厳島の戦い その25
『陶晴賢の終焉』
逃げる陶晴賢を追うのは、小早川隆景で、三浦清房らに反撃されて、3ヵ所に傷を受けたとい
う。
小早川隆景(1533-1597年)

大和興武もたびたび反撃したが、生け捕られてしまった。
この間に晴賢は、大江浦に辿りついた。
しかし、そこにも兵船の影を見ることはできなかった。
さらに晴賢は、房清に、東岸の青海苔浦をさぐらせたが、やはり船はなかった。
房清はこの地で、吉川元春配下の勇将・二宮俊実と戦い、壮烈な最期をとげた。
房清戦死の悲報を聞いて、晴賢は天命を悟ったという。
わずかに残った主従は、水盃を酌み交わし、晴賢は世辞の一首を詠んだ。
『何を惜しみ何を恨みん元よりもこの有様の定まれる身に』
そして、伊香賀房明の介錯で自刃し、35年の全生涯を厳島高安原に終わった。
晴賢の辞世の歌は後人の偽作でしょうし、自害の場所も、諸書に異同があり、はっきりしませ
ん。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
逃げる陶晴賢を追うのは、小早川隆景で、三浦清房らに反撃されて、3ヵ所に傷を受けたとい
う。
小早川隆景(1533-1597年)

大和興武もたびたび反撃したが、生け捕られてしまった。
この間に晴賢は、大江浦に辿りついた。
しかし、そこにも兵船の影を見ることはできなかった。
さらに晴賢は、房清に、東岸の青海苔浦をさぐらせたが、やはり船はなかった。
房清はこの地で、吉川元春配下の勇将・二宮俊実と戦い、壮烈な最期をとげた。
房清戦死の悲報を聞いて、晴賢は天命を悟ったという。
わずかに残った主従は、水盃を酌み交わし、晴賢は世辞の一首を詠んだ。
『何を惜しみ何を恨みん元よりもこの有様の定まれる身に』
そして、伊香賀房明の介錯で自刃し、35年の全生涯を厳島高安原に終わった。
晴賢の辞世の歌は後人の偽作でしょうし、自害の場所も、諸書に異同があり、はっきりしませ
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厳島の戦い その25
『毛利軍の攻撃開始』
天文24年(1555年)10月1日、東の空が白みかけた寅の刻(午前4時)、毛利元就の
陣から、太鼓が3つ鳴った。
塔ノ岡

全軍が一斉に鬨の声をあげ、この声を合図に、毛利軍は塔ノ岡の陶の本陣に斬りこんだ。
不意を突かれた塔ノ岡では、まったくの狼狽であったという。
狭いところに2万余りの大軍が詰めていたのだから始末が悪い。
陶方の弘中隆兼・大和興武・三浦房清らが、陶晴賢の本陣に集まって、毛利軍を防いだが、
今となっては防ぎきれるものではない。
たちまち総崩れになって、大元浦方面へ敗走する。
しかし、先を争って船に乗ったため、船が傾き、多くの兵は海底に消えた。
たまたま乗船した者も、その船が、待っていた能島・来島・安芸の水軍に破られ、周防に逃げ
帰った者は、全軍の中で一小部隊しかなかった。
戦いに敗れた晴賢は自殺しようとしたが、三浦房清に諫められ、山口に帰って再挙を計ろうと
考えなおしたという。
房清や伊香賀房明らに守られ、大元浦に退いて船影を求めたが、船はなかった。
さらに、島の西岸に船を探した。
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天文24年(1555年)10月1日、東の空が白みかけた寅の刻(午前4時)、毛利元就の
陣から、太鼓が3つ鳴った。
塔ノ岡

全軍が一斉に鬨の声をあげ、この声を合図に、毛利軍は塔ノ岡の陶の本陣に斬りこんだ。
不意を突かれた塔ノ岡では、まったくの狼狽であったという。
狭いところに2万余りの大軍が詰めていたのだから始末が悪い。
陶方の弘中隆兼・大和興武・三浦房清らが、陶晴賢の本陣に集まって、毛利軍を防いだが、
今となっては防ぎきれるものではない。
たちまち総崩れになって、大元浦方面へ敗走する。
しかし、先を争って船に乗ったため、船が傾き、多くの兵は海底に消えた。
たまたま乗船した者も、その船が、待っていた能島・来島・安芸の水軍に破られ、周防に逃げ
帰った者は、全軍の中で一小部隊しかなかった。
戦いに敗れた晴賢は自殺しようとしたが、三浦房清に諫められ、山口に帰って再挙を計ろうと
考えなおしたという。
房清や伊香賀房明らに守られ、大元浦に退いて船影を求めたが、船はなかった。
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厳島の戦い その24
『気が緩む陶軍』
さすがに正面は陶の軍船が多く、易やすに上陸できそうにない。
そこで先手の乃美宗勝は、暗くて顔の見分けがつかないのを幸いに、こちらから声高に呼びかけ
た。
乃美宗勝(1527-1592年)

「陶家の船手の衆よ、われわれは筑前の宗像・秋月・千手の兵船にて候、ご加勢のため、軍兵あ
またを乗せて、まかり登り、ただいま到着申し候」
まことに、人を食ったもののいい方ですが、今、毛利の軍船が姿を見せるのではないかと、警戒
していたところに大風大雨にたたかれ、今日は、毛利は来襲しないだろう、と気が緩んでいたと
ころ、筑前からの援軍と聞き、安心しきって通してしまった。
間もなく小早川隆景の隊は、塔ノ岡の麓に陣を張り、本隊からあがる鬨の声、太鼓の拍子を待っ
たという。
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さすがに正面は陶の軍船が多く、易やすに上陸できそうにない。
そこで先手の乃美宗勝は、暗くて顔の見分けがつかないのを幸いに、こちらから声高に呼びかけ
た。
乃美宗勝(1527-1592年)

「陶家の船手の衆よ、われわれは筑前の宗像・秋月・千手の兵船にて候、ご加勢のため、軍兵あ
またを乗せて、まかり登り、ただいま到着申し候」
まことに、人を食ったもののいい方ですが、今、毛利の軍船が姿を見せるのではないかと、警戒
していたところに大風大雨にたたかれ、今日は、毛利は来襲しないだろう、と気が緩んでいたと
ころ、筑前からの援軍と聞き、安心しきって通してしまった。
間もなく小早川隆景の隊は、塔ノ岡の麓に陣を張り、本隊からあがる鬨の声、太鼓の拍子を待っ
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厳島の戦い その23
『毛利軍は背水の陣』
毛利軍の眼は、島から1kmほど離れた海上に注がれた。
それは、今、乗って来た船が、毛利元就の命令で廿日市へ帰航する途中、一斉に火をつけたの
です。
塔ノ岡案内板

生きて帰るには、勝つこと以外に方法はない。
元就の背水の陣です。
ただ、児玉就方と山県就相とが相談して、元就が乗ってきた船だけを、そっと隠しておいたとい
う。
これは2人の他に誰も知らなかったという。
毛利の主力およそ2千人は、吉川元春を先頭に博奕尾の険を越え、塔ノ岡の背後の丘に陣をしい
た。
他方、小早川隆景が率いる15百余人は、熊谷信直と乃美宗勝との兵船を先頭に、能島・来島の
水軍に守られ出航した。
軍船は、宮内・大野・玖波の海岸を廻って、塔ノ岡の坂下、つまり厳島神社の方面に向かった。
その後、厳島へ上陸し、宮ノ尾城の守備兵と協力し、元就の背面攻撃に呼応して、陶軍を正面か
ら攻めようとするものであった。
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毛利軍の眼は、島から1kmほど離れた海上に注がれた。
それは、今、乗って来た船が、毛利元就の命令で廿日市へ帰航する途中、一斉に火をつけたの
です。
塔ノ岡案内板

生きて帰るには、勝つこと以外に方法はない。
元就の背水の陣です。
ただ、児玉就方と山県就相とが相談して、元就が乗ってきた船だけを、そっと隠しておいたとい
う。
これは2人の他に誰も知らなかったという。
毛利の主力およそ2千人は、吉川元春を先頭に博奕尾の険を越え、塔ノ岡の背後の丘に陣をしい
た。
他方、小早川隆景が率いる15百余人は、熊谷信直と乃美宗勝との兵船を先頭に、能島・来島の
水軍に守られ出航した。
軍船は、宮内・大野・玖波の海岸を廻って、塔ノ岡の坂下、つまり厳島神社の方面に向かった。
その後、厳島へ上陸し、宮ノ尾城の守備兵と協力し、元就の背面攻撃に呼応して、陶軍を正面か
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厳島の戦い その22
『毛利軍厳島へ』
9月30日の日没から、行動を開始しようとしていた。
広島湾の上空は曇り、やがて黒雲は風をよび、雨をはらんで、天地は暗黒となり、海は荒れた。
重臣たちの渡航延期説を一蹴した毛利元就は
「今日は最良の吉日だ。風雨は吉例である。天がにわかに加護をたれ給うしるしと見た。この絶
好の機会をのがすことができようぞ」
と、出航を命じた。
厳島の戦い

酉の刻(今の18時)、元就は、小早川隆元・吉川元春らの主力を率いて、児玉就方・飯田元著
らの軍船に前後を守られ、地御前を出発した。
船は、軍令のとおり、あまり音が出ないように漕がれた。
元就が乗った本船以外はかがり火を焚いていない。
暗黒の海に一点の灯、まさに一幅の絵のようであったという。
亥の刻(現在の22時)に、厳島の東北岸、博奕尾(ばくちお)のふもと鼓ノ浦(現在の包ヶ浦)
に着いた。
厳島に無血上陸した元就は、ようやく風雨がおさまり、海上が月明りに照らされて、明るくなっ
た頃、
「博奕尾といい、鼓ノ浦といい、どれも打つという言葉に縁のある地名だ。明日の合戦は必
ず打ち勝つぞ」
と叫んだ。
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重臣たちの渡航延期説を一蹴した毛利元就は
「今日は最良の吉日だ。風雨は吉例である。天がにわかに加護をたれ給うしるしと見た。この絶
好の機会をのがすことができようぞ」
と、出航を命じた。
厳島の戦い

酉の刻(今の18時)、元就は、小早川隆元・吉川元春らの主力を率いて、児玉就方・飯田元著
らの軍船に前後を守られ、地御前を出発した。
船は、軍令のとおり、あまり音が出ないように漕がれた。
元就が乗った本船以外はかがり火を焚いていない。
暗黒の海に一点の灯、まさに一幅の絵のようであったという。
亥の刻(現在の22時)に、厳島の東北岸、博奕尾(ばくちお)のふもと鼓ノ浦(現在の包ヶ浦)
に着いた。
厳島に無血上陸した元就は、ようやく風雨がおさまり、海上が月明りに照らされて、明るくなっ
た頃、
「博奕尾といい、鼓ノ浦といい、どれも打つという言葉に縁のある地名だ。明日の合戦は必
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