厳島の戦い その30
『山陽の雄に』
弘治2年の春、玖珂郡を手に入れ、翌3年3月、富田若山城に陶晴賢の嫡子・長房が滅び、4月
に入ると、大内義長を討って大内氏を完全に滅亡させた。
毛利元就(1497-1571年)

毛利元就は、40余年、この間、波乱万丈、幾変遷、自家でも他家でも、滅亡したものが多いな
か、この元就だけが、幾多の危難を切り抜けて、今日まで無事にいることは、なんとも不思議で
ならないと思ったという。
永正13年(1516年)兄が24歳の若さで病死してから、弘治3年(1557年)元就61
歳に至るまで41年、大永3年(1523年)郡山城主になってから数えても、34年の長い月
日が流れている。
その間、天文9、10年(1540-1541年)郡山に尼子晴久の大軍を破ったこと、特に2
年前の弘治元年に、厳島で大敵・陶晴賢を滅ぼしたことは、忘れなれない思い出になっていた。
いまや元就は、防・長2州を手に入れ、山陽の雄にのしあがった。
やがて、月山の富田城に根拠をおく、山陰の雄・尼子氏との決戦が訪れることになります。
厳島の戦いにお付き合い戴き、ありがとうございます。
次回からは、月山富田城の戦いを勉強してみたいと思います。
よかったら、お付き合いお願いいたします。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
弘治2年の春、玖珂郡を手に入れ、翌3年3月、富田若山城に陶晴賢の嫡子・長房が滅び、4月
に入ると、大内義長を討って大内氏を完全に滅亡させた。
毛利元就(1497-1571年)

毛利元就は、40余年、この間、波乱万丈、幾変遷、自家でも他家でも、滅亡したものが多いな
か、この元就だけが、幾多の危難を切り抜けて、今日まで無事にいることは、なんとも不思議で
ならないと思ったという。
永正13年(1516年)兄が24歳の若さで病死してから、弘治3年(1557年)元就61
歳に至るまで41年、大永3年(1523年)郡山城主になってから数えても、34年の長い月
日が流れている。
その間、天文9、10年(1540-1541年)郡山に尼子晴久の大軍を破ったこと、特に2
年前の弘治元年に、厳島で大敵・陶晴賢を滅ぼしたことは、忘れなれない思い出になっていた。
いまや元就は、防・長2州を手に入れ、山陽の雄にのしあがった。
やがて、月山の富田城に根拠をおく、山陰の雄・尼子氏との決戦が訪れることになります。
厳島の戦いにお付き合い戴き、ありがとうございます。
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厳島の戦い その29
『合戦が意味するもの』
毛利元就の戦術は、綿密であったが、それより胸中に秘めた戦略を優位にするためにとった謀
略の巧妙さに驚かされます。
厳島の戦い

陶晴賢の勇将・江良房栄が元就に降ったのも、謀略だったのでしょう。
また、晴賢を厳島へ誘うための謀略がすごかった。
これは晴賢が渡航するであろう、と信じていたうえでの謀略だけに、用心深い元就の人物が知
られます。
厳島の戦いは上陸作戦なので、陶の軍船に匹敵する兵船が必要である。
そのため、能島・来島の両水軍を味方につけた乃美宗勝は、高く評価されます。
また、毛利軍の上陸まで、城を支えぬいた宮ノ尾城の守備軍は、厳島戦史を飾るものです。
この合戦によって、元就は、安芸・備後の攻略をしめくくり、さらに周防・長門の攻略へ踏み出
すことになる。
守備から攻勢への転化するのです。
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毛利元就の戦術は、綿密であったが、それより胸中に秘めた戦略を優位にするためにとった謀
略の巧妙さに驚かされます。
厳島の戦い

陶晴賢の勇将・江良房栄が元就に降ったのも、謀略だったのでしょう。
また、晴賢を厳島へ誘うための謀略がすごかった。
これは晴賢が渡航するであろう、と信じていたうえでの謀略だけに、用心深い元就の人物が知
られます。
厳島の戦いは上陸作戦なので、陶の軍船に匹敵する兵船が必要である。
そのため、能島・来島の両水軍を味方につけた乃美宗勝は、高く評価されます。
また、毛利軍の上陸まで、城を支えぬいた宮ノ尾城の守備軍は、厳島戦史を飾るものです。
この合戦によって、元就は、安芸・備後の攻略をしめくくり、さらに周防・長門の攻略へ踏み出
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厳島の戦い その28
『元就の勝利は晴賢の油断』
厳島の戦いは、毛利元就4千の兵が、陶晴賢2万の大軍を全滅させたもので、少数の兵で多数
の軍に勝つことができる証拠にされています。
吉田郡山城の元就公(吉田郡山城登城記は「こちら」です。)

しがし、もし元就が初めの作戦(戦術)のように、晴賢の大軍を安芸の原野で迎え撃ったなら、
その結果は、どのようになったか、予断を許さないのでしょう。
嵐をついて奇襲作戦に出たから、勝利を得たといえるのでしょう。
これは、言い換えると晴賢の油断なのです。
奇襲作戦は、背水の陣でなくては成功しない。
元就は厳島に逆上陸した後、乗船の廻航命令を出し、決死の覚悟で大敵にあたった。
これがよかったのです。
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厳島の戦いは、毛利元就4千の兵が、陶晴賢2万の大軍を全滅させたもので、少数の兵で多数
の軍に勝つことができる証拠にされています。
吉田郡山城の元就公(吉田郡山城登城記は「こちら」です。)

しがし、もし元就が初めの作戦(戦術)のように、晴賢の大軍を安芸の原野で迎え撃ったなら、
その結果は、どのようになったか、予断を許さないのでしょう。
嵐をついて奇襲作戦に出たから、勝利を得たといえるのでしょう。
これは、言い換えると晴賢の油断なのです。
奇襲作戦は、背水の陣でなくては成功しない。
元就は厳島に逆上陸した後、乗船の廻航命令を出し、決死の覚悟で大敵にあたった。
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厳島の戦い その27
『一武人の心』
厳島の戦いでの陶軍の戦死者は4千7百余人ともいわれる。
毛利元就は、この死骸を対岸の大野に運ばせて埋葬させたといいます。
また、流血の厳島の土砂を洗い、社殿を清め、大勝を奉謝したという。
陶晴賢の墓(洞雲寺)

そして、10月5日に廿日市桜尾城に凱旋し、陶晴賢の首実検を厳粛に行った後、黄龍山洞雲寺
にあつく葬り、石塔を建立した。
血で血を洗う戦国の世の、一武人の心だったのでしょうか。
厳島の合戦は元就の全生涯のなかで、もっとも特筆しなければならない事項で、毛利氏の発展史
上、どうしても忘れることのできないものであった。
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11月15日で、robinは2歳になりました。




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毛利元就は、この死骸を対岸の大野に運ばせて埋葬させたといいます。
また、流血の厳島の土砂を洗い、社殿を清め、大勝を奉謝したという。
陶晴賢の墓(洞雲寺)

そして、10月5日に廿日市桜尾城に凱旋し、陶晴賢の首実検を厳粛に行った後、黄龍山洞雲寺
にあつく葬り、石塔を建立した。
血で血を洗う戦国の世の、一武人の心だったのでしょうか。
厳島の合戦は元就の全生涯のなかで、もっとも特筆しなければならない事項で、毛利氏の発展史
上、どうしても忘れることのできないものであった。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
厳島の戦い その26
『弘中隆兼の討死』
厳島の戦いで、最後まで毛利軍に対抗したのは、悲運の智将・弘中隆兼(隆包)であった。
隆兼はその子・隆助とともに、塔ノ岡の本陣が攻撃された時、手勢500人を率いて、厳島神社
の後方滝小路(滝町)で、吉川元春の軍を迎え撃った。
厳島神社

一時、吉川勢も危うく、元春みずから鎗をふるったほどの激戦であった。
戦いは、熊谷信直・天野隆重らの参加によって、弘中方が敗れた。
敗残の雑兵が民家に火を放ったため、元春は声高く
「弘中は逃げてもかまわぬ。神殿を焼くな。全力をあげて消火に集中せよ」
といった。
この間に隆兼父子は、弥山のふもとの大聖院へ逃れ、さらに山の峰つづきの瀧ノ岩(絵馬ヶ岳)
に登って抵抗したが、10月3日、ついに戦死した。
負け戦と知りながら、主の陶晴賢に従軍し、わずかの手兵で、最後まで毛利軍を悩ました隆兼
は、ある意味、戦国武将の鑑といっていいのかも知れません。
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厳島の戦いで、最後まで毛利軍に対抗したのは、悲運の智将・弘中隆兼(隆包)であった。
隆兼はその子・隆助とともに、塔ノ岡の本陣が攻撃された時、手勢500人を率いて、厳島神社
の後方滝小路(滝町)で、吉川元春の軍を迎え撃った。
厳島神社

一時、吉川勢も危うく、元春みずから鎗をふるったほどの激戦であった。
戦いは、熊谷信直・天野隆重らの参加によって、弘中方が敗れた。
敗残の雑兵が民家に火を放ったため、元春は声高く
「弘中は逃げてもかまわぬ。神殿を焼くな。全力をあげて消火に集中せよ」
といった。
この間に隆兼父子は、弥山のふもとの大聖院へ逃れ、さらに山の峰つづきの瀧ノ岩(絵馬ヶ岳)
に登って抵抗したが、10月3日、ついに戦死した。
負け戦と知りながら、主の陶晴賢に従軍し、わずかの手兵で、最後まで毛利軍を悩ました隆兼
は、ある意味、戦国武将の鑑といっていいのかも知れません。
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