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四国平定 その41

『武士の本懐』

長宗我部元親の四国征戦10年の成果は秀吉にさらわれ「無益の作業」だったといえば無益

ですが、元親は天下に志をはせ、土佐人に対して国に報い、恩を致す種をまいたのです。

長宗我部元親
ty.長宗我部元親 002

それはともかく、元親は講和の結果、秀吉に臣従することになった。

3男親忠に、江村親俊・比江山親興をそえて人質として秀吉のもとに送り、岡豊へ引きあげた。

そののち元親は寛大な処置に感激して

「広大な御恩恵」

と感謝し

「斯様(かよう)の君に身を委ねてこそ武士の本懐」(土佐物語)

といって喜こんだといいますが、帰順した後の元親は、九州征討従軍、小田原参陣、朝鮮の役

と相次ぐ戦いに出陣し、秀吉のため献身的な奉仕を続けたのです。


長い間、四国平定にお付き合い戴き、ありがとうございました。

次回は四国平定の後、すぐ行われ、長宗我部元親も参陣した、九州平定を勉強してみたいと思

います。良かったらお付き合いください。



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robin 20190506



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四国平定 その40

『四国の国割』

小早川隆景の軍は東伊予の諸城を落とし、西進して抵抗していた越智郡・温泉郡の諸豪族を

討ち、道後の湯築城に迫った。

湯築城 (湯築城登城記は「こちら」です。)
yu.湯築城 002

城主の河野通直は早くから温泉・伊予・浮穴の諸郡から兵を集めて抗戦準備を進めていたが、

情勢をみて、とうてい敵し得ないことを悟り、隆景の降伏勧告を入れて帰順した。

通直はのちに安芸国竹原に移ったが、子孫がなく死去したので、天正15年ついに名族・河

野氏も滅亡した。

また南部の黒瀬城主の西園寺公広も、浮穴郡の大除城主・大野直昌も相次いで隆景に降った

ので、9月には伊予はすべて秀吉の支配下にはいった。

秀吉軍は、8月下旬には四国を引き上げて凱旋した。

四国の国割は次のとおりであった。

土佐国  長宗我部元親

阿波国  蜂須賀正勝 内1万石 赤松則房

讃岐国  仙石秀久 内2万石 十河存保

伊予国  35万石 小早川隆景 内2万3千石 安国寺恵瓊 1万4千石 来島助兵衛



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robin 20190505



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四国平定 その39

『和議締結』

四国平定の戦いが終わり、和議が締結されたのは8月初旬(諸説あり)であったらしい。

蜂須賀正勝(1526-1586年)
ha.蜂須賀小六

秀吉は蜂須賀正勝・黒田官兵衛からの8月6日付の書状を、8月14日に越前の府中で受け取

り、同日付で2人にあてて返事を書き、

「与州(伊予)の儀、差し急ぎ諸城請取り、小早川方へ相渡し、隙明(ひまあ)け、同じ与州

の質物(しちもの)召連れ、早々罷(まか)り帰るべく候」(小早川文書)

といっており、8月18日には秀吉は、小早川隆景にあてて

「与州国中の諸城請取られ候哉。自然相滞義(あいとどこおるぎ)候はば、蜂須賀に相談し、

此方へ申し越さるべく候。国の置目(掟)等入念に申付け候条、心易かるべく候。尚、来音を

期し候也」(小早川文書)

という手紙を出している。

これらによると、8月中旬頃までには、伊予だけでなく讃岐・阿波の城受け取りも行われたの

でしょう。



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robin 20190504



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四国平定 その38

『停戦協定』

羽柴秀長は7月25日、江村孫左衛門・谷忠澄に停戦の条件を述べた、次の誓書を与えている。

羽柴秀長(1540-1591年)
to.豊臣秀長


一、 長宗我部殿身上の儀、土佐一国にて御理(ことわり)の段、随分疎略有るべかざる事。

 付けたり、内府御同心之無きに付けても疎略ざる事。

一、 5日の間矢留(やどめ)の事、分別無く候といえども、各々達て申され候間、是又(これ

 また) 其意を得候事。

一、 此の如き上は、抜公事、表裏聊(いささか)も之有(これあ)るまじき事。

右の条数偽るに於ては、日本国大小神祇(しんぎ)、別しては氏神の御罰を蒙るべき者也。

これは、7月25日付の誓書ですが、秀吉は和睦の指示を与えるとともに、伊藤掃部助に対して

7月27日付で書状を与え、部将の労をねぎらい、停戦協定を命じたあと、なお用心するようにと

念を入れさせています。



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robin 20190503





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四国平定 その37

『上方軍は兵農分離』

谷忠澄が和睦会見の様子をみずから語ったことを記録した谷家に伝わる『長宗我部覚書』にも

「其節(そのせつ)城中よりも軍勢出会ふ所に、上方勢は第一馬大く物具等も花やかに、千騎

が2千騎にも相見ゆる由、又四国勢は第一馬細く、物具等も侘敷(わびしく)、千騎が5百騎

にも相見ゆる由伝へ承はり候也」

と書いてある。

長宗我部元親(1539-1599年)
ty.長宗我部元親

これらは長宗我部軍の粗末な軍備と、経済基盤の貧弱なことを暴露した言葉ですが、長宗我部

元親は、このような兵農分離を終えた専門の武士である秀吉の麾下の上方勢と、兵農を分離し

ていない前代の名主的存在である一領具足という自軍の将兵とを比較してみて、彼は大言壮語

より前に、秀吉の傑出した人物と手腕にいまさらのように目をみはったのでしょう。

このような経過のなかで、元親は一宮城もとうてい支えきれないことを悟り、羽柴秀長に頼っ

て秀吉に降伏を申し出た。

秀長は温厚な人物で、仁将といわれた人だと伝えられるが、使者を派遣して秀吉の命令と指示

を請うたところ、秀吉は、元親が土佐一国を領有することを許し、他の3国を没収することに

なった。



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robin 20190502




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