月山富田城の戦い その13
『月山富田城の開城』
永禄9年(1566年)11月28日、富田城は開城した。
尼子経久が文明18年、富田城を切り取ってから、ここに80年、山陰・山陽の雄拠月山は、
毛利の手に落ちた。
永禄5年、元就が洗合に陣してから満4年、尼子氏はよく戦ったが、元就もよく待ったもので
す。
毛利元就(1497-1571年)

厳島の合戦に、電光石火の行動を見せた元就は、この度は悠々閑々、自信たっぷりの戦いを演
じた。
作戦の妙というか、その幅の広さ、奥の深さが思われます。
月山富田城を下城した、義久・倫久・秀久の3兄弟は、杵築に送られた。
富田籠城の将兵・僧侶ら百数十名は、思い思いに散り、どこまでも、義久と行動を共にしよう
と願った立原久綱・山中鹿介以下49名の者も、杵築から先の同行は許されず、望みを将来に
かけて、東西南北の人となった。
今は捕らわれの身となって、安芸に送られる尼子の当主を、土地の人々はどんな気持ちで眺め
たのでしょう。
尼子氏に代わって、月山富田へ入城する天野隆重の姿や、山陰の総師として、出雲の経営にあ
たる吉川元春にも、戦国乱世の時勢の移り変わりを、いやが上にも汲み取ったことでしょう。
月山富田城の戦いにお付き合い戴きありがとうございました。
次回は、尼子家の再興のために山中鹿介らが戦った、上月城の戦いを勉強してみたいと思います。
よかったらお付き合いください。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
永禄9年(1566年)11月28日、富田城は開城した。
尼子経久が文明18年、富田城を切り取ってから、ここに80年、山陰・山陽の雄拠月山は、
毛利の手に落ちた。
永禄5年、元就が洗合に陣してから満4年、尼子氏はよく戦ったが、元就もよく待ったもので
す。
毛利元就(1497-1571年)

厳島の合戦に、電光石火の行動を見せた元就は、この度は悠々閑々、自信たっぷりの戦いを演
じた。
作戦の妙というか、その幅の広さ、奥の深さが思われます。
月山富田城を下城した、義久・倫久・秀久の3兄弟は、杵築に送られた。
富田籠城の将兵・僧侶ら百数十名は、思い思いに散り、どこまでも、義久と行動を共にしよう
と願った立原久綱・山中鹿介以下49名の者も、杵築から先の同行は許されず、望みを将来に
かけて、東西南北の人となった。
今は捕らわれの身となって、安芸に送られる尼子の当主を、土地の人々はどんな気持ちで眺め
たのでしょう。
尼子氏に代わって、月山富田へ入城する天野隆重の姿や、山陰の総師として、出雲の経営にあ
たる吉川元春にも、戦国乱世の時勢の移り変わりを、いやが上にも汲み取ったことでしょう。
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次回は、尼子家の再興のために山中鹿介らが戦った、上月城の戦いを勉強してみたいと思います。
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月山富田城の戦い その12
『元就の兵糧攻め』
毛利の大軍に囲まれ、孤立無援になった富田城からは、投降者が続出したが、はじめ毛利元就
は許さなかった。
月山富田城中山御殿跡(月山富田城登城記は「こちら」です。)

これは城内の兵糧を少なくするためであったという。
ついで、これを許可したので、尼子累代の将も多く降った。
そこで、尼子義久の老臣・宇山久信(久兼)は、どうにかして、これを阻止しようとしたが、元
就が放った間者のため、
「久信は毛利氏に内応する意思がある」
とされ、永禄9年正月1日、ついに斬り殺されてしまった。
こうなっては、富田の命運は尽きたも同様であった。
10月の中頃になると、
「富田の儀、日ならずして一着必定候、23日以前にも、宗徒の者450まかり退き候」
という有様になった。
万策つきた義久は、11月21日、使者を元就の本陣に送って、
「身は籠城の兵に代わって自刃し、城を明け渡そう」
と申し入れた。
元就は
「尼子氏は累代、山陰の豪族である。たとえ、いま力尽きて、わが軍門に降りるとも、その門葉
を断絶させるに忍びない。どうか城を出て、安芸に来られ、平穏に余世を送られたい」
と答えた。
これは人間元就の涙ある態度なのでしょう。
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これは城内の兵糧を少なくするためであったという。
ついで、これを許可したので、尼子累代の将も多く降った。
そこで、尼子義久の老臣・宇山久信(久兼)は、どうにかして、これを阻止しようとしたが、元
就が放った間者のため、
「久信は毛利氏に内応する意思がある」
とされ、永禄9年正月1日、ついに斬り殺されてしまった。
こうなっては、富田の命運は尽きたも同様であった。
10月の中頃になると、
「富田の儀、日ならずして一着必定候、23日以前にも、宗徒の者450まかり退き候」
という有様になった。
万策つきた義久は、11月21日、使者を元就の本陣に送って、
「身は籠城の兵に代わって自刃し、城を明け渡そう」
と申し入れた。
元就は
「尼子氏は累代、山陰の豪族である。たとえ、いま力尽きて、わが軍門に降りるとも、その門葉
を断絶させるに忍びない。どうか城を出て、安芸に来られ、平穏に余世を送られたい」
と答えた。
これは人間元就の涙ある態度なのでしょう。
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月山富田城の戦い その11
『鹿介の勝利は』
富田川の中州で、鹿と狼の決戦はつづく。
棫木狼之介は水際に追い詰められた。
「鹿介、組もう」
「よし、のぞむところ」
と、鹿と狼との格闘にかわった。
山中鹿介(1545-1578年)

鹿は中州の端に片足をすべらした。
狼はここぞとねじ倒す。
組み伏せられた鹿は、すばやく腰刀を抜き、下から狼を2刺し突き落とした。
意外の逆襲に、うなり声をあげた狼之介を、はね返したかと思うと、その首は、山中鹿介の手に
斬り落とされていた。
「石見の国からまかり出た狼を、出雲の鹿が討ち取ったり」
鹿介は高々と叫んで、悠々と味方の中に去った。
以上は、『雲陽軍実記』からですが、
『陰徳太平記』には、鹿介が斬りたてられて危くみえたので、秋上伊織介が狼の後ろへ廻り、け
さがけに斬った。
狼は倒れざまに、鹿の膝口に斬りつけた。
鹿は狼の首を取ったが、深手を負って、郎党の肩を借りて退いたとしている。
また、『吉田物語』や『老翁物語』なども、鹿介にとって名誉な記述はしていないという。
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富田川の中州で、鹿と狼の決戦はつづく。
棫木狼之介は水際に追い詰められた。
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「よし、のぞむところ」
と、鹿と狼との格闘にかわった。
山中鹿介(1545-1578年)

鹿は中州の端に片足をすべらした。
狼はここぞとねじ倒す。
組み伏せられた鹿は、すばやく腰刀を抜き、下から狼を2刺し突き落とした。
意外の逆襲に、うなり声をあげた狼之介を、はね返したかと思うと、その首は、山中鹿介の手に
斬り落とされていた。
「石見の国からまかり出た狼を、出雲の鹿が討ち取ったり」
鹿介は高々と叫んで、悠々と味方の中に去った。
以上は、『雲陽軍実記』からですが、
『陰徳太平記』には、鹿介が斬りたてられて危くみえたので、秋上伊織介が狼の後ろへ廻り、け
さがけに斬った。
狼は倒れざまに、鹿の膝口に斬りつけた。
鹿は狼の首を取ったが、深手を負って、郎党の肩を借りて退いたとしている。
また、『吉田物語』や『老翁物語』なども、鹿介にとって名誉な記述はしていないという。
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月山富田城の戦い その10
『山中鹿介』
時は来た。
陣所を巡視している山中鹿介の姿を見つけた棫木狼之介勝盛は、大音声をあげて
「やあやあ、それに行く、鹿の角の前立を付けておられるのは、かねて聞く山中鹿介どのと見
うけた。かく申すは、益田越中守が内に、名の知れた棫木狼之介、一騎打の勝負をして、嫡味方
の眠りをさまし申さん」
と呼ばわった。
山中鹿介

これを聞いて、鹿介は
「大勢の中から、よくこそそれがしの名を呼ばれた。しからば勝負つかまつろう」
と、すぐに川の中へ進んだ。
狼之介は大弓に矢をつがえて、流れに飛び込んだ。
尼子陣から、秋上伊織介らが
「一騎打ちに飛び道具は卑怯千万」
と叫んだが、狼之介は弓をすてない。
伊織介が大雁股の矢をつがえ放すと、その矢は狼之介の持った弓の弦をみごとに射切った。
怒り狂った狼之介は、弓を棄てて川中の砂州に上がり、太刀を抜いて、鹿介に斬ってかかる。
鹿介も則光の太刀を抜き、わたりあった。
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陣所を巡視している山中鹿介の姿を見つけた棫木狼之介勝盛は、大音声をあげて
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うけた。かく申すは、益田越中守が内に、名の知れた棫木狼之介、一騎打の勝負をして、嫡味方
の眠りをさまし申さん」
と呼ばわった。
山中鹿介

これを聞いて、鹿介は
「大勢の中から、よくこそそれがしの名を呼ばれた。しからば勝負つかまつろう」
と、すぐに川の中へ進んだ。
狼之介は大弓に矢をつがえて、流れに飛び込んだ。
尼子陣から、秋上伊織介らが
「一騎打ちに飛び道具は卑怯千万」
と叫んだが、狼之介は弓をすてない。
伊織介が大雁股の矢をつがえ放すと、その矢は狼之介の持った弓の弦をみごとに射切った。
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月山富田城の戦い その9
『鹿と狼』
9月になり、毛利軍は、また富田城に戦いを挑んだ。
例の鹿と狼との一騎打ちの話は、この時の話です。
山中鹿介(幸盛)(1545-1578年)

毛利氏に従軍していた石見の益田藤包の家人に、品川大膳という荒武者がいた。
大膳は毛利勢のなかで、尼子の将・山中鹿介の勇名がもてはやされることが、不快でたまらなか
った。
そして
「今に見ていろ、鹿介を討ち取って、あっぱれ武名を天下に轟かせてやるわい」
と野心満々だった。
そこで
「鹿に勝つものは狼だ。また鹿を棫木(たらき)をくえば、その角を落とす」
といって、にわかに棫木狼之介勝盛と名を改め、機会を狙ったという。
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9月になり、毛利軍は、また富田城に戦いを挑んだ。
例の鹿と狼との一騎打ちの話は、この時の話です。
山中鹿介(幸盛)(1545-1578年)

毛利氏に従軍していた石見の益田藤包の家人に、品川大膳という荒武者がいた。
大膳は毛利勢のなかで、尼子の将・山中鹿介の勇名がもてはやされることが、不快でたまらなか
った。
そして
「今に見ていろ、鹿介を討ち取って、あっぱれ武名を天下に轟かせてやるわい」
と野心満々だった。
そこで
「鹿に勝つものは狼だ。また鹿を棫木(たらき)をくえば、その角を落とす」
といって、にわかに棫木狼之介勝盛と名を改め、機会を狙ったという。
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