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小田原平定 その50

『小田原合戦の意義』

小田原合戦は、後北条氏の滅亡によって関東には徳川氏の入部(徳川政権)によって、関東に

は新しい時代が訪れた。

小田原城 (小田原城ライトアップは「こちら」です。)
od.小田原城 002

合戦以前の東と西の文化の落差は、今日の私たちが想像している以上に大きかったでしょう。

この文化の落差を、正しく認識することができなかった点こそ、後北条氏の滅亡の原因であった

のです。

しかし、この合戦の結果による徳川氏の関東入部によって、東西文化の落差は著しく急速に縮め

られていった。

この点でも、関東にとって小田原合戦の意義は大きかったのでしょう。



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robin 20190815



<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>

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ジャンル : 学問・文化・芸術

小田原平定 その47

『後北条氏の滅亡』

7月6日、家康は兵を小田原城に入れ、翌7日には、籠城の侍らは城を出て、家康の陣所に収容

され、10日には氏政・氏輝も城を出て家康の陣所に入った。

そうして、翌11日、氏政・氏照は医師・安栖宅で自刃した。

北条氏政(1538-1590年)
ho.北条氏政

ときに氏政は53歳であったという。

雨雲のおほへる月も胸の霧も はらひけりな秋の夕風 (氏政)

我か身いま消とやいかに思ふべき 空より来り空に帰れば (氏政)

天地の清き中より生まきて もとのすみかにかへるべらなり (氏照)

これらは、『太閤記』に見える氏政と氏照の世辞の歌です。

また、氏政と氏輝が自刃した安栖宅の場所は、現在の小田原駅の付近であったという。

助命された氏直は、秀吉の命によって、7月20日、氏規・氏房ら300余人とともに、高野山

に向かい、天正19年(1591年)11月4日、30歳で病死した。

また秀吉は、氏規の人物を愛して、丹南・河内両郡で約7千石をあてがったという。

この末裔が、旧河内狭山藩主・旧子爵家の北条氏です。



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小田原平定 その46

『小田原城開城』

7月5日になると、氏直は弟の氏房とともに、滝川雄利の陣所に出てきて

「ぜひ腹を仕(つかまつ)り候はん間、諸勢助けをなされ候はば忝(かたじけな)く候」

と、籠城諸兵の助命を秀吉に申し出た。

小田原城ライトアップ
od.小田原城 002

そこで秀吉は、その氏直の神妙な覚悟を思って、氏直の一命を助け、そのかわりに氏政・氏照・

大道寺政繁と松田憲秀の4人の切腹を命じた。(小早川文書)

7月5日付けの秀吉の氏直あて書状には、わざわざ自筆の追面書(おってがき)で

「尚々(なおなお)是非4人然るべく候」

と、4人の是非の切腹を命じている。

こうして、7月5日の氏直の投降により、5代100年におよんだ後北条氏の小田原城は、開城

されたのです。



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robin 20190813



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小田原平定 その45

『石垣山城の完成』

6月24日になると、韮山城主の北条氏規が家康から和議の勧告を受けて、韮山城を明け渡して、

秀吉方に降り和議に賛成した。

石垣山城から眼下の小田原城
od.小田原城(石垣山城から望む)

また、この日に滝川雄利・黒田官兵衛らは、井細田口から主将・太田氏房を介して、氏政らに和

議を勧告した。

しかし、氏政らは

「武をもってこれを失ふは怨みなしといへども戦はずして降ることは能(あた)はず」

と、和議の勧告をけったという。

しかし、6月26日には、秀吉の石垣山城も完成し、秀吉はここに移って、小田原城を眼下に見

下ろし、すでに秀吉方に降って鉢形城主・北条氏邦(鉢形城は6月14日に開城)、韮山城主・

北条氏規らをして、さかんに降伏を勧告させた。



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robin 20190812




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小田原平定 その44

『松田憲秀の内応』

とくに松田憲秀の内応は、だらしがなかった。

『太閤記』によると、早川口の堀秀政は、秀吉の意を受けて松田憲秀に内応を勧めた。

小田原城
od.小田原城 20100704 002

松田憲秀は、早川口を守っていた北条氏の重臣なのです。

彼は、堀秀政に

「もし内応したら秀吉公は、伊豆・相模の2国を貴公にあてがうと言っておられる」

と誘われて、池田輝政・細川忠興・堀秀政らの軍兵を城内に引き入れることを約束した。

しかし、憲秀の内応は、憲秀の次男・秀治の密告によって、氏直に知られ、氏直は憲秀を捕え、

早川口の守備を替え、憲秀の内応を未然に防ぐことができた。

細川らの軍兵は、憲秀の約束どおりに早川口の城門に迫ったが、北条方に撃退されたという。



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平成26年6月30日に100城を制覇しました!

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20140816 郡上おどり 002-1
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