摺上原の戦い その21
『政宗の仙道経略完成』
政宗は治城を黒川に定め、8月、伊南・伊北の地を平定、白河郡主・白河義親も麾下に参加し
た。
伊達政宗(1567-1636年)

今や仙道では須賀川の二階堂氏のみが、政宗に対抗していたが、これよりさき、二階堂氏は当
主・盛義が没し、夫人が家政をとっていた。
夫人は伊達晴宗の娘で、政宗の伯母にあたります。
政務を握りこと10年、よく民心を収攬し、佐竹・岩城氏と連盟して伊達・田村氏と対抗して
きた。
10月になり、政宗は書を送って和を勧めたが、きかないので、ついに伊達軍は須賀川城の攻
撃を開始し、城兵6百は死守したが、26日、ついに落城し、二階氏は亡んだ。
政宗は伯母を信夫郡杉目におき厚遇したが、彼女はまもなく去って岩城氏に頼り、さらに佐竹
氏の保護を受け、佐竹氏が秋田に移る際にも同行し、途上に没した。
宝樹院と号し、須賀川の二階堂氏菩提寺長禄寺に葬られた。
11月、石川郡の石川昭光が麾下に属し、12月には岩城常隆も和睦して、田村領の侵略地を
返還したので、政宗の仙道経略は、ここに完成しています。
摺上原の戦いにお付き合いいただき、ありがとうございました。
次回は、長宗我部元親の四国制覇を勉強してみたいと思います。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
政宗は治城を黒川に定め、8月、伊南・伊北の地を平定、白河郡主・白河義親も麾下に参加し
た。
伊達政宗(1567-1636年)

今や仙道では須賀川の二階堂氏のみが、政宗に対抗していたが、これよりさき、二階堂氏は当
主・盛義が没し、夫人が家政をとっていた。
夫人は伊達晴宗の娘で、政宗の伯母にあたります。
政務を握りこと10年、よく民心を収攬し、佐竹・岩城氏と連盟して伊達・田村氏と対抗して
きた。
10月になり、政宗は書を送って和を勧めたが、きかないので、ついに伊達軍は須賀川城の攻
撃を開始し、城兵6百は死守したが、26日、ついに落城し、二階氏は亡んだ。
政宗は伯母を信夫郡杉目におき厚遇したが、彼女はまもなく去って岩城氏に頼り、さらに佐竹
氏の保護を受け、佐竹氏が秋田に移る際にも同行し、途上に没した。
宝樹院と号し、須賀川の二階堂氏菩提寺長禄寺に葬られた。
11月、石川郡の石川昭光が麾下に属し、12月には岩城常隆も和睦して、田村領の侵略地を
返還したので、政宗の仙道経略は、ここに完成しています。
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摺上原の戦い その20
『芦名氏の滅亡』
芦名軍は内部に国家老と佐竹家からの付家老の対立があり、戦闘中にも白石宗実らが進撃した
際、見物の百姓・雑人が騒いだのを、離反と勘違いし色めいたといい、統制も不統一であった。
個々の武士はよく奮戦したが、全軍の士気は伊達軍には及ばなかったという。
芦名氏家紋

政宗は休む暇もなく黒川に進軍し、芦名方では世臣の富田美作・平田左京らが降服したため、
態勢を立て直す余裕がなく、同月11日、義広は会津を捨てて常陸に走り、鎌倉以来の名族・
芦名氏はここに滅亡した。
芦名氏の滅亡により、会津・大沼・川沼・耶麻4郡・安積半郡・下野の塩屋・越後の蒲原両郡
は伊達領となり、政宗は名実ともに奥羽最強の大名となった。
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芦名軍は内部に国家老と佐竹家からの付家老の対立があり、戦闘中にも白石宗実らが進撃した
際、見物の百姓・雑人が騒いだのを、離反と勘違いし色めいたといい、統制も不統一であった。
個々の武士はよく奮戦したが、全軍の士気は伊達軍には及ばなかったという。
芦名氏家紋

政宗は休む暇もなく黒川に進軍し、芦名方では世臣の富田美作・平田左京らが降服したため、
態勢を立て直す余裕がなく、同月11日、義広は会津を捨てて常陸に走り、鎌倉以来の名族・
芦名氏はここに滅亡した。
芦名氏の滅亡により、会津・大沼・川沼・耶麻4郡・安積半郡・下野の塩屋・越後の蒲原両郡
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摺上原の戦い その19
『芦名軍の大敗』
当主・芦名義広は退却した諸隊をまとめて、政宗の本陣に対し最後の決戦を挑み、追いつ追わ
れつの激戦となった。

芦名軍は小勢であり、かつ譜代の富田・平田・松本などの諸氏は、背後にあって反旗をひる
がえし、新橋川の橋を焼いて退路を絶ったから、芦名軍はついに大敗し、義広はかろうじて黒
川城に入った。
この戦闘で、芦名軍の戦死は2千5百だったといい、また一説には会津勢18百、伊達勢5百
の討死ともいいます。
当時、政宗は23歳、義広は20歳に満たない青年であったから、戦いも機動性に富み、まれに
見る激烈なものであったという。
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当主・芦名義広は退却した諸隊をまとめて、政宗の本陣に対し最後の決戦を挑み、追いつ追わ
れつの激戦となった。

芦名軍は小勢であり、かつ譜代の富田・平田・松本などの諸氏は、背後にあって反旗をひる
がえし、新橋川の橋を焼いて退路を絶ったから、芦名軍はついに大敗し、義広はかろうじて黒
川城に入った。
この戦闘で、芦名軍の戦死は2千5百だったといい、また一説には会津勢18百、伊達勢5百
の討死ともいいます。
当時、政宗は23歳、義広は20歳に満たない青年であったから、戦いも機動性に富み、まれに
見る激烈なものであったという。
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摺上原の戦い その18
『摺上原の激戦』
芦名軍は、湖岸、山麓と2列になって摺上原へ進軍した。
芦名軍は先陣が、まず猪苗代隊に打ちかかり、ついで伊達の2陣・片倉隊をも突き崩し、全軍
が政宗の本陣目がけて突撃した。
摺上原合戦図

*画像は磐梯山ジオパークHPよりお借りしています。
たまたま西風が吹き、砲煙・馬煙が立ち込めて、形勢は伊達軍に不利に見えたが、4陣・白石
隊と3陣の伊達成実隊が湖水の方から横合いに鉄砲を打ちかけ、大内・片平の両隊も左右から
救援して芦名の本隊に攻めかかり、乱戦となった。
朝には西から吹いていた強風が、東に変わり、砂塵と硝煙で方向もわからず、馬の足音、太刀
の響きだけが聞こえたが、ここで芦名軍は津川城主・金上森満らが討死した。
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芦名軍は、湖岸、山麓と2列になって摺上原へ進軍した。
芦名軍は先陣が、まず猪苗代隊に打ちかかり、ついで伊達の2陣・片倉隊をも突き崩し、全軍
が政宗の本陣目がけて突撃した。
摺上原合戦図

*画像は磐梯山ジオパークHPよりお借りしています。
たまたま西風が吹き、砲煙・馬煙が立ち込めて、形勢は伊達軍に不利に見えたが、4陣・白石
隊と3陣の伊達成実隊が湖水の方から横合いに鉄砲を打ちかけ、大内・片平の両隊も左右から
救援して芦名の本隊に攻めかかり、乱戦となった。
朝には西から吹いていた強風が、東に変わり、砂塵と硝煙で方向もわからず、馬の足音、太刀
の響きだけが聞こえたが、ここで芦名軍は津川城主・金上森満らが討死した。
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摺上原の戦い その17
『摺上原合戦』
一方、猪苗代氏の謀反を聞いた当主・義広は、安積・安達への進軍をあきらめて急ぎ帰国し、兵
7千を12隊に分け猪苗代に進出した。
伊達政宗公

当主・義広帰国の報を聞いた政宗は、老臣の慎重論をしりぞけて猪苗代に急行、兵5千を8隊に
分け、赤埴山下の八ツ森に陣した。
6月5日、奥羽最大の戦闘が、磐梯山麓、湖水を見渡す摺上原(すりあげはら)に展開されよう
となった。
伊達軍は先鋒・猪苗代盛国、2隊・片倉景綱、3隊・伊達成実、4隊・白石宗実・5隊は政宗本
隊、6隊・大内定綱、7隊・片平親綱、後隊・浜田景隆であった。
一方、芦名軍は普藤村高森山に陣を敷き、1番に新国上総介、2番に羽石駿河、3番に益子新右
衛門・阿子島治部之助・湖水の岸には金子遠江・荒井長門・二本松右京・新庄弾正が陣を取り、
八ツ森の伊達軍と相対して、戦機を待った。
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一方、猪苗代氏の謀反を聞いた当主・義広は、安積・安達への進軍をあきらめて急ぎ帰国し、兵
7千を12隊に分け猪苗代に進出した。
伊達政宗公

当主・義広帰国の報を聞いた政宗は、老臣の慎重論をしりぞけて猪苗代に急行、兵5千を8隊に
分け、赤埴山下の八ツ森に陣した。
6月5日、奥羽最大の戦闘が、磐梯山麓、湖水を見渡す摺上原(すりあげはら)に展開されよう
となった。
伊達軍は先鋒・猪苗代盛国、2隊・片倉景綱、3隊・伊達成実、4隊・白石宗実・5隊は政宗本
隊、6隊・大内定綱、7隊・片平親綱、後隊・浜田景隆であった。
一方、芦名軍は普藤村高森山に陣を敷き、1番に新国上総介、2番に羽石駿河、3番に益子新右
衛門・阿子島治部之助・湖水の岸には金子遠江・荒井長門・二本松右京・新庄弾正が陣を取り、
八ツ森の伊達軍と相対して、戦機を待った。
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