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北陸平定 その24

『北陸平定』

29日、剃髪して現れた成政を、秀吉はどんな思いで眺めたのでしょう。

また、もっとも憎んでいた秀吉に、いかに助命と家の存続のためとはいえ、敗残の身をさらさな

ければならなかった成政の心中はどうであったのでしょう。

羽柴秀吉(1537-1598年)
to.豊臣秀吉

とにかくこの降服を最後として、越中平定は終わったのです。

越後の上杉景勝も、賀詞を呈するとともに秀吉に敵対する意思のないことを改めて誓ってきた。

こうして、北陸全体も完全に秀吉の支配下に入ることになったのです。

秀吉は成政の降服を許して、越中のうち新川郡をこれに与えたが、その身柄は大坂に引き連れ

ていった。

残りの砺波・婦負・射水の3郡は成政からとりあげて、利家の長子・利長に与えて越中の守山

城に入らせた。

利長の旧領・松任は寺西秀則が、秀吉の代官として守ることになった。



北陸平定にお付き合いいただき、ありがとうございました。

次回は『小牧・長久手の戦い』を勉強してみたいと思います。

よろしかったら、お付き合いください。


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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
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北陸平定 その23

『佐々成政の降服』

8月6日、長宗我部元親が正式に降伏して、四国のことも落着したので、秀吉は馬標を北陸に進

めた。

尾山城(金沢城)(金沢城登城記は「こちら」です。)
ka.20100404 金沢城 002

18日、金沢郊外の松任まで出迎えた利家とともに尾山城(金沢城)入り、軍議を整え20日に

は国境の倶利伽羅峠を越えた。

成政は秀吉の大軍至るとの報を聞き、国内30余ヵ所の山城・砦に配置した士卒をすべて富山城

に集結してこれを待った。

秀吉は一兵も損ずることもなく富山に肉迫し、城を眼下に収める呉服山に本営を構えた。

かねて覚悟はしていたものの、秀吉の堂々たる布陣とあまりの大軍を眼下にした成政はじめ越中

の諸将は、すっかり戦意を喪失してしまった。

成政は、かねての縁故を頼み、織田信勝を通じて秀吉に降伏を申し入れた。



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北陸平定 その22

『形勢が前田軍に』

6月には七尾の前田軍は荒山城の佐々軍も追い払った。

加賀・能登の国境からは成政の勢力は一掃されたわけであり、かえって越中領内に今石動と阿尾

城という2つの拠点さえできることとなった。

七尾城(七尾城登城記は「こちら」です。)
na.七尾城 01

日を追って形勢が傾いていくことを感じた成政は、この2城の奪還をめざして必死に反撃をくり

返していった。

こうした死闘が越中境で展開されている間にも、秀吉は上方において着々と天下統一の歩みを進

めていた。

3月には、紀州根来寺の僧徒を撃破し、6月には四国成敗の軍を起こしている。

7月には関白に任ぜられたが、そのころには長宗我部降伏のメドもついたので、17日、秀吉み

ずから越中に出馬するとの意を利家に告げると同時に、諸将に北陸遠征の準備を命じた。

出兵を命じられたのは、織田信勝・信包・丹羽長重・細川忠興・金森長金・蜂谷頼隆・宮部継潤

・池田輝政・稲葉典通・森忠政・蒲生氏郷・木村重茲・中村一氏・堀尾吉晴・山内一豊・加藤光

泰・九鬼嘉隆などの多数であった。



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ak.アクアラインノ夕日



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北陸平定 その21

『報復合戦』

天正13年(1585年)の春、雪が消えるとともに佐々・前田両軍の活動は再び始まった。

2月、利家の重臣・村井長頼が手兵を率いて越中の蓮沼に火をかけると、3月には、また成政

が加賀に侵入して鷹巣城を攻撃した。

前田利家(1539-1599年)
ma.前田利家 004

利家は、その報復として4月早々に鳥越城を襲った。

このころになると、前年までは守備態勢一点張りであった前田軍に、しだいに積極的な姿勢を

とうろうとする気配が現れはじめてきた。

せっかく加賀領内につくった拠点であるが、もはやそれを確保していくことが困難になりつつ

あることを悟った成政は、4月中旬になって鳥越・倶利伽羅の2城を放棄した。

利家は早速これを家臣に分守させ、逆に今度は越中領内の今石動に築城して前進基地とした。



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robin 20190215


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北陸平定 その20

『さらさら越え』

天正12年11月下旬、富山から常願寺川をさかのぼり立山温泉に至り、ザラ峠を越えて黒部川

を平らから渡り、針木沢を経て針木峠を越し、信濃の野口村へ抜けたのです。

佐々成政の「さらさら越え」
sa.佐々成政 02(さらさら越え)

この佐々成政の「さらさら越え」については、後にナポレオンのアルプス越えと並び称されたが、

それほどまではないにしても、立山周辺の気候と地勢を考えれば、壮拳であったことは間違いな

いのでしょう。

しかし、この壮拳も結局は実を結ばなかった。

成政が浜松へ達したのは12月に入ってからだが、この時にはもう家康と秀吉との間は和議が成

立していたのです。

成政は家康から歓待されたのみで、なんら具体的な成果を得ることなく、むなしく富山に帰らざる

をえなかったのです。


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robin 20190214



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