小牧・長久手の戦い その30
『家康の上洛』
秀吉は、これだけの犠牲をはらって、誠意を見せたので、さすがの家康も旭姫との婚姻を承諾
するとともに、上洛せざるを得なくなってきた。
豊臣秀吉(1537-1598年)

ということは、同時に、紀州・四国・北陸を平定し、また西国の毛利とも結び、関白太政大臣
にまで官位が昇進した豊臣秀吉に敵対して、もう一度、決戦を交えるだけの自信が、家康にな
かったことを意味するのでしょう。
進退きわまった家康が、10月26日(天正14年)上洛すると、秀吉はわざわざその宿舎を
訪れ
「天下統一のため。御協力を願いたい」
と、辞を低くして懇願したが、その翌日、家康が聚楽第に出向くと、秀吉は、上段の間から、
きら星のように居並んだ諸国の大名たちを見ましながら、
「徳川三河守、上洛大儀」
と、大声を浴びせたという。
小牧・長久手の戦いにお付き合い戴き、ありがとうございました。
次回は、この戦いのすぐ後に行われた四国平定を勉強してみたいと思います。
よかったら、お付き合いください。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
秀吉は、これだけの犠牲をはらって、誠意を見せたので、さすがの家康も旭姫との婚姻を承諾
するとともに、上洛せざるを得なくなってきた。
豊臣秀吉(1537-1598年)

ということは、同時に、紀州・四国・北陸を平定し、また西国の毛利とも結び、関白太政大臣
にまで官位が昇進した豊臣秀吉に敵対して、もう一度、決戦を交えるだけの自信が、家康にな
かったことを意味するのでしょう。
進退きわまった家康が、10月26日(天正14年)上洛すると、秀吉はわざわざその宿舎を
訪れ
「天下統一のため。御協力を願いたい」
と、辞を低くして懇願したが、その翌日、家康が聚楽第に出向くと、秀吉は、上段の間から、
きら星のように居並んだ諸国の大名たちを見ましながら、
「徳川三河守、上洛大儀」
と、大声を浴びせたという。
小牧・長久手の戦いにお付き合い戴き、ありがとうございました。
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小牧・長久手の戦い その29
『大政所が人質』
三河へ送る人質として、秀吉は、生母の大政所を選んだ。
この人質作戦は、孝養にあつい秀吉としては、よほど冒険と思われた。
岡崎城

だから、大政所には人質であることを内緒にし、かの女の娘・旭姫を訪問させるという名目で、
三河の岡崎に下向させた。
徳川方では、はじめ、この人質が替え玉ではないかと疑ったというが、母と娘が相寄って、再
開を喜び、うれし泣く有様を見て、はじめて人質の大政所が本物であることを確信したという。
しかし、上洛中の主君・家康に万一の変事が起きた場合には、いつでも直ちに、人質の大政所
を焼き殺せるように、彼女の宿舎の周りには薪を山のように積み上げていたという。
秀吉は、最愛の生母を、そのような危険にさらしてまで、家康の上洛を願ったのでしょう。
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この人質作戦は、孝養にあつい秀吉としては、よほど冒険と思われた。
岡崎城

だから、大政所には人質であることを内緒にし、かの女の娘・旭姫を訪問させるという名目で、
三河の岡崎に下向させた。
徳川方では、はじめ、この人質が替え玉ではないかと疑ったというが、母と娘が相寄って、再
開を喜び、うれし泣く有様を見て、はじめて人質の大政所が本物であることを確信したという。
しかし、上洛中の主君・家康に万一の変事が起きた場合には、いつでも直ちに、人質の大政所
を焼き殺せるように、彼女の宿舎の周りには薪を山のように積み上げていたという。
秀吉は、最愛の生母を、そのような危険にさらしてまで、家康の上洛を願ったのでしょう。
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小牧・長久手の戦い その28
『非情な婚姻』
目的のためには、その手段を選ばないというものの、秀吉の行った婚姻政略は、極めて非情な
ものであった。
築山殿(?-1579年)

秀吉は、信長の命令(通説)で正妻の築山殿を処刑させて以来、やもめ暮らしに甘んじていた
家康に目をつけ、家康に秀吉の異父妹の旭姫を嫁がせようと考えた。
しかし、旭姫はすでに尾張の地侍の佐治日向守に嫁いでいたので、秀吉は日向守に事情を打ち
明けこれを説得し、旭姫と離別する代わりに食禄5万石を加増しようしたという。
すると、佐治日向守は
「御意のまま妻を離別はするが、そのために食禄を受けては、武士の面目が立たない」
と答えて、加増を辞退し、旭姫を秀吉のもとに送り返したが、その後自害したとも。また剃髪
して洛外に蟄居したともいわれています。
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秀吉は、信長の命令(通説)で正妻の築山殿を処刑させて以来、やもめ暮らしに甘んじていた
家康に目をつけ、家康に秀吉の異父妹の旭姫を嫁がせようと考えた。
しかし、旭姫はすでに尾張の地侍の佐治日向守に嫁いでいたので、秀吉は日向守に事情を打ち
明けこれを説得し、旭姫と離別する代わりに食禄5万石を加増しようしたという。
すると、佐治日向守は
「御意のまま妻を離別はするが、そのために食禄を受けては、武士の面目が立たない」
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小牧・長久手の戦い その27
『家康の上洛拒否』
秀吉は、小牧の戦いの翌年(天正13)になって、ようやく家康とも講和したが、これを臣従
させるのに骨をおったといいます。
徳川家康(1543-1616年)

この年、秀吉は、まず前年の小牧の戦いのとき、東軍に味方した紀伊の根来・雑賀の僧徒を討
伐し、土佐の長宗我部元親を討って四国平定し、また越中の佐々成政を討伐し、北陸を平定し
ている。
それから、7月11日には、朝廷に奏請して関白に任官している。
これは、徳川三河守でしかない家康を公式に臣従させるためのもっとも巧妙な工作だったので
す。
と同時に、秀吉は家康の上洛をうながした。
しかし、上洛すれば実質的にも秀吉に屈服し、臣従せざるを得ないことを知っている家康は、
容易に三河から動こうとしない。
そこで秀吉は、政略結婚によって家康との関係を緊密にしたうえで、さらに人質を三河に送っ
て家康の不安を除き、これを懐柔しようと図ったのです。
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秀吉は、小牧の戦いの翌年(天正13)になって、ようやく家康とも講和したが、これを臣従
させるのに骨をおったといいます。
徳川家康(1543-1616年)

この年、秀吉は、まず前年の小牧の戦いのとき、東軍に味方した紀伊の根来・雑賀の僧徒を討
伐し、土佐の長宗我部元親を討って四国平定し、また越中の佐々成政を討伐し、北陸を平定し
ている。
それから、7月11日には、朝廷に奏請して関白に任官している。
これは、徳川三河守でしかない家康を公式に臣従させるためのもっとも巧妙な工作だったので
す。
と同時に、秀吉は家康の上洛をうながした。
しかし、上洛すれば実質的にも秀吉に屈服し、臣従せざるを得ないことを知っている家康は、
容易に三河から動こうとしない。
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て家康の不安を除き、これを懐柔しようと図ったのです。
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小牧・長久手の戦い その26
『秀吉と信雄と講和』
小牧の戦いは、天正12年9月になって、東西の間に和議が起こりかけたが、家康が次男・秀康
を人質に出すことを拒否したため、不正立に終わり、それからは両軍が伊勢・尾張・美濃を舞台
に、一進一退の応酬をしあっているうちに、戦争が長びくのを嫌った秀吉が、北畠(織田)信雄
を懐柔し、11月11日に伊勢の矢田川原で会見し、単独講和を締結した。
畠山(織田)信雄(1558-1630年)

条件は
一つ、秀吉は信雄の娘を養女とすること。
二つ、秀吉が占領した北伊勢4郡(桑名・員弁・朝明・三重)を信雄に返還し、信雄は織田長益
(信長の弟)・滝川雄利・佐久間正勝・土方雄久らの子息、もしくは母を人質として秀吉に提出
すること。
三つは、信雄は伊賀3郡・南伊勢7郡のほか、尾張の犬山城、河田の砦を、秀吉に割譲すること。
四つは、伊勢・尾張両国における臨時の築城は、両軍とも、これを破却すること。
そこで、やむなく家康もこの講和を認め、11月16日、三河の岡崎に帰った。
信雄を助けるという大義名分を、まず家康から奪いとった秀吉の講和作戦は、みごとに成功した
のです。
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小牧の戦いは、天正12年9月になって、東西の間に和議が起こりかけたが、家康が次男・秀康
を人質に出すことを拒否したため、不正立に終わり、それからは両軍が伊勢・尾張・美濃を舞台
に、一進一退の応酬をしあっているうちに、戦争が長びくのを嫌った秀吉が、北畠(織田)信雄
を懐柔し、11月11日に伊勢の矢田川原で会見し、単独講和を締結した。
畠山(織田)信雄(1558-1630年)

条件は
一つ、秀吉は信雄の娘を養女とすること。
二つ、秀吉が占領した北伊勢4郡(桑名・員弁・朝明・三重)を信雄に返還し、信雄は織田長益
(信長の弟)・滝川雄利・佐久間正勝・土方雄久らの子息、もしくは母を人質として秀吉に提出
すること。
三つは、信雄は伊賀3郡・南伊勢7郡のほか、尾張の犬山城、河田の砦を、秀吉に割譲すること。
四つは、伊勢・尾張両国における臨時の築城は、両軍とも、これを破却すること。
そこで、やむなく家康もこの講和を認め、11月16日、三河の岡崎に帰った。
信雄を助けるという大義名分を、まず家康から奪いとった秀吉の講和作戦は、みごとに成功した
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