上月城の戦い その11
『毛利氏の中国制覇』
毛利元就の「三本の矢」の話は有名ですが、これは怪しいのでしょう。
隆元・元春・隆景に、一致協力を説いたことは事実です。
吉田郡山城の毛利元就

弘治3年(1557年)11月の教訓状の中で
「たびたび言いふるしたことだが、重ねて申す。3人の間で、少しでも仲違いするようなことが
あったなら、もはや三家の滅亡と覚悟されたい」
と述べている。
これが生きて働いたのでしょう。
尼子の滅亡は、ひとつには時代の勢いがあったのでしょう。
尼子経久が富田城を攻略した時から、元就が郡山城に勝った時までの間は、実に半世紀以上の
隔たりがあるのです。
経久と元就であるなら、おそらく決戦は行われなかったのでしょう。
これは経久が大内義興との、決定的な戦を避けたことからも、推定できます。
ともあれ、中国制覇をなしとげた毛利は、天下統一をめざす織田信長と開戦することになります。
元就亡き後の、毛利の両川も多忙を極めることになります。
上月城の戦いにお付き合いいただき、ありがとうございました。
次回の合戦は、九州制覇を狙う大友宗麟と薩摩国の島津義弘の耳川の戦いを勉強してみたいと
思います。
良かったらお付き合いください。
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robinは、現在、去勢手術で静養中です。
元気になったら、記事にしたいと思っています。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
毛利元就の「三本の矢」の話は有名ですが、これは怪しいのでしょう。
隆元・元春・隆景に、一致協力を説いたことは事実です。
吉田郡山城の毛利元就

弘治3年(1557年)11月の教訓状の中で
「たびたび言いふるしたことだが、重ねて申す。3人の間で、少しでも仲違いするようなことが
あったなら、もはや三家の滅亡と覚悟されたい」
と述べている。
これが生きて働いたのでしょう。
尼子の滅亡は、ひとつには時代の勢いがあったのでしょう。
尼子経久が富田城を攻略した時から、元就が郡山城に勝った時までの間は、実に半世紀以上の
隔たりがあるのです。
経久と元就であるなら、おそらく決戦は行われなかったのでしょう。
これは経久が大内義興との、決定的な戦を避けたことからも、推定できます。
ともあれ、中国制覇をなしとげた毛利は、天下統一をめざす織田信長と開戦することになります。
元就亡き後の、毛利の両川も多忙を極めることになります。
上月城の戦いにお付き合いいただき、ありがとうございました。
次回の合戦は、九州制覇を狙う大友宗麟と薩摩国の島津義弘の耳川の戦いを勉強してみたいと
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上月城の戦い その10
『毛利と尼子の違い』
戦国時代の毛利と尼子を、その当主を中心に比較してみると、大変よく似ています。
尼子氏は経久から孫の晴久に受け継がれ、毛利氏もまた、元就から孫の輝元に受け継がれてい
ます。
毛利輝元(1553-1625年)

経久の長男・政久は26歳で陣没したが、元就の長男・隆元は41歳で病死している。
しかし、大いに違っている点は、晴久・輝元の後見者です。
晴久の場合には、優れた後ろだてがなかった。いや、あったが、それをみずからの手で滅ぼして
しまった。
叔父の国久を当主とする、新宮党の滅亡です。
また、国久の弟は、経久がまだ生きていた頃、領土の不満から父に背いたため、追放され自殺し
ています。
一方の輝元は、叔父・吉川元春、小早川隆景といった大立物が、後ろにひかえていたのです。
元就が、安芸累代の豪族・吉川、小早川両家を2男・元春、3男・隆景にそれぞれ継がせたこと
が、成功のもとであった。
彼らは「毛利の両川(りょうせん)」といわれ、よく宗家を助けた。
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戦国時代の毛利と尼子を、その当主を中心に比較してみると、大変よく似ています。
尼子氏は経久から孫の晴久に受け継がれ、毛利氏もまた、元就から孫の輝元に受け継がれてい
ます。
毛利輝元(1553-1625年)

経久の長男・政久は26歳で陣没したが、元就の長男・隆元は41歳で病死している。
しかし、大いに違っている点は、晴久・輝元の後見者です。
晴久の場合には、優れた後ろだてがなかった。いや、あったが、それをみずからの手で滅ぼして
しまった。
叔父の国久を当主とする、新宮党の滅亡です。
また、国久の弟は、経久がまだ生きていた頃、領土の不満から父に背いたため、追放され自殺し
ています。
一方の輝元は、叔父・吉川元春、小早川隆景といった大立物が、後ろにひかえていたのです。
元就が、安芸累代の豪族・吉川、小早川両家を2男・元春、3男・隆景にそれぞれ継がせたこと
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上月城の戦い その9
『七難八苦の生涯幕を閉じる』
山中鹿介は生き延び、西に送られた。
7月17日、備中の甲部川の渡しで川端の石に腰掛け、汗をぬぐっている鹿助の後ろから、岸辺
にかくれていた河村新左衛門が、とつぜん斬りつけた。
鹿介は浅手を追いながら、川へ飛び込み、向こう岸に渡ろうとしたという。
山中鹿介のお墓

そこへ福間彦左衛門が一番に飛び込み、鹿介を組み伏せ、ついに首をとってしまった。
また、新左衛門が鹿介に続いて飛び込んだが、逆に組み伏せられともいう。
これが事実なら、彦左衛門は2番手であったのでしょう。
ここに山中鹿介の七難八苦の生涯は、34歳で終わりを告げたのです。
一説には、39歳であったともいいます。
鹿介の墓は、その最後の地である甲部川の渡しの他、各地に残されています。
山中鹿介の往生ぎわの悪さをあざわらって、鹿介は死んでから「正真の天下無双」になったと、
当時の人はいったといいますが、これこそ鹿介が生前から、武名の誉れが高かったことを裏書
きしているのでしょう。
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山中鹿介は生き延び、西に送られた。
7月17日、備中の甲部川の渡しで川端の石に腰掛け、汗をぬぐっている鹿助の後ろから、岸辺
にかくれていた河村新左衛門が、とつぜん斬りつけた。
鹿介は浅手を追いながら、川へ飛び込み、向こう岸に渡ろうとしたという。
山中鹿介のお墓

そこへ福間彦左衛門が一番に飛び込み、鹿介を組み伏せ、ついに首をとってしまった。
また、新左衛門が鹿介に続いて飛び込んだが、逆に組み伏せられともいう。
これが事実なら、彦左衛門は2番手であったのでしょう。
ここに山中鹿介の七難八苦の生涯は、34歳で終わりを告げたのです。
一説には、39歳であったともいいます。
鹿介の墓は、その最後の地である甲部川の渡しの他、各地に残されています。
山中鹿介の往生ぎわの悪さをあざわらって、鹿介は死んでから「正真の天下無双」になったと、
当時の人はいったといいますが、これこそ鹿介が生前から、武名の誉れが高かったことを裏書
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上月城の戦い その8
『尼子家再興ならず』
山中鹿介は、尼子勝久の前に出て
「武運は尽き果て申した。今は御自害あられますよう。それがしもお供仕るべきですが、うらみ
重なる吉川元春に、一太刀なりとも見舞わんと存ずれば、しばらく命を拝借いたしとうござる」
と言う。
山中鹿介(1545-1578年)

すると勝久は
「われ法衣をまとい、行脚雲水の間に生涯を終わるべき身であったのに、尼子家の主として、数
万の軍兵に采配をふるい、故山に尼子の旗を揚げることができたのは、一生の面目である。弓矢
とる命の何の心残りがあろうぞ、まして諸士の命にかわるのは、身の本懐この上もない」
といって、武人の花と散った。
尼子勝久この時、26歳。
天正6年(1578年)7月3日のことであった。
7月5日の上月開城をもって、尼子家再興の機会は永久に去った。
山陰の雄・尼子氏は、ついに復興することはできなかったのです。
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生後4ヵ月のrobin

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山中鹿介は、尼子勝久の前に出て
「武運は尽き果て申した。今は御自害あられますよう。それがしもお供仕るべきですが、うらみ
重なる吉川元春に、一太刀なりとも見舞わんと存ずれば、しばらく命を拝借いたしとうござる」
と言う。
山中鹿介(1545-1578年)

すると勝久は
「われ法衣をまとい、行脚雲水の間に生涯を終わるべき身であったのに、尼子家の主として、数
万の軍兵に采配をふるい、故山に尼子の旗を揚げることができたのは、一生の面目である。弓矢
とる命の何の心残りがあろうぞ、まして諸士の命にかわるのは、身の本懐この上もない」
といって、武人の花と散った。
尼子勝久この時、26歳。
天正6年(1578年)7月3日のことであった。
7月5日の上月開城をもって、尼子家再興の機会は永久に去った。
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上月城の戦い その7
『信長に見捨てられた上月城』
6月16日、羽柴秀吉は上洛して、軍情を織田信長に報告した。
織田信長(1534-1582年)

すると信長は、上月城を放棄して三木城攻撃に集中せよ、と命じた。
『豊鑑』によると、秀吉は
「鹿介らを捨て殺しにされては、御名がけがれます」
と、信長の嫡男・信忠に訴えたという。
ともかく、上月城は戦略的見地から、信長に見捨てられたのです。
秀吉は6月26日、高倉山の陣を去った。
もうどうすることもできない。
山中鹿介は降服を申し送った。
毛利の両川(小早川・吉川)は、
「尼子勝久が切腹すれば、他の者の命を助ける」
と答えた。
鹿介は勝久の助命を「種々懇望」したが、許されなかった。
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織田信長(1534-1582年)

すると信長は、上月城を放棄して三木城攻撃に集中せよ、と命じた。
『豊鑑』によると、秀吉は
「鹿介らを捨て殺しにされては、御名がけがれます」
と、信長の嫡男・信忠に訴えたという。
ともかく、上月城は戦略的見地から、信長に見捨てられたのです。
秀吉は6月26日、高倉山の陣を去った。
もうどうすることもできない。
山中鹿介は降服を申し送った。
毛利の両川(小早川・吉川)は、
「尼子勝久が切腹すれば、他の者の命を助ける」
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