小田原平定 その55
『天下の険にさえぎられた後北条氏』
『武将感謝記』には、関東を歩いていたある僧が、小田原で氏政の禁制が30ヵ条にも及んで
いるのをみて、
「北条家も末になり亡ぶべきの端あらはれたり」
と嘆息した話をのせています。
小田原城

この僧の考えでは
「国君が明威があり、土民が心服している時は、法度の箇条は僅少ですむ。しかし、国君の明
が蔽(おお)われ、威が衰えたときは、土民の中に国君にそむくものが多くなるので、したが
って法度の箇条も年々増して、政令が鎖細(ささい)となる」
というのです。
この一客僧が、いみじくも的確に表現したように、氏政・氏直の治世20年間に、氏政と氏直
の政治は、けっして前進的なものではなかったのです。
この20年間に秀吉と家康をはじめとするほかの戦国大名の領国体制は、急ピッチで前進して
いた。
氏政と氏直は、箱根山という天下の険にさえぎられて、この前進する他国の実状を見ようともし
なかったのです。
関八州の旧体制に安住していたのでしょう。
この点こそが、小田原合戦における北条氏の敗北の原因なのかも知れません。
小田原平定にお付き合い戴き、ありがとうございました。
次回は、この小田原平定の後、秀吉が行った奥州仕置を勉強してみたいと思います。
よかったら、お付き合いお願い致します。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
『武将感謝記』には、関東を歩いていたある僧が、小田原で氏政の禁制が30ヵ条にも及んで
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「北条家も末になり亡ぶべきの端あらはれたり」
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小田原城

この僧の考えでは
「国君が明威があり、土民が心服している時は、法度の箇条は僅少ですむ。しかし、国君の明
が蔽(おお)われ、威が衰えたときは、土民の中に国君にそむくものが多くなるので、したが
って法度の箇条も年々増して、政令が鎖細(ささい)となる」
というのです。
この一客僧が、いみじくも的確に表現したように、氏政・氏直の治世20年間に、氏政と氏直
の政治は、けっして前進的なものではなかったのです。
この20年間に秀吉と家康をはじめとするほかの戦国大名の領国体制は、急ピッチで前進して
いた。
氏政と氏直は、箱根山という天下の険にさえぎられて、この前進する他国の実状を見ようともし
なかったのです。
関八州の旧体制に安住していたのでしょう。
この点こそが、小田原合戦における北条氏の敗北の原因なのかも知れません。
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小田原平定 その54
『酷評をうける氏政・氏直』
北条氏政は元亀2年(1572年)10月より、天正18年(1590年)7月のその自殺まで、
20年間関東に君臨した。
氏政は、天正8年(1590年)8月、家をその子・氏直に譲って隠居の身となったが、氏直が
若かったために、「大途」と呼ばれながら、実際には関東の政治を行っていたのです。
北条氏政(1538-1590年)

特に、天正10年(1582年)3月、武田勝頼が滅ぼされ、6月に織田信長が討たれてからは、
関東における後北条氏の地位はますます高められたために、氏政は、とても隠居などとのんきに
構えておられなかった。
中央における形勢の急激な変化は、後北条氏の安泰を許さなかったのです。
『小田原旧記』によると
4世氏政は、暗愚にして、老臣・松田入道が奸謀に迷はされ、国政を乱るといへども、なお氏康
の武徳によって、しばらく無事なり。5世氏直は、随分明察ありといへども、惜しいかな虚弱に
して、自らもっぱらにせざる過ちあるゆえに、遂に其家を失へり。
と述べられ、氏政・氏直は極めて悪評を浴びせられている。
また、『関八州古戦録』でも、氏政と氏直の評判はけっしてよくなく
氏政・氏直は、不器にして、いたずらに父祖の余栄に誇り、時機をわきまへず、その敵を考へず、
険に拠り、衆をたのみて、奇正虚実の策略を忘れ、茫然として、此くの如きの仕儀に及び、果た
して国家を失ふ。
と酷評されています。
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北条氏政は元亀2年(1572年)10月より、天正18年(1590年)7月のその自殺まで、
20年間関東に君臨した。
氏政は、天正8年(1590年)8月、家をその子・氏直に譲って隠居の身となったが、氏直が
若かったために、「大途」と呼ばれながら、実際には関東の政治を行っていたのです。
北条氏政(1538-1590年)

特に、天正10年(1582年)3月、武田勝頼が滅ぼされ、6月に織田信長が討たれてからは、
関東における後北条氏の地位はますます高められたために、氏政は、とても隠居などとのんきに
構えておられなかった。
中央における形勢の急激な変化は、後北条氏の安泰を許さなかったのです。
『小田原旧記』によると
4世氏政は、暗愚にして、老臣・松田入道が奸謀に迷はされ、国政を乱るといへども、なお氏康
の武徳によって、しばらく無事なり。5世氏直は、随分明察ありといへども、惜しいかな虚弱に
して、自らもっぱらにせざる過ちあるゆえに、遂に其家を失へり。
と述べられ、氏政・氏直は極めて悪評を浴びせられている。
また、『関八州古戦録』でも、氏政と氏直の評判はけっしてよくなく
氏政・氏直は、不器にして、いたずらに父祖の余栄に誇り、時機をわきまへず、その敵を考へず、
険に拠り、衆をたのみて、奇正虚実の策略を忘れ、茫然として、此くの如きの仕儀に及び、果た
して国家を失ふ。
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小田原平定 その53
『圧倒的な水軍差』
秀吉の兵站を担当したのは、関西の中世都市の商人らであり、氏政の兵站を担当したのは、
小田原周辺の在所の職人と百姓らであった。
小田原城包囲網

さらに秀吉と氏政の海軍を比較すると、両者の優劣は一層明らかであった。
秀吉の水軍は、長宗我部元親・脇坂安治・加藤嘉明・九鬼嘉隆らに率いられた南海のすぐれた
水軍であった。
これに対して、氏政の水軍は、里見の水軍にも対抗することができないほどの伊豆および三浦
半島の弱小の水軍であった。
このような秀吉と氏政の軍隊の絶対的ともいうべき相違が、結局は秀吉の勝利=氏政の敗北
をもたらした原因であったのでしょう。
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秀吉の兵站を担当したのは、関西の中世都市の商人らであり、氏政の兵站を担当したのは、
小田原周辺の在所の職人と百姓らであった。
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さらに秀吉と氏政の海軍を比較すると、両者の優劣は一層明らかであった。
秀吉の水軍は、長宗我部元親・脇坂安治・加藤嘉明・九鬼嘉隆らに率いられた南海のすぐれた
水軍であった。
これに対して、氏政の水軍は、里見の水軍にも対抗することができないほどの伊豆および三浦
半島の弱小の水軍であった。
このような秀吉と氏政の軍隊の絶対的ともいうべき相違が、結局は秀吉の勝利=氏政の敗北
をもたらした原因であったのでしょう。
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小田原平定 その52
『後北条軍は総力戦の竹槍部隊』
組織原理がまったく異なっていたとは、どういうことのあったのか。
秀吉の軍隊は、所領に束縛されることなく自由に動ける組織の訓練された軍隊であり、氏政の
軍隊は、所領に束縛されて自由には動けない未組織の軍隊であったのです。
小田原城隅櫓

氏政の軍隊は、鍬や鎌まで持ち出して所領から徴収された武士とそれに隷属する百姓の軍隊
であり、その姿は、まさに本土決戦ともいうべき総力戦の竹槍部隊であった。
もちろん十分に訓練などを受けているはずがなかった。
これに対して、秀吉の軍隊を構成していた武士と農兵は十分に訓練されていた。
それは近代兵器ともいうべき鉄砲と大筒を主体とした機械化された軍隊であった。
さらに武器や兵糧の調達輸送を担当した後方部隊の組織も、秀吉と氏政とでは、まったく違っ
ていた。
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秀吉の軍隊は、所領に束縛されることなく自由に動ける組織の訓練された軍隊であり、氏政の
軍隊は、所領に束縛されて自由には動けない未組織の軍隊であったのです。
小田原城隅櫓

氏政の軍隊は、鍬や鎌まで持ち出して所領から徴収された武士とそれに隷属する百姓の軍隊
であり、その姿は、まさに本土決戦ともいうべき総力戦の竹槍部隊であった。
もちろん十分に訓練などを受けているはずがなかった。
これに対して、秀吉の軍隊を構成していた武士と農兵は十分に訓練されていた。
それは近代兵器ともいうべき鉄砲と大筒を主体とした機械化された軍隊であった。
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小田原平定 その51
『軍事力の相違』
小田原合戦は、なぜ秀吉の勝利=氏政・氏直らの敗北になったのか。
秀吉は、はじめから氏政らに勝てるという自信はもっていなかったのでしょう。
豊臣秀吉(1537-1598年)

それどころか、織田信雄や徳川家康らが、氏政らに内通しているという風説が、しばしば伝えら
れたほどに、秀吉方に常に不安はあったでしょう。
一方、氏政らは、箱根・小田原の地の利をたよって、必勝の自信に満ちていた。
それなのに、戦局の進展にともなって、秀吉は勝利への自信を深め、反対に氏政らは敗北の色が
濃くなっていったのです。
そして、ついに氏政らは、秀吉の軍門にみずからを投げ出さざるをえない結果となってしまった。
それは、一体なぜであったか。
一口にいえば、それは秀吉の軍隊と氏政の軍隊の軍事力の絶対的な相違でしょう。
秀吉の軍隊と氏政の軍隊とでは、その組織原理がまったく異なっていたのです。
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小田原合戦は、なぜ秀吉の勝利=氏政・氏直らの敗北になったのか。
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豊臣秀吉(1537-1598年)

それどころか、織田信雄や徳川家康らが、氏政らに内通しているという風説が、しばしば伝えら
れたほどに、秀吉方に常に不安はあったでしょう。
一方、氏政らは、箱根・小田原の地の利をたよって、必勝の自信に満ちていた。
それなのに、戦局の進展にともなって、秀吉は勝利への自信を深め、反対に氏政らは敗北の色が
濃くなっていったのです。
そして、ついに氏政らは、秀吉の軍門にみずからを投げ出さざるをえない結果となってしまった。
それは、一体なぜであったか。
一口にいえば、それは秀吉の軍隊と氏政の軍隊の軍事力の絶対的な相違でしょう。
秀吉の軍隊と氏政の軍隊とでは、その組織原理がまったく異なっていたのです。
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