貯蔵されている金銀以下を取り出し、城に火をかけて退かれるよう」
といったが、賢秀は
「信長公年来御心を尽くされ、金銀をちりばめて築いた天下無双の殿舎(安土城)を、赤土と
することは、冥加なき次第である。それに、金銀・名物を乱取りすることは、都鄙の嘲弄もい
かがでござりましょう」
といって、奉行の木村次郎左衛門に安土城をあずけて立ち退いたという。
光秀は長浜城を攻略させ、ここに斎藤利三を入れ、さらに佐和山城を攻略し、山崎片家に守ら
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本能寺の変 その22
『光秀の天下掌握作戦』
信長を倒した光秀は、まず洛中の治安を第一とし、織田の残党を倒しために全力をあつめた。
一方、西国の毛利・両川(小早川・吉川)、北国の上杉に急使を送って、信長討伐の事実を
知らせ、また東国の北条、四国の長宗我部、その他の諸将に檄を飛ばしたものと思います。
坂本城跡碑(大津市)

小早川隆景にあてた密書の中で、光秀自身の恨みをはらし、足利義昭が上洛して再び将軍職
につくであろうといい、毛利・両川が義昭を守って、秀吉と対決していることを「忠列」と
ほめ、逆に秀吉が備中で「乱妨」を企てていると非難しているのです。
しかし、この使者は天候が悪いため遅れたらしく、別の使者は秀吉の陣営に捕らえられている。
また、美濃野呂の城主・尾西光教に与えたものの中で、信長父子の「悪逆は天下の妨げ」で
あったから討ち果たしたといい、早く大垣城を乗っ取れと勧めています。
こうした手配が終わると、京都の西南、山崎近くの勝竜寺城に、溝尾勝兵衛を残し、堺や大坂
にいる織田信孝(信長三男)・丹羽長秀らの四国征討軍に備えさせ、2日の午後2時頃に京都
をたって、根拠の坂本(大津市)に向かった。
いうまでもなく、信長の安土城・秀吉の長浜城・長秀の佐和山城を攻略して、北陸・美濃両路を
抑えるためであったのでしょう。
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一方、西国の毛利・両川(小早川・吉川)、北国の上杉に急使を送って、信長討伐の事実を
知らせ、また東国の北条、四国の長宗我部、その他の諸将に檄を飛ばしたものと思います。
坂本城跡碑(大津市)

小早川隆景にあてた密書の中で、光秀自身の恨みをはらし、足利義昭が上洛して再び将軍職
につくであろうといい、毛利・両川が義昭を守って、秀吉と対決していることを「忠列」と
ほめ、逆に秀吉が備中で「乱妨」を企てていると非難しているのです。
しかし、この使者は天候が悪いため遅れたらしく、別の使者は秀吉の陣営に捕らえられている。
また、美濃野呂の城主・尾西光教に与えたものの中で、信長父子の「悪逆は天下の妨げ」で
あったから討ち果たしたといい、早く大垣城を乗っ取れと勧めています。
こうした手配が終わると、京都の西南、山崎近くの勝竜寺城に、溝尾勝兵衛を残し、堺や大坂
にいる織田信孝(信長三男)・丹羽長秀らの四国征討軍に備えさせ、2日の午後2時頃に京都
をたって、根拠の坂本(大津市)に向かった。
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抑えるためであったのでしょう。
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本能寺の変 その21
『家康の岡崎帰還』
本能寺の変報は全国に乱れ飛び、変報を聞いた信長の諸将の動きは種々様々であった。
信長の二男・信勝は本領の伊勢にいたが、兵力が少なく、また光秀に応じる一揆の動きがあって、
積極的に動ける状況でなかったという。
岡崎城

北陸道の大将・柴田勝家は、上杉景勝の領国・越後に迫り、松倉城(富山県)を包囲していたが、
包囲を解き、せっかく取った魚津城も捨て、上洛しようとしたが、時すでに遅かった。
東山道の大将・滝川一益は、上野厩橋(前橋市)にあって、関東の経営にあたっていたが、新領
土の保有が大問題で、上洛などできるどころか、のち北条氏に攻められて、本領・伊勢長島(桑
名市)に逃げ帰ることになる。
東海道の大将・徳川家康は、5月21日に上洛し、29日に堺に遊び、6月2日の朝、変報を聞
くと、信長に面会のため上洛するといって、急いで堺をたち、伊勢越えをして岡崎に辿り着いた。
この伊勢越えは、非常に困難を極め、家康の生涯の中の危機であったという。
同行して堺に赴いた穴山梅雪は、帰途中に一揆に殺害されています。
家康は4日に岡崎に帰ると(居城は浜松)、甲斐・信濃の経略に乗り出し、機敏に活動を開始し
た。
また、14日に兵を率いて尾張に出陣し、上洛の構えを見せたが、その行動は緩慢で、後方を固
める考えが強い、家康らしい堅実さがあったという。
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信長の二男・信勝は本領の伊勢にいたが、兵力が少なく、また光秀に応じる一揆の動きがあって、
積極的に動ける状況でなかったという。
岡崎城

北陸道の大将・柴田勝家は、上杉景勝の領国・越後に迫り、松倉城(富山県)を包囲していたが、
包囲を解き、せっかく取った魚津城も捨て、上洛しようとしたが、時すでに遅かった。
東山道の大将・滝川一益は、上野厩橋(前橋市)にあって、関東の経営にあたっていたが、新領
土の保有が大問題で、上洛などできるどころか、のち北条氏に攻められて、本領・伊勢長島(桑
名市)に逃げ帰ることになる。
東海道の大将・徳川家康は、5月21日に上洛し、29日に堺に遊び、6月2日の朝、変報を聞
くと、信長に面会のため上洛するといって、急いで堺をたち、伊勢越えをして岡崎に辿り着いた。
この伊勢越えは、非常に困難を極め、家康の生涯の中の危機であったという。
同行して堺に赴いた穴山梅雪は、帰途中に一揆に殺害されています。
家康は4日に岡崎に帰ると(居城は浜松)、甲斐・信濃の経略に乗り出し、機敏に活動を開始し
た。
また、14日に兵を率いて尾張に出陣し、上洛の構えを見せたが、その行動は緩慢で、後方を固
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