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吉田郡山城の戦い その14

『元就の大志』

毛利元就は13歳の時、厳島神社に参拝して

「わが君が安芸の太守になられますように」

と祈った家来をたしなめて

毛利元就のお墓(吉田郡山城登城と元就公のお墓参りは「こちら」です。)
吉田郡山城 007

「なぜ、天下の主になるように祈らなかったのか。天下の主になろうと思って、ようやく一方の

主になれ、一方の主になろうと願って、一国の主にしかなれないものである。今、一国の主にな

れるように祈願すれば、わずかなものしか、得られないではないか」

と言ったという。

これは有名な話ですね。

この少年元就の大志が、郡山の籠城戦に大勝利を得たとも考えられます。

そいして、この大勝利によって、中国制覇の土台が築かれたことを思うと、やはり元就の若き時

代の逸話が思い起こされます。


吉田郡山城の戦いにお付き合いいただき、ありがとうございました。

次回は「厳島の戦い」を勉強してみたいと思います。

よかったら、お付き合いください。


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robin 20191021


<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>


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吉田郡山城の戦い その13

『暗い谷間に灯がともる』

尼子軍が去ったあとには、哀れにも下野守久幸の首が、桶に入れたまま三塚山にころがり、大

内の家来・深野、宮川両人の首桶も捨ててあった。

吉田郡山城の毛利元就公
mo.毛利元就 002

安芸遠征の一戦に敗れた尼子の本城・富田は落日の悲運が深まってきた。

脇柱であった毛利元就が、鷲の羽をつぐ決意に燃えていたから、ここ18年ようやく、元就の

武威は天下に知れ渡った。

尼子と大内に挟まれて、暗い谷間にほのかな一灯は、郡山の戦いを境にして、中国に風雲を巻

き起こすことになったのです。

元就は時に、45歳であった。


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robin 20191020



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吉田郡山城の戦い その12

『尼子軍の撤退』

戦い敗れた尼子晴久は、青山三塚山の本陣に諸将を集めて、善後策を議した。

亀井・牛尾らの古つわ者どもが言った。

大内義隆(1507-1551年)
oo.大内義隆

「合戦のかけひきを見ますと、毛利元就の勇は、われらの想像以上のものがある。陶隆房もまた、

父・興房に勝るとも劣らない。その上、防州に放った山伏の言葉によると、大内義隆が、数万の

軍兵を率いて、防府に着陣したとのこと。まず、陣を退いて、後日に期したほうがよかろう」

そこで衆議一決、晴久は、かがり火を多く焚くように命じて、14日の未明から撤退を開始した。

毛利は

「かがり火が多く上がるのは、防備を厳重に見せかけて、退散する証拠」

とさとり、猛烈な追撃戦に移った。

晴久は、積雪に悩まされながら、石見の都賀まで退き、ここで、たどりつく敗残の兵をまとめ、

月山富田城へ帰った。


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robin 20191019



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吉田郡山城の戦い その11

『勝者のゆとり』

郡山の籠城戦は、天文10年正月13日の戦いがもっとも激しかった。

吉田郡山城
吉田郡山城 002

戦い終わって、毛利元就は使者を陶隆房の本陣へ送って

「今日の合戦、味方の勝利になったのは、まったく貴殿の智勇の致すところ、諸卒の行動が勇敢

であったからと存ずる。元就としては今夕、吉川陣を夜襲し、明日、晴久の本陣へ切りこみ、勝負

を一気に決する所存」

というと、陶隆房は

「わが大内軍の精兵をもって敵の本陣を攻め取ることのできなかったのは、隆房の不明による

もので、無念に思う。重ねて軍備を整え、決戦する所存」

と答えたという。

戦い勝った両主将のへりくだった心と勝者のゆとりなのでしょうか。



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robin 20191018



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吉田郡山城の戦い その10

『尼子久幸の奮闘』

尼子陣は完全に虚を突かれた。

尼子晴久危うしとみえた時、尼子久幸が声高々と叫んだ。

吉田郡山城
吉田郡山城 004

「かねてから、このようになるものと、この度のご出陣を諫めたところ、臆病野洲、比丘尼(び

くに)野州とののしられた。その尼子比丘尼が、今ここに、晴久公の身代わりとなって、屍を吉

田に埋める所存。われらをお笑いなされた方々、臆病野州の壮烈な死をとくと見て、奮起努力せ

よ」

手勢15百を率いて、寄せ手の中におどり込んだ。

久幸の働きは、すさまじかった。

陶軍の先手の深野房重・宮川善左衛門ら10数人が戦死して、200m余り後退した。

だが、野州も、中原善左衛門が放った矢にあたり倒れた。

中原が走り寄って、首を取ろうとするところへ、野州の同朋が立ちはだかった。

この隙に死骸は家人によって持ち去られた。

この戦で、尼子軍の死者400余人、陶軍は470人であったという。



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robin 20191017



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平成26年6月30日に100城を制覇しました!

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*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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20140816 郡上おどり 002-1
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