日本百名城28 小諸城
『小諸城・北国街道400年祭』
小諸城は、武田信玄の家臣・山本勘助らが現在の縄張りとし、豊臣秀吉天下統一のとき小諸城主となった
仙石秀久により完成された城です。

城下町より低い位置の城であるため、「穴城」と呼ばれる全国でも珍しい城です。
「三の門」
1615年に創建、1742年の大洪水で流出し1765年に再建されています。

仙石秀久が築いた「大手門」や野面石積みの石垣は400年前のまま当時の姿で残されています。

「関ヶ原の戦い」に中山道を進んだ徳川秀忠は、この二の丸に入り、この後、上田城を攻めて関が原の
本戦に遅参しています。(秀忠が立ち寄った碑があります:写真右)

前回の登城日(平成21年6月21日)には、雨がひどくて城内を十分に廻れなかったので、今回は
天守台をグルリと廻ることが主目的でした。
野面積みが苔むし迫力ある天守台です。
この天守台には三層の天守閣があったそうですが、1626年に落雷で焼失、その後は幕府の政策に
より再建されていません。


天守台への石段、なぜか生活感があり、あり、ですね。

天守台より、馬場を望む風景
春は桜、秋は紅葉の名所になっています。

明治の廃藩置県により役割を終えた小諸城は、本丸跡に「懐古神社」を祀り「懐古園」と名付けられて
います。

登城日は9月23日でしたが、今なおその姿を残す小諸城や北国街道の400年祭が平成25年9月25日
~10月6日に開催されています。
400年際に登城されてみませんか。

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いつもありがとうございます。
『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:徳川家康の東軍に属した
竹中重門は、関が原の本戦では、幼なじみでもある黒田長政軍に合力して激戦地で奮戦し、さらに戦後まもない9月19日、伊吹山山中で、西軍の武将・小西行長を捕縛するなどの大功を挙げ、家康から直筆の感状を受けています。
≪本日の問題≫
小諸城は、武田信玄の家臣・山本勘助らが現在の縄張りとし、豊臣秀吉天下統一のとき小諸城主となった
仙石秀久により完成された城です。

城下町より低い位置の城であるため、「穴城」と呼ばれる全国でも珍しい城です。
「三の門」
1615年に創建、1742年の大洪水で流出し1765年に再建されています。

仙石秀久が築いた「大手門」や野面石積みの石垣は400年前のまま当時の姿で残されています。

「関ヶ原の戦い」に中山道を進んだ徳川秀忠は、この二の丸に入り、この後、上田城を攻めて関が原の
本戦に遅参しています。(秀忠が立ち寄った碑があります:写真右)


前回の登城日(平成21年6月21日)には、雨がひどくて城内を十分に廻れなかったので、今回は
天守台をグルリと廻ることが主目的でした。
野面積みが苔むし迫力ある天守台です。
この天守台には三層の天守閣があったそうですが、1626年に落雷で焼失、その後は幕府の政策に
より再建されていません。


天守台への石段、なぜか生活感があり、あり、ですね。

天守台より、馬場を望む風景
春は桜、秋は紅葉の名所になっています。

明治の廃藩置県により役割を終えた小諸城は、本丸跡に「懐古神社」を祀り「懐古園」と名付けられて
います。

登城日は9月23日でしたが、今なおその姿を残す小諸城や北国街道の400年祭が平成25年9月25日
~10月6日に開催されています。
400年際に登城されてみませんか。

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いつもありがとうございます。
『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:徳川家康の東軍に属した
竹中重門は、関が原の本戦では、幼なじみでもある黒田長政軍に合力して激戦地で奮戦し、さらに戦後まもない9月19日、伊吹山山中で、西軍の武将・小西行長を捕縛するなどの大功を挙げ、家康から直筆の感状を受けています。
≪本日の問題≫
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百名城30 高遠城
武田流築城術による「後堅固」の城
『桜の名所となった城跡には 広大な空堀が残る』
1545年 武田信玄は三峯川と藤沢川の段丘上にある高遠頼継の高遠城を攻略し その後大規模な改修を
行った
三峰川の断崖を背に本丸とそれを囲む二の丸 三の丸が配された「後堅固」の構えの縄張りであったが
武田勝頼の実弟・仁科盛信が城主の時 織田信長軍に攻められ1日で落城した
本丸をはじめ 各曲輪はすべて空堀で区切られ 戦国時代の信玄流築城の面影を留めていたが 明治時代
に一部が埋め立てられた
明治時代にタカトウコヒガンザクラが城跡に植えられ これが城内を埋め尽くし 白雪をいただく中央
アルプスの景観とあいまって 現在桜の名所になっています
午後は 諏訪の高島城に向かいます
百名城めぐりは久しぶりになりました
ここ高遠城は、全国的な桜の名所で凄い混雑になるとのことだったので、桜の時期を外しての
登城になるました。
写真は、平成22年6月6日に撮ったものです。
駐車場の正面にある大手門です。
手入れが悪く傾いていて、朽ちるのを待っているかの状態でした。

本丸側からの問屋門と桜雲橋
かつては一の門と二の門からなる枡形門でしたが、現在は城下から移築された問屋門が建っています。

本丸の石垣と問屋門

本丸跡のタカトウコヒガンザクラ

大正6年に本丸南隅櫓跡に建てられた太鼓楼

百名城スタンプが設置してある高遠町歴史博物館前の保科正之公の家族?像
真新しいものでした。

保科正之公の大河ドラマ化応援のノボリがたくさん立っていました。

やっと60個目のスタンプゲットです。
桜以外の遺構整備にも力を入れて欲しい気がしました。

今回は、管理人は留守番でした。『どこに行っていたんだい!』

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応援ありがとうございました
『桜の名所となった城跡には 広大な空堀が残る』
1545年 武田信玄は三峯川と藤沢川の段丘上にある高遠頼継の高遠城を攻略し その後大規模な改修を
行った
三峰川の断崖を背に本丸とそれを囲む二の丸 三の丸が配された「後堅固」の構えの縄張りであったが
武田勝頼の実弟・仁科盛信が城主の時 織田信長軍に攻められ1日で落城した
本丸をはじめ 各曲輪はすべて空堀で区切られ 戦国時代の信玄流築城の面影を留めていたが 明治時代
に一部が埋め立てられた
明治時代にタカトウコヒガンザクラが城跡に植えられ これが城内を埋め尽くし 白雪をいただく中央
アルプスの景観とあいまって 現在桜の名所になっています
午後は 諏訪の高島城に向かいます
百名城めぐりは久しぶりになりました
ここ高遠城は、全国的な桜の名所で凄い混雑になるとのことだったので、桜の時期を外しての
登城になるました。
写真は、平成22年6月6日に撮ったものです。
駐車場の正面にある大手門です。
手入れが悪く傾いていて、朽ちるのを待っているかの状態でした。

本丸側からの問屋門と桜雲橋
かつては一の門と二の門からなる枡形門でしたが、現在は城下から移築された問屋門が建っています。

本丸の石垣と問屋門

本丸跡のタカトウコヒガンザクラ

大正6年に本丸南隅櫓跡に建てられた太鼓楼

百名城スタンプが設置してある高遠町歴史博物館前の保科正之公の家族?像
真新しいものでした。

保科正之公の大河ドラマ化応援のノボリがたくさん立っていました。

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応援ありがとうございました
カリスマ武将Piglet 上田城を攻める(前編)
徳川家を2度も撃退した上田城
『なにを思ったのか 難攻不落の上田城をPigletが攻める』
真田昌幸は上州の真田領をめぐって 徳川家康との間に合戦がおこった時は わずか2千で8千の敵を打ち
破り 天下にその武名を知らしめた
秀吉亡き後 天下の覇者を決める関ヶ原の戦いでは 昌幸と次男の幸村が豊臣方に 長男の信之が徳川方
に別れて戦うことになり 昌幸親子は3万8千の大軍を上田城で迎え撃つ
敵を散々悩ませますが 西軍の敗北により昌幸・幸村親子は紀州の九度山へ流された
石神井城の戦いで初陣をかざり その後 武蔵松山城を落としたPigletは 昌幸・幸村親子が上田城に帰還
していることを聞き 何を思ったのか 平成22年5月29日に信州まで遠征し難攻不落の上田城攻めを行った
上田駅前ですれ違った武将が、真田幸村だったのか!

案内図にあるように 水堀と崖で固められているので大手道から攻める以外はなさそうだ


徳川軍は攻めを急いで大敗しているので、ここは秀吉を見習って兵糧攻めでいこう

Pigletは、兵糧攻めを行うため「真田石」の前で待機すること5分

真田親子は、開城し櫓門を開けてきたが、これに騙されて徳川軍は遣られているので注意だぞ!!

ここに隠れていて、後ろから攻める気だな

本丸には建造物ないが、火を放ったか、空腹でみんなで食べてしまったのだな

昌幸・幸村は西櫓に立て篭もっているだと!

西櫓の中も空っぽで誰もいないぞ

この真田井戸から太郎山への抜け穴があるそうだが、ここから逃げたのだろう。

幸村は、自慢の兜を忘れて逃げほど、あわてて逃げ出しているな

太郎山へ脱出した、昌幸・幸村は真田氏本城に籠城したと聞いたPigletは、“腹が減っては、戦はできぬ”ということで腹ごしらえ
カリスマ武将Pigletの強さはここにあり、出陣するのに弁当はいらないのである

Pigletは、真田本城にいる幸村親子を追いかけ、上田城を後にする

後編は、明日ですよ~。また、遊びにきてくださいね!
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真田昌幸は上州の真田領をめぐって 徳川家康との間に合戦がおこった時は わずか2千で8千の敵を打ち
破り 天下にその武名を知らしめた
秀吉亡き後 天下の覇者を決める関ヶ原の戦いでは 昌幸と次男の幸村が豊臣方に 長男の信之が徳川方
に別れて戦うことになり 昌幸親子は3万8千の大軍を上田城で迎え撃つ
敵を散々悩ませますが 西軍の敗北により昌幸・幸村親子は紀州の九度山へ流された
石神井城の戦いで初陣をかざり その後 武蔵松山城を落としたPigletは 昌幸・幸村親子が上田城に帰還
していることを聞き 何を思ったのか 平成22年5月29日に信州まで遠征し難攻不落の上田城攻めを行った
上田駅前ですれ違った武将が、真田幸村だったのか!

案内図にあるように 水堀と崖で固められているので大手道から攻める以外はなさそうだ


徳川軍は攻めを急いで大敗しているので、ここは秀吉を見習って兵糧攻めでいこう

Pigletは、兵糧攻めを行うため「真田石」の前で待機すること5分

真田親子は、開城し櫓門を開けてきたが、これに騙されて徳川軍は遣られているので注意だぞ!!

ここに隠れていて、後ろから攻める気だな

本丸には建造物ないが、火を放ったか、空腹でみんなで食べてしまったのだな

昌幸・幸村は西櫓に立て篭もっているだと!

西櫓の中も空っぽで誰もいないぞ

この真田井戸から太郎山への抜け穴があるそうだが、ここから逃げたのだろう。

幸村は、自慢の兜を忘れて逃げほど、あわてて逃げ出しているな

太郎山へ脱出した、昌幸・幸村は真田氏本城に籠城したと聞いたPigletは、“腹が減っては、戦はできぬ”ということで腹ごしらえ
カリスマ武将Pigletの強さはここにあり、出陣するのに弁当はいらないのである

Pigletは、真田本城にいる幸村親子を追いかけ、上田城を後にする

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百名城27 上田城
徳川軍を2度にわたり打ち破った 真田一族ゆかりの城
『本丸には 質実剛健の風を伝える 3基の櫓が存在する』
二度の徳川軍の攻めに耐えた堅城ぶりと 真田武士の気概を感じましたが 南櫓と北櫓がなぜか色っぽく
感じました
真田幸村も 真田井戸を利用してたのでしょうか
雨のなかの登城でしたので 西櫓などに廻れなかったので 再登城します

平成6年に再建された 櫓門の両脇に建つ 南櫓と北櫓は 上田遊郭に払い下げられていたものを 再移築したとか

<クリックで拡大します>
北櫓です 六文銭がいいですね 昌幸 信幸 幸村 でしょうか?

<クリックで拡大します>
真田神社
日本一の知将と称えられる幸村は 現在 知恵の神様としてあがめられている
神社には 真田の名が冠されているものの 真田氏のほか 仙石氏 松平氏など 歴代の上田藩主が祀られている

<クリックで拡大します>
真田神社の境内にある 真田井戸 「城北の太郎山麓の砦に通じているとか??」 幸村も使ったのかも・・・

<クリックで拡大します>
登城日:平成21年6月21日


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『本丸には 質実剛健の風を伝える 3基の櫓が存在する』
二度の徳川軍の攻めに耐えた堅城ぶりと 真田武士の気概を感じましたが 南櫓と北櫓がなぜか色っぽく
感じました
真田幸村も 真田井戸を利用してたのでしょうか
雨のなかの登城でしたので 西櫓などに廻れなかったので 再登城します

平成6年に再建された 櫓門の両脇に建つ 南櫓と北櫓は 上田遊郭に払い下げられていたものを 再移築したとか

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北櫓です 六文銭がいいですね 昌幸 信幸 幸村 でしょうか?

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真田神社
日本一の知将と称えられる幸村は 現在 知恵の神様としてあがめられている
神社には 真田の名が冠されているものの 真田氏のほか 仙石氏 松平氏など 歴代の上田藩主が祀られている

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