山崎の戦い その31
『光秀謀反の後処理』
この事変で、明智方に与し、秀吉の居城・長浜城を奪った阿閉貞征・貞大父子は、秀吉が近江
に入ったのを聞くと、長浜城を出て、本城の山本山に籠ったが、羽柴勢に攻められ、京極高次
らとともに、越前の敦賀にとん走しようとし、その途中で殺害された。
長浜城(長浜城登城記は「こちら」です。)

高次も、羽柴勢に追跡されたが、堀秀政の保護を受けて匿われ、事なきをえた。
これは秀政が京極氏の旧臣だったからであり、同時に丹波長秀もその居城佐和山を回復して
いる。
秀吉は、6月23日に織田信孝とともに美濃に入国した。
本能寺の変に際して、美濃で明智方に味方する者が多かったからです。
これは光秀が美濃出身であったからなのでしょう。例えば、斎藤氏の一族・斎藤利堯などは、
織田信忠の居城であった岐阜を占拠し、美濃に号令しようとしていた。
しかし、秀吉が美濃に進出してきたのを知り、急ぎ長松の秀吉の陣所に赴き、人質を出して降
服し、その後、織田信孝が美濃を領したら、信孝の老臣となっている。
山崎の戦いにお付き合い戴き、ありがとうございます。
次回は、耳川の戦いを勉強しようと思っていましたが、賤ケ岳の戦いが本能寺の変と切り離す
ことができませんので、次回は、賤ケ岳の戦いを勉強しようと思っています。
よかったら、ぜひ、お付き合いください!
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いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
この事変で、明智方に与し、秀吉の居城・長浜城を奪った阿閉貞征・貞大父子は、秀吉が近江
に入ったのを聞くと、長浜城を出て、本城の山本山に籠ったが、羽柴勢に攻められ、京極高次
らとともに、越前の敦賀にとん走しようとし、その途中で殺害された。
長浜城(長浜城登城記は「こちら」です。)

高次も、羽柴勢に追跡されたが、堀秀政の保護を受けて匿われ、事なきをえた。
これは秀政が京極氏の旧臣だったからであり、同時に丹波長秀もその居城佐和山を回復して
いる。
秀吉は、6月23日に織田信孝とともに美濃に入国した。
本能寺の変に際して、美濃で明智方に味方する者が多かったからです。
これは光秀が美濃出身であったからなのでしょう。例えば、斎藤氏の一族・斎藤利堯などは、
織田信忠の居城であった岐阜を占拠し、美濃に号令しようとしていた。
しかし、秀吉が美濃に進出してきたのを知り、急ぎ長松の秀吉の陣所に赴き、人質を出して降
服し、その後、織田信孝が美濃を領したら、信孝の老臣となっている。
山崎の戦いにお付き合い戴き、ありがとうございます。
次回は、耳川の戦いを勉強しようと思っていましたが、賤ケ岳の戦いが本能寺の変と切り離す
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山崎の戦い その30
『明智光秀謀反の終焉』
6月15日、堀秀政は秀吉の命令により坂本城を包囲した。
三井寺

このころ光秀の敗死を知った明智秀満は万事休すと思ったのか、部下の将士の忠誠に謝意を述
べ、天守閣にのぼり、光秀の妻子および彼の妻(光秀の娘)を刺し殺し、腹十文字に切り、天守
に火をかけ、城もろともに果てたという。
秀吉は、16日、織田信孝とともに、焦土と化した安土城に入り、織田信雄とも参会したが、ま
た、前日、三井寺在陣中に得た光秀の首級を京都の粟田口に晒している。
この首級は、光秀を小栗栖で介錯した溝尾勝兵衛が、鞍覆いに包み、藪中の溝に隠し置いたのを、
百姓が拾い、秀吉に届けたものだといわれます。
秀吉は、その翌日、光秀の老臣・斎藤利三を六条河原に斬って、これも梟首し、その武威を天下
に誇示しています。
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6月15日、堀秀政は秀吉の命令により坂本城を包囲した。
三井寺

このころ光秀の敗死を知った明智秀満は万事休すと思ったのか、部下の将士の忠誠に謝意を述
べ、天守閣にのぼり、光秀の妻子および彼の妻(光秀の娘)を刺し殺し、腹十文字に切り、天守
に火をかけ、城もろともに果てたという。
秀吉は、16日、織田信孝とともに、焦土と化した安土城に入り、織田信雄とも参会したが、ま
た、前日、三井寺在陣中に得た光秀の首級を京都の粟田口に晒している。
この首級は、光秀を小栗栖で介錯した溝尾勝兵衛が、鞍覆いに包み、藪中の溝に隠し置いたのを、
百姓が拾い、秀吉に届けたものだといわれます。
秀吉は、その翌日、光秀の老臣・斎藤利三を六条河原に斬って、これも梟首し、その武威を天下
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山崎の戦い その29
『安土城焼失』
安土城にいた光秀の娘婿・明智秀満は、6月13日の夜、山崎敗戦の報告を聞き、翌日未明に
全軍を率いて坂本城に向かった。
安土城(安土城訪問記は「こちら」です。)

『太閤記』によると、秀満は安土を出発するに際して、放火して城を焼いたということですが、
『兼見卿記』は、安土城の消失は6月15日としていることから、これはおそらく秀満が焼い
たのではなく、秀満の退去後にただちに安土城に入った織田信雄(信長の二男)の手によって
焼かれたものでしょう。
一方、羽柴秀吉は、6月13日の夜、淀に陣泊し、翌14日、近江に入り、三井寺に陣したが、
それに先立って、堀秀政を安土に向かわせた。
そこで、秀政は大津で、明智秀満の軍勢と遭遇することになった。
堀秀政は、ただちに明智秀満の軍勢に対して攻撃を開始した。
秀満は未明に安土を出発したが、山岡景隆が、またもや瀬戸の大橋を撤去したため、これを修
理するのに時間を費やし、秀政の攻撃を受けることになったが、秀満の目的は坂本入城にあっ
たため、秀政との正面衝突を避け、坂本城に入ったという。
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『太閤記』によると、秀満は安土を出発するに際して、放火して城を焼いたということですが、
『兼見卿記』は、安土城の消失は6月15日としていることから、これはおそらく秀満が焼い
たのではなく、秀満の退去後にただちに安土城に入った織田信雄(信長の二男)の手によって
焼かれたものでしょう。
一方、羽柴秀吉は、6月13日の夜、淀に陣泊し、翌14日、近江に入り、三井寺に陣したが、
それに先立って、堀秀政を安土に向かわせた。
そこで、秀政は大津で、明智秀満の軍勢と遭遇することになった。
堀秀政は、ただちに明智秀満の軍勢に対して攻撃を開始した。
秀満は未明に安土を出発したが、山岡景隆が、またもや瀬戸の大橋を撤去したため、これを修
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たため、秀政との正面衝突を避け、坂本城に入ったという。
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山崎の戦い その28
『明智の三日天下』
光秀は、いったん勝竜寺城に入ったが、どうてい、ここを守り抜けないことを悟り、近江に残し
てきた部隊と合体して、再起しようと暗夜に乗じ勝竜寺城を脱出し、間道を縫って淀川の右岸を
久我縄手より伏見に向かった。
明智光秀(1528-1582年)

従う者は溝尾勝兵衛ら近臣数名にすぎない。
ところが、大亀谷を過ぎて小栗栖にさしかかったとき、土民の襲撃にあい、竹槍で突かれ、切腹
して果てた。
介錯は溝尾勝兵衛が承ったという。
要するに、山崎の決戦は亡君の弔い合戦を敢行しようとする羽柴秀吉の方が、有利に展開した。
それが、大義名分にかなった戦いであるというので、自然と人気が集まってきたからです。
秀吉は大義名分を表看板とし、天下取りの大バクチを打つ覚悟をもって、破竹の勢いで東上した。
そのため、山崎表で、羽柴と明智の両軍が衝突したときには、羽柴軍の4万に対し、明智軍はそ
の1/3の劣勢だったから、光秀が惨敗したのです。
合戦、つまり遭遇戦の場合は、ある一定の場所で戦いが始まるまでに、味方がたくさん馳せ参ず
るか否かで、勝敗の数が、おのずから決まってしまうものです。
明智光秀の天下は、事実上、11日目で潰滅した。
これを「明智の三日天下」などというのは、政権が安定していた正味の期間を指すのか、あるい
は、あまりにも短かったという意味の形容詞に過ぎないのか、どちらかなのでしょう。
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光秀は、いったん勝竜寺城に入ったが、どうてい、ここを守り抜けないことを悟り、近江に残し
てきた部隊と合体して、再起しようと暗夜に乗じ勝竜寺城を脱出し、間道を縫って淀川の右岸を
久我縄手より伏見に向かった。
明智光秀(1528-1582年)

従う者は溝尾勝兵衛ら近臣数名にすぎない。
ところが、大亀谷を過ぎて小栗栖にさしかかったとき、土民の襲撃にあい、竹槍で突かれ、切腹
して果てた。
介錯は溝尾勝兵衛が承ったという。
要するに、山崎の決戦は亡君の弔い合戦を敢行しようとする羽柴秀吉の方が、有利に展開した。
それが、大義名分にかなった戦いであるというので、自然と人気が集まってきたからです。
秀吉は大義名分を表看板とし、天下取りの大バクチを打つ覚悟をもって、破竹の勢いで東上した。
そのため、山崎表で、羽柴と明智の両軍が衝突したときには、羽柴軍の4万に対し、明智軍はそ
の1/3の劣勢だったから、光秀が惨敗したのです。
合戦、つまり遭遇戦の場合は、ある一定の場所で戦いが始まるまでに、味方がたくさん馳せ参ず
るか否かで、勝敗の数が、おのずから決まってしまうものです。
明智光秀の天下は、事実上、11日目で潰滅した。
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は、あまりにも短かったという意味の形容詞に過ぎないのか、どちらかなのでしょう。
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山崎の戦い その27
『明智軍総敗』
秀吉は明智軍が動揺したチャンスを逃さず、その右翼隊をもって、明智軍の左翼隊(津田隊)
に向かって進撃させ、逆に明智軍を包囲する態勢をとり、ついで総攻撃の命令をくだした。
山崎の戦い布陣図

(ジャパンナレッジよりお借りしています)
そのため右翼の池田隊の進撃が急速に行われ、これに伴って、中央の高山・堀の諸隊もまた
進出し、左翼の羽柴長秀隊の動きも有利に展開し、明智軍は、斎藤利三らが奮戦するも、つ
いに総敗軍となり、伊勢与三郎、諏訪飛騨守・御牧三左衛門など旧足利幕府衆の諸将が多く
討死し、大将・明智光秀は、戦場を逃れて勝竜寺城に入った。
この山崎の決戦で、天王山の占拠が勝敗を決したと、よく聞きます。
事実、天王山の占拠が、山崎の隘路の進出を援護するに重要な役割を果たしたことは間違い
ないことですが、天王山争奪戦のことは、確かな文献にはみあたりません。
秀吉は、ただちに光秀が逃げ込んだ勝竜寺城を包囲すると同時に、各方面に敗走する明智軍
を追撃し、せん滅的な打撃を与えたという。
ことに先鋒の高山・中川隊は、さらに、光秀の居城亀山を指してとん走する残兵を追及して、
丹波路に入り、翌14日には亀山城を陥れている。
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秀吉は明智軍が動揺したチャンスを逃さず、その右翼隊をもって、明智軍の左翼隊(津田隊)
に向かって進撃させ、逆に明智軍を包囲する態勢をとり、ついで総攻撃の命令をくだした。
山崎の戦い布陣図

(ジャパンナレッジよりお借りしています)
そのため右翼の池田隊の進撃が急速に行われ、これに伴って、中央の高山・堀の諸隊もまた
進出し、左翼の羽柴長秀隊の動きも有利に展開し、明智軍は、斎藤利三らが奮戦するも、つ
いに総敗軍となり、伊勢与三郎、諏訪飛騨守・御牧三左衛門など旧足利幕府衆の諸将が多く
討死し、大将・明智光秀は、戦場を逃れて勝竜寺城に入った。
この山崎の決戦で、天王山の占拠が勝敗を決したと、よく聞きます。
事実、天王山の占拠が、山崎の隘路の進出を援護するに重要な役割を果たしたことは間違い
ないことですが、天王山争奪戦のことは、確かな文献にはみあたりません。
秀吉は、ただちに光秀が逃げ込んだ勝竜寺城を包囲すると同時に、各方面に敗走する明智軍
を追撃し、せん滅的な打撃を与えたという。
ことに先鋒の高山・中川隊は、さらに、光秀の居城亀山を指してとん走する残兵を追及して、
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