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九州平定 その42

『伝統を誇る戦国大名』

義統の大坂・京都旅行の模様は、同行した浦上宗鉄が若林道関にあてた16年3月20日の書状

に明らかに具体的にあらわれています。

島津義弘(1535-1619年)
sh.島津義弘

なお、その4月14日、後陽成天皇の聚楽第行幸に参列、15日には29人の諸大名の一人とし

て起請文を書き、

一、 禁裡御料所地子以下、並に公家衆所々の知行等、若(もし)無道の旅有らば、各々為堅く

 異見を加へ、当分の儀は申すに及ばず、子々孫々異儀無き様、申し置くべき事

一、 関白殿仰せ出ざるの趣、何篇に於いても、いささかも違背申すべからざる事

などの3ヵ条を誓った。

29人のうち九州からは、大友義統だけがこれに加わっているから、なお室町戦国期の大名家の

門閥地位の意識は強かったのでしょう。

秀吉からみると大友氏のように中央政権に接近して領国への権威を高めようとする中世的な豪族

の統制は必ずしも困難ではなかった。

しかし、薩摩・大隅・日向3国を領して、辺境ながら南九州に雄飛し、鎌倉時代以来の伝統を誇

る戦国大名的な島津氏は、秀吉の統一政権にとって、なお心を許すことのできない脅威であった

のでしょう。



長い間、九州平定にお付き合いいただき、ありがとうございました。

次回は、小田原征伐を勉強してみたいと思います。

よかったら、ぜひ、お付き合いください。




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あり日のpiglet (この写真の記事は「こちら」です。)

PETER RABBIT 2015 002

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>

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九州平定 その41

『群雄割拠の終結』

肥後の国衆一揆の情報がしきりに入って頃、秀吉は京都に聚楽第を完成させた。

また、16年2月、大友義統は秀吉に直接に拝謁するため堺に行き、今井宗薫の家に着いて妙国

寺に宿泊した。

聚楽第
ju.聚楽第

今井宗薫のほか、小西隆左・藪内宗巴・津田宗及など堺の豪商茶人と会い、大坂では秀長に謁し、

ついで京都聚楽第で秀吉に拝謁した。

父・宗麟はすでに天正15年5月23日に58歳で逝去しており、秀吉の島津征服と時を同じく

して、群雄割拠の終結とともに世を去っていたのです。

宗麟が秀吉の救援を求めて大坂城に行った天正14年4月からわずか2年を経たばかりであった

が、時代はまったく一変していた。



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九州平定 その40

『肥後一揆起こる』

北野茶会もわずか一日で中止をせざるに得ない事態が起こった。

それは肥後において佐々成政に対する国衆の一揆が勃発したからであった。

佐々成政(1536-1588年)
sa.佐々成政

肥後では守護の菊池氏が滅亡した後、肥後の国侍は52人衆といわれ、本領を保有して独立の

形をとっていた。

したがって秀吉は成政に対して検地を実施しないように指令を与えていた。

ところが成政は、越中富山から隈本(熊本)に入城はしたものの、検地しなければ肥後の土地

を家臣に与えることもできない。

成政の検地実施に反対して、早くも7月には隈府の隈部親永が兵をあげ、これが肥後北半部全

体の一揆に拡大した。

9月7日、成政は筑後の立花宗茂に救援軍を求め、同日このことが大坂の秀吉の耳に達したの

です。

12日、秀吉は黒田・毛利・安国寺らを肥後に遣わし南方島津氏をも動員させた。

こうして一揆は鎮圧されたが、九州の対外的地位の重要さから、5畿内同然に考えていた秀吉

にとってこれは容易ならぬ事件であったという。

翌、天正16年(1588年)4月、成政は摂津尼ヶ崎で切腹を命じられ、肥後北半分に加藤

清正、南半分に小西行長を封じた。



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九州平定 その39

『バテレン追放』

秀吉は九州に自分自身で渡り、キリスト教を信仰する諸大名を直接に見、教会領となっていた

長崎の状況をも詳察し、教会の勢力の性格について把握した。

秀吉のバテレン追放令
ba.秀吉のバテレン追放令

天正15年6月18日付耶蘇教取締り法令によると、日本は神国であるのでキリシタンより邪

法を授けるのははなはだ不埒(ふらち)であるとして、20日の間にバテレンは用意を整えて

帰国すべきことなどを決めている。

天正14年3月、耶蘇会日本副管区長コエリヨが大坂に来たときは、秀吉みずから城中を案内

したほどであったのに、九州の軍事以後、秀吉の対キリスト教策は急変した。

彼の全国統一者としての態度が確立したことが推察されます。

秀吉は帰ってまもない10月1日から10日間、京都北野で大茶会を開くという高札を京都・

大坂・堺に立てさせた。

九州平定記念の祝賀大茶会であるとともに、疲れを癒す慰安会でもあったのです。



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robin 20190622



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九州平定 その38

『秀吉の九州戦略』

秀吉は予定の行動として、博多に20日近くとどまり、筥崎八幡宮の屋敷に住み戦後の経営を行

った。

博多の町の復興経営事業の世話役として黒田官兵衛、奉行として石田三成らを命じ、6月11日

から町の差図をかかせ12日から町割りを行った。

筥崎八幡宮
mi.宮嵜八幡宮

秀吉は大明・南蛮の諸国の船のつく港として交通上の要地である博多を高く評価し、ここを根拠

に朝鮮に軍隊を差し向けようと考えていたのです。

筑前・肥前両国に対する経営として一部は腹心の小早川隆景に与え、一部はほとんどその旧領を

安堵したのも、この地方が海諸国経営の要衝にあたっているから、とくに考慮したものでしょう。

神谷宗湛・島井宗室ら博多の町年寄りを呼び出して故実を正し、町を10町四方に区切り、縦横

に小路を割り付け、また防備のために堀を掘った。

荒廃した町割りを復興するのは困難な事業であったというが、復興の途上にたった博多の町に楽

市楽座の制をしき商業を保護した。

26日、宮崎の津田宗久の茶室で、秀吉を中心とする連歌会が行われ、博多の豪商と秀吉の結び

つきはいっそう強化されたという。



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robin 20190621



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