奥州仕置 その37
『秀吉全国平定の完成』
『南部史要』には、九戸政実の反乱も、伊達政宗の煽動にと謀略によって起きたと記していま
すが、証拠はなく、事実無根であるともいえるのでしょう。
伊達政宗

政宗は鋭気に任せて四方を攻略し、時には無謀と思われるような行動があります。
天下の大勢が定まってからも、二階堂氏を滅ぼし、石川氏を従え、相馬氏と争ったが、これな
ど結果的に、彼はもちろん相手にも無用の被害を及ぼしたに過ぎないのです。
従って、敵も多く奥州の騒乱の責任は、何かというと政宗の策謀とされるのです。
しかし、南部氏とはこれまで紛争はなかったのです。
ところが、関ケ原合戦の時、和賀忠親が南部領の和賀郡で一揆を起こし、政宗がこれを支援し
た。
以来、南部氏は伊達氏を警戒するようになり、相互の国境筋の警備なども厳重になった。
九戸一揆に対する政宗煽動説は、こうした両藩の事情のもとに、後に言い出されたものと考え
られます。
落城した九戸の本城は中央軍によって修復され、やがて信直は三戸からここに治城を移し、福
岡城と改称した。
蒲生氏郷が政宗から受け継いだ会津黒川城を、若松城と改称したのと同様であります。
10月に入り、中央軍はしだいに本国に帰還し、ここに秀吉の奥羽平定の事業は完成していま
す。
それはまた全国平定の完成でもあったのです。
奥羽平定のお付き合い戴き、ありがとうございました。
次回からは、時代を少しさかのぼり、群雄割拠の時代を勉強したいと思います。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
『南部史要』には、九戸政実の反乱も、伊達政宗の煽動にと謀略によって起きたと記していま
すが、証拠はなく、事実無根であるともいえるのでしょう。
伊達政宗

政宗は鋭気に任せて四方を攻略し、時には無謀と思われるような行動があります。
天下の大勢が定まってからも、二階堂氏を滅ぼし、石川氏を従え、相馬氏と争ったが、これな
ど結果的に、彼はもちろん相手にも無用の被害を及ぼしたに過ぎないのです。
従って、敵も多く奥州の騒乱の責任は、何かというと政宗の策謀とされるのです。
しかし、南部氏とはこれまで紛争はなかったのです。
ところが、関ケ原合戦の時、和賀忠親が南部領の和賀郡で一揆を起こし、政宗がこれを支援し
た。
以来、南部氏は伊達氏を警戒するようになり、相互の国境筋の警備なども厳重になった。
九戸一揆に対する政宗煽動説は、こうした両藩の事情のもとに、後に言い出されたものと考え
られます。
落城した九戸の本城は中央軍によって修復され、やがて信直は三戸からここに治城を移し、福
岡城と改称した。
蒲生氏郷が政宗から受け継いだ会津黒川城を、若松城と改称したのと同様であります。
10月に入り、中央軍はしだいに本国に帰還し、ここに秀吉の奥羽平定の事業は完成していま
す。
それはまた全国平定の完成でもあったのです。
奥羽平定のお付き合い戴き、ありがとうございました。
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奥州仕置 その36
『南部信直は外交上手だった』
九戸政実は南部一族の名門に生まれ、才腕、財力ともに他を圧した出色の人物であったという。
南部信直の居城・盛岡城(盛岡城登城記は「こちら」です。)

南部惣領家を相続する資格を十分備えた身分にありながら、ついに志を得ず、姦雄視されて身
を滅ぼしたのは不幸であったというべきなのでしょう。
一方、南部信直は身のほどをよくわきまえ、たえず秀吉の意を伺い、家康・利長・氏郷とも親
しみ、難局に処して一家の安全を維持したのは、北信愛という謀臣があったためですが、
「機を見るに敏、事を処するに果断」「謙譲にして人言を聞き、よく人の智能を尽さしめた」
(盛岡市史)、彼の人格と外交手段によるところが多大であったのでしょう。
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九戸政実は南部一族の名門に生まれ、才腕、財力ともに他を圧した出色の人物であったという。
南部信直の居城・盛岡城(盛岡城登城記は「こちら」です。)

南部惣領家を相続する資格を十分備えた身分にありながら、ついに志を得ず、姦雄視されて身
を滅ぼしたのは不幸であったというべきなのでしょう。
一方、南部信直は身のほどをよくわきまえ、たえず秀吉の意を伺い、家康・利長・氏郷とも親
しみ、難局に処して一家の安全を維持したのは、北信愛という謀臣があったためですが、
「機を見るに敏、事を処するに果断」「謙譲にして人言を聞き、よく人の智能を尽さしめた」
(盛岡市史)、彼の人格と外交手段によるところが多大であったのでしょう。
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奥州仕置 その35
奥州仕置 その34
『九戸政実討伐軍』
これまで形勢を観望していた南部領内の館主も、中央軍の出発とともに南部信直かたに付随し、
三戸・浄法寺・一戸・軽米と四方から九戸領を包囲したから、九戸政実は孤立に陥った。
とくに8月16日、精鋭を誇る蒲生軍3万が13段の陣立もいかめしく到来したことは、南部
軍の士気を高揚させたという。
蒲生氏郷(1556-1595年)

なお、7月には従来、直領となっていた志波・稗貫・和賀の3郡が信直に与えられた。
中央軍は三方から奥北に進んだが、海道を進んだ石田軍は本吉・気仙方面を鎮定、出羽に入っ
た上杉・大谷軍は仙北から胆沢・和賀に進んだ。
従って、九戸政実籠城の九戸本城に進撃したのは、奥州街道を北進した蒲生・浅野・井伊・堀
尾の諸隊で、その主力は蒲生氏郷の軍勢であった。
この仕置軍は8月23日和賀に到着し、9月1日には山中峠を越え、姉帯・根曾利城を攻略し、
9月2日には九戸の本拠宮野城に迫った。
政実とともに宮野に籠城した者は総勢5千人、兵器食糧ともに豊富であったという。
これに対して攻撃軍は、蒲生・浅野・井伊・堀尾の中央軍、南部利直の南部軍、それに出羽か
ら援軍に来た秋田・小野寺・戸次・仁賀保の諸隊、蝦夷地の松前氏の軍などであった。
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これまで形勢を観望していた南部領内の館主も、中央軍の出発とともに南部信直かたに付随し、
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とくに8月16日、精鋭を誇る蒲生軍3万が13段の陣立もいかめしく到来したことは、南部
軍の士気を高揚させたという。
蒲生氏郷(1556-1595年)

なお、7月には従来、直領となっていた志波・稗貫・和賀の3郡が信直に与えられた。
中央軍は三方から奥北に進んだが、海道を進んだ石田軍は本吉・気仙方面を鎮定、出羽に入っ
た上杉・大谷軍は仙北から胆沢・和賀に進んだ。
従って、九戸政実籠城の九戸本城に進撃したのは、奥州街道を北進した蒲生・浅野・井伊・堀
尾の諸隊で、その主力は蒲生氏郷の軍勢であった。
この仕置軍は8月23日和賀に到着し、9月1日には山中峠を越え、姉帯・根曾利城を攻略し、
9月2日には九戸の本拠宮野城に迫った。
政実とともに宮野に籠城した者は総勢5千人、兵器食糧ともに豊富であったという。
これに対して攻撃軍は、蒲生・浅野・井伊・堀尾の中央軍、南部利直の南部軍、それに出羽か
ら援軍に来た秋田・小野寺・戸次・仁賀保の諸隊、蝦夷地の松前氏の軍などであった。
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奥州仕置 その33
『南部氏、秀吉に訴え』
南部信直は3月1日、宮永左月を上京させ、さらに4月13日には嫡子・利直に北信愛をそえ
て京都に出発させた。
前田利家(1539-1599年)

5月18日、京都に到着した利直は、前田利家・浅野長政を頼って事情を訴え、6月24日、
秀吉は九戸反乱鎮定のための軍勢を編成して出発させた。
その編成は1番・伊達政宗、2番・蒲生氏郷、3番・佐竹義宜、宇都宮弥三郎、4番・上杉景
勝、5番・徳川家康、6番・羽柴秀次となっており、大崎・葛西、藤島、九戸の諸一揆を含め
ての、奥州再仕置の軍隊であった。
中央軍は総帥・秀次の本軍と徳川勢が白河口から、上杉勢と大谷吉継の軍が出羽口から、宇都
宮・佐竹勢と石田三成の軍が相馬口から北進、7月には葛西・大崎一揆が平定され、8月には
いよいよ九戸討伐の態勢が整った。
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南部信直は3月1日、宮永左月を上京させ、さらに4月13日には嫡子・利直に北信愛をそえ
て京都に出発させた。
前田利家(1539-1599年)

5月18日、京都に到着した利直は、前田利家・浅野長政を頼って事情を訴え、6月24日、
秀吉は九戸反乱鎮定のための軍勢を編成して出発させた。
その編成は1番・伊達政宗、2番・蒲生氏郷、3番・佐竹義宜、宇都宮弥三郎、4番・上杉景
勝、5番・徳川家康、6番・羽柴秀次となっており、大崎・葛西、藤島、九戸の諸一揆を含め
ての、奥州再仕置の軍隊であった。
中央軍は総帥・秀次の本軍と徳川勢が白河口から、上杉勢と大谷吉継の軍が出羽口から、宇都
宮・佐竹勢と石田三成の軍が相馬口から北進、7月には葛西・大崎一揆が平定され、8月には
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