賤ヶ岳の戦い その52
『賤ケ岳九本槍だった』
賤ケ岳の戦いといえば七本槍が有名ですが、これは寛永2年(1625年)に小瀬甫庵という儒
医が、『太閤記』と題する太閤秀吉の一代記のなかで記しているのです。
熊本城の加藤清正

加藤虎之介(清正)・加藤孫六(嘉明)・福島市松(正則)・脇坂甚内(安治)・加須(糟)屋
助右衛門尉(武則)・平野権平(長泰)・片桐助作(且元)という7人の武勲者の履歴を述べ、
右の7人を七本槍と称しているのです。
この感状の実物が9通も現存し、どれも同文で、日付も同じ天正11年6月5日になっていると
いうのです。
ただ、福島市松あての感状だけが、5千石の知行を賞賜しているが、あとの8人は3千石になっ
ているという。
これから推測すると、賤ケ岳合戦の直後に、七本槍などというものが決まったわけではなく、天
正11年の6月5日付けで、合戦当日、一番槍をつけた9人の勇士に感状が与えられ、知行3千
石、または5千石が下賜されることになった。
ところが、この9人のうちで、石川兵助は合戦の場で討死し、桜井佐吉は、天正14年に病死し
た。
そこで、残る7人を天文年間の織田信秀(信長の父)の小豆坂七本槍の例にならって、賤ケ岳七
本槍と名づけたもので、少なくとも慶長年間に定められたのでしょう。
賤ケ岳七本槍という俗称を有名にしたのは、『太閤記』という大衆的歴史評伝の影響力なのでし
ょう。
賤ケ岳の戦いは、柴田勝家の敗走により、羽柴秀吉の勝利となりましたが、その後の北ノ庄城の
落城は、『北陸平定』で勉強してみたいと思います。
よかったら、お付き合いください。
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いつもありがとうございます。
robinは生まれて初めての場所に行ってきました。
さあ、何処に行ってきたのでしょうネ。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
賤ケ岳の戦いといえば七本槍が有名ですが、これは寛永2年(1625年)に小瀬甫庵という儒
医が、『太閤記』と題する太閤秀吉の一代記のなかで記しているのです。
熊本城の加藤清正

加藤虎之介(清正)・加藤孫六(嘉明)・福島市松(正則)・脇坂甚内(安治)・加須(糟)屋
助右衛門尉(武則)・平野権平(長泰)・片桐助作(且元)という7人の武勲者の履歴を述べ、
右の7人を七本槍と称しているのです。
この感状の実物が9通も現存し、どれも同文で、日付も同じ天正11年6月5日になっていると
いうのです。
ただ、福島市松あての感状だけが、5千石の知行を賞賜しているが、あとの8人は3千石になっ
ているという。
これから推測すると、賤ケ岳合戦の直後に、七本槍などというものが決まったわけではなく、天
正11年の6月5日付けで、合戦当日、一番槍をつけた9人の勇士に感状が与えられ、知行3千
石、または5千石が下賜されることになった。
ところが、この9人のうちで、石川兵助は合戦の場で討死し、桜井佐吉は、天正14年に病死し
た。
そこで、残る7人を天文年間の織田信秀(信長の父)の小豆坂七本槍の例にならって、賤ケ岳七
本槍と名づけたもので、少なくとも慶長年間に定められたのでしょう。
賤ケ岳七本槍という俗称を有名にしたのは、『太閤記』という大衆的歴史評伝の影響力なのでし
ょう。
賤ケ岳の戦いは、柴田勝家の敗走により、羽柴秀吉の勝利となりましたが、その後の北ノ庄城の
落城は、『北陸平定』で勉強してみたいと思います。
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賤ヶ岳の戦い その51
『勝家の敗走』
正午頃になって、敵の陣営に動揺の気配を認めた堀秀政は機を逸せず攻勢に転じた。
また、秀吉も集福寺坂をくだって、その麓に兵力を集中し、まさに柴田勝家の左側を攻撃しよ
うとし、堂木山・神明山の砦の兵も秀政の部隊に加わり、木ノ本・田上山の軍勢も、後方から
続いた。
北ノ庄の柴田勝家

勝家は背進するにも、まず、この羽柴軍に一撃を加えなければどうにもならない。
そこで、勝家は反撃に出て、いちど羽柴軍を退けてから、馬標を毛受(めんじゅ)家照に授け、
100余人の近臣を連れて柳ヶ瀬の戦場を脱出し、北国街道を越前に向かって疾走した。
毛受家照は、狐塚から約1km退き、林谷山の原彦次郎のいた砦に入った。
堀秀政の兵は、これを勝家と誤認し、逃げるのを追って、林谷山の砦に迫った。
秀吉は、この攻撃を監視していたが、損害を少なくするために、砦を包囲させ鉄砲の集中攻撃
をさせている。
家照の兵は少なかったが、金の御幣の馬標を中心に防戦に努めたが、ついに力つき、家照は
壮烈な討死を遂げている。
午後2時であったという。
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正午頃になって、敵の陣営に動揺の気配を認めた堀秀政は機を逸せず攻勢に転じた。
また、秀吉も集福寺坂をくだって、その麓に兵力を集中し、まさに柴田勝家の左側を攻撃しよ
うとし、堂木山・神明山の砦の兵も秀政の部隊に加わり、木ノ本・田上山の軍勢も、後方から
続いた。
北ノ庄の柴田勝家

勝家は背進するにも、まず、この羽柴軍に一撃を加えなければどうにもならない。
そこで、勝家は反撃に出て、いちど羽柴軍を退けてから、馬標を毛受(めんじゅ)家照に授け、
100余人の近臣を連れて柳ヶ瀬の戦場を脱出し、北国街道を越前に向かって疾走した。
毛受家照は、狐塚から約1km退き、林谷山の原彦次郎のいた砦に入った。
堀秀政の兵は、これを勝家と誤認し、逃げるのを追って、林谷山の砦に迫った。
秀吉は、この攻撃を監視していたが、損害を少なくするために、砦を包囲させ鉄砲の集中攻撃
をさせている。
家照の兵は少なかったが、金の御幣の馬標を中心に防戦に努めたが、ついに力つき、家照は
壮烈な討死を遂げている。
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賤ヶ岳の戦い その50
『羽柴軍優勢に』
勝家は堀秀政と対峙したままで、午前中を過ごした。
この間、勝家は盛政が無事に撤退できることを願い、また秀政は秀吉の進撃がすみやかに達
成することを祈っていた。
堀秀政(1553-1590年)

両軍は対峙したままで、西方の峯筋における戦闘を望見していたのです。
ところが戦闘は、しだいに羽柴軍に有利に展開し、午前11時頃には、文室山は羽柴軍の蹂躙
するにまかせ、正午近くになって、秀吉は兵を集福寺坂の麓にまとめ、いまや勝家の本隊の側
背を衝こうとする気配を示した。
また、前面の東野の羽柴軍もしだいに増加していた。
そのような情勢に圧倒されて、勝家の本隊では脱走兵がしだいに多くなり、留まる者はわずかに
3千にすぎない有様であった。
ところが勝家は、この残兵を率いてあくまで秀吉と決戦を行なおうとしたという。
しかし、近臣らは、みなこれを諌止し、いちど越前に帰国し、再起をはからんことを主張した。
なかでも、毛受家照は勝家の馬印を持って身代わりに討死すること願った。
勝家も、しかたなく衆議に従った。
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勝家は堀秀政と対峙したままで、午前中を過ごした。
この間、勝家は盛政が無事に撤退できることを願い、また秀政は秀吉の進撃がすみやかに達
成することを祈っていた。
堀秀政(1553-1590年)

両軍は対峙したままで、西方の峯筋における戦闘を望見していたのです。
ところが戦闘は、しだいに羽柴軍に有利に展開し、午前11時頃には、文室山は羽柴軍の蹂躙
するにまかせ、正午近くになって、秀吉は兵を集福寺坂の麓にまとめ、いまや勝家の本隊の側
背を衝こうとする気配を示した。
また、前面の東野の羽柴軍もしだいに増加していた。
そのような情勢に圧倒されて、勝家の本隊では脱走兵がしだいに多くなり、留まる者はわずかに
3千にすぎない有様であった。
ところが勝家は、この残兵を率いてあくまで秀吉と決戦を行なおうとしたという。
しかし、近臣らは、みなこれを諌止し、いちど越前に帰国し、再起をはからんことを主張した。
なかでも、毛受家照は勝家の馬印を持って身代わりに討死すること願った。
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賤ヶ岳の戦い その49
『羽柴方の攻勢』
柴田勝家は、賤ケ岳決戦の前日(4月20日)の早朝、佐久間盛政の大岩山急襲に呼応し、左
禰山の堀秀政以下、堂木山付近の羽柴方の軍勢を牽制するため、内中尾山の本陣を出発し、約
4km南下して、狐塚に陣取った。
柴田勝家(1522-1583年)

そうして盛政から、大岩山を陥れたという報告を受けると、ただちに撤兵を命じたが。盛政が、
いうことを聞かずに、大岩山付近に野陣したため勝家もひきとることができずに、そのまま狐
塚に陣取っていた。
ところが、その夜、秀吉が美濃の大垣から戻って来て、木ノ本に到着したという急報が届き、
そのうちに、盛政が大岩山から背進するという知らせを受けた。
そこで翌21日は、朝早くから盛政と取っていたらしい。
しかし、この日の早朝、左禰山にあった堀秀政が山をくだって東野に陣し、中ノ郷にいた小川
祐忠もこれに加わり、木ノ本および田上山にいた羽柴秀長の麾下も前進して、これに加わろう
とし、羽柴方は全体的に攻勢に出てきた。
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柴田勝家は、賤ケ岳決戦の前日(4月20日)の早朝、佐久間盛政の大岩山急襲に呼応し、左
禰山の堀秀政以下、堂木山付近の羽柴方の軍勢を牽制するため、内中尾山の本陣を出発し、約
4km南下して、狐塚に陣取った。
柴田勝家(1522-1583年)

そうして盛政から、大岩山を陥れたという報告を受けると、ただちに撤兵を命じたが。盛政が、
いうことを聞かずに、大岩山付近に野陣したため勝家もひきとることができずに、そのまま狐
塚に陣取っていた。
ところが、その夜、秀吉が美濃の大垣から戻って来て、木ノ本に到着したという急報が届き、
そのうちに、盛政が大岩山から背進するという知らせを受けた。
そこで翌21日は、朝早くから盛政と取っていたらしい。
しかし、この日の早朝、左禰山にあった堀秀政が山をくだって東野に陣し、中ノ郷にいた小川
祐忠もこれに加わり、木ノ本および田上山にいた羽柴秀長の麾下も前進して、これに加わろう
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賤ヶ岳の戦い その48
『鬼玄蕃敗走』
佐久間隊より後方に陣していた柴田方の諸隊は、佐久間隊が敗退したと見なし、まったく戦意
を失い、敗走者が続出したという。
しかし、佐久間盛政は柴田勝政の兵を収容し、勇敢にもその陣地に拠って、なお防戦しようと
したという。
鬼玄蕃(佐久間盛政)

しかし、この頃になって、秀吉の兵力は増大し、賤ケ岳の砦にいた桑山重晴はもとより、大溝
から来援した丹羽長秀の兵も参加し、南方からも、東方からも、盛政の軍勢に強烈な攻撃を
加えた。
これに対して、盛政方では佐久間安政・原彦次郎らが大いに奮戦し、行市山の陣地へ、峯筋を
北方に背進したが、ついに力およばず、佐久間勢はまったく壊乱に陥り、その一部は峯伝いに
柳ヶ瀬方面へ、また一部は山をくだって塩津方面へ敗走した。
秀吉は、権現坂から北方約2kmの集福寺坂付近に至って、ようやく追撃を中止した。
この時、正午近くであったという。
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佐久間隊より後方に陣していた柴田方の諸隊は、佐久間隊が敗退したと見なし、まったく戦意
を失い、敗走者が続出したという。
しかし、佐久間盛政は柴田勝政の兵を収容し、勇敢にもその陣地に拠って、なお防戦しようと
したという。
鬼玄蕃(佐久間盛政)

しかし、この頃になって、秀吉の兵力は増大し、賤ケ岳の砦にいた桑山重晴はもとより、大溝
から来援した丹羽長秀の兵も参加し、南方からも、東方からも、盛政の軍勢に強烈な攻撃を
加えた。
これに対して、盛政方では佐久間安政・原彦次郎らが大いに奮戦し、行市山の陣地へ、峯筋を
北方に背進したが、ついに力およばず、佐久間勢はまったく壊乱に陥り、その一部は峯伝いに
柳ヶ瀬方面へ、また一部は山をくだって塩津方面へ敗走した。
秀吉は、権現坂から北方約2kmの集福寺坂付近に至って、ようやく追撃を中止した。
この時、正午近くであったという。
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